日々是好舌

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春野まで続く秋葉の常夜燈

2020年04月06日 10時57分39秒 | 日記
第六〇番 安西五丁目地蔵堂。川除延命地蔵尊の地蔵堂が道路拡張工事で間口が狭くなってしまった。地蔵堂の前にある秋葉山常夜燈は静岡市指定有形民俗文化財に指定されている。

安西五丁目地蔵堂は、安西橋の東側のたもと、国道三六二号線(安西通り)の北側に面して建っている。
この国道三六二号線は、安西から羽鳥、藁科、清沢、川根を経て春野町の秋葉山に通じており、かつては「主要地方道静岡春野天竜線」と呼ばれていた。秋葉山は火伏せの神として名高く、そこへ通じる街道沿いには、秋葉山に献灯された常夜灯が各地に残されている。安西五丁目の地蔵堂の境内にも、嘉永元年(一八四八)一一月に再建された常夜灯が建っており、これは馬場町の赤鳥居の脇にある常夜灯と同型のものである。
ところで、江戸時代には安倍川に橋が架かっていなかった。そのため、秋葉山に参詣する人にとっても、安倍川越えは難所の一つだった。川除延命地蔵は、江戸時代の中頃、秋葉神社へ参詣する途中で行き倒れたり、安倍川を渡る途中で流されて命を落とした人を弔うために祀られたと言われている。同時に、安倍川の度重なる氾濫に苦しめられた地元の人々は、この地蔵に川除け、水害除けの祈願を行った。こうして、地蔵に対する信仰は深められたのである。ちなみに、現在の安西橋の場所には、明治七年に「稚児橋」という仮橋が初めて架けられ、その後、明治三二年になって本格的な木橋が建造された。これは蛇足だが「稚児橋」とは浅間神社の廿日会祭に奉納される稚児舞に由来する。稚児舞は現在の静岡市葵区建穂にあった建穂寺(明治初年廃寺)に伝わった舞で、建穂寺より浅間神社に出向いて奉納する習わしであった。建穂寺は秦氏の氏寺として白鳳13年(684)に建立された寺院で、浅間神社には秦氏の氏神を祀った賎機(しずはた)神社が鎮まっていたという。また建穂寺の稚児舞は大阪の四天王寺から伝わったとする伝承もあり、四天王寺舞楽が秦河勝の子孫が掌ったといわれているので、この関係からも相当古い時代にすでに両社寺で舞われていたと推察される。現在は徳川家康奉納の稚児舞として有名だが、これは戦国時代に今川家滅亡とともに衰退したものを、家康が大御所として駿府入城の折、先例にならって建穂寺からの奉納を復活させたもので、以降この舞を舞う稚児は幕臣の子弟から選ばれ、建穂寺から浅間神社へ向かう稚児の行列は、与力・同心などの警護が付き、大名行列並み(10万石相当)の格式が与えられた。また駿府城外堀には加番などの役人が高張提灯を建てて警護にあたり、江戸幕府庇護のもと盛大に行われるようになった。

閑話休題。
川除延命地蔵は、もともと現在の位置に祀られていたが、明治時代以後に通りの南側に移されて、土手の上に東向きの地蔵堂が建てられた。当時のお堂は間口二間程で、地蔵も木像だった。
しかし、昭和二〇年、空襲によって古い尊像と地蔵堂が焼失した。そこで昭和二六年、現在地に間口四間、奥行三間からなる南向きのお堂を建てて、石造りの尊像を安置した。尊像は高さ一二〇センチ程の立像で、左手に宝珠、右手に錫杖をもっている。
地蔵堂の中には、この川除延命地蔵を中心に、左右に一体ずつの地蔵が祀られている。向かって左側の地蔵は石造りの坐像で、高さ約七〇センチ。摩滅が進んでいて古さを感じさせるが、由緒などはわからない。一方、右側の地蔵は高さ八五センチ。裏面に「昭和廿二年八月之建」と刻まれている。この地蔵は、空襲の際にこの近くに墜落して死亡したB二九の搭乗員を弔うためのものである。遺体は地蔵堂の境内に埋葬されたといい、お堂が再建されるまでは、地蔵の隣に小さな石が置かれていたという。
この地蔵堂は安西五丁目の町内会が守っており、毎月九日と二四日にはご詠歌の奉納が行われる。言い伝えによれば、かつては子供が笛や太鼓を鳴らす「ドンチャカ」が行われていたという。大祭は八月二四日。この日には、安西四丁目の大林寺住職による読経が行われるほか、夕方には屋台が立ち並び、参拝者の行列が連なる。また、戦後間もない頃までは、大祭の日に子供の相撲大会や踊りの披露などが行われたというが、平成七年からは二台のみこしが町内を練り歩き、太鼓の演奏が行われるようになった。
話を元に戻す。
藁科川流域の谷筋は古来より重要な交通路であった。谷を遡り分水稜線を越える街道は商いの道、戦の道、そして信仰の道として賑わった。藁科川流域の谷は大きく開け、また分水稜線も比較的ゆったりした地形であるため、古代より自ずと交通路が開かれたのだろう。笹間峠で分水稜を越える道、いわゆる「笹間街道」は大井川流域に通じている。この道は東海道の裏街道として、また駿府から秋葉山への参詣道として賑わった。また、洗沢峠で分水稜を越える道は「川根街道」と呼ばれ、木材集積地としてその賑わいは江戸にも勝るといわれた川根地方に通じていた。武田信玄の侵略を受けた今川氏真はこの道を通って掛川城へ落ち延びていった。しかし時代が移り、人と物の流れが変化した今、これらの峠越えの道はすっかりその様相を変えた。
川根街道もまた、道筋を若干変えた上で国道362号線として今に余命を保っているものの、国道とは名ばかりの車も擦違えない狭いところもある道路であり、その重要性は昔と比ぶべくもない。旧川根街道の起点である昼居渡集落最上部の人家の裏手から、古道と思える一本の道が茶畑を突っ切って背後の尾根へ登っている。途中の八伏集落を経て洗沢に至るこの街道を明治の終わりまで毎日何百人という人々が往復したという。しかし、大正2年、蛇塚集落からいきなり谷筋に下りる車馬通行可能な新川根街道が開削されたことにより、峠道としての使命を終えた。この新川根街道が現在の国道362号線である。
旧清沢村の久能尾集落から黒俣川を遡り、上流の中村集落から支尾根を登って峠に達する道はいわば間道である。
この笹間峠は昭和10年代までにぎわった。毎日「持子」と呼ばれる荷運び人夫が数十人単位でこの峠を往復した。笹間からは茶、椎茸、繭が、久能尾からは生活用品が運ばれた。そして駿府方面からの秋葉山参詣の人々もこの峠を川根笹間へ越えた。昭和10年代に、すぐ隣の清笹峠に車馬通行可能な道路が開削されたことによりこの峠道は使命を終えた。
話は以上でお終いですが、実は改築前の地蔵堂の裏手にあったガードレールは私が管理して設置したものでした。

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