日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
人生を大いに楽しむために言いたい放題、書きたい放題!!
読者のコメント歓迎いたします。

ねじ式忌 その人徳を 偲びけり

2023年06月30日 14時52分42秒 | 日記
 現代俳句協会の千葉県協会長であり本部IT部長を務めていた大畑等氏は2016年1月10日に急逝されました。前年の12月半ばに倒れ、入院したものの、回復が叶わず、1月10日午後亡くなった。65歳という若さだった。

大畑等(おおはた・ひとし)

1950年、和歌山県新宮市生れ。
早稲田大学理工学部建築科、同大大学院理工学研究科卒業。
千葉県船橋市。一級建築士事務所・大畑建築設計事務所代表取締役。
千葉県在住。建築士。
昭和63年「麦」の東京研究会にて田沼文雄の指導を受ける。
「遊牧」同人、
「西北の森」会員。
「麦新人賞」
「麦作家賞」
「現代俳句評論賞」受賞。
私家版句集「むぎ懲役」、共著「おおいとⅡ」、『ねじ式』。など、現代俳句の期待の作家であった。

(主要作品)
うしろから突き落とされて滝である
おにはにはにはにはとりがゐるはるは
くびれつつ実るものあり秋の暮
なめくじりいちいち尻を見るなかれ
なんと気持ちのいい朝だろうああのるどしゅわるつねっがあ
ねじ式で卵うみたる秋のマリア
のどぼとけ明日鳴るはずの非常ベル
ぼんの凹私と蛇がよじれ合う
みの虫の百ほど垂れて家建てる
らっきょう噛めば解体新書の音する
三島忌やまだうら若き洗面器
不惑とは何ぞ新茶はなまぐさし
人形より遅れて人間杖をつき
前略百年同じところのがまがえる
大いなる籠を探せり冬の鵙
嫁が君渡世は意外に簡単だ
心は腸である高感度フィルム
心臓を乱用したり秋の蠅
愛あれば死んだふりする田螺かな
我が頭跨がれやすき彼岸過
月蝕下大根おろしがうまくすれた
栓抜を探しておりぬ秋の蛇
梅雨空や遺書書くまえに落書きす
歎異抄屈伸運動しておりぬ
水平線にうどんを垂らす頭痛かな
流星群来よ大根を煮ておくから
父にしあれば枯野のなかを内出血
男の首絞めたり葱を作ったり
絶対電柱少女ぎしぎし歩く
葛の花産湯さびしく出でしかな
薔薇の園笑い過ぎても死にますよ
踏んづけて亀を鳴かせり十二使徒
仏壇をたたき壊して浅草寺
黒に黒かさねて女薄目せり
予言書に白いコートがぶらさがる
ざっくりと地獄見てきし色眼鏡

 インターネット俳句会ではG1クラスの講評を担当。高得点句に対しては、辛口の指摘で更なる精進を促し、0点の句の中から丁寧に選んだ注目句に対しては、その良さを褒め、励まし、愛情溢れる文章であった。小生は0点常習者であったから前後数回の講評をいただいている。

 小生は大畑等先生の前任管理者から除名処分を受けていたが、先生から名誉回復をしていただき、同時に現代俳句協会加入の推薦人を引き受けていただいた。小生にとっては俳句界に於ける最大の恩人であった。深く感謝し、心からご冥福をお祈りします。
コメント (2)
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白兎の句 ついに英訳 されました

2023年06月27日 19時34分16秒 | 日記
 群馬在住の俳人・国比呂さんという方の「上州俳句茶屋」というサイトに「上州諷詠」というページがあって、上州(群馬)の風物を詠い込んだ俳句を紹介している。



<迦葉山>  夏木立迦葉天狗と遊びけり     白兎
<上州>   上州の風ひりひりと野良の梅    たかし
<上州>   上州に入るいきなりの春みぞれ   久栄
<上州>   上州を訪へば茶受けの夏蕨     珪子
<空っ風>  上州の空っ風さへなく晴れて    汀子
<前橋市>  前橋は母の故郷霜夜明け      立子
<榛名山>  種蒔や萬古ゆるがず榛名山     鬼城
<榛名山>  竹秋や布団干し居る榛名駕     元
<赤城榛名> 麥浪や赤城榛名も程近く      春夫
<榛名山>  雲少し榛名を出でぬ秋の空     漱石
<高崎観音> ほほえみは碧空にあり初観音    康弘
<浅間山>  浅間から分かれて来るや小夕立   一茶
<赤城山>  赤城から男体にかけ大根干す    等
<前橋市>  前橋の初市風に明けにけり     蓼穂
<妙義山>  福だるま妙義は雲を飛ばしけり   青児
<浅間山>  上州に友あり親し初浅間      鉄之介
<嬬恋村>  じゃがたらの花裾野まで嬬恋村   伊昔紅
<嬬恋村>  嬬恋に玉菜すすぎの雨いたる    忠男
<赤城榛名> 寒月に雲跳飛ぶ赤城榛名かな    碧梧桐
<榛名富士> 榛名富士雨後のみどりの濃かりけり 喜久子
<赤城榛名> 元旦や赤城榛名の峰明り      鬼城
<赤城>   秋霞赤城をとほき山とせり     秋桜子
<谷川岳>  雪崩して谷川岳はなほ拒む     青畝
<妙義山>  秋風や野に一塊の妙義山      蛇笏
<榛名富士> 榛名富士映る湖畔にキャンプ張り  章
<一の倉沢> 雲飛び去り一の倉沢梅雨月夜    日郎
<荒船山>  柿すだれ荒船山の下に住む     霜舟
<榛名山>  氷解けて桜咲くなり榛名山     子規
<谷川岳>  谷川岳天そそる巌の雪被たる    日郎
<碓氷峠>  火の見高う碓氷峠や冬の山     碧童
<湯桧曽川> 栗咲くや月夜翳濃き湯桧曽川    羊村
<赤城山>  何時とて赤城降ろしや玉子酒    利正
<空つ風>  空つ風村は大地にしがみつく    等
<赤城山>  迅雷や黒檜の肩のうるし雲     うしほ
<赤城山>  一村の吹き流しみな赤城指す    銀葉
<榛名山>  榛名山大霞して真昼かな      鬼城
<上 州>  上州の寒さ半鐘いまも吊り     昭彦
<碓氷峠>  芒咲く車まばらな旧碓氷      きらら
<妙義山>  秋風や妙義の岩に雲はしる     子規
<妙義山>  凩や妙義が嶽にうすづく日     鬼城
<嬬恋>   葛咲くや嬬恋村の字いくつ     波郷

 松本たかし、稲畑汀子、星野立子、村上鬼城、島村元(はじめ)、夏目漱石、小林一茶、瀬尾蓼穂、大嶽青児、松崎鉄之介、河東碧梧桐、水原秋桜子、阿波野青畝、飯田蛇笏、岡田日郎、正岡子規、倉橋羊村、富田うしほ、吉田銀葉、金子伊昔紅、小澤碧童、石田波郷などなど俳句界の巨星がずらりと名前を連ねている。

 康弘とは地元群馬の大政治家で俳人でもあるあの大勲位・中曽根康弘元総理である。

 その中に <迦葉山>  夏木立迦葉天狗と遊びけり  白兎   と、あるのは誰あろう不肖秋山白兎(はくと)なのだから尻の穴の周りがこそばゆいことこの上もない。この句は俳句を始めたばかりのころどこかのサイトへ投句したものであるが幸いにも国比呂さんの御眼にとまって「上州諷詠」に収録していただいたものとこころより感謝している。

 迦葉山は、高尾山薬王院、鞍馬寺と共に「日本三大天狗」と言われている。沼田市街地から北方約16km、武尊山系に連なる深山幽谷の浄域にあり、春は新緑、夏は霊鳥「仏法僧」の声を聞き、秋は全山紅葉、冬は白雪四囲を覆う。

 弥勒寺(みろくじ)は嘉祥元(848)年に開創。桓武天皇の皇子・葛原親王の発願により天台宗比叡山座主・慈覚大師を招いて第一世とされ、康正2(1456)年、曹洞宗に改宗され、徳川初代将軍の祈願所として御朱印百石・十万石の格式を許された由緒あるお寺である。
 迦葉山参りでは、最初の年、中峰堂から天狗面を借りて帰り、次にお参りする機会に借りた面を持ち、さらに門前の店で新しい面を求めて添え、寺に納め、また別の面を借りてくるという、ならわしになっている。

 さて、英訳されたというのはOmamori - Japanese Amuletsというサイトに掲載されている。

夏木立迦葉天狗と遊びけり  
natsu kodachi Kashoo Tengu to asobikeri

trees in summer -
we play with the tengu
of Mount Kashoozan    

Shiro-usagi 白兎

Haiku from Joshu 上州俳句茶屋
source : musasi555jp

と、いうことで、私の俳号がシロウサギになっているのはいささか遺憾であるが、これも国比呂さんの「上州俳句茶屋」から転載されている。私は英語はさっぱりなのでOmamori - Japanese Amuletsというサイトのことも含めて詳しくお解かりになる方はぜひご教授願いたい。
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若竹を叩いて晒すおかんじゃけ

2023年06月20日 21時41分06秒 | 日記

オカンジャケは、静岡市葵区羽鳥の曹洞宗の名刹久住山洞慶院の祭日(7月19日~20日)に 境内参道で売られる竹製の玩具。若竹の先の部分を叩いて麻糸の様につぶし、彩色したもので「おかん」は髪の毛「じゃけ」は竹の転訛といわれ‟お髪竹”の訛とも考えられている。

オカンジャケはその年の新竹(真竹)を用いた極めて素朴な作り物で、その二節を伐りとって、一節は手持ち用、あとの一節は、叩いて裂いて繊維状にする。洞慶院のオカンジャケは、この繊維状の房を鮮やかな三色(赤、黄、紫)に染めた縁起物であるが、もとは子供達が河原に出てこれを作り、男の子は采配に、女の子はその房を髪に見立てた人形遊びをする、いわば郷土玩具の一つであった。

今からおよそ560年前の宝徳2年(1450年)、「怒仲天誾禅師」の教えを受け継いだ弟子の「石叟円柱大和尚」がこの地に訪れ、建穂山麗の「喜慶庵」に泊まった。その夜、突如現れた白狐のお告げにより、久住山の麓に法場(てら)を開くことになったのである。

時の守護である「福島伊賀守」は、深く石叟に帰衣して土地を寄進。この地の石上氏の協力と、石叟の法弟「大巌宗梅大和尚」も実務をつかさどり享徳元年(1452年)一棟を建立し、伊賀守の法名により「洞慶院」と称した。現住職の二代前の瑞岳廉芳大和尚は本山永平寺の77世貫首を務めた。

洞慶院に最も近く「門前」と呼ばれる福島家は愚生の伯母の嫁ぎ先で従兄はよく老梅林園の剪定などをしていた。画像出典:久住山洞慶院。
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ご依頼に応じて記事を削除した

2023年06月17日 11時02分52秒 | 日記
最近、10年ほど前に『日々是好舌』書いた記事の削除依頼があったので直ちに削除した。それにしもよく見つけたものだと感心した。
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湧水の雷井戸は霊水ぞ

2023年06月10日 10時31分42秒 | 旅行

静岡県三島市南本町の民家の脇で大切に管理されている井戸が「雷井戸」。井戸保存のために、市民の有志が土地を買い上げて保存活動を続けている。三島は昭和30年代中頃までは、街のあちらこちらで湧水が見られたが、雷井戸もその一つ。水量は減ったものの、現在でも一年を通してこんこんと水が湧き出ている。

この井戸はかつて田町水道と呼ばれる地域住民の飲料水を供給する簡易水道の水源であった。
雷井戸は、源兵衛川や水の苑緑地の近くにある。住宅街を抜けた先の少し分かりにくい場所であるが、道の分岐点には案内板が設置されている。

この付近には「南本町湧水群」と言われる数多くの湧水があり、その一つの水源として雷井戸は地域住民の生活を支えていた。

三島梅花藻は、1930年(昭和5年)に三島の楽寿園で発見された水草で、水の量・温度・質のどれもが良い条件でないと育たないというデリケートな性質。
この水草が群生しているということは、その水がきれいな水であるという証拠となり、水質のバロメーターとも言われる。

画像は旅行サイト「たびらい」からお借りしました。
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鬼岩寺に祀る黒犬物語り

2023年06月04日 12時20分05秒 | 日記

【山号寺号】楞厳山鬼岩寺(りょうごんざん きがんじ)
【所在地】藤枝市藤枝3-16-14
【宗 派】高野山真言宗
【本 尊】聖観世音菩薩 行基菩薩作
【由緒縁起】
神亀3年(726年)に行基上人により開創されたと伝わる古刹です。寺名は、寺の裏山にある鬼岩(おにいわ)と言われる巨岩・岩穴に由来しており、弘法大師空海が人々を苦しめる鬼を封じ込めた岩穴と伝えられています。境内には鬼が爪を研いだ跡と言われる「鬼かき石」が安置されているほか、黒犬伝説と神犬クロを祀る「黒犬神社」があります。その他、境内からは南北朝から戦国時代までの中世の石塔が多数見つかっており、貴重な歴史資料として市の有形文化財に指定されています。
古代、東海道が直角に曲がる角に位置する鬼岩寺が、旅人の布施屋(宿泊施設)と、街道の魔魅降伏の機能を併せ持ち、その後、一時衰退するが、平安末期には密教寺院として再興され、そして中世、北条氏の影響下で真言律宗に転じ、南北朝時代は今川氏の保護のもと、三昧所(葬地)としての性格を併せ持つようになったとされています。

【弘法大師と魔魅の岩】
 開創してから百年程過ぎた弘仁年間(810~823)、鬼岩寺のあたりに悪い鬼が住んでいて、村人を苦しめていた。ちょうどそこへ弘法大師が通りかかり、鬼退治をしてもらうことになった。大師は不動尊の像を描くと、七日七夜の祈祷を始めました。満願の日、ついに鬼は捕らえられ、大きな岩の中に封じ込まれてしまいました。その岩をよく見るとたくさんの穴があいています。それが鬼を封じ込めたときにできた穴で、以来その岩は「鬼岩」と呼ばれるようになり、また、そこにできたお寺を鬼岩寺と呼ぶようになったのだそうです。
今でも寺の裏山には岩穴があり「鬼岩」とか「魔魅の岩」と呼んでいる。また鬼が鋭い爪を研いだと言われる傷あとの残った「鬼かき岩」(学者の説では玉を研いだ石であると言う)が境内に安置されている。
 その後、鬼岩寺は有名になり、建久3年(1192)には、鳥羽天皇が先帝後白河法皇の追善供養のため、法皇所持の仏舎利二粒を宝塔に入れて鬼岩寺に奉納したという。
【静照上人大蛇退治】
 平安末期の長寛年間(1163~1164)、鬼岩寺の南方2.5キロ程の村の大池に大蛇(竜)が住みついていた。この大蛇は池の近くを通る人々を次々に飲み込んでしまうので、村人たちは困りはてていた。鬼岩寺二世住職であった静照上人は、池のまわりの丘に7ヶ所の護摩壇を築き、天台宗三井寺開山智証大師円珍(814~892)の刻んだ不動明王を祀り、大蛇退散の不動護摩の修法を行った。さしもの大蛇もその法力によって教化され封じ込まれ、広大な池の水も干上って陸地となり、後には田畑として利用されるようになった。霊験あらたかなこの不動明王は、承安3年(1173)鬼岩寺境内に不動堂を築き安置した。人呼んで「池旱不動・いけほすふどう」と称し、今でも多くの人々に篤く信仰されている。鬼岩寺の正面の不動堂に安置され、最近、市の文化財に指定された本尊がこの不動明王である。左の眼は天をにらみ、右の眼は地を見つめている天地眼の不動尊像である。天台宗寺門派では天地眼の不動明王を祀る特徴を持っているから、慈覚大師との関係は深いと言える。
 大蛇を退治した鬼岩寺の静照は、戒走慧三学を究めた名僧として広く知られ、後に源頼朝からも帰依された。頼朝は純錦の自分の礼服をお袈裟に仕立て直して、静照に賜ったと言う。鬼岩寺ではこの静照を中興開山としてあがめている。
 この静照の大蛇退治の伝説は「水上池の悪竜退治」の伝説として、水上村万福寺、志太の九景寺等の開創縁起として伝えられている。それぞれ内容は少しずつ異っているが、水上という地名でもわかるように、大きな池(低湿地帯)があった。中世の時代水上池を開拓し、田畑に変え、食糧の増産を図るため、僧侶による宗教的・技術的指導の下で土地開発が行われた。この開発が伝説として伝えられたのであると、磯部武男氏の優れた学問的研究「水上池の悪霊退治伝説について」(藤枝市郷土博物館紀要三)があるので参照されたい。
【足利義満・足利義教宿泊】 鎌倉時代に入っても鬼岩寺はこの地区の名利として街道に名が知られ、名僧が住職となっている。永仁年間(1293~1298)には良観上人が、また後には鎌倉極楽寺開山の忍性上人が住職となり、二重塔を建立し、その中には、書写した大蔵経を納めたと言われている。
 嘉慶2年(1388)、足利幕府3代将軍義満は、富士山を見物のため下向した時、この鬼岩寺に宿泊した。さらに永享4年(1432年)9月17日、室町幕府の将軍・足利義教は富士山を見るために 大勢の家来を従えて駿河に下りました。駿府に入る前日、将軍は鬼岩寺に一泊しました。その時、裏山に上がって高草山越しに富士山を見物し、和歌を詠みました。それ以後、将軍が富士山を眺めた場所を富士見平と呼ぶようになったのだそうです。富士見平と呼ばれるところには、4世紀末から6世紀にかけて造られた古墳群があります。市内でも最も古い古墳群で、28基の古墳が整然と並んでいます。現在、蓮華寺池公園「古墳の広場」として保存整備されています。
この時のことは、『続太平記』『今川記』『富士御覧日記』等にも詳しく記されている。将軍義教は鎌倉公方の足利持氏に将軍の権威を誇示するため「富士遊覧」と称して、大行列を仕立てて京都から駿河国に下った。飛鳥井雅世、三条実雅、勧修寺教秀の公家や歌人や殿上人の他に、一説には6千騎ともいわれる武士を率いて、「山も川もとどろき渡りけり。」と称される程の大部隊を伴って大井川を越えて来た。駿河国守護職今川範政が出迎え、一行は鬼岩寺に1泊した。帰路にも1泊し、この時鬼岩寺裏の岩田山に富士山を眺めるための望事を築いたという。この故事によってこの山を「富士見平」とか「天がすみ」と呼ばれ、高草山の山越しに富士山が眺められることで有名になった。
文明5年(1473) 歌人の釈正広は富士見平にて、「富士はなお上にぞ見ゆる藤枝や高草山の峰の白雲」という歌を残している。
【飛行舎利】
1568年(永禄11年)より駿河侵攻を開始した武田信玄は、1570年(永禄13年)正月、城主・大原資良以下今川家臣の立て籠もる花沢城に攻め入った。信玄は高草山中腹に布陣し、武田勝頼・武田信廉・長坂長閑らが攻撃を行った。城兵は14日間に渡り奮戦したが、同月27日に降参し開城、大原資良は遠江に退去したと伝わる。月末には田中城を攻略した。この時、武田軍は飽波神社、清水寺、東光寺、遍照光寺等の名だたる神社仏閣を焼き払った。鬼岩寺もこの兵火によって本尊の聖観世音菩薩を除いて貴重な寺宝や記録が残らず焼失した。この時、鳥羽天皇が奉納した仏舎利二粒は、燃えさかる炎の中を飛び出したので、「飛行の舎利」と呼ばれた。信玄はこの舎利を甲斐に持ち帰り、武田勝頼の手を経て高野山に奉納した。江戸時代に入ってから高野山成慶院住職秀雅は、この舎利が藤枝宿鬼岩寺のものであったことを知り、延宝7年(1679)鬼岩寺に返納した。その後、鬼岩寺の復興は慶長7年(1602)幕府から12石の朱印領を賜り、伽藍が再興されてからである。現在の不動堂はこの時建立されたものである。


【黒犬神社】
鬼岩寺の境内に鎮座する境内小社です。このお社は、神犬クロが祀られています。これには次のような伝説が伝わっています。その昔、領主の田中城の城主・本多公は闘犬を好み、洋犬の血を引く土佐犬シロを飼っていました。あるとき城下の鬼岩寺に春埜山から遣わされた狼の血を引く神犬クロがいると知り、殿様の愛犬シロと勝負せよと寺に命じました。城庭の広場で衆人見守るなか、神犬クロはたちまちのうちに殿様の愛犬を咬み倒してしまいました。これに怒った殿様の本多公は、家臣団数百名に命じてクロを追わせました。城下を追い回されたクロは逃げ場を失い古井戸に身を投げて死んでしまいました。このとき火柱が立ち黒雲が湧き起り、百雷のような恐ろしいうなり声が城下に響きわたりました。また異説では春埜山からクロの仲間の山犬の群れが押し寄せて来たとも伝えられています。この神威に恐れをなした本多公は、平伏合掌して詫び、お社を建ててクロを祀ったのがこの黒犬神社だと伝えられています。
黒犬神社は今でも「死しても負けずの神」、武運長久大願成就の守護神として信仰を集めています。春埜山は、狼を遣わすとされた遠州三山、山住、秋葉山、春埜山の内の一つです。この伝説から春埜山の犬飼集団は江戸時代になっても狼犬を貸し出す事業を行っており、その勢力は藩主である大名家を屈服させるほどだったことが分かります。
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