僞(いつはり)とこちは思はじ初時雨 佐渡遊女みほの
この句には「仰ごとはちがひ候へどもこなたはまことと存じ候」との前書きがあり作者は佐渡遊女「みほの」とだけ書いてある。夜半亭蕪村編輯《玉藻集》に採録されている句で季語は勿論「時雨」で冬である。
佐渡金山華やかなりし頃、時の幕府は、鉱山労働者を確保するために、相川に歓楽街を設置し、それを手厚く保護した。労働者の労働後の楽しみと言えば、飲む打つ買うである。佐渡の遊郭は、江戸の吉原よりも先にできた。まず最初に山咲町に遊郭ができ、後に水金町に移った。
遊郭に身を投ずる遊女は、佐渡の貧しい家庭に育った娘がほとんどであった。彼女らには、苦界に身を置いて居ると言う意識はほとんど無かった。その理由は二つある。一つは、貧しさからの解放である。彼女らには、着物、風呂、化粧、食事の心配が無く、しかも遊郭経営者により手厚く保護されたからだ。二つ目は、江戸時代に広まった儒教の影響で、親孝行の意識があったからである。
親が娘を遊郭に預けると前貸し金をもらえる。遊女は10年間の年期奉公だが、その間の賃金は、全てそれらの利息の支払いに当てられる。だから遊郭を出るためには、前貸し金の支払いが必要であった。それが支払えない場合は、遊女は再び遊郭で働き続けなければならない。何とも悲しい話ではあるが、当時の佐渡では、それでも遊郭に身売りする娘は大勢いたようで、幕末の佐渡奉行だった川路 聖謨(かわじ としあきら)は、「佐渡で安いのは魚と女だ」と言ったとされる。
金山の隆盛時は、コンドームなどない時代である。妊娠しにくくなったら一人前の遊女と言われた時代だ。そして性病の検査も治療もできない時代である、遊郭通いで性病に苦しんだ男達が平癒祈願の絵馬を神社に奉じたのもむべなるかなな時代であった。だが、現代のように多彩な娯楽の無かった時代である、彼らは性欲を満たすために、唯一の娯楽である遊郭へとこぞって通った。現代でもそれを目的に性風俗店通いをする男共を批判はできまい。
川路 聖謨(かわじ としあきら)は、江戸時代末期(幕末)の武士(旗本)。号は敬斎。
豊後日田代官所の役人の息子に生まれながらも、まれにみる才幹を示して、勘定吟味役、佐渡奉行、小普請奉行、大阪町奉行、勘定奉行などの要職を歴任している。そして、勘定奉行在任のまま海防掛になった。 幕末きっての名官吏で、有能なだけでなく、誠実で情愛深く、ユーモアに富んでいた。和歌にも造詣が深く、『島根乃言能葉』などの歌集も遺している。
夜半亭蕪村編輯《玉藻集》は千代尼の序、田女の跋を付して安永3年甲午(1774)に刊行された。時に蕪村59歳8月であった。「玉藻」は伝説の美女玉藻の前(たまものまえ)を指すと思われるが、その正体は金毛九尾の妖狐。失礼ではないかと思いきや、田女は跋に「天地をうごかし鬼神を感ぜしめし女の歌仙、數ふるにいとまあらずとや」と記し、その命名に異議はないようである。
女性俳人の作のみを集めたもので蕪村の句は含まれないが、蕪村の審美眼を知る意味でも、また有名無名の如何なる俳人があったかを知る意味でも興味深い。当撰集は大正11年に東京市神田の有朋堂書店より活版で出版されたことがある。それ以外の覆刻については未詳。
ここに遊女と肩書の付いた句だけを抜粋してみよう。
俳諧玉藻集 平安 夜半亭蕪村輯
色紙や色好みの家に筆始 遊女 利生
夕立やいとしい時と憎い時 遊女 しづか
蟲干や具足櫃から轉び出る 遊女 小源
朝夕に見る子見たがる踊哉 遊女 花崎
朝顏のはえあふ紅粉のねまき哉 遊女 高尾
月はのう淋しいでこそ哀なる 京遊女 九重
秋の千種の哀れなるが中に 遊女 長門
僞とこちは思はじ初時雨 佐渡遊女 みほの
兒の親の手笠いとはぬ時雨哉 遊女 夕霧
我袖の蔦や浮世の村時雨 遊女 薄雲
慰めし琴も名殘や冬の月 遊女 いくよ
我子なら供にはやらじ夜の雪 遊女 ときは
千鳥啼出れば雌か雄かの 遊女 いくよ
遊女といえばもっと古い万葉集にも「うかれめ」の歌が残っている。「うかれめ」は、天平時代(一一六五~)の万葉集に、万葉仮名で「遊行婦女」と記されている。「遊行婦女(うかれめ)」とは、宴席に侍り詩歌音曲を奏する云わば芸妓であるが、錚々(そうそう)たる万葉歌人と同席して歌を詠んでいる。それらの歌は万葉歌人と同等、若しくは、優るとも劣らぬ詠みっぷりである。
万葉集には四人の「遊行婦女」が名を残していて、名は、「土師(はにし)」、「蒲生(かまふ)」、「左夫流児(さぶるこ)」、「児嶋(こじま)」である。
現代のキャバクラ嬢の無知・無教養に比べたら昔の遊女はなんと奥ゆかしいことかと嘆息せざるを得ない。
この句には「仰ごとはちがひ候へどもこなたはまことと存じ候」との前書きがあり作者は佐渡遊女「みほの」とだけ書いてある。夜半亭蕪村編輯《玉藻集》に採録されている句で季語は勿論「時雨」で冬である。
佐渡金山華やかなりし頃、時の幕府は、鉱山労働者を確保するために、相川に歓楽街を設置し、それを手厚く保護した。労働者の労働後の楽しみと言えば、飲む打つ買うである。佐渡の遊郭は、江戸の吉原よりも先にできた。まず最初に山咲町に遊郭ができ、後に水金町に移った。
遊郭に身を投ずる遊女は、佐渡の貧しい家庭に育った娘がほとんどであった。彼女らには、苦界に身を置いて居ると言う意識はほとんど無かった。その理由は二つある。一つは、貧しさからの解放である。彼女らには、着物、風呂、化粧、食事の心配が無く、しかも遊郭経営者により手厚く保護されたからだ。二つ目は、江戸時代に広まった儒教の影響で、親孝行の意識があったからである。
親が娘を遊郭に預けると前貸し金をもらえる。遊女は10年間の年期奉公だが、その間の賃金は、全てそれらの利息の支払いに当てられる。だから遊郭を出るためには、前貸し金の支払いが必要であった。それが支払えない場合は、遊女は再び遊郭で働き続けなければならない。何とも悲しい話ではあるが、当時の佐渡では、それでも遊郭に身売りする娘は大勢いたようで、幕末の佐渡奉行だった川路 聖謨(かわじ としあきら)は、「佐渡で安いのは魚と女だ」と言ったとされる。
金山の隆盛時は、コンドームなどない時代である。妊娠しにくくなったら一人前の遊女と言われた時代だ。そして性病の検査も治療もできない時代である、遊郭通いで性病に苦しんだ男達が平癒祈願の絵馬を神社に奉じたのもむべなるかなな時代であった。だが、現代のように多彩な娯楽の無かった時代である、彼らは性欲を満たすために、唯一の娯楽である遊郭へとこぞって通った。現代でもそれを目的に性風俗店通いをする男共を批判はできまい。
川路 聖謨(かわじ としあきら)は、江戸時代末期(幕末)の武士(旗本)。号は敬斎。
豊後日田代官所の役人の息子に生まれながらも、まれにみる才幹を示して、勘定吟味役、佐渡奉行、小普請奉行、大阪町奉行、勘定奉行などの要職を歴任している。そして、勘定奉行在任のまま海防掛になった。 幕末きっての名官吏で、有能なだけでなく、誠実で情愛深く、ユーモアに富んでいた。和歌にも造詣が深く、『島根乃言能葉』などの歌集も遺している。
夜半亭蕪村編輯《玉藻集》は千代尼の序、田女の跋を付して安永3年甲午(1774)に刊行された。時に蕪村59歳8月であった。「玉藻」は伝説の美女玉藻の前(たまものまえ)を指すと思われるが、その正体は金毛九尾の妖狐。失礼ではないかと思いきや、田女は跋に「天地をうごかし鬼神を感ぜしめし女の歌仙、數ふるにいとまあらずとや」と記し、その命名に異議はないようである。
女性俳人の作のみを集めたもので蕪村の句は含まれないが、蕪村の審美眼を知る意味でも、また有名無名の如何なる俳人があったかを知る意味でも興味深い。当撰集は大正11年に東京市神田の有朋堂書店より活版で出版されたことがある。それ以外の覆刻については未詳。
ここに遊女と肩書の付いた句だけを抜粋してみよう。
俳諧玉藻集 平安 夜半亭蕪村輯
色紙や色好みの家に筆始 遊女 利生
夕立やいとしい時と憎い時 遊女 しづか
蟲干や具足櫃から轉び出る 遊女 小源
朝夕に見る子見たがる踊哉 遊女 花崎
朝顏のはえあふ紅粉のねまき哉 遊女 高尾
月はのう淋しいでこそ哀なる 京遊女 九重
秋の千種の哀れなるが中に 遊女 長門
僞とこちは思はじ初時雨 佐渡遊女 みほの
兒の親の手笠いとはぬ時雨哉 遊女 夕霧
我袖の蔦や浮世の村時雨 遊女 薄雲
慰めし琴も名殘や冬の月 遊女 いくよ
我子なら供にはやらじ夜の雪 遊女 ときは
千鳥啼出れば雌か雄かの 遊女 いくよ
遊女といえばもっと古い万葉集にも「うかれめ」の歌が残っている。「うかれめ」は、天平時代(一一六五~)の万葉集に、万葉仮名で「遊行婦女」と記されている。「遊行婦女(うかれめ)」とは、宴席に侍り詩歌音曲を奏する云わば芸妓であるが、錚々(そうそう)たる万葉歌人と同席して歌を詠んでいる。それらの歌は万葉歌人と同等、若しくは、優るとも劣らぬ詠みっぷりである。
万葉集には四人の「遊行婦女」が名を残していて、名は、「土師(はにし)」、「蒲生(かまふ)」、「左夫流児(さぶるこ)」、「児嶋(こじま)」である。
現代のキャバクラ嬢の無知・無教養に比べたら昔の遊女はなんと奥ゆかしいことかと嘆息せざるを得ない。