椎茸の記録に伊豆国多し 白兎
しひたけのきろくにいづのくにまねし
椎茸(しひたけ)は三秋の季語。子季語に、椎茸干す、茸干す、干茸。
椎茸(しいたけ)は、ハラタケ目-キシメジ科に分類されるキノコである。異説ではヒラタケ科・ホウライタケ科・ツキヨタケ科ともされる。
和名のシイタケは、特にシイ(椎)の倒木などに発生したことから、この名が付けられている。
中国では紀元前5000~4500年の浙江省の遺跡にきのこが出土している。唐時代の詩文にあり、五代時代には菌(きのこ)の記載があり、南宋時代は香椎と栽培法が記載されている。日本渡来は9世紀と考えられる。椎茸は天然の茸であるから、さぞかし昔から食べられていたことが推測されるが、文献に登場するのは意外に新しい。当時、日本で栽培されていた椎茸の多くは中国に輸出されており、最も古いのは、1237年に道元が宋(中国)に留学した際、日本船が着くと寺の老僧が乾シイタケ(倭椹)を買いに来たという話で、『典座教訓』に載っている。その後は1465年の日記に伊豆の円城寺(現・韮山町)から将軍足利義政に贈ったことが記録に残されている。また、『節用集』(当時の辞典、1495年)に登場するくらいで、あまり記録に残っていない。
『兎園小説』文政8年(1825年)という江戸時代の書物に日本のシイタケ栽培草創期の話がある。伊豆の岩地村という所に猟師の子で斉藤重蔵という者がいた。14歳の時、家を出てシイタケを作り、その商売のために諸国を歩き回っていたが、行方がわからなくなり、30年近くたった。ある日、豊後の岡という所から25両が岩地村へ送られてきた。ところが全然心当たりの無いことなので、一体誰が送金してきたのかと問い合わせたら、その昔、家を出た重蔵からであった。
干し椎茸にも傘の厚い順から「冬茹(どんこ)」「香茹(こうこ)」「香信(こうしん)」などの種別があり、それぞれ香りや味に個性があるが、いずれも食物繊維やミネラルは豊富で、低カロリーである。
シイタケの人工栽培がどこで始まったのかは諸説がある。一つは豊後国の炭焼き源兵衛が寛永の頃始めたという説、もう一つは豊後岡藩藩主中川家の記録で寛文4年シイタケの栽培技術を導入するために伊豆国三島の駒右衛門を招いたのが始まりという説。豊後・伊豆以外では、津藩が1700年代末に直営事業でおこなっており、1800年代には紀州藩、徳島藩、長州藩、土佐藩、人吉藩、薩摩藩、尾張藩、盛岡藩、宇和島藩、さらには蝦夷地(北海道)で栽培が広がっていた。