日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
人生を大いに楽しむために言いたい放題、書きたい放題!!
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氏子衆やまめ祭りの注連を綯う

2019年08月27日 10時23分16秒 | 日記
大井川最上流部に位置する田代の人々は、嘗て、南アルプスの広大な山々で大規模に焼畑農耕を営んできた。「ヤマメ祭り」は、田代の氏神である諏訪神社例大祭の通称です。諏訪神社は、信濃国諏訪大社の分社で嘉禎年間(1235~38年)に山を越えて勧請されたという伝承が残っている。

諏訪大社の創建の年代は不明だが、日本最古の神社の一つといわれるほど古くから存在する。『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」と謡われているように軍神として崇敬された。また中世に狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟・漁業の守護祈願でも知られる。井川の人たちの先祖が信州から移り住んできた歴史を象徴するものと言える。現在の御本殿は、総ヒノキ造りで、明治36年に造営された。参道入り口の鳥居左側には水が湧き出していて「御井戸」と呼ばれ、銘水として知られている。

例大祭は、特殊神饌「ヤマメずし」が神に捧げられることで知られている。塩漬けのヤマメに粟をまぶして作るこのヤマメずしは、熟れ鮓の原初的な製法を今に伝えるものとして注目される。
ヤマメずしの材料となる粟は、今も焼畑で栽培されている。またヤマメも、普段は禁漁区とされる神聖な谷「明神谷」で釣り、その場で「魚釣り祭り」という捕獲儀礼を行う。
焼畑や猟によって生活を営んできた、かつての山村の生活文化を象徴する祭りといえるだろう。この祭りを含む諏訪神社の行事は平成17年11月29日静岡県指定無形民俗文化財に指定されている。保存対象団体は諏訪神社氏子会である。

焼畑が行われなくなった今でも、集落周辺の畑で雑穀が栽培されている。その種類も様々で、ショウガビエ、ケビエ、ネコアシ、コウボウキビ、ホモロコシなど、10種類ほどの雑穀が確認できる。それに伴って雑穀を使った多様な伝統食も受け継がれている。
正月に粟で作るカミノモチや、コウボウキビの焼餅。深みのあるおいしい雑穀食は、稲作文化とは異なるもうひとつの農耕文化が、たしかにこの奥深い山里に息づいていたことを教えてくれる。

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吉原の秘技も知らずに破門さる

2019年08月18日 13時06分13秒 | 日記
フェイスブックの元友達から絶縁されてしまった。経緯は次のとおりである。「不易流行」という題のブログについて読んだら「いいね!!」を押して欲しいということだった。

ブログは「1778年 信州川中島より神来る。」と駿河風土記に書かれている。町内(本通二丁目)に祀られている八朔神社の大祭が1日に行われた。と、いう書き出しであった。
八朔神社の特殊神事として、迎神の儀が有る。つまり大祭の前日に春日の国道とJR線の間に有る場所にお迎えに行くのである。祝詞を春日で奏上し、神様をお連れして神社に戻り、前夜祭の儀式を行う。翌日の8月1日 朝10:30~より本祭を行う。神事を行い、皆で奉納酒を戴き、閉式となる。
本通二丁目の自治会は3組70世帯の小さな町内でありますが、単独町内の社として、八朔神社は240余年の長きにわたり、鎮守神として脈々と続いている。
戦前は吉原での秘技であった技が、現在では各家庭で行われている。(流行)と、書いてブログは終わっている。

私はこのブログに対して「不易流行は俳句を齧っている者として一応の理解はありますが、戦前は吉原での秘技であった技が、現在では各家庭で行われている。(流行)・・・ これが何をさすのやら全く分かりません。八朔神社の由来もわかりません。謎の多い文章です。」とコメントした。そして「不易流行」が本筋の話なら「奥の細道」や「去来抄」にも触れるべきだろうし「八朔神社」が本筋の話ならば祀られている主神や神社の縁起に触れるべきではなかろうか、と書いた。これが相手の逆鱗に触れたのであろう。
少し噛み砕いて話を進めよう。

慶長14年(1609)の駿府町割によって、家康公は古い東海道の道筋であったこの通りを本通(ほんとおり)として、新たに新通(しんとおり)を作らせて東海道の道筋を変更した。つまりバイパスである。昔からの本通は、家康公の時代になると東海道からはずれ、新通が中心となった。地内には時宗の一華堂長善寺があり、家康公から寄進された茶釜がある。これは播磨(はりま)高砂「尾上の釜」(釣鐘)の形で、釜の正面に「播磨高砂」の文字がある。伝承によると家康公のおばあさん(源応尼)が、毎月1度はこのお寺に来て茶をたてたという。

一華堂乗阿とは、江戸前期の和学者・歌人・時宗の僧。甲斐生。武田信虎の子(一説に猶子)。号は乗阿・一華堂・一花堂。駿河長善寺の体光に入門、同寺住職となる。高井尭慶・冷泉為和・三条西実枝らに学び、実枝から古今伝授された。後陽成天皇に進講、また、林羅山・菅玄同らにも『源氏物語』を講義した。晩年は京都七条道場金光寺に住した。元和5年(1619)歿、89才(一説に80才)。

川中島から神が来たという1778年は安永(あんえい)年間で明和の後、天明の前。1772年から1781年までの期間を指す。この時代の天皇は後桃園天皇、光格天皇。江戸幕府将軍は第10代徳川家治の治世である。

神を迎えに行く春日の国道とJR線の間に有る場所とは、「東海道府中宿東見附」。つまりここから「府中宿」という場所であろう。驛傳馬の制度は律令国家の成立とともに整備されたが、当時から安倍郡横田郷は駿河国の五駅六伝馬の一つとして主要な宿駅であったようで、平安期に書かれた『延喜式』などにも見える。以来、横田町近辺は東海道府中宿の中核として江戸期の上伝馬町、下伝馬町に至るまで宿駅としての役割を連綿と続けた。

「不易流行」、芭蕉は江戸を出て95日、越後・出雲崎に到着。この地で詠んだ句こそ、芭蕉が目指した“風雅”の境地を表していると言われます。“荒海や 佐渡によこたふ 天河”時を超えて変わらない、荒海と天の川。その真ん中に位置する佐渡が象徴する、変わりゆく人間の営み。それを芭蕉は「不易流行」と言いました。「不易」とは、永遠に変わらないもの、「流行」とは常に変わりゆくもの。それが同時にこの世にあることを詠む。その「不易流行」という概念こそが、芭蕉が見出した五七五の境地だったのです。
さて、吉原の秘技についてであるが、私は以前、吉原遊郭に伝わる毛生えの妙薬について一文を書いたことがある。その妙薬とは桑の葉であるがパイパンつまり土器(かわらけ)の遊女に毛をはやしてやろうという秘技である。しかし、ブログの秘技はそうではあるまい。

江戸・吉原の遊女たちにも八朔の風習があり、白い小袖を着て客を迎えていたそうである。八朔は、徳川家康の江戸入りした日とされることから、江戸時代にはもっとも重んじられていた行事で、この日を祝うために遊女はみな白無垢を着て、「花魁道中」を行った。吉原の年中行事「八朔」の由来には諸説あるが、とても寒い八朔を迎えたある年、夕霧太夫という遊女が白い袷ではなく白い小袖を着たことより、以後、白い小袖を着ることが慣例化したという説がある。のちに、その習慣は広がり、まだまだ暑さが残るこの時期に白無垢を着るという我慢や見栄が、江戸の『粋』だと言われていたそうだ。。
画像出典:静岡市葵区自治会連合会ブログ。
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坂下延命地蔵堂(さかしたえんめいじぞうどう) その2

2019年08月03日 13時04分47秒 | 日記
坂下延命地蔵堂(さかしたえんめいじぞうどう)

(鼻取地蔵の話)
むかしむかし、ずうっとむかしのこと。ある日、一日の仕事をおえて牛をひいて帰ってきたお百姓(ひゃくしょう)さん。どうしたことか急にひいてきた牛が、いくら手綱(たづな)を引いても動かなくなりおお弱り。 「どうしたものか。困ったな」と思案(しあん)していると一人の子供があらわれた。牛の鼻をとって声をかけたかと思うとらくらくと動かした。 喜んだお百姓さん、ちょっと目をはなしたすきに子供の姿を見失ってしまった。どこへ行ったものだろうと、残った足あとをたどりたどりしていくと、地蔵堂の中まで続いてお地蔵さんの前で消えていた。 さてはお地蔵さんの化身(けしん)の子供だったのかとお百姓さんは驚いたりおそれいったりでした。 このことがあってこのお地蔵さんを、牛の鼻を取ってくれたということから「鼻取り地蔵さん」と呼ぶようになったという。 牛の鼻を取ってくれた、お百姓の手助けをしてくれたというので農家の人々の信仰が厚く、願掛(がんか)けのお礼にあげた鎌(かま)がお堂の中の板壁(いたかべ)にたくさんたてかけてある。中には紙で作ったものも木で作ったものもある。 「お地蔵さんはお百姓さんの守り神」と毎年八月の二十三、二十四日の両日盛んなお施餓鬼(せがき)が今も行われている。
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南麼(なうまく)坂下延命地蔵堂

2019年08月03日 12時49分50秒 | 日記

坂下延命地蔵堂(さかしたえんめいじぞうどう)

建立年代、建立者は不明。元禄13年(1700年)に、岡部宿の伊藤七郎右衛門、平井喜兵衛、中野陣右衛門の3人が発願して地蔵堂を再建し、堂内の仏具をそろえ鴻鐘を新たに鋳して鐘楼も建立した。霊験あらたかと村人や近隣の人々に信仰され、その霊験あらたかさを示す二つの伝説「鼻取地蔵」「稲刈地蔵」が残されている。 堂内には地蔵菩薩像が安置されており、この地蔵尊は宇津ノ谷峠を越えようとする旅人の安全を守り、また、堂前の木陰は旅人の疲れを癒した。今でも8月23、24日の大縁日には、串に差した十団子をお供えして供養をしている。また、新盆供養のために遠方からも参拝客が訪れる。


(稲刈地蔵の話)

岡部から丸子に通じる宇津ノ谷の手前の坂下に地蔵堂がある。かつての東海道は難所だったので、旅行く人の守り本尊(ほんぞん)として信仰が厚かった。里人の話によれば、本尊は聖徳太子の作で、霊験(れいげん)あらたかとされている。 いつのころかはっきりしないが、榛原地方に一人のはたらき者の青年があった。よく親に孝行をつくし、仕事もまじめにいっしょうけんめいにやったので、村人はこの青年を「りっぱな者だ。感心だ。」とほめていた。 その年の秋の稲刈(いねか)りの最中のこと、たまたまお伊勢(いせ)まいりの話が出て、仲間からぜひ行こうと誘われた。日頃から信仰の厚かったこの青年も、一度はお伊勢まいりをしたいと思っていたので心はあせった。数反歩(たんぶ)の刈(か)り取りをしなければならない身をなげいて、同行の人々に出かけるについての悩みを語った。広い田の面を見てなげく青年の気持はまことにあわれであった。 夜もねむれぬまま青年は朝早くかまを手に田に出かけた。出かけるまでに刈れるだけ刈ろうとしたのである。 出かけてみて驚いた。田を見れば不思議なこともあるもので、一夜のうちに全部が刈りとられているのである。わが身をうたがい、目をこすり、目をこらして見なおした。たしかに自分の田である。誰が刈りとったのか、きちんと刈ってきちんと干してある。あまりのことに驚きながら家に帰れば出発のまぎわである。あまりの出来事に驚き、それでも大急ぎで準備をしてお伊勢まいりの旅に立った。 道中、何のさわりもなく、無事におまいりもすませた。同行の中に一人だけ府中(ふちゅう)(今の静岡市)から来たという若者があった。道々、旅は道づれとこの若者と親しくなったが、その友人の親切は人並みではなく、はじめて旅をした青年に何くれとなく心を配ってくれた。 青年は不思議な親切をなぞに思いながら、無事年末のお伊勢まいりの夢をはたして帰路についた。が、数日の同行の縁に別れがたい思いから、この若者を府中の途中まで送っていこうとして、旅の話をあれこれとしながら歩いて宇津ノ谷峠の坂下までたどりついた。その時その若者は坂下のお堂の中へ入っていった。青年は「何をしに入ったのだろう」とお堂の中へ後を追ったが、煙のごとく消えて若者の姿はなかった。 あまりのことに驚いて今までのことを思いかえした。出発前の稲刈りのこと、お伊勢まいりの道中の親切などから、青年は、はたと気づいた。「この若者はお地蔵様の尊(とうと)いお姿の変わり」だったのである。 青年はこの事があった後、なおも一層仕事に精を出した。話を伝え聞いたこの地方の村人もお地蔵まいりを熱心にし、願掛(がんか)けをしたり、いろいろな奉納をしたりした。お堂の壁に農器具のかまやくわが掛けてあるのは、農事の豊作祈願の名残りだといわれる。また、このお地蔵様は「鼻取り地蔵」とも呼ばれて、別の言い伝えも残されている。





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