日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
人生を大いに楽しむために言いたい放題、書きたい放題!!
読者のコメント歓迎いたします。

次郎長の生家ふたたび甦る

2017年07月11日 08時00分21秒 | 日記
 清水次郎長生家の耐震補強が済んでふたたび無料公開されている。これに呼応して最近、身辺に起きたことを記事にしておく。
 
 古いネット友達から埼玉県飯能市の親類に清水次郎長と三人目の妻「おちょう」さんの写真がある。親類はお蝶さんに関係があるのではないかという連絡をいただいた。また圡支田一家(どしだいっか)の三代目・篠信太郎も親類筋だということであった。

 小生が博徒・的屋の世界に若干の知識があるためと思われる。誤解がないように先に申し上げておくが小生は素っ堅気の土木技術者であって博徒とも香具師とも接点はない。ただ、子供のころから広沢虎造の浪曲はよく聴いた。

 そこで友人の問いに答えるべく、少し調べてみた。飯能には「居酒屋つるちゃん」ほか以前からの友人もいて小生にはなじみの深い土地柄である。件の親類は都築さんというそうである。そこで飯能・都築・次郎長などで検索してみると次々にヒットした。

 並柳清五郎。慶応二年(一八六六)の武州一揆のとき、「双柳には親分がいたので、村内へ指一本触れさせなかった」ということを聞いたことがあるが、年齢からしても高萩万次郎の弟分であったと思われる。本名は都築竜蔵という。

 次郎長も一目置いていたということで、明治四年、たまたま清水へ出掛けていて、逗留先の次郎長のところで亡くなっている。聞くところによると「碁を打っていて……」ということであるから、脳卒中ででもあったと思われる。

 清水市の梅蔭寺を訪れると、次郎長はじめ、大政、小政など、数人の身内の墓石が並んで一画をなしているが、次郎長が建ててくれた清五郎の墓石は、向かって右手の奥に「乾叟清元上座、明治四年正月十一日、武州、俗名清五郎」としてあって、その没年月日も飯能市双柳の秀常寺の墓と一致している。

 関係者の話によれば、その戒名からして、「次郎長もよほど厚遇していたものと思われる」とのことであった。なお、万次郎と清五郎の妻は、いずれも清水の女性であった。

 都築家に残る次郎長とその妻お蝶(三代目)の写真は、日本での写真技術の始まりの頃のものとしても貴重だとされている。

 次郎長には前後三人の妻がいたことはよく知られている。その三人目の「お蝶さん」は、三河(愛知県)西尾藩士、篠原東吾の長女として天保8年(1837)4月28日に生まれた。本名は「けん」。次郎長より17歳年下である。33歳で次郎長の後妻に入ったときには既に実子入谷清太郎がいた。子供がいなかった次郎長はお蝶の連れ子清太郎を非常に可愛がったそうである。

 次郎長の菩提寺梅蔭寺の境内にある「次郎長遺物館」には、次郎長愛用の胴田貫やさまざまな遺品が陳列されているが、それらの大半はお蝶さんの遺子清太郎の入谷家が所蔵していたものである。


 鶴屋喜右衛門。本名は清水喜右衛門、通称、高萩の万次郎であり、当時、関東切っての大親分で、国を追われた清水次郎長が、しばらく身を寄せていたといい、次郎長物語にも必ず登場してくる人である。

 万次郎は、高萩宿(日高町)の由緒正しい家に生まれ、今に残る写真の、その風ぽうが示すように、温厚そうな顔立ちながら、眼光のするどさを思わせる人であった。

 次郎長と武州博徒との関係について少々述べてみたい。次郎長が「兄貴」と慕う博徒に、武州高萩(現埼玉県日高市)の高萩万次郎がいる。万次郎は当時「関東侠客の神様」という程に信奉され、まず上州の大前田に次いで、実力、名声とも衆を抜いていた。

 武州の他の侠客・小金井小次郎、小川幸八、師岡孫八、田中屋萬五郎などもまずこの人を頼み、親しく交際した。

 次郎長が万次郎の元を訪れたのは記録によれば、弘化二年、安政五年の二度のことと言われるがどちらも役人の目を逃れるための、のっぴきならない旅の途中であった。

 そのうちどちらの時ことであるかは定かではないが万次郎宅で開かれた盆の上の勝負で、次郎長は当時売り出し中だった上鈴木村(現・小平市)の博徒、平親王の平五郎を散々に打ち負かし名をあげた。
平五郎は背中に将門の紋々を入れていたため、「平親王」と恐れられかつては小金井小次郎とも大きな出入りを打った古強者である。

 圡支田一家(どしだいっか)は東京都練馬区に本部を置く暴力団。指定暴力団住吉会の二次団体。構成員は約120人。
 系譜的には博徒系で、大規模な指定暴力団にあたる住吉会の傘下組織のなかでも、2012年時点で100年以上の歴史を有する清水次郎長にゆかりのある老舗組織として知られる。

 圡支田一家(どしだいっか)初代の榎本新左衛門は北豊島郡大泉村元上土支田村(現東京都練馬区土支田)に、庄屋の次男として生まれる。

 新左衛門は博打に目がなく、神山栄五郎親分の盆に年中出入りしていた。栄五郎親分は新左衛門にほれ込み、自分の兄弟分である清水次郎長のもとへ預けることにした。

 新左衛門は清水次郎長の若い衆として4年間男を磨き、清水次郎長から子分二人をもらって故郷の土支田村へ帰り、そこで土支田一家を設立した。

 明治8年、神山栄五郎が抗争に巻き込まれて亡くなる。清水次郎長は兄弟分の神山栄五郎の死を深く悲しみ、これをきっかけとして新左衛門を五厘下がりの舎弟分になおす出世盃を行い、これから一家を束ねていく新左衛門を励ました。新左衛門は清水次郎長の後ろ盾を得て土支田一家は躍進していった。

 明治21年に榎本新左衛門は享年42歳で亡くなる。二代目を継いだのは「大門山の忠造」こと佐久間忠造であった。「喧嘩の忠」と異名をとるほどの喧嘩に精を出した親分で、力ずくで一家の縄張りを拡大していった。

 佐久間二代目は初代榎本新左衛門の兄貴分である清水次郎長の死に水をとった一人であり、清水次郎長のいくつかつくられた位牌の一つを渡されている。現在でも圡支田一家では代々総長に清水次郎長の位牌が受け継がれている。

 三代目を継いだのは「コブ信」こと篠信太郎であった。篠三代目は博打が得意であった。昭和14年に病死した時、一家への遺言として「カタギに絶対迷惑をかけるな」との言葉を遺しており、これが現在に至る土支田一家の家訓となっている。

私の友人は最近、日高町に家を新築して転居しました。とりとめのない話になりましたが以上です。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする