日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
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勇気ある 林凡さんに 感謝する

2012年08月27日 08時28分47秒 | 日記
 尖閣諸島の領有権問題は「日本固有の領土であり、領有権問題は存在しない」という日本政府に対して、中国と台湾が自国の領土であると執拗に主張しつづけている。

 最近では香港から来た中国人10人が上陸して不法入国で逮捕、強制送還されたばかりだし、その前には海上保安庁の巡視船に体当たりした中国漁船の事件もあった。

 今回、ここに取り上げたのは中国版ツイッター「微博」の記事に基づくものだが、勿論、中国語は読めないから、日本語に訳された記事からの引用であることをお断りしておく。


 中国版ツイッター「微博」で、尖閣諸島は日本の領土であると勇気ある発言をしたのは中国広東省広州の電子サービス企業、広東捷盈電子科技の取締役会副主席の肩書を持つ林凡さんという女性である。林凡さんは微博の運営会社、新浪微博から「実名」の認証を受けており、10万人以上の読者をもつという。

 投稿記事によれば林凡さんの発言は「1949年から1971年まで中国政府は釣魚島(尖閣諸島)を日本の領土と認めていた」という異例なもので、日本領有を認めた1953年1月の中国共産党機関紙、人民日報の記事や、複数の公式地図などの根拠を挙げている。微博では中国国内からの感情的な反論がある一方で、「知識のない大衆が中国共産党に踊らされたことが分かった」などと賛同する見方も広がっているという。

 1949年というのはつまり中華人民共和国が建国された年に他ならない。1971年は中国が国連に加盟した年である。

 林凡さんの資料によると、人民日報が1953年1月8日付の紙面に掲載した記事で「琉球群島は、わが国台湾の東北から日本の九州西南の間の海上に散在し、尖閣諸島、先島諸島、大東諸島、沖縄諸島、奄美群島、トカラ列島、大隅諸島など七組の島々からなり、それぞれにはたくさんの大小の島々があり、合計で50以上の名称のついた島と400強の無名の小島があって、全部の陸地合計面積は4670平方キロメートルある。
群島の中でも最大なのは沖縄諸島中の沖縄島(つまり大琉球島)、面積1211平方キロメートル。」などと表記していた。

 林凡さんは中国当局が監修して53年、58年、60年、67年に発行した地図の画像も示したが、その多くが「尖閣群島」「魚釣島」などと表記。日中境界線も明らかに日本領土を示している。

 林凡さんは冷静に証拠を積み重ねた上で「中国政府はこれでも釣魚島はわれわれの領土だといえるのか」と疑問を投げかけた。中国国内からの反応には、「資料をみて(尖閣諸島が)日本領だったことが明白に分かった」「(当局に)タダで使われて反日デモを行う連中には困る」などと、林凡さん支持の発言が出ているという。

 尖閣諸島問題も竹島問題も日本政府の外交力が問われている重大な問題であるが、中国国内にも冷静に事実を見ようとする人がいることは心強いことである。
 林凡さんがこの発言をしたことによって不当な扱いを受けることがないことを切に祈っている。
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山葵とは まことに辛い 話です

2012年08月24日 08時11分51秒 | グルメ
有東木は「うとうぎ」と読む。静岡市葵区有東木である。旧安倍郡大河内村に属し、静岡市街から安倍川沿いに三〇キロメートルほど北上した山間高地に位置する。
十枚山、仏谷山、青笹山と続く安倍山系の中腹に開けた戸数八〇戸ばかりの集落であるが、寺や神社もあれば、商店や農協の出張所もあり、路線バスの運行もあるので、所謂山間僻地の感覚はない。「静岡のチベット」などともいうが、これは伝統芸能や昔からの習俗をよく伝えていることに対する譬喩だろう。
この地の標高は五〇〇メートルを超えており、一般的に温暖と言われる静岡にあって、冬季には積雪もみられる寒冷な地域である。
私は、この集落の下水道工事をするために、しばらくの間、通っていたのであるが、仕事の合間に土地の古老から聞いた話のあらましを書いてみる。
この集落の歴史を土地の人に訊くと、武田勝頼の遺臣六人が天目山での敗戦後、この地に落ちのびて来て、この集落を拓いたという落人説と、同じ武田家でも、すでに信玄の頃に、梅ヶ島の入島や日影沢の金山採掘のために、当地へやってきた山師や金掘人夫の末裔が金山衰退後に住み着いたという土着説とがあって、いずれの説とも定かではない。土地の人の多くは、金掘人夫説よりも落人説を好むようで、これも人情として当然のことと肯ける。誰しも、己の先祖は誇り高き出自を願うものである。
ともあれ、峠ひとつ越えると甲州という地形上の理由もあって、政治、経済、習俗などの面で、武田家に限らず甲州の影響を非常に色濃く受けていたことが窺われる。
峠というのは標高一,四一四メートルの地蔵峠のことで、二本の足が唯一の交通手段であった頃には、この峠を越えて甲州の富沢や南部へ行くほうが、駿府の街へ行くよりもよほど楽であったようだ。安倍川上流には地蔵峠の他にも、安倍峠や刈安峠など甲州方面へのルートは幾つもあって、盛んに交流を繰り返していたようである。
この地へ一歩踏み入れた途端に気がついたことがある。子供といわず大人といわず、老若男女、行き交う人の全てが、礼儀正しいのである。声を出して挨拶しない場合でも、軽い会釈、目礼は欠かさないのである。知らぬ顔の半兵衛で取り澄ましている輩は他所者と決め付けても間違いがなかろう。
「衣食足りて礼節を知る」というが、衣食住が足りて、更に、ワサビや茶や椎茸で現金収入があるためか、住民全員が穏やかで、せせっこましいところがなく、一口に醇朴とか素朴とかという言葉で括ってしまうのには若干の躊躇いさえ覚える。
さて、有東木の特色は何といっても、ワサビの名産地として有名なことである。ワサビは、もともと日本の中部山岳地帯に自生するアブラナ科の植物で、独特の風味が魚介類や蕎麦を食う際に、絶好の香辛料となることは衆知の通りである。また、その成分の中には非常に強い殺菌力を持っていることも知られている。上等な酒粕に細かく刻んだワサビを漬け込んだ山葵漬も当地の名物である。因みに山葵漬の老舗「田尻屋総本家」の創業は宝暦三年(一七五三年)で徳川九代将軍家重の治世である。
ワサビは古くから薬として用いられていたとされ、発掘された飛鳥時代の木簡に「委佐俾」と書かれているのが確認されている。
室町時代には現代と同じように薬味としての利用が確立していた。江戸時代に入ると寿司や蕎麦の普及にあわせて広く一般に利用されるようになった。
現代の科学でもワサビに大量に含まれるビタミンCがウイルス性の病気の防除や発ガン性物質の一つニトロソアミンの生成を防いでガンの発生を少なくすると言われている。
有東木の集落から少し登った所に、土地の人がワサビ山と呼んでいる一帯がある。付近一帯は野生のワサビがたくさんあった場所で、故にワサビ山と呼ぶのである。昔は、このワサビ山の野生ワサビを大切に保護すると同時に、村民が共同で出荷管理していたそうである。
慶長年間、一六〇〇年頃というから丁度関ヶ原の合戦があったころだが、有東木の人、白鳥亀衛門がワサビ山の野生ワサビを村内「井戸頭」湧水地に移植したところ非常によく成長繁殖したので、他の村民もこれを見習ったのがワサビ栽培の始まりとされる。このワサビの人工栽培を我が国で最初に始めたのが有東木の人たちであったと言うのが、何と言ってもこの土地の人たちにとって最大にして最高の自慢の種なのである。
慶長一二年(一六〇七年)七月、駿府城へ入城した大御所家康に献上した折に、その味が絶賛されたことや、葉が徳川家の葵の家紋に通じることから、幕府の庇護を受けることとなり、村外不出の御法度品扱いとなって厳重に管理された。
ワサビの栽培技術が有東木以外へ流出したのは家康の時代からずっと下って延享元年(一七四四年)に伊豆の天城から当地へシイタケ栽培の技術指導のために来ていた板垣勘四郎と与市主従によって翌延享二年五月に伊豆の天城へ伝えられた。これは東照権現家康公の決めた掟を破るものとして寛延三年(一七五〇年)五月十日、駿府町奉行所の白洲において訴訟裁判が行われたが、九代将軍家重の御側御用取次側衆の大岡忠光によって一切お構いなしの裁定が下されている。
ワサビ栽培に必要な条件は清冽な水である。水温が一八度以上になると病気になりやすいという。安倍川と富士川の分水嶺から湧き出る豊富な水は集落を囲む山のあちらこちらから湧き出していて、大小の沢を形成している。その湧き出し口のところから安倍川本流への合流点まで利用できる水と土地はすべてワサビ栽培に利用されている。
この土地の人たちは実に巧みに石を扱う。金掘人夫の末裔として、先祖の技術を伝承しているのかもしれない。家の敷地は石垣をめぐらし、石段と石畳の道が迷路のようになっている。勿論、ワサビ田も茶畑も野菜畑もすべてが石積みで出来ていて、丁度、インカ帝国の遺跡でも想像してもらうと解り易いだろう。
この地の風習や伝統行事などには、まだまだ興味深いことが多いのだが誌面の都合もあるから今回は割愛することとする。
有東木地区に集落排水つまり下水道を敷設した目的は、この地域の水質を保全するためであるが、同時に静岡市の水源を守るためでもある。因みに安倍川の水質は常に全国一級河川の上位にランクされている。
私は、鶴嘴と石箕、スコップと大バールという極めて基礎的な道具とともに、五尺四寸、二〇貫、胴長短足のこの身体で工事に携わったことを生涯の誇りとしている。
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痛い目を して解ったか 教育長

2012年08月17日 08時44分02秒 | 日記
いじめ自殺問題でゆれている大津市教育委員会の教育長が19歳の大学生にハンマーで殴られたり、針金で首を絞められたりして大怪我をした。

このことに対して世間の反応は概ね大学生に好意的で、大学生は「プロレスごっこをしただけだ」などと、教育長の発言を逆手に取って犯人の学生を支持または擁護する意見が多いという。

私も実はその部類で、いけないこととはわかっていても大学生の行為に拍手喝采を送り、大いに溜飲を下げたものである。凶器がナイフや出刃包丁ではなくてハンマーと針金だったことからも大学生の人柄が読み取れるような気がする。

日本は法治国家である。だから問題解決の手段として暴力を用いることが悪いということは三歳の幼児でさえ解っている。だがしかし、件(くだん)の教育長はどうだったのだろうか。

卑劣な暴力を繰り返し、一人の生徒を自殺に追い込んだ、三人の加害生徒を事実を隠蔽してまで庇い、事件が明るみになってからも積極的に事実解明に動こうとはしなかったではないか。つまり、この人は国の法令や自らに課せられた職務を誠実に遂行していなかったのではないかと疑われる。

最近の報道によれば、加害者とされる生徒から皇子山中学の女教師が指を折るなどの怪我をさせられていたという。つまり、教師全員がいじめの認識はなかったなどというのはまったくの絵空事であって、すべては教育長以下教育界幹部の名誉欲や保身のために作られた空中楼閣であることがはっきりしてきた。

皇子山中学にはまともな教師は一人もいないのだろうか?校長以下全教職員が一蓮托生・運命共同体とでもいうのか?なぜ真実を語ろうとしないのか?こんなことで教育者といえるのだろうか?本当に情けない人たちである。

大津のいじめ問題が今もって解明されないのは、この教育長をトップに戴く教育委員会や学校側の隠蔽体質、事実を歪曲しようとする勢力が存在するためであることは、誰の目から見ても明らかである。

普通人の感覚、常人の神経をもつ人ならば、これだけの不祥事を起こした組織の長たる者は自ら職を辞して責任を取るのが当たり前ではないだろうか。それを恋々としていつまでも職にしがみつき、自らの保身に専念する様(ざま)は見苦しさを通り越して醜悪である。

教育の原点は「範を垂れる」ということではないか。大学生に頭を割られてからでは遅きに失した嫌いはあるが、最後は潔く身を処するのが良いのではなかろうか。


(写真と記事とはまったく無関係で、200ミリ配水本管からサドル分水栓により20ミリ給水管を引き出したところです)
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性懲りず またしでかした エロ教師

2012年08月16日 07時53分29秒 | 日記
静岡中央警察署は15日、児童買春・児童ポルノ禁止法違反容疑で藤枝市内瀬戸の塾講師吉田雅信容疑者(47歳)を逮捕したと発表した。

逮捕容疑は、今年2月初めごろ、静岡市駿河区のホテルで同市内在住の女子高生(当時17歳)が18歳未満と知りながら、カメラ付き携帯電話で裸を撮影し、児童ポルノを製造したというものである。

吉田容疑者は「かわいい女の子と出会いたかった」と容疑事実を認めているという。二人はインターネットの出会い系サイトで知り合った。

撮影代として1回に2万円を支払い、撮影した画像は吉田容疑者が管理するブログに掲載し、閲覧希望者からは一人当たり数千円の料金を徴収していたものと見られている。

警察が家宅捜索で押収した複数の携帯電話にも18歳未満とみられる少女10人余りの画像があり、警察が裏付けを進めている。

吉田容疑者は藤枝市の市立中学校で教諭を務めていたが、2006年に児童買春・児童ポルノ禁止法違反容疑で逮捕・起訴され、有罪判決を受けて懲戒免職を受けている。

今回の場合、現職の教師ではないが、塾の講師であるから子供の教育現場に携わる人間であることに違いはない。一度、有罪判決を受けて懲戒免職をうけていながら、またしても不祥事を繰り返しているのである。

教育界の指導者たちは、こうした性癖の持ち主が学校の教育現場に潜りこんでいるという事実に目を背けてはならない。もっと露骨な表現をすれば、子供を弄りたいから学校の教師になっているような輩が間違いなくいるのである。

もう一つの視点として、18歳にも満たないうちから自分の体を売って金にしようとする少女たちが存在することも問題である。家庭での教育を含めて性道徳教育をもう少し見直す必要があるのではないだろうか。
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ガマタロウ 乗るは大人の 三輪車

2012年08月09日 08時00分45秒 | 日記
ガマタロウさんは若いころ、タクシー運転手をしていたときに起きた労働争議で激しく闘った経歴の持ち主である。その後、建設業に転じ、厳しい競争を生き残って経営は安定し、現在は娘婿に社長を譲って悠々自適の暮らしである。

もう20数年も前のことになるが当時はハーレダビットソンやBMWのオートバイに跨りツーリングをするのが趣味で、静岡県中部のハーレー乗りを集めて「王者の会」なる団体を結成し、全日本ハーレー会静岡県支部として承認され、御前崎の観光ホテルで全国大会を開催したほどだった。そのときホテルの入り口に歓迎「大蛇の会」様と書いてあったという笑い話もある。

写真のサイドカーは群馬県前橋市のゴードンというところで特注でこしらえたもののようだ。ベースマシンはHONDAのゴールドウイング1800ccである。普通のサイドカーはオートバーの横にカヌー状に側車がついているのだが、このサイドカーは一体で、後輪が子供の三輪車状になっているので安定感があるそうである。

元気者だとはいっても古希のガマタロウさんが乗るのであるから安全でなければいけない。

ガマタロウさんは、サイドカーに乗るばかりではなく、教育問題等に関する著作もあって仮説実験授業の提唱者板倉聖宣(いたくらきよのぶ)先生とも親しい関係にあるようだ。

ガマタロウさんのブログは、このページ左側のブックマークからも、「秋山白兎俳句館」のリンク集にも掲載されているので興味のある方は見てやってください。リモコンヘリコプターの記事もあります。
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丑の日は 穴子を喰って 我慢した

2012年08月06日 14時22分24秒 | 日記
鰻は好物だから月に一度や二度は食べてきた。うな重や櫃まぶしを食いに行く贔屓の店もあった。
ところが、このところの鰻の値上がりときたら正気の沙汰ではない。シラスウナギの漁獲量が激減して鰻養殖は危機に瀕しているのだそうだ。

鰻資源の枯渇は日本だけに限らず、アメリカでも捕獲の規制が強化されているようだ。業界ではインドネシアやヨーロッパ、アフリカのマダガスカル産の鰻を輸入するなどあの手この手を考えているようだが、日本鰻とは似ていて非なるものであることはどうにも誤魔化しようがない。中には大鰻という別の種類の鰻の小さいやつを蒲焼にしてしまおうという商魂たくましい連中もいる。

そんな騒動の中で天然鰻のうな重は一人前で5000円というのだからびっくり魂消る。

今年になってから、いつもの鰻屋でうな重を頼んだら値段は2200円だったが、鰻の大きさが明らかに小さくなっていた。
それですっかり嫌になって、それ以後は一度も鰻屋へ行っていない。

昔から、土用の丑の日に「う」のつく食べ物を食べるとよいという俗信があって、元来は「梅干」でも「瓜」でも「うどん」でも「う」のつく食べ物なら何でもよかったそうであるが、いつの間にやら鰻一辺倒になってしまった。

これは、江戸時代の蘭学者平賀源内が知り合いの鰻屋のために一肌脱いで「本日、土用の丑の日」と書いて店先に貼り出したところ、大繁盛したというのが一般的に流布されている起源説である。

同じように大田蜀山人が「神田川」という鰻屋に頼まれて、土用の丑の日に鰻を食べると病気にならない、と、いう意味の狂歌を作って宣伝したという説もある。その狂歌がどのようなものであったかを知るところではないが、蜀山人は狂歌師としても名手であったからこの説にも肯けるものがある。

大田蜀山人は即ち狂歌師四方赤良であるが、彼の作品「あなうなぎ何處の山の妹と背をさかれてのちに身をこがすとは」の一首は、鰻が背を裂かれて焼かれることと、妹(女)と背(男)が仲を裂かれて身を焦がしていることをかけた歌で、鰻は山芋が変じてなるのだという俗説とを巧く取り合わせた、天明狂歌の名吟とされている。

さて、写真の握り鮨は焼津魚センター内カネトモのものであるが、赤身は本マグロ、白っぽいのはトンボマグロのトロである。
下は煮アナゴの握りで二貫で500円。

今年の土用は鰻を食えない腹威勢に鮨を食って我慢したのである。
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先生が 強姦罪で 捕まった

2012年08月03日 11時15分39秒 | 日記
今回、13歳未満の少女に性的暴行を加えたとして、静岡県警大仁署に強姦容疑で逮捕された伊豆の国市の小山智弘容疑者(26歳)は臨時的任用教員つまり常勤講師という立場である。

臨時的任用教員というのは正規教員の産休や長期研修などの期間に採用し学級担任も受け持つことが出来る。

小山容疑者は、2011年春ごろから今年の初めごろまで1年弱の間に複数回、少女に性的暴行を加えていたというもの。被害者が13歳未満の場合は、同意の上であっても強姦罪が成立するので、こうした表現となる。

小山容疑者は、昨年7月に県東部のホテルで少女に猥褻な行為をしたとして逮捕されたものであるが、警察の取調べに対して容疑を認め「交際していた」などと供述しているという。

小山容疑者は、昨年の春ごろ少女と知り合い、携帯電話のメールなどで少女を誘い出し、県東部のホテルに連れ込むなどして繰り返し性的関係を続けていたというものである。

静岡県内では、本年度、強制わいせつや窃盗などで既に5人の教員が逮捕されている。

安部徹教育長は「元臨時的任用講師が在職中の強姦容疑により逮捕されたことは大変遺憾で、県民へ深くおわび申し上げる。今後も教職員の一層の綱紀粛正と倫理観、使命感の高揚を図ってゆきたい」との毎度おなじみの紋切型の談話を発表している。

前回の高校教師の事件もそうだったが、近頃の子供は成熟するのが早いとみえて、生徒のほうから誘惑すことさえあるようだから、特に若い教師は気を引き締めていないといけない。

教育界の指導者は、固いことばかり言っていないで、若い教員の遊び方にもアドバイスをしてやるべきである。因みに、私が18歳で就職したばかりの頃であるが、職場の先輩が酒の飲み方からソープランドや芸者遊びのやり方まで全部教えてくれたものである。
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幕末の 三舟もいた 駿府城

2012年08月01日 13時19分17秒 | 日記
静岡市葵区御幸町三の二一、旧東海道に面したこの地は、明治元年(慶応四年)三月九日、幕府軍事総裁勝海舟の密命を受け、薩摩藩士益満休之助を道案内にして駿府へ着いた幕臣山岡鉄太郎が官軍大参謀西郷吉之助と会見した松崎屋源兵衛宅のあった場所である。
そこから少し北側の御幸通りの静岡市役所の隣、静岡中央警察署前の濠端に「教導石」という石碑が建っているが教導石の字は山岡鉄舟の筆になるもので拓本を取る者も少なくない。

山岡鉄舟高歩(たかゆき)。通称、鉄太郎。字は曠野、一に猛虎、後に鉄舟と号した。
鉄太郎は天保七年六月十日、本所大川端通り四軒屋敷の小野朝右衛門高福(たかよし)の五男として生まれた。母は鹿島神宮宮司、塚原石見直正の二女で名は磯子である。小野家は代々幕府の旗本で六〇〇石の家禄であった。
鉄太郎は幼少から、観世音菩薩を信仰し、九歳から剣道に志して、久須美閑適斎について真影流剣法と樫原流槍術を学んだ。
鉄太郎十一歳の弘化二年に、父朝右衛門が飛騨郡代として高山代官所へ赴任したので、鉄太郎も父に随って高山へ行き、十七歳までそこに過ごした。その間、学問を富田節斎に、書道を弘法大師入木道五十二世岩佐市右衛門に習った。剣道は、父が江戸から呼び寄せた一刀流の井上清虎に学んでいた。書道は殊に上達がいちじるしく、道統五十三世に指定されたほどであった。
鉄太郎十六歳の嘉永四年九月二十五日、母磯子が高山陣屋で病没し、翌五年二月二十七日、父朝右衛門も病死した。鉄太郎は父の遺産三千五百両をあずかり、五人の弟たちを連れて江戸に戻り、腹違いの兄小野古風の家に仮寓した。
鉄太郎は十八歳の時から幕府の講武所に入って学び、技倆ますます進んだ。二十歳のとき、山岡静山の門に入って槍術を学び、技術・思想の上で大きな感化をうけたが、ほどなくして静山は死去し、鉄太郎は望まれてその長女英子の婿として、山岡家に入った。英子十五歳、鉄太郎二十歳であった。この山岡静山こそが高橋泥舟の実兄である。
翌年、鉄太郎は技倆を買われて講武所世話役に挙げられた。この前後から北辰一刀流千葉周作の玄武館道場に籍を入れている。
千葉道場の同門であった清川八郎と結び、尊皇攘夷党をおこして、自ら幕府を策動して朝旨に従わそうと奔走しはじめたのは二十四歳のときからである。
鉄太郎が、中西一刀流の浅利又七郎義明のところへ正式に入門したのは文久三年、鉄舟二十八歳のときであった。このころから彼は禅学にも打ち込み始めたようである。
明治元年、西郷隆盛と会見して江戸を焦土から救った。江戸開城後は、徳川慶喜にしたがって駿府に移り、権大参事となって民政をつかさどった。後に明治新政府に出仕し、子爵に叙せられた。
鉄舟は禅学に精通し、武州柴村長徳寺願翁、豆州沢地村竜沢寺星定、京都相国寺独園、京都嵯峨天竜寺滴水、相州鎌倉円覚寺洪川の五和尚に参じ、ついに天竜寺滴水和尚の印可を得た。ここにおいて開悟し、無刀流を創めた。時に明治十三年であった。
明治十七年、伊東一刀斎正統九世の小野次郎右衛門業雄から、正伝の奥秘と家伝の瓶割刀を鉄舟に伝えた。すなわち鉄舟は中西派一刀流七世であると同時に小野派一刀流宗家の系譜では小野業雄を継いで一刀斎正統十世になったわけである。
鉄舟は明治二十一年七月十九日、五十三歳にて死去し、谷中初音町の余生庵に葬る。瓶割刀は未亡人から日光山の神庫に奉納された。

高橋伊勢守政晃は天保六年二月十七日、旗本山岡市郎右衛門正業の次男として江戸において生まれる。母方を継いで高橋包承の養子となる。字は寛猛、幼名は謙三郎、後に精一郎と改め、伊勢と称した。号を忍歳といい泥舟は後年の号である。
生家の山岡家は長兄の紀一郎静山が継いだが二十七歳で早世したため婿養子に迎えた門人小野鉄太郎が後の鉄舟で泥舟の義弟にあたる。
外祖父、高橋義左衛門包実に忍心流の管槍を学び、名人の域に達した。安政三年、講武所槍術教授方に任じられた際、流名を新しく自得院流と称したのである。後、師範役に上り、さらに幕府軍政改革のとき遊撃・精鋭二隊の総督に任じた。
勝海舟が官軍の西郷隆盛への使者として選んだのが泥舟であったが、世情不安の中で主君である慶喜の側を離れることができず代わりに推薦したのが義弟の鉄舟であった。
徳川家が静岡へ移封されたのに従い、地方奉行などを務め、一時は田中城を預かる。廃藩置県後は職を辞して東京に隠棲、書画骨董の鑑定などをして半生を送った。
明治三十六年二月十三日、牛込矢来町の自宅において没した。享年六十九歳。台東区谷中の大雄寺に墓がある。

勝海舟は通称を麟太郎。諱(いみな)は義邦。維新後改名して安芳(やすよし)と名乗った。文政六年、江戸本所亀沢町の生まれ。
父は旗本小普請組の勝小吉こと左衛門太郎惟寅、母は信。勝家の家禄は四十一石であった。父小吉は男谷平蔵忠凞の三男で勝家の婿養子になったが、平蔵忠凞の長子彦四郎忠果の養子が直心影流十三代目の男谷下総守信友であり、海舟と信友は縁続きの従兄弟である。
海舟の曽祖父銀一は越後小千谷から素寒貧で江戸に出てきた貧農の子で盲人であったが、たまたま雪夜に奥医師石坂宗哲の門前に倒れていたのを助けられ、宗哲から一両二分の資金を借りて生業の途についた。利財の才に長けていたところから、とんとん拍子に裕福になり、後には盲人の最高位である検校の位を買い、江戸府内十七ケ所の地主に成り上がったばかりでなく、大名貸しをするほどであった。九人の子を持ち、その内の一人に幕府の小十人組の御家人株を買い与えた。これが男谷平蔵忠凞である。
信友の養父彦四郎は燕斎と号し書家としても名を知られていた。信友は八歳のときから本所亀沢町の団野源之進の門に入り、直心影流の剣法を学んだ。その後、さらに平山行蔵について兵法を学び、他に宝蔵院槍術や吉田流射術にも熟達した。
文政年中、直心影流的伝を団野から授けられて十三代目になり、麻布狸穴に道場を開いた。この道場へ内弟子として住み込んで腕を磨いたのが島田虎之助峴山で海舟の剣術の師である。
海舟は幼時は従兄弟の男谷信友の道場で、後に信友の高弟、島田虎之助峴山に学んで直心影流の免許皆伝を得ている。
九歳のころ犬に睾丸を咬まれて生死の間をさまよったことは父小吉の著述「夢酔独言」に書いてある。
海舟の事績については小説やテレビドラマなどで広く知られているから、改めて書き並べることを省くが、幕府軍事総裁のころの役高は五〇〇〇石だったようだ。
静岡市葵区沓谷にある日蓮宗貞松山蓮永寺には海舟の母信と妹順子の墓がある。順子は佐久間象山の室であった。

◆鉄舟の筆跡教導石に残る
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