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日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
人生を大いに楽しむために言いたい放題、書きたい放題!!
読者のコメント歓迎いたします。

アメリカに咲いた桜は興津から

2020年02月01日 10時40分01秒 | 日記
アメリカ合衆国ワシントン・ポトマック河畔の桜は、明治45年(1912)に、ときの東京市長尾崎行雄によってワシントン市に贈られたものであることは、よく知られている。だがその陰に、その実現のために心血を注いだ農商務省技師がいたことを知っている人は、数少ないと思われる。

実は最初に東京市が業者を通じて送った7年生の苗木2000本はアメリカの検疫で全部焼却されてしまった。線虫、カイガラムシ、コスカシバなどの害虫や病気が多くみられたためだが、植物検疫の知識に乏しかった当時の日本人が犯した大きな失敗であった。面目丸つぶれの尾崎市長は改めてクリーンな苗木の送付を決意する。そこで白羽の矢が立ったのが、静岡県興津町(現在の静岡県静岡市清水区興津中町485-6)にできたばかりの農事試験場園芸部であった。苗木づくりの重責を負わされたのは、主任技師の熊谷八十三であった。

今と違って、明治末期の園芸研究は内外の優良果樹を養成し、各地に配布することが大きな仕事だった。熊谷はその責任者で、この時代に地方に配布された果樹は、ほとんど彼の手をわずらわしている。だがそんな彼でも、国の名誉がかかる苗木づくりとなれば、話は別であった。まず台木には虫害の少ない兵庫県東野村(現在は伊丹市)の山桜が選ばれた。これを地元農家の協力を得て、挿し木で増殖。興津に移送し、荒川堤の染井吉野など数種を接ぎ木し、線虫発生のない土を選び、 植えつけた。1年間養成した後、12月末に掘り取り、ガス燻蒸の後、いったん仮植。翌春2年生になった苗木6000本を船便でアメリカに送った。

明治45年3月、苗木はワシントンに到着。ここで厳密な検疫検査を受けたが、〈不思議なほど病害虫の発生がない〉と判定され、見事にパスした。3月27日には大統領夫人臨席のもと、 ポトマック河畔で植樹式が挙行されている。今から100余年前の日米親善の桜は、同時に日本農業の技術力の高さを示す証(あかし)といってよいのだろう。
苗木づくりの舞台となった農事試験場園芸部は、その後園芸試験場に昇格。今では名も果樹研究所興津拠点と変わったが、構内にはそのときの薄寒桜が現存し、「ワシントンの桜誕生の地」の碑が建っている。

熊谷は初代場長恩田鉄弥(おんだてつや)の後を受け、大正12年(1923)に2代目場長に就任する。だが翌年には、関東大震災後の財政窮乏をみて自ら退職。 近くに別荘をもつ元老西園寺公望に乞われ、執事になった。執事就任後も園芸研究に心を配り、毎朝出勤前に試験場に立ち寄り、研修生に英語の講義をつづけたという。

国立国会図書館には、14歳から昭和44年(1969)の、亡くなる3日前までの熊谷の日記が所蔵されている。西園寺公にかかわる部分は、松本清張も引用している昭和史研究の一級資料だが、 試験場時代のそれも興味深いに違いない。清廉な生きざまを貫いた人であった。
(以上は公益社団法人農林水産・食品産業技術振興協会ホームページより抜粋。写真は野原博さん撮影)

初詣折戸辨天拝すべし 

2020年01月20日 19時20分29秒 | 日記
はつまうでをりどべんてんはいすべし
瀬織戸神社(静岡市清水区折戸1-16-6)の説明板によると、当神社は約1253年前の神護景雲元年(767年)に建てられたもので、祭神は瀬織津姫(天照大神の第二王女)である。

別名を「辨天様」とも呼ばれ、水難・豊漁・招福・修学等を祈願する神であり、奈良時代には、白い小石を奉納するとイボが取れると信仰されていたそうだ。境内には疣取りを祈願した人が成就の際に自分の年の数だけ奉納した白石がたくさんある。瀬織津姫神を祀った神社は2008年5月現在で日本全国には454社あるそうです。神社の祭神の瀬織津姫(せおりつひめ)は、日本国語大辞典第二版7(小学館)によると『流れの速い川瀬にいて、人の罪やけがれを海に運び去るという女神。』とあります。

津神社はむかし公民館でした

2020年01月19日 15時09分25秒 | 日記
安倍口新田は、徳川家康が駿府城に居た頃・・・1605(慶長10)年4月16日、徳川家康は、将軍職を我が子・秀忠に譲り、駿府を隠居所に決めて、「大御所政治」を行ないます。1607(慶長12)年から1616(元和2)年の間、実質的に駿府城が日本の政治の中心として機能していました・・・駿河国志太郡相川村から相川善七ら7人の農民が移住して開拓した新田です。相川善七の墓は内牧の結成寺にあり、この付近には相川姓が多いです。

安倍口というのは安倍川の流れが賤機山西麓辺にあったころ、駿府から安倍山中への入り口に、この村があたっていたためだそうです。

津神社(つじんじゃ)で検索すると、岐阜県岐阜市にある津神社に行き着く。伊自良川に架かる島大橋の西岸にある。社伝によると、推古天皇の時代、伊勢国安濃郡津(現・三重県津市)より勧請されたという。勧請元の神社名は不明である。

その先は全く不明です。ここまで辿り着いたのは「安倍口新田の庚申塔」で検索した結果です。郷土史に詳しい方の応援をお願いいたします。


藁馬に古き結縄のゆゑ偲ぶ

2020年01月13日 12時57分57秒 | 日記
わらうまにふるきゆなはのゆゑしのぶ
藁算は藁に結び目を作って数量などを表す方法。結縄の一種で、沖縄では藺草やガジュマルの根などを用いて20世紀初頭まで行われた。結縄(けつじょう)とは、紐や縄などの結び目を用いて情報の記録・伝達や計数・演算を行う原始的な情報媒体である。南米のインカ帝国下に行われたキープが最もよく知られている。

『隋書』巻81東夷伝倭国条には、倭人の風俗として「文字無し、唯だ木を刻み縄を結ぶのみ」と記しているが、唐古・鍵遺跡や鬼虎川遺跡など弥生時代の遺跡からは、結び目の付いた大麻の縄やイグサの結び玉と考えられるものも発見されている。

明治時代の人類学者・坪井正五郎が徳川慶喜の侍医・柏原学而から伝え聞いた話によると、現在の静岡市駿河区久能山付近では家々の勝手口に縄が2本下げてあり、塩売りが塩を置いて行く際にその量に従って縄に結び玉を作り、勘定を受け取るときにはこの玉を数える習慣があったそうだ。

また、19世紀の日本では東京盲唖学校の生徒である小林新吉が、いろは47文字に対応した結び目で文章を表記する「むすび文字」を考案した。

画像出典:コトバンク&「土俗的玩具と信仰玩具の記録集」。


石垣の石は小瀬戸や長尾から

2020年01月05日 17時59分33秒 | 日記
最近、駿府城の天守台の下から豊臣時代の遺構とともに金泊張りの屋根瓦が出土して話題になりました。駿府城は徳川家康の隠居城として「天下普請」として行われました。
本丸堀、二ノ丸堀、三ノ丸堀と三重の堀を持つ駿府城の守りの要の城濠の石垣に使われた石材は静岡市、焼津市、伊豆市などで採取された。また、三河から運ばれた石もある。
天下普請で築かれた城ということもあり、駿府城で使われている石材にはさまざまな刻印があります。これまでに300を超える刻印が見つかっており、刻印の模様は150種類にもなるそうです。
伊豆で切り出された石は駿河湾を渡り巴川を遡って十二双川を経て駿府まで運ばれたそうです。巴川にはその運搬の時に何らかの理由で川の中に落ちてしまった石が残されています。それが引き上げられ保管されている場所があります。
静岡市清水区入江町の魚町交差点を左折すると巴川に架かる稚児橋がある。
慶長2年(1597)徳川家康の命により、初めて巴川に橋が架けられ、その渡り初めの際、川の中から一人の童子が現れ橋脚を登り、忽然と入江方面へ消え去ったという。それが 「巴川に住むカッパ」 として伝えられている。
稚児橋渡り詰め左手に「河童の腰掛石」がある。解説碑によると、平成3年秋の台風により石垣が崩れ、修復工事を行った時、五つの石が掘り出され、稚児橋の河童伝説に因み河童の腰掛石と呼ばれる様になったという。この石は、駿府城を築くため、伊豆から運んだ時に巴川に落ちたものと言われている。

稚児橋の近くには「三ツ石」もある。清水区入江一丁目自治会によって立てられた「三ツ石の由来」の碑によると、この石は徳川家康が駿府城築城の際に、三河から船で運んだものだそうです。ところが陸揚げができず船が転覆し、巴川に埋没してしまったそうです。川に残された三つの大石を里人は「三ツ石」と呼ぶようになり、いつしか石の行方はわからなくなってしまい、言い伝えだけが残ったそうです。
明治27年(1894年)巴川製紙所の工場建設のときに発見され、うち二つを引き上げ門柱としたとのことです。

静岡市立北沼上小学校正門脇に置かれた石には刻印が記されている。外部からの指摘を受けて児童たちが調べてみると、長州藩初代藩主・毛利秀就にゆかりがあることが分かった。江戸初期、「天下普請」として徳川家康が各地の大名に駿府城を築かせた際の名残とみられる。児童が調べ学習を進めると、いろいろなことが分かってきた。市街地北東部の山あいにある北沼上地区には、かつて築城に合わせて石丁場(石切り場)が設けられ、石垣用の石材を産出していた。毛利家に関係する職人が石を運び出す際に刻印を付けたとみられる。同じ刻印の石は駿府城の坤櫓(ひつじさるやぐら)近くで見つかっているという。
切り出した石を運搬途中に落としてしまうと、「城が落ちる」につながるとしてそのまま放棄されたといわれる。正門脇の石もそうした経緯があったかもしれない。児童の祖父が30年ほど前、川べりで見つけて学校に運んだことも判明した。石丁場があった当時の地元の様子は「長尾・平山夜はなし」という言葉で残っているという。長尾・平山は地元の地名。昼夜を問わずにぎわったことが伝わってくる。
運搬している途中、誤って道に落ちてしまい、その場に残された「切石」の碑が長尾川沿いにもあります。


藁科川流域の小瀬戸も石切場の一つ。石切場は山中に二カ所ある。小瀬戸下奥沢は駿府城の城石を切り出した石切り場である。ここには現在でも石を切り出した場所がはっきりと残されている。切り出そうとして刻印を刻んだままの石、大きく楔(くさび)を入れた痕跡(こんせき)などが残されており、駿府城と結びつく立派な文化財である。


藁科川中流の富厚里や奈良間地区でも駿府城の石を切り出した伝承がある。奈良間の八重ヶ瀬(やえがせ)には、大小3個の巨石があった。大きいものは2間四方で、駿府城の城石のため石工が石を割ったところ、石工は事故で死んでしまった。石工たちは事故があった石を城石に使用できないため、石工の霊を慰(なぐさ)めるため念仏を刻んで慰霊(いれい)した。その石を「念仏石」という。画像出典:NPO法人静岡市観光ボランティアガイド駿府ウエイブ。並びに遠江國周智郡住人コクゾーさん。

五糞書を 是非読みたいと 手紙きた

2019年10月21日 17時52分50秒 | 日記
 ネットで俳人・秋山秋紅蓼を検索したら秋山白兎俳句館がヒットしたのでプロフィールを読んだら著書に野糞の極意を著わした『五糞書』なる奇書があるとのこと、是非拝読したいので一冊わけて欲しいという丁重なる手紙が届いた。差出人は山梨県の方である。書いたのは二〇年も前の話で居酒屋の依頼で書いたものだが当時も小冊子で五〇部くらいだったので今は一冊もないと返事をかいた。ただ、どうしても読みたいというのであれば青柳新太郎随筆集に掲載してあるからと書き添えた。世の中には変わった人もいるから楽しくなる。と、言っている本人が一番の変わり者なのだが。


【五糞書・ごふんのしょ】

 二天一流の開祖、宮本武蔵玄信が著した『五輪書』に野糞の極意は書かれていない。

だが、生きるために食餌を摂れば必ず排泄せねばならぬというのが生きとし生ける物に負わされた宿命である。

しからばここに青柳維新入道白兎が恥を忍んで野糞の極意を伝授しようというのが地・水・火・風・空、五巻の趣旨である。

【地之巻】

この巻では野糞をするときの地理的条件について要諦を述べる。

先ずは足場を確かめることが肝心である。みだりに崖っぷちなどへ近寄ってはならない。

足を滑らせて転げ落ちては怪我をする。どうしても斜面を利用したいときには立木などにしっかり摑まって谷側へ尻を突き出してやるがよい。

無闇に急いで見境なく屈むと障害物で尻を傷つけることがあるので注意を要する。小枝といえども柔らかな尻に刺されば痛い。

蛇、百足、蜂などには特に警戒が必要である。井川大日峠で、こともあろうに恥部を蝮に咬まれて落命した女性の実例を筆者は知っている。

深山、荒野といえども人の通路へ脱糞するのは避けるべきである。

人が飲用する懼れのある渓流などを糞尿で汚染してはならない。

【水之巻】

 この巻では糞と水との因果関係について述べる。

便所のことを手洗いと云い手水(ちょうず)ともいう。厠(かわや)の原義は川屋だという。雪隠(せっちん)というのは禅家の用語だが雪も水の一形態に過ぎない。

かように糞と水との因果関係は深い。

時にして渓流の石を跨いで野糞をすることもあるが、あれは一種の緊急避難であって通常の場合は絶対にやってはいけない。

山間地では下流で飲料水に利用している場合が多いからだ。

野糞を垂れたあと手を洗う水が無いときは、水のある所まで辛抱するより仕方がない。

しかし不運にも糞で指先などを汚してしまった場合は、柔らかな草の葉などをよく揉んで拭いとるとよい。何事も工夫が肝心である。

【火之巻】

 この巻では野糞を垂れる時の身構えについて述べる。

登山愛好者などが山で雉を撃ちに行くと言えば野糞をしに行くことだ。女性の場合は花摘みに行くなどと言う。雉を撃つ時の射撃姿勢は銃をやや中腰に構えるらしい。

野糞の姿勢も始めはやや腰を浮かせ気味に入り、周囲の状況が安全であることを確かめてから、もう一段、腰を落とすとよい。花摘みの場合も要領は同じである。

俗に、蛇が女性の恥部に侵入したとか言う話を耳にするが俄かには信じがたい。蛇といえども天岩戸(あまのいわと)と石垣の隙間との識別はつくはずである。

あれは、蛇が鎌首を擡げるのと股間の一物が勃起するのを卑猥に連想した想像上の被害ではないのか。しかし、蛇は人の数十倍も温度の変化に敏感である。いきなり射程距離内に人間の体温を感知すれば餌と勘違いして咬みつくのは当然である。

従って、露出する身体の範囲で温度の高い部分すなわち放尿時の恥部は最も危険な箇所といわねばならない。屈んで用を足す女性の場合は特に注意が必要である。

毒蛇の害から身を守るためには手頃な棒切れなどで草叢を叩いて安全を確かめる方法が最もよい。蛇は霜が降りる頃になると冬眠に入るので晩秋から早春にかけての低温期は安全である。

【風之巻】

 この巻では野糞の後始末について述べる。

野糞であれ尻を拭う紙があれば問題ない。雑誌、新聞紙などで代用する場合はよく揉んでから使用するとよい。紙の代替品を自然界に求めるとすれば、蕗の葉などの広くて柔らかいものが最適である。柔らかな草を束にして使ってもよい。木の葉などは青葉よりも落ちて湿ったものの方が柔らかでよい。

尻を拭うのに、滑らかな肌の石とか藁縄などを使用した例もある。パンツ、ステテコ、タオル、ハンカチなどを尻拭きに使うのは邪道である。

己の糞は猫でも隠す。所謂、猫糞(ねこばば)である。万物の霊長たる人間が糞を隠さないとすれば猫にも劣る。糞は土で覆うのが最善だ。土に含まれるバクテリアが分解を早める。次いで、砂、砂利、小石、礫と続く。

尺を超える石の場合はあらかじめ石を外して出来た穴に用を足し、事後に元のように石をはめ込んでおくとよい。土石がうまく利用できない時は落ち葉、枯れ草などで充分に覆うがよい。それも出来ない時は棒切れでも立てればよい。要するに、後から来た人に不愉快な思いをさせないことこそ野糞常習者の大切な心掛けである。

【空之巻】

 この巻では野糞の奥義について述べる。

野糞の深奥は「融通無碍・ゆうずうむげ」である。一切の拘りを捨てさり自由な境遇、無我の境地に身を置くことである。

人間には道徳、礼儀、常識など様々な束縛がある。だから座敷や台所へ糞をする人はいない。道路の真ん中や他人の屋敷も除かれる。しかし道路の脇の側溝や畑ともなると筆者にとってはしばしば絶好の排泄場所となる。

脱糞は便所で、という頑冥な固定観念を捨てなければ到底、野糞の名人上手にはなれない。身を山野の草木土石に同化させることが肝要である。

人は鳥獣蟲魚の仲間である。己を空しくすることが野糞上達の秘訣である。

野糞の場所を無闇に選んではいけない。何処へでも用が足せなければ達人とは言えない。工事現場などの人がいるところで糞をひるためには若干の小道具がいる。新聞紙でもベニヤ板でもダンボール箱でも何でもよい。

後ろに遮蔽物があって前だけ隠せばいいような場所を選び、新聞紙を両手でひろげて読むような格好でしゃがむ。顔の表情はいかにも新聞を読んでいるように装うことが秘訣である。ダンボール箱の場合はコの字型に囲う。いずれにせよ素早く事を済ますことが肝要である。

このときビニール袋とかセメント袋などがあれば大きい方だけ載せるとよい。後始末が楽である。

「何いってやんでぇい。いいかげんにしねぇかい。糞ったれ野郎っ」

読者諸兄の罵声が聞こえてくるようである。野糞に極意も秘伝もありはしない。ただ尻の穴のしまりが悪い情けない男の戯言である。

完。




尺八の名人がいた龍泉寺

2019年09月04日 14時39分21秒 | 日記
フェイスブック友の伊藤彰氏から写真を頂いた宝台院の境内にある「尺八碑銘」について調べてみた。
以下は「駿府猫猫齋」さんの記述を参考にまとめました。

宝台院(ほうだいいん)は、静岡市葵区常磐町二丁目(旧下魚町)にある浄土宗の寺院。山号は金米山。寺号は龍泉寺。本尊は阿弥陀如来。江戸時代には江戸幕府から朱印状も与えられていた。寺の創建は室町時代である。
境内に「尺八碑」が建てられている。この碑については,小菅大徹(2017)「江戸時代における尺八愛好者の記録 ~細川月翁文献を中心として~」(虚無僧研究会発行)の中で詳細に記述されている。

「細川月翁」は熊本藩の支藩・宇土の江戸中期の殿様。二代目黒沢琴古に師事し、自ら製管をするほどの尺八好きで、多くの貴重な資料を遺した。

碑文によれば,この碑はこの地で尺八を教授していた柳井青翁師の功績をたたえ、1890年(明治23年)に師が64歳になったのを期に師を顕彰して門人が建立したことが書かれている。建立の主唱者として、静岡県内の35人、愛知県の1人、石工1人の名前が刻まれているが、中には10人以上の竹名の人物がいる。女性も2人以上含まれているようだ。

明治23年、既に碑を建立するほどに尺八が普及していて、さらに竹名を授与する(または「承認する」)ほどに尺八の組織もできていたということに驚く。



なお,この宝台院は徳川家康の側室「西郷の局」の菩提寺であり、大きな墓石が建立されている。また,キリスト禁教令が出るまで家康の侍女「ジュリアおたあ」らが信拝したという「キリシタン灯籠」も保存されている。宝台院は、明治元年(1968年)に江戸幕府が倒れた後、徳川慶喜が明治2年(1969年)に市内に居所を得るまで約1年間謹慎したお寺でもある。


【碑文】
柳居青翁者東京人名直孝舊稱半兵衛糟谷氏世爲幕府臣夙有隠逸之
志年既壯矣譲家其弟受吹笛法於荒木古童終極秘奥又喜俳諧歌煎茶
式等超然遊于物外明治十七年五月静岡寳臺院主謙賀愛其爲人延為
賓師乃移院中居數年最留心古曲無所不推究遂補修之蓋出于其自得
也今年六十又四門人相謀建石勒銘以代壽碑因請余銘銘曰
   虞舜作簫 律呂和調 厥形參差 厥音超遥 星移物換 曽不絶@
   或稱尺八 猶?九韶 李唐高僧 呪經升天 張伯一叫 □雲爲穿
   十又六世 張參?傳 我僧法燈 渡海問禪 受業出□ 悟空入玄
   歸朝建寺 法侶滿筵 創意截竹 不復用編 一?五□ 美之吹之
   如喜如泣 如訴如悲 上下鬼神 感動婦兒 爲布教□ 設後世規
   尺八之稱 遍于四維 ?人嘯月 遺懷慰思 義士晦跡 避險去危
   世勢一變 教法敗懷 新政漸興 舊物盡廢 國多野調 郷乏豎篴
   嗚呼青翁 不顧人言 及其未絶 餘音尚存 刻苦研究 夙夜弗諼
   濯足東海 寄身寺門 訂曲校譜 誘掖後昆 惟斯奇行 豈無淵源
   壽興石堅 長頌聖恩
   明治二十三年十月           關口隆正撰文并書

      *□=読めず。?=何の字かわからず。@=“竹+秋”の字。

柳居青翁は東京の人。名は直孝、旧称は半兵衛。糟谷氏。世々幕府の臣たるも、夙に隠逸の志あり。年 既に壮たるや、家をその弟に譲りて吹笛の法を荒木古童に受け、終に秘奥を極む。又、俳諧・歌・煎茶式等を喜び、超然と物外に遊ぶ。明治十七年五月、静岡宝台院主謙賀 その人と為りを愛し、延(ひ)きて賓師と為し、乃ち院中に移す。居ること数年、最も心を古曲に留め、推究せざる所なく、遂に之(これ)を補修す。蓋しその自得に出るなり。今年六十又四。門人相謀りて石を建て銘を勒し、以て寿碑に代えんとし、因りて余(=関口隆正)に銘を請う。銘に曰く:
虞舜 簫を作る   律呂は和調し  その形は参差  その音は超遥
星移り物換るも  曽て*を絶やさず  或いは尺八と称し  猶■九韶
李唐の高僧  経を呪して天に升る  張伯一叫するや  雲■穿と為す
十又六世  張参■伝  我が僧法燈  海を渡り禅を問う
業を受け出■  空を悟り玄に入る  帰朝して寺を建て  法侶 滿筵す
創意もて竹を截し  復たは編を用いず  一■五■  これを美としこれを吹く
喜ぶが如く泣くが如く  訴えるが如く悲しむが如し  上下の鬼神  婦児を感動せしむ
布教■  後の世規を設く  尺八の称  四維に遍し(注:*=竹+秋 の字。ふえ、の意。)
■月に嘯き 懐を遣り思を慰む 義士晦跡し 険を避け危を去る 
世勢一変し 教法敗壊す 新政漸く興り 旧物尽く廃せらる
国に野調多く 郷に豎篴乏し ああ青翁 人言を顧みず
其の未だ絶えざるに及ぶ 余音尚存し 刻苦研究し 夙夜諼するなし
足を東海に濯い 身を寺門に寄す 曲を訂し譜を校す 後昆を誘掖す
惟うに斯の奇行 豈に淵源なしや 寿きて石の堅きを興し 長く聖恩を頌す

愚生が想うに、一■五■のところは尺八の寸法、一尺五寸ではないでしょうか。






氏子衆やまめ祭りの注連を綯う

2019年08月27日 10時23分16秒 | 日記
大井川最上流部に位置する田代の人々は、嘗て、南アルプスの広大な山々で大規模に焼畑農耕を営んできた。「ヤマメ祭り」は、田代の氏神である諏訪神社例大祭の通称です。諏訪神社は、信濃国諏訪大社の分社で嘉禎年間(1235~38年)に山を越えて勧請されたという伝承が残っている。

諏訪大社の創建の年代は不明だが、日本最古の神社の一つといわれるほど古くから存在する。『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」と謡われているように軍神として崇敬された。また中世に狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟・漁業の守護祈願でも知られる。井川の人たちの先祖が信州から移り住んできた歴史を象徴するものと言える。現在の御本殿は、総ヒノキ造りで、明治36年に造営された。参道入り口の鳥居左側には水が湧き出していて「御井戸」と呼ばれ、銘水として知られている。

例大祭は、特殊神饌「ヤマメずし」が神に捧げられることで知られている。塩漬けのヤマメに粟をまぶして作るこのヤマメずしは、熟れ鮓の原初的な製法を今に伝えるものとして注目される。
ヤマメずしの材料となる粟は、今も焼畑で栽培されている。またヤマメも、普段は禁漁区とされる神聖な谷「明神谷」で釣り、その場で「魚釣り祭り」という捕獲儀礼を行う。
焼畑や猟によって生活を営んできた、かつての山村の生活文化を象徴する祭りといえるだろう。この祭りを含む諏訪神社の行事は平成17年11月29日静岡県指定無形民俗文化財に指定されている。保存対象団体は諏訪神社氏子会である。

焼畑が行われなくなった今でも、集落周辺の畑で雑穀が栽培されている。その種類も様々で、ショウガビエ、ケビエ、ネコアシ、コウボウキビ、ホモロコシなど、10種類ほどの雑穀が確認できる。それに伴って雑穀を使った多様な伝統食も受け継がれている。
正月に粟で作るカミノモチや、コウボウキビの焼餅。深みのあるおいしい雑穀食は、稲作文化とは異なるもうひとつの農耕文化が、たしかにこの奥深い山里に息づいていたことを教えてくれる。


吉原の秘技も知らずに破門さる

2019年08月18日 13時06分13秒 | 日記
フェイスブックの元友達から絶縁されてしまった。経緯は次のとおりである。「不易流行」という題のブログについて読んだら「いいね!!」を押して欲しいということだった。

ブログは「1778年 信州川中島より神来る。」と駿河風土記に書かれている。町内(本通二丁目)に祀られている八朔神社の大祭が1日に行われた。と、いう書き出しであった。
八朔神社の特殊神事として、迎神の儀が有る。つまり大祭の前日に春日の国道とJR線の間に有る場所にお迎えに行くのである。祝詞を春日で奏上し、神様をお連れして神社に戻り、前夜祭の儀式を行う。翌日の8月1日 朝10:30~より本祭を行う。神事を行い、皆で奉納酒を戴き、閉式となる。
本通二丁目の自治会は3組70世帯の小さな町内でありますが、単独町内の社として、八朔神社は240余年の長きにわたり、鎮守神として脈々と続いている。
戦前は吉原での秘技であった技が、現在では各家庭で行われている。(流行)と、書いてブログは終わっている。

私はこのブログに対して「不易流行は俳句を齧っている者として一応の理解はありますが、戦前は吉原での秘技であった技が、現在では各家庭で行われている。(流行)・・・ これが何をさすのやら全く分かりません。八朔神社の由来もわかりません。謎の多い文章です。」とコメントした。そして「不易流行」が本筋の話なら「奥の細道」や「去来抄」にも触れるべきだろうし「八朔神社」が本筋の話ならば祀られている主神や神社の縁起に触れるべきではなかろうか、と書いた。これが相手の逆鱗に触れたのであろう。
少し噛み砕いて話を進めよう。

慶長14年(1609)の駿府町割によって、家康公は古い東海道の道筋であったこの通りを本通(ほんとおり)として、新たに新通(しんとおり)を作らせて東海道の道筋を変更した。つまりバイパスである。昔からの本通は、家康公の時代になると東海道からはずれ、新通が中心となった。地内には時宗の一華堂長善寺があり、家康公から寄進された茶釜がある。これは播磨(はりま)高砂「尾上の釜」(釣鐘)の形で、釜の正面に「播磨高砂」の文字がある。伝承によると家康公のおばあさん(源応尼)が、毎月1度はこのお寺に来て茶をたてたという。

一華堂乗阿とは、江戸前期の和学者・歌人・時宗の僧。甲斐生。武田信虎の子(一説に猶子)。号は乗阿・一華堂・一花堂。駿河長善寺の体光に入門、同寺住職となる。高井尭慶・冷泉為和・三条西実枝らに学び、実枝から古今伝授された。後陽成天皇に進講、また、林羅山・菅玄同らにも『源氏物語』を講義した。晩年は京都七条道場金光寺に住した。元和5年(1619)歿、89才(一説に80才)。

川中島から神が来たという1778年は安永(あんえい)年間で明和の後、天明の前。1772年から1781年までの期間を指す。この時代の天皇は後桃園天皇、光格天皇。江戸幕府将軍は第10代徳川家治の治世である。

神を迎えに行く春日の国道とJR線の間に有る場所とは、「東海道府中宿東見附」。つまりここから「府中宿」という場所であろう。驛傳馬の制度は律令国家の成立とともに整備されたが、当時から安倍郡横田郷は駿河国の五駅六伝馬の一つとして主要な宿駅であったようで、平安期に書かれた『延喜式』などにも見える。以来、横田町近辺は東海道府中宿の中核として江戸期の上伝馬町、下伝馬町に至るまで宿駅としての役割を連綿と続けた。

「不易流行」、芭蕉は江戸を出て95日、越後・出雲崎に到着。この地で詠んだ句こそ、芭蕉が目指した“風雅”の境地を表していると言われます。“荒海や 佐渡によこたふ 天河”時を超えて変わらない、荒海と天の川。その真ん中に位置する佐渡が象徴する、変わりゆく人間の営み。それを芭蕉は「不易流行」と言いました。「不易」とは、永遠に変わらないもの、「流行」とは常に変わりゆくもの。それが同時にこの世にあることを詠む。その「不易流行」という概念こそが、芭蕉が見出した五七五の境地だったのです。
さて、吉原の秘技についてであるが、私は以前、吉原遊郭に伝わる毛生えの妙薬について一文を書いたことがある。その妙薬とは桑の葉であるがパイパンつまり土器(かわらけ)の遊女に毛をはやしてやろうという秘技である。しかし、ブログの秘技はそうではあるまい。

江戸・吉原の遊女たちにも八朔の風習があり、白い小袖を着て客を迎えていたそうである。八朔は、徳川家康の江戸入りした日とされることから、江戸時代にはもっとも重んじられていた行事で、この日を祝うために遊女はみな白無垢を着て、「花魁道中」を行った。吉原の年中行事「八朔」の由来には諸説あるが、とても寒い八朔を迎えたある年、夕霧太夫という遊女が白い袷ではなく白い小袖を着たことより、以後、白い小袖を着ることが慣例化したという説がある。のちに、その習慣は広がり、まだまだ暑さが残るこの時期に白無垢を着るという我慢や見栄が、江戸の『粋』だと言われていたそうだ。。
画像出典:静岡市葵区自治会連合会ブログ。