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日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
人生を大いに楽しむために言いたい放題、書きたい放題!!
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ひたすらに願えば叶う五智如来

2020年11月22日 19時49分43秒 | 日記
藤枝市岡部町の旧国道一号線沿いにある五智如来です。私は、この五智如来公園(静岡県藤枝市岡部町岡部29)の隣の町道の拡幅工事を担当しました。合併前のことですからもう10数年前のことです。
五智如来(ごちにょらい)とは、五大如来ともいい、密教で五つの知恵(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)を5体の如来にあてはめたもので金剛界五仏のことです。
岡部町指定文化財である2組の五智如来像。(上の写真、五智如来像の後ろにもう一組あります。)
この五智如来像の一組は、宝永4年(1707)田中城主内藤弌信(かずのぶ)の家老脇田次郎左衛門が寄進したもので、地元の三輪石(安山岩質凝灰岩)で作られている。
この五智如来には、次のような伝説が残っている。

宝永2年(1705)内藤豊前守弌信が陸奥棚倉城(福島県棚倉町)から、田中藩5万石の藩主として転封して来た。内藤家の息女は言語にやや障害があり、殿様と奥方にとって心痛の種であった。
ある時、奥方が府中の宝台院に参詣した折、ちょうど居合わせた徳川家の奥方に悩みを打ち明けたところ、岡部宿のはずれに宝台院の隠居寺(当時誓願寺は宝台院末)の誓願寺がある。その誓願寺の本尊である阿弥陀如来をひたすら拝むように薦められた。
そこで田中城主は家老脇田次郎左衛門を代参役として、奥方ともどもお参りに行くようになった。
毎日のようにお参りを続けていると、不思議なことに姫の口が次第になめらかになって行く。やがて満願の日には普通の人のように話すこともでき、後には大名の許へ輿入れしたとのことである。
この霊験を喜んだ代参役の家老脇田次郎左衛門が宝永4年(1707)五体の五智如来像を寄進した。五智如来像の傍には内藤弌信の法名を記し「現世安穏後世善所」と刻まれた碑文が建っている。
五智如来像は2組あり、後列は田中城主が寄進したもので、前列は明治中期に森川重蔵と藤田権三郎が作ったものです。

元は、誓願寺の境内に安置されていましたが寺が移転した際に、現在の場所に移されました。私が担当した道路拡幅工事と同じ時期に公園として整備され観光案内所が併設されています。



植物を学んだ先生顕彰す

2020年11月15日 10時38分17秒 | 日記
『静岡県植物誌』の著者・杉本順一先生の略歴を紹介して郷土の偉人として顕彰したいと思う。私が高校生の時に伊豆天城山系で採集した植物標本の鑑定をお願いした先生である。

1901年(明治34年)静岡市(旧豊田村)に生まれる。早くから植物学に没頭し、静岡県下をほとんど隈なく歩き、植物観察・採集を行う。また、国立科学博物館・東京帝国大学・京都帝国大学等に出向き、研鑽を重ねる。

1930(昭和5年)、天皇陛下が天城山に行幸の折には、県産の代表的植物の標本を天覧に供した。
この間に、静岡県天然記念物調査員・静岡県文化財専門委員・伊豆半島国立公園及び南アルプス国立公園調査員・登呂遺跡発掘調査員・牧野標本館研究員・天然記念物緊急調査員などとして植物関係の調査に従事した。さらに、静岡生物同好会々長、熱帯植物友の会々長などを務め、静岡県自然保護協会の設立にも参画した。

1974年(昭和49年)秋の叙勲において、文化に尽くした功により勲五等双光旭日章を受章する。

 杉本順一氏の主な著書には『日本樹木総検索誌』『日本草本植物総検索誌』『静岡県の植物』(共著)『伊豆半島の植物』(共著)『東海の自然』(共著)など多数がある。


 杉本順一氏の植物標本が静岡県に寄贈されたのは、31年前の1989年(平成元年)である。当時は県立自然史博物館の構想も固まっていなかった。

 寄贈された標本は維管束植物などの腊葉標本61,870点、果実・種子約 150点。合計約62,000点である。静岡県産の標本は約半数で、外国の標本も 2,844点ある。科別では90 ~ 100%収集されている科が多数あり、静岡県に該当する維管束植物は約90%が在中している。重要なことはアシタカマツムシソウのように、杉本氏が関係されたタイプ標本が多数含まれていることである。最近、植物の分類が新しく見直されていることから標本を分析することで、新しい種や分布の発見などもあることが予測される貴重な標本である。

 2020年8月には、静岡市駿河区の「ふじのくに地球環境史ミュージアム」で、静岡県を中心に活躍した植物研究家、故・杉本順一さんが戦前に県内で集めた植物コレクションが展示された。



吾輩が汗を流した現場です

2020年11月09日 17時40分17秒 | 日記
「伊東市観光会館」は、静岡県伊東市和田1丁目にある。伊豆半島の東の玄関口である伊東市の観光会館です。昭和40年3月に当時は不動建設㈱だった現在の㈱不動テトラへ入社した筆者が最初に赴任した現場です。
 「伊東市観光会館」は山紫水明の豊かな自然に周りを囲まれた伊東市の観光地の紹介から、自然保護や市民の健康づくりなど、また文化事業等を推進しています。
延べ床面積は約4,600平方メートルで、地上3階建ての建物となっている。 ホール、別館の他に会議室が4つある。ホールは定員1,007名(1階席715名・2階席292名)収容可能である。有名な歌手のコンサートや 映画も上映されていている。

 設計は、横浜の㈱国設計が1964年の指名コンペで獲得しました。事務所創設者の江國正義(旧姓田中)は、東京帝国大学建築学科を卒業後、大正9年に同大学助教授に就任しました。大正12年の関東大震災直後には、帝都復興のための特別委員としてメートル法による日本初の「建築構造基準」を制定しています。
 昭和になり研究の成果を実践に求め、服部時計店本店(銀座和光・昭和5年)、 東京高島屋(日本橋・昭和5年)、軍人会館(九段会館・昭和7年)、台湾銀行本店(昭和8年)、 日本生命本社ビル(大阪・昭和10年)など多くの構造設計を手がけました。戦後、横浜国立大学や法政大学に招聘され、研究者・教育者として精力的に活躍しました。昭和27年には横浜国立大学工学部長を、同28年からは同大学学長を2期努め、 同34年の退官後、名誉教授に推挙され、昭和37年6月横浜に「国建築事務所」を創設しました。
 株式会社不動テトラ(ふどうてとら)は、東京都中央区日本橋小網町に本社を置く、日本の建設業者(ゼネコン)。2006年 (平成18年) 10月1日に、総合建設業の不動建設株式会社と、海洋土木・消波根固ブロック大手の株式会社テトラが合併して誕生した。テトラの設立時の経緯から、新日鐵住金が株主となっている。消波ブロックの代名詞ともなっている「テトラポッド」は、不動テトラの登録商標である。不動建設㈱は1947年(昭和22年)1月28日 大阪市に株式会社瀧田ノ組として設立された。筆者が入社した時の本社は大阪市南区鰻谷中之町にあった。
 閑話休題。
 伊東温泉の中心を流れる松川の川沿いには東海館などが建ち風情ある景色を演出しているが、其の河口に位置する伊東港に観光会館は面している。

 徳川家康の外交顧問・三浦按針(英人:ウィリアム・アダムス)が松川河口で日本最初の洋式帆船を建築したことを記念して松川河口に架かる“なぎさ橋”のたもとに按針碑が立つ。イギリス生まれのアダムスはオランダ商船隊の水先案内人を勤めていたが、慶長5年(1600)に船が難破して九州に漂着。後に家康の信任を得たアダムスは250石取りの旗本に取り立てられ、帯刀を許されたのみならず相模国逸見に采地も与えられた。また、三浦按針の"按針"の名は、彼の職業である水先案内人の意。姓の"三浦"は領地のある三浦郡にちなむ。その記念碑の前の空き地に現場事務所と飯場があった。江東区砂町の資材置き場から運ばれた畳には、南京虫が巣食っていて駆除するまでに何度も食われた。南京虫は、床虱ともいう吸血性の寄生昆虫で、首や手首の被服との境目を吸血する。刺されたところは極めて痒い。
 港には東海汽船の事務所があり宇佐美から通勤してくる年上の別嬪の事務員さんとすぐに親しくなった。着任時の現場は基礎工事の最中で、掘削はモンケンでレールを打ち込んで松矢板で土留めをする工法で行われていた。深い部分の掘削は湧水が多く砂質土のために苦労した。海側の部分では水中ポンプを埋め殺したこともある。
 コンクリ-ト打設はタワーのバケットをウィンチで引き揚げ、3才の深型カート車で運ぶという、所謂、猫打ちで行った。鉄筋工の配筋検査が済み、型枠の穴を襤褸(ウエス)で塞ぐのが済むと設備工事や電気工事のスリーブ入れと続き、スラブの上にカート用の通路を作る。コンクリート打設は現場のお祭りだから別途工事の監督まで全員が青竹を持ってコンクリートを突き固めた。
 鉄骨工事は大阪の㈱豊南製作所が担当し、リベットで鉸める工法だった。灼熱したリベットを空中でキャッチする鍛冶鳶の妙技には舌を巻いた。基礎に埋め込んだアンカーボルトの台直しやモルタル饅頭による高さの微調節など此の現場で覚えたことは多い。
 現場のスタッフは、現場代理人が本籍福島県で大阪都島工業卒の菅原和雄氏。次席が都城工業卒の野上正直氏。野上氏は当時、伊東の芸者と同棲していた。野上氏は、友人の姉にあたる教師に筆おろしをされたという人物。次が女形タイプのなよっとした阿部氏。次が筆者と同期の渡辺君。支店の担当課長は浅草寺宝蔵門の現場代理人だった忠岡氏。安全担当は支店の塚越氏。設備担当は支店の寺内氏。他に飯炊きの小母さんとその娘が事務員でいた。
 別途工事の空調設備は静岡市の菱和設備㈱で担当の分部氏は小柄でちょび髭をはやしていた。分部氏の静岡弁は大阪弁の多い会社の中では懐かしく聞こえた。
 仕事が終わった後は港で釣りを楽しみ、月に二度の休日にはスクーターに乗って近隣を遊びまわった。当時、原付免許しか所持していなかったが一度も捕まったことはない。
 風呂は現場の近くの銭湯へ通ったが天然温泉だったと思う。その他に開通したばかりの新幹線に乗って銀座の支店に行くのが楽しみだった。当時は新幹線にビュッフェがあった。
 取りとめもない話に終始したが世の中に出て最初に携わった仕事だから意外に憶えているものだと我ながら思う。

水鴎流清水袖師に今もあり

2020年11月03日 15時33分50秒 | 日記
 水鷗流(すいおうりゅう)は、居合を中心とする日本の武術流派。流派は静岡県静岡市清水区袖師町に現存する。正式には水鷗流居合剣法(すいおうりゅういあいけんぽう)という。水鷗流は三間与一左衛門景延(みま よいちざえもん かげのぶ:1577年~1665年)によって天正、元和の間に創始された。居合剣法(居合)を基とした剣法、薙刀術、杖術、小具足などが伝わる総合武術。また第九代の福原景利が正木流萬力鎖術より編み出した正木流鎖鎌術を併伝している。
 流祖は天正5年出羽国佐竹氏に仕える十二社権現の神官、三間斎宮の子として生まれ、父につき卜傳流剣術、父の剣友で林崎甚助重信の高弟、東下野守元治(神明夢想東流)の系統である桜井五郎左衛門直光から林崎流居合の極意を学び、さらに奥秘を極めんと昼は神木に向かい抜刀撃剣、夜は神殿に坐し瞑想、神助を祈願した。そして修行すること20年、神殿内陣において、夜三更(真夜中)になり、大円想の中に白鴎が無心に浮かぶ姿を想見し、忽然と大悟し、天の二十八宿に篭って居合法形二十八本を定め、これを基とし諸般の武術の妙を究めた。これを水鷗流と号して諸国を巡り、流儀を広め門人を取り立てた。作州津山で宝山流の浅田九郎兵衛との試合が『撃剣叢談』に記されている。

 現宗家は第十五代 勝瀬善光景弘。静岡市清水区の碧雲館道場で指導に当たる。(碧雲館の命名は中山博道・・・中山博道(なかやま はくどう / ひろみち、1872年3月19日(明治5年2月11日)~1958年(昭和33年)12月14日)は、日本の武道家。流派は神伝重信流、神道無念流剣術、神道夢想流杖術。称号は剣道範士、居合術範士、杖術範士。大日本武徳会から史上初めて剣・居・杖の三道で範士号を授与された人物である。
 現在、赤穂藩で伝えられていたと思われる水鴎流の伝書(1740年)が赤穂市に存在する。伝書の内容は居合のみで、流祖の名前と創始された年代は一致しているが、同流創始の経緯や型の名前は現在伝わる水鴎流と一致していない。
 後、当流は江戸に伝わり、幕末の頃、水間半兵衛景次が十三代を継ぐ。維新後、景次は修験者となり各地を巡って遠州で勝瀬光安に奥義を相伝する。光安は十四代を名乗り、現在、息子勝瀬善光景弘が十五代を継承している。
 『撃剣叢談』の堤宝山流の項目に水鴎流についての記述がある。『撃剣叢談』(げっけんそうだん)は、江戸時代後期に著された武芸書。1790年(寛政2年)、備前国岡山藩士の三上元龍著。全5巻。
 『撃剣叢談』には「時に北国浪人三間與一左衛門と曰う者来りて居合を教授す。其門に入るもの多し。此人十六歳の時より十二社権現(国郡等詳ならず)の神木に対し二十年抜きたりしに神木終に枯れたりと云ふ。流名を水鴎と曰ひて之を弘む。作州の士人輩之に対し一の勝つ者なし。九郎兵衛に非さざば敵手ある可らずと衆人の勤めに任せ勝負を試むること已に定まる。門人之を危み、窺に問うて曰く「諸国の剣客彼れに及ぶ者なしと聞く。知らず、先生何の術を以て之に勝つや」と。九郎兵衛曰く「何の難きことか之あらん。抜かしめて勝つなり」と。三間之を聞き「浅田は聞く所に違はざる名手なり、其一言を以て勝負を知る。我が及ぶ所に非ず」と。終に技を較せずと云ふ。」と記されている。

 なお、漫画『子連れ狼』の主人公・拝一刀が学んだ剣術流派として知られているが、これは偶然の一致である。作中では水の中(主に川や池)での立ち合いで無類の強さを発揮するものであり、登場する剣技は一部を除き全て創作である。『子連れ狼』(こづれおおかみ)は、小池一夫原作・小島剛夕画の日本の時代劇漫画作品。1970年9月から1976年4月まで『漫画アクション』(双葉社)に連載された。柳生烈堂率いる柳生一族の手により妻の命と職を失った、水鴎流剣術の達人で胴太貫を携える元・公儀介錯人拝一刀と息子・大五郎の、さすらいと復讐の旅物語。
 出典元:水鴎流碧雲館ホームページより。

初亀は東海道の宿場酒

2020年10月31日 14時52分33秒 | 日記
 静岡市より西に10kmほど行くと初亀蔵元のある岡部町がある。古くは東海道53次の宿場として栄えた町である。西には酒の神である神神社があり、ご神体である山、高草山の麓で酒を醸す恵まれた蔵である。蔵から川を上ると日本有数の玉露の産地がある。自然環境にも恵まれた町で、仕込水は南アルプスの伏流水を使用して醸す。

 神神社(みわじんじゃ)は奈良県桜井市・大神神社(おおみわじんじゃ)を本社として、1370年の永きに渡り旧静岡県志太郡岡部町三輪村(現藤枝市)の地に鎮座し、三ツ鳥居を通し駿河の三輪山(現在は高草山と呼ばれている)を拝すると言う古代の祭祀の形態を伝えている。我が国最古の大神社(おおみわじんじゃ)の分社として崇敬され美和天神とも称され、「駿河国神名帳」には、三輪明神と記載されている古社である。

 会社名は、初亀醸造株式会社。 銘柄は「初亀」。 住所は静岡県志太郡岡部町岡部744。製造石数は1000石。旧東海道沿いに、「初亀」の字を白く染め抜いた日除け幕が宿場町の老舗酒蔵らしい風情を漂わせている。

 初亀酒造の創業は、1636年(寛永13年)、初代当主・橋本九郎右衛門が駿府城から程近い現在の静岡市葵区中町で「足名屋」として酒造業をはじめた。銘柄の「初亀」は“初日のように輝き、亀のように末長く栄える”ことを願い命名された。明治初年に宿場町岡部に蔵を移転して以来この地を故郷としている。当代は16代目となる橋本謹嗣社長。因みに、寛永13年は徳川三代将軍家光の治世。寛永通宝が鋳造された年である。翌、寛永14年10月に島原の乱が起きた。

 藤枝市岡部町はお茶とミカンと竹の子の街です。お茶は高品質の玉露の産地として有名で、独特の味は広く全国から誉め称えられています、又、ミカンは言わずと知れた名産です。あと竹の子ですが温暖な土地で、早くから筍が出る為、東京の料亭などに高額で取引されています。又、岡部町は安倍川と大井川の中間に位置し、東に「蔦の細道」で有名な宇津ノ谷峠の有る宿場町です。

お祭りとしては,大龍勢祭りが有名で、10月中旬『3年に1回』岡部町朝比奈地区で農民による龍勢ロケツト大会が行われます。10メートル近くの竹の先に、竹で制作した火薬筒に町内の各集落が古くから伝承されてきた火薬の配合で龍勢花火を創り上げる祭りです。当然、素人集団が作る龍勢花火ですので、成功率60~80%となり、集落同士の対抗意識が祭りを盛り上げます。昼射ちと夜射ちとありますが、小さな街の田んぼ一面桟敷が作られ、酒を交わしながら秋の一日を楽しみます。

 初亀醸造と吟醸酒の歴史は古く、昭和42年に静岡県、名古屋局、全国清酒品評会(当時東京農大主催)全ての品評会で第一位を受賞したのを記念し発売を始めた。その後も昭和52年に日本で一番高額な酒として当時の小売価格1万円の『亀』の発売に踏み切り、全国の蔵元の驚きをかった蔵です。

 アメリカで実施される日本酒鑑評会「全米日本酒歓評会2020」において「初亀 特別純米」が純米部門で準グランプリ、「初亀 純米大吟醸」が純米大吟醸部門で銀賞をそれぞれ受賞している。


疣取りの穴地蔵さんは日本坂

2020年10月16日 19時52分12秒 | 日記
焼津市は2020年10月12日、同市の満観峰ハイキングコースで熊の親子が目撃されたとホームページ上で発表した。ハイカーや農業者に注意を呼び掛けている。市によると、11日午前11時15分ごろ、1人でハイキングしていた同市の男性が鞍掛(くらかけ)峠から満観峰山頂に登る途中、山の斜面を登っていく熊と子熊2頭を目撃した。男性から連絡を受け、市が調べたところ、ほかのハイカーからも目撃情報が寄せられた。
 市は登り口に注意喚起の張り紙を掲示し、ハイキングする際は熊鈴を携帯するなど対策を講じるよう呼び掛けている。

 日本坂峠あるいは単に日本坂は、焼津市花沢から静岡市駿河区小坂に至る峠とその峠道。標高309メートル。両市の市境になっている古道である。焼津市北部は、高草山や満観峰・花沢山などの山々が連なる山地が駿河湾の大崩海岸まで達し、静岡市との天然の境界をなしている。地名に「日本」を冠する由来は、日本神話における景行天皇の時代に、焼津に上陸した日本武尊がこの峠道を越えて東国征討に向かったという伝承からと言われている。
 焼津は古事記に語り継がれる草薙の剣の舞台となったところです。日本武尊が東征のとき敵の策略により草原に火を放たれたと言います。このとき草を払って火を消し止めた剣が草薙の剣、その地が焼津と伝えられています。また焼津と静岡を結ぶ日本坂峠は大化の改新の翌年、「ひむがしの海のみち」として制定された古い官道で後の東海道の一部になった道です。満観峰への曲がり角の左手の斜面に切石で囲った岩室があってその中に二体の地蔵さんが納められています。日本武尊が敵に追われて隠れたと言い伝えられている日本坂峠の穴にある地蔵さんなので峠の穴地蔵と言われています。
 
 穴地蔵に手で触れて疣とりを祈願すると疣が取れると言われています。疣が治ったらお礼参りは穴あき石を拾って来て奉納するそうですが、穴あき石のない場合は丸い普通の石でも良いそうです。石の代わりに花を奉納したり、お酒を地蔵さんにかけたりもします。日本坂訪問は熊に要注意です。


名僧は玄国茶屋に名を遺す

2020年10月09日 14時13分58秒 | 日記
大川地区では崩野や楢尾や大間で仕事をしたので湯ノ島温泉や玄国茶屋はよく利用した。

【湯島玄国和尚伝説】
 県道大川村地内湯島橋のバス停留所付近からの四十度の急坂を登る高台に曹洞宗に属する「湯峯山宝積寺」がある。この寺は、昔は日向にある陽明寺の末寺として上湯島の宮ノ段の飯綱神社左隣に建立しあるも、ある年寺の裏山が崩壊して土砂に埋まったので現在の寺の屋敷に再建したと伝う。湯峯山の名号は最初の上湯島付近が温泉多量に湧出した処から湯峯山と称したという。同寺は明治初年頃までは住職が住んでいて、法事を営みしも現今は無住寺となり、戦後改築して公民館として現在に至る。この公民館より右方百メートルの山腹に建てたるお堂が玄国和尚を祀れる玄国堂で毎年春の彼岸の中日に例祭を執行し、彼岸の行事として遠近の参詣の人々で賑う。
 従前は玄国和尚の命日旧暦二月二十七日に行われ、その後に変更せられて旧暦二月十日なりしを最近彼岸の中日春分の日となった。
 玄国和尚さんは、今から二百年前に甲斐国八代郡大島の生れ(現在の南巨摩郡身延町大島)。幼少にして仏門に入りしが長じて後ち大川村に来たりて日向陽明寺の住職となる。学徳共に高く大いに檀家の景仰する処たるも晩年職を後嗣に譲り、静かに老を湯島の宝積寺に養ひしが玄国和尚はいつの頃からか瘡腫にかかり、日夜病魔に悩まされ闘病生活幾年月の永きにわたりたるも治療方法のない昔、漢方薬草の投薬や禁厭、または祈祷によって根治すべし全精魂を傾注したるが肉体の力や薬物及び霊の術は人界のものだから祈祷禁厭または呪詛の類が迷信だして一切を断定したと伝う。
 玄国和尚は自ら悟りし村人を頼んで生き埋めにしてもらうことを決意した。人々も和尚さんの酷い姿を見るに忍びず、嘆願について相談すること句日「人命」小田原会議に終始したのでまとまらないが和尚さんを苦しみから救うためならと相談が一沢し、和尚の申し出の通り生き埋めにした。
 玄国和尚は村人と最後の別れを告げて墓穴に入る時に村人から渡された若干のお菓子をおし頂いて仏具を片手に持ちたという。
 不治の病にかかり不遇の和尚さんも埋められた墓の中から念仏の声が一週間続いて聞こえたと言い伝えられている。
 時に安永四年末二月二十七日行年八十二才。(安永四年は一七七五年。)
 玄国和尚入寂後既に二百年に及び村人が病気治癒の祈願をなし、應病成就すると。就中皮膚病、乳幼児湿疹、膿皮症、痤瘡に霊験あらたかく、今尚霊前に香華の絶えたることなく以てその学徳の如何に崇高であったかを窺われる。
 玄国堂は最初は墓所の下に建立したが腐朽甚だしくかつまた狭隘のため宝積寺境内に移したるも現存する金毘羅権現の神社と並ぶので再び移転して今ある屋敷に建立し現在に至る。祠堂には土地の人の敬いで一体の尊像、高さ五十センチの座像を安置す。これ座像は名古屋市の某仏具店で謹作したもので、最近塗替補修を施したが近郷にはない彫刻とも云う。では目下二百年の遠忌の祭典の計画中ある。祈願成就のお礼参りのおはたしは菓子類の供物、おふきん、えま等が供えてある。
 戦前までの村人の病気平癒祈願の例を挙げると、先ず病人の隣り近所の人達が集りて相談して玄国堂に会合して霊前に車座を作りて誓願を各個人個人が唱え祈祷する。その経文眞言宗の和諧文で例示すると

 おんあぶきゃぴ、るじやのわかもだら、まにはんどま、じんぼら、はらはりたやおん。

の唱えごとを繰り返す。その際の時間は約一時間、戦前中市販されて居った線香約五センチのもの二本程度でその線香の絶える時間継続して唱和するもその途中に線香の煙が中絶すると願事が不成就といい伝う。
 眞言宗派の和讃文の唱え事が湯島の人々に充許されたのは年代不詳なるも、昔安倍郡玉川村桂山の某寺に大持会を開いた時に許されてから玄国和尚への集団祈願の例としたという。個人参拝は従前の方の方式が行っている。
 本堂改築に際して従前からの堂の建築古材を村人が譲り受け物置小屋にして使用したるに、霊験の具現によるものか穀物貯蔵中「ネズミ」その他の侵害なし。永年保存するも味の変質もなく収穫期と同様で戸締一切無用であったと伝う。『大川の風土記』(小沢慶一.1966)より転載。

ご近所に秤の老舗ありました

2020年10月05日 16時47分26秒 | 日記
 私が通院している静岡厚生病院(北番町)近くの若松町に老舗の秤屋があるのことを最近知った。河瀬衡器製作所である。
 社史によれば、真田弾正幸隆を祖先に持つ初代川瀬(河瀬)光通は、承応二年(1653年)に秤屋を創業しました。その孫河瀬源右衛門が駿府(現在の静岡市)の七間町に秤座を開き、駿府秤所の初代名代になりました。
 真田幸隆は、戦国時代の武将。信濃の在地領主で、甲斐国の戦国大名である武田氏の家臣。息子三人と共に、武田二十四将にも数えられる。幼名は次郎三郎、通称は源太左衛門、剃髪して一徳斎と号す。諸系図では幸隆と記されるが、確実な同時代史料においては幸綱と記され、また子に“隆”を通字とする者がまったく居ない事などから、永禄5年頃までは幸綱と名乗り、幸隆は晩年に改めたものであると考えられている。「幸隆」の名に関して、『高野山蓮華定院過去帳』では一徳斎の道号に伴い「一徳斎幸隆」と記されており、道号は原則として音読みされることから、「幸隆」の読みは「こうりゅう」であるとも考えられている。
 出身は信濃小県郡の名族海野氏で、海野平合戦でいったん所領を失うが信濃に侵攻した武田晴信に仕えて旧領を回復。以後も武田家の信濃先方衆として活躍し、後の真田氏の礎を築いた。
 幸綱の智略と功績は信玄に高く評価され、外様衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えることを許された。武田家中でも一目置かれていたと言われており、戦国三弾正の一人として、「攻め弾正」の異名で呼ばれている。
 真田家の旗印である「六文銭」は三途の川を渡るための船賃という不吉な意味であるが、幸綱はかつて仕えていた山内上杉家を見限り、身命を賭して武田家に仕えて家名を残す覚悟で、この旗印を用いたとされる。 
 天文年間(西暦1550年)甲州は名将武田信玄の治政のもと、その希有な政治的才能も相まって、大いなる繁栄をとげつつありました。
 当時領国内に甲斐金山を有し、産出する黄金のために精密なる秤が必要とされていたこと、その反面、領国内に横行する種々雑多、粗悪な秤が、商取引の円滑な交流を妨げることを憂え、長男義信の長子(信義)を吉川守隨家へ養子に下し、秤の製造専売権を与え(秤座の誕生)、規格の統一と品質の均一、向上を図り、黄金掛引秤を製造せしめたことにはじまります。
 天正十年(西暦1582年)勝頼亡びて、家康公甲府に入った折、吉川守隨家を呼び秤座の家職を特許しました。
 その翌年家康公、江戸に幕府を開くや直ちに江戸に出府し、家康公より御朱印を允可され、金座、銀座とならんで守隨秤座を創業いたしました。
 甲斐国内で使われていた秤を、家康が領国の公定秤と認定し各地の秤量を統一した。製造・販売者の守隨義信は信玄の孫で、前年の武田家滅亡後、家康の庇護を得た。
 長さや重さなどの「単位」の安定は人々の生活や経済活動に欠かせないものでした。徳川幕府も社会の安定のため、単位の統一と計量器具の統制を図ります。当時、重さを量る道具には桿秤と天秤があり、幕府は桿秤における秤座の特権を江戸の守随家と京都の神家に与えました。これにより両家は製造・販売・修理を独占し、秤の検査として秤改を実施しました。
 秤座は、戦国大名が領内の衡制統一のため設置したものもあるが、江戸幕府の秤座がよく知られる。江戸幕府は守随(しゆずい)家の江戸秤座(東33ヵ国)、神(じん)家の京秤座(西35ヵ国)を置いて,両家に秤の製作,販売,補修の特権を与えた。守随家は1874年の段階で東日本一帯41ヵ所・・・設立順に、甲府、名古屋、津、高田、敦賀、会津、柏崎、大津、駿河府中、丹波亀山、高崎、彦根、秋田、金沢、川越、長岡、下野佐野、遠江中泉、信濃下越、松本、善光寺、富山、宇都宮、三河泉村、八王子、新潟、三河吉田、磐城瀬之上、米沢、加茂、出羽庄内、福井、津軽、上野原、松代、上田、仙台、箱館、相模横山宿、木更津、松坂・・・に出張所を置き、その管掌者を名代(みようだい)役と呼んだ。河瀬源右衛門は守随(しゆずい)家江戸秤座の名代ということなのであろう。

静岡にキスカの木村忘れるな

2020年09月12日 18時11分49秒 | 日記
昭和17年(1942)6月8日、日本軍はアメリカ領のアリューシャン列島アッツ島、キスカ島に上陸、占領した。
アメリカ軍はアリューシャン列島の奪回を目指して、5月12日にアッツ島上陸を開始した。
山崎保代陸軍大佐指揮下の日本陸軍がアッツ島(当時の日本側呼称は熱田島)を防衛していたが、兵力も防御施設も不十分であった。北方方面を担当する日本海軍の第五艦隊もアメリカ艦隊に対し有効な反撃を行えず、またアッツ島への補給や救援に失敗した。島を包囲するアメリカ艦隊を攻撃した潜水艦1隻が撃沈された。連合艦隊は空母機動部隊や大和型戦艦を含む主力艦部隊を本州横須賀方面に集結させたが、反撃には出なかった。
大本営はアッツ島増援を検討したものの、この島を守る意味に欠ける日本軍は、最終的には西部アリューシャン(アッツ島、キスカ島)の確保を断念する。5月20日、アッツ島の放棄と、キスカ島からの撤退を発令した。アッツ島守備隊は上陸したアメリカ軍と17日間におよぶ激しい戦闘の末、5月29日に玉砕した。太平洋戦争において、初めて日本国民に日本軍の敗北が発表された戦いであり、また第二次世界大戦で唯一、北アメリカで行われた地上戦である。
キスカ島撤退作戦(キスカとうてったいさくせん)は、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)5月27日から7月29日に行われた日本軍の北部太平洋アリューシャン列島にあるキスカ島からの守備隊撤収作戦のことである。正式名称はケ号作戦。北方部隊指揮官河瀬四郎第五艦隊司令長官が総指揮をとる。 5月下旬から実施された潜水艦による第一期撤収作戦は成果の割には損害が多く、また効率も悪かったため6月下旬をもって打ち切られ、水上艦艇による撤退作戦に切り替えられた。第一水雷戦隊司令官木村昌福少将が収容部隊を指揮した第二期撤収作戦において、同艦隊がキスカ島を包囲していた連合軍に全く気づかれず日本軍が無傷で守備隊全員の撤収に成功したことから「奇跡の作戦」と呼ばれる。
木村 昌福(きむら まさとみ、1891年(明治24年)12月6日 - 1960年(昭和35年)2月14日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。静岡県生まれ。
現場叩き上げの指揮官として太平洋戦争の海上戦闘で数々の武勲を立てたが、特に「奇跡の作戦」といわれた『キスカ島撤退作戦』を指揮し、5千名あまりの日本将兵の無血撤退を成功させた事績で名高い。
静岡県静岡市紺屋町で代言人(現在の弁護士に相当)の父・近藤壮吉・母・すずの次男として生まれる。生後すぐに木村家(母の実家、元鳥取藩士)の養子となり、木村家の籍に入ったが(このため本籍は鳥取県鳥取市)、引き続き静岡の近藤家で養育された。
父の壮吉は立憲改進党の党員で政治好きであり、1910年(明治43年)に選挙に失敗して財産を失い、各地を流浪して1916年(大正5年)に下関で客死した。母のすずは、東京女子高等師範学校1期生の才媛であり、夫が財産を失った後は、女子美術学校(女子美術大学の前身)の教員、帝国女子医科専門学校(東邦大学の前身)の舎監を務めて家計を支えた。
旧制静岡師範学校附属小学校、静岡県立静岡中学校(現・静岡県立静岡高等学校)を経て海軍兵学校第41期入校。席次は入校時120名中84番、卒業時118人中107番。同期に草鹿龍之介、大田実、市丸利之助、田中頼三らがいる。
開戦時は巡洋艦「鈴谷」艦長。1943年2月に第3水雷戦隊司令官に着任。ビスマルク海海戦で重傷を負い、復帰後第1水雷戦隊司令官に着任。7月にはキスカ島撤退作戦を成功させる。1944年にはレイテ島挺身輸送作戦「多号作戦」を二度指揮して成功させ、さらにミンドロ島の米上陸地点への突入作戦「礼号作戦」をも成功させた。
その後、海軍兵学校防府分校長、防府海軍通信学校長(兼任)として終戦を迎える。  
海軍が解体される直前の11月1日、帝国海軍最後となる中将に昇進。これは海軍大臣米内光政の推薦であったとされる。戦後は山口県防府市の海軍兵学校防府分校跡地に於いて、彼を慕う旧部下と共に製塩業を営んだ。資金調達や販売先の確保などに自ら奔走し事業は成功した。トレードマークであったカイゼル髭を剃り落し、穏やかな日々を送ったと言われる。
太平洋戦争中の数々の武勲や戦歴についても寡黙であり、1957年に元海軍中佐で戦史家の千早正隆が木村らに取材してキスカ撤退作戦の経緯を雑誌に発表するまでは、家族すら木村の事績を知らなかったという。
なお、実兄近藤憲二(40期、大佐)、実弟近藤一声(50期、戦死後大佐)もともに海軍軍人で、憲二は開戦前の1940年(昭和15年)に病没、一声は1943年コロンバンガラ島沖海戦で「神通」副長として戦死している。


遠州の秋葉神社は正一位

2020年06月10日 13時02分32秒 | 日記
 秋葉山本宮秋葉神社(静岡県浜松市天竜区春野町領家841)は、東海随一の霊山との呼び声も名高い秋葉山を神体山と仰ぎ、創建は和銅2(西暦709)年と伝えられております。
中世には「秋葉大権現」と称して、その御神徳は国中に知れわたり、朝廷からは正一位の神階を賜り、著名な武将からも数多くの名刀が寄進されました。更に江戸時代には全国に秋葉講が結成され、街道は参詣者で賑わいました。今なお古式の祭儀がそのままに営まれ、全国津々浦々より崇敬されております。
 以下はウイキペディアの記述に拠ります。
 秋葉神社(あきはじんじゃ)は、赤石山脈の南端に位置する、標高866mの秋葉山の山頂付近にある神社。日本全国に存在する秋葉神社(神社本庁傘下だけで約400社)、秋葉大権現および秋葉寺のほとんどについて、その事実上の信仰の起源となった神社であり、もう一方の日本二社(総本廟)秋葉大権現の越後栃尾秋葉山『古来の根本』秋葉三尺坊大権現と並び、『今の根本』と言われる。

【創 建】
 創建時期には諸説があるが、上古より神体山・霊山として仰がれて来た。社伝では和銅2年(709年)に初めて社殿が建立された。その伝承では山が鳴動し火が燃え上がったため、 元明天皇 より「あなたふと 秋葉の山にまし坐せる この日の本の 火防ぎの神」と御製を賜り、社殿を建立したという(秋葉山本宮秋葉神社由緒)。なお地元春野町では、浪小僧の伝説が伝えられる。その内容は社殿建立時に人手が不足し、藁で人形を作り祈ったところ、人形に魂が宿り一緒になって働いたため予定より早く完成した。感謝して川に流したところ浪の音で風雨の災害を知らせてくれるようになったというものである。
 その後、仏教や修験道が入り、神仏習合の霊山として発達した。江戸時代に僧侶が編纂した「遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊略縁起」などでは行基開山説が説かれ、大宝元年(701年)に寺を開いたとされる。
 「秋葉」の名の由来は、大同年間に時の嵯峨天皇から賜った御製の中に「ゆく雲のいるべの空や遠つあふみ秋葉の山に色つく見えし」とあったことから秋葉山と呼ばれるようになったと社伝(修験の伝承)に謳われる一方「行基が秋に開山したことによる」、「焼畑に由来する」、「蝦蟇の背に秋葉の文字が浮かび上がった」(「遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊略縁起」)などの異説もある。

【三尺坊】
 平安時代初期、信濃国戸隠(現在の長野県長野市戸隠)の出身で、越後国栃尾(現在の新潟県長岡市)の蔵王権現(飯綱山信仰に由来する)などで修行した三尺坊(さんしゃくぼう)という修験者が秋葉山に至り、これを本山としたと伝えられる。しかし、
1. 三尺坊が活躍した時期(実際には鎌倉時代とも室町時代とも言われる)にも、出身地や足跡にも多くの異説がある。
2. 修験道は修験者が熊野、白山、戸隠、飯綱など各地の修験道場を行き来しながら発展しており、本山という概念は必ずしも無かった。
3. 江戸時代には秋葉寺以外にも、上述の蔵王権現や駿河国清水(現在の静岡県静岡市清水区)の秋葉山本坊峰本院などが「本山」を主張し、本末を争ったこれらの寺が寺社奉行の裁きを受けたとの記録も残されている。
4. 戦国時代より以前に成立した、秋葉大権現に関する史料がほとんど発見されていない。
よって現状では、祭神または本尊であった秋葉大権現・三尺坊の由来も「定かではない」という他はなく、今後の更なる史料の発掘および研究が待たれている。

【近世期】
 戦国時代までは真言宗との関係が深かったが、徳川家康と関係のあった可睡斎の禅僧茂林光幡が戦乱で荒廃していた秋葉寺を曹洞宗の別当寺とし、以降徳川幕府による寺領の寄進など厚い庇護の下に、次第に発展を遂げてゆくこととなった。
 秋葉山には禰宜・僧侶(曹洞宗)・修験(当山派)の三者が奉仕し、別当は僧侶が務めた。この頃山頂には本社と観音堂を中心に本坊・多宝塔など多くの建物が建ち並び、修験も十七坊(時代によって増減あり、三十六坊の時期もある)あったと伝えられる。
 徳川綱吉の治世の頃から、秋葉大権現は神道、仏教および修験道が混淆(こんこう)した「火防(ひぶせ)の神」として日本全国で爆発的な信仰を集めるようになり、広く秋葉大権現という名が定着した。特に度重なる大火に見舞われた江戸には数多くの秋葉講が結成され、大勢の参詣者が秋葉大権現を目指すようになった。参詣者による賑わいはお伊勢参りにも匹敵するものであったと言われ、各地から秋葉大権現に通じる道は秋葉路(あきはみち)や秋葉街道と呼ばれて、信仰の証や道標として多くの常夜灯(秋葉灯篭)が建てられた。また、全国各地に神仏混淆の分社として多くの秋葉大権現や秋葉社が設けられた。
龍燈(龍頭)と呼ばれる祠を兼ねた特殊な常夜燈があり、そこが町内・講中の信仰の場となった。現在でも町内で神符を受けて常夜燈に祀る地域は多い。

【近代以降】
 1868年(明治元年)に明治政府によって神仏分離令が、1872年(明治5年)には修験宗廃止令が強行され、秋葉山も神仏分離を行うこととなったが、秋葉権現が神仏いずれかという神学論争に加え、山内の修験派と僧派の対立もあり、その決着が容易につかなかった。明治5年に教部省は秋葉権現を三尺坊とは異なる鎮守と判断し、更に修験の家伝に基づき祭神名を火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)であるとした。秋葉山を神道の秋葉大権現と仏教の秋葉寺に分離し、更に秋葉大権現を秋葉神社と改称した。翌1873年(明治6年)、秋葉寺は無住無檀という理由で廃寺となるが、これは当時の社寺に関する法令が適用された結果であり、秋葉寺が神仏分離で廃寺されたというのは正確ではない。
 秋葉寺の廃寺に伴い、三尺坊は萬松山可睡斎(静岡県袋井市)に遷座、宝物什物も移管された。全国各地の分社もそれぞれの土地の事情で神仏分離令に従い、神社または寺として独立の道を歩むこととなった。明治6年に県社列格。
 第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)、山頂(上社、かみしゃ)が山麓から発生した山火事の類焼により本殿東側の山門を除く建物全てを焼失した。戦中戦後は再建も容易ではなく、山麓に下社を造営し祭祀を継続した。しかし、1986年(昭和61年)に現在の山上の社殿が再建され、相前後して山頂に通じる林道の整備も成ったため、ここに名実共に秋葉山本宮秋葉神社として再興を果たした。尚、戦後秋葉山本宮秋葉神社と改称したのは、社格制度がなくなる中、全国の秋葉神社の本宮であることを示すためである。 平成21年(2009年)御鎮座1300年を記念して本殿西側の神門を建立。

【天 狗】
 天狗(てんぐ)は、日本の民間信仰において伝承される神や妖怪ともいわれる伝説上の生き物。一般的に山伏の装束で、赤ら顔で鼻が高く、翼があり空中を飛翔するとされる。俗に人を魔道に導く魔物とされ、外法様ともいう。
静岡県大井川では、『諸国里人談』に、一名を「境鳥」といい、顔は人に似て正面に目があり、翼を広げるとその幅約6尺、人間と同じような容姿、大きさで、嘴を持つ「木の葉天狗」が伝えられており、夜更けに川面を飛び交い、魚を取っていたと記されている。

【修験道】
 修験道(しゅげんどう)は、山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の宗教である。修験宗ともいう。修験道の実践者を修験者または山伏という。
 修験道は、森羅万象に命や神霊が宿るとして神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)を信仰の対象とした古神道に、それらを包括する山岳信仰と仏教が習合し、さらには密教などの要素も加味されて確立した宗教である。日本各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入り厳しい修行を行うことによって功徳のしるしである「験力」を得て、衆生の救済を目指す実践的な宗教でもある。この山岳修行者のことを「修行して迷妄を払い、験徳を得る 修行して その徳を驗(あら)わす」ことから修験者、または山に伏して修行する姿から山伏と呼ぶ。修験とは「修行得験」または「実修実験」の略語とされる。
 修験道は、飛鳥時代に役小角(役行者)が創始したとされるが、役小角は伝説的な人物なので開祖に関する史実は不詳である。役小角は終生を在家のまま通したとの伝承から、開祖の遺風に拠って在家主義を貫いている。
 修験道は、鎌倉時代後期から南北朝時代には独自の立場を確立した。 江戸幕府は、慶長18年(1613年)に修験道法度を定め、真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないことにした。
 修験道とは柱源の境界を得ることを究極の目的とする宗教である。柱源の教えは難解であるため、初行者は密教を修めることで境界を高めることから修行を始める。柱源法は園城寺と醍醐寺のみが護持する。園城寺では柱源法流、醍醐寺では惠印法流として相承する。そのため修験寺はこの二寺の末寺となって本山派、当山派と呼ばれたのである。
 柱源法は修験道の秘法で当道の秘法と呼ばれ、「柱源」の名称さえも秘されました。柱源法流は「峰中法流」とも称され、役行者が箕面の瀧窟に霊的なかたちで出現した龍樹菩薩から直接に授けられたものと伝えられています。
 明治元年(1868年)の神仏分離令に続き、明治5年、修験禁止令が出され、修験道は禁止された。里山伏(末派修験)は強制的に還俗させられた。また廃仏毀釈により、修験道の信仰に関するものも破壊された。