日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
人生を大いに楽しむために言いたい放題、書きたい放題!!
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ふるさとの古き神社を崇敬す

2020年11月30日 09時48分51秒 | 日記
 荒神社は、静岡市葵区足久保奥組三六二三に鎮座する。「狐石」の手前の山の突角部である。祭神は、火産霊神、奥津比古神、奥津比賣神の三柱である。
 荒神(こうじん)とは、日本の民間信仰において、台所の神として祀られる神格の一例。
多くは仏教の尊格としての像容を備えているが、偽経を除けば本来の仏典には根拠がなく、核となったのは土着の信仰だったと考えられている。
荒神信仰には大別すると二通りの系統がある。屋内に祀られるいわゆる「三宝荒神」、屋外の「地荒神」である。
 屋内の神は、中世の神仏習合に際して修験者や陰陽師などの関与により、火の神や竈の神の荒神信仰に、仏教、修験道の三宝荒神信仰が結びついたものである。地荒神は、山の神、屋敷神、氏神、村落神の性格もあり、集落や同族ごとに樹木や塚のようなものを荒神と呼んでいる場合もあり、また牛馬の守護神、牛荒神の信仰もある。
 御祭神は各社により若干の違いはあるが、道祖神、奥津彦命(おきつひこのみこと)、奥津姫命(おきつひめのみこと)、軻遇突智神の火の神様系を荒神として祀っている。神道系にもこれら火の神、竈の神の荒神信仰と、密教、道教、陰陽道等が習合した「牛頭天王(ごずてんのう)」のスサノオ信仰との両方があったものと考えられる。祇園社(八坂神社)では、三寶荒神は牛頭天王の眷属神だとしている。
 荒神の語源は不明である。日本の古典にある伝承には、和魂(にぎみたま)、荒魂(あらみたま)を対照的に信仰した様子が記されている。民間伝承でも、温和に福徳を保障する神と、極めて祟りやすく、これの畏敬(いけい)の誠を実現しないと危害や不幸にあうと思われた類の神があった。後者は害悪をなす悪神だが祭ることによって荒魂が和魂に転じるという信仰があった。そこでこの「荒神」とはこの後者をさしたものではないかとの説もある。
閑話休題。
 足坏(あしつぎ)神社は、静岡市葵区足久保奥組二〇〇七に鎮座する。足久保小学校を過ぎて右手の相沢橋を渡って足久保川沿いに進んだ突き当りに鎮座する。祭神は蛭子大神である。
『古事記』などにある「蛭子伝説」によれば、日本最古の神とされる伊邪那岐命、伊邪那美命夫妻は、初めての子は生まれつき体が異常に柔らかかったので、蛭のような子「ひるこ」と名付けました。しかし、3歳になっても歩けなかったことから、葦の舟(書紀では天磐櫲樟船)で海に流しまったそうです。『日本書紀』の中では、アマテラスオオミカミ、ツクヨミノミコトの次に生まれる神様です。
  国学者で小児科医でもあった本居宣長は、その症状から「ひるこ」を脳性麻痺か筋萎縮症の障害児と診断しています。しかしその後「ひるこ」は、漁民に救われ、のちに七福神の仲間入りをし、大黒様とのコンビで有名な「ゑびす様」としてあがめられました。絵や像では大黒様は立っていますが、ゑびす様はいつも座っている姿しか描かれていないようです。
 「ひるこ」は、障害をもちながらも見事な復活を遂げたことから、「リハビリテーションの祖」とも呼ばれています。神話でもあり、真偽のほどは分かりかねますが、古代における障害者観の一端を垣間見ることができるようです。
 ちなみに、伊邪那岐命、伊邪那美命の二番目の子は、淡島(あわしま)と呼ばれていましたが、知的障害を伴っていたとも伝えられています。そして、三番目の子が、天照大神(あまてらすおおみかみ)で、神明神社の総本社である三重県の伊勢神宮に祀られています。
『古事記』と『日本書紀』ではよく神様の名前や由来に違いがありますが、ヒルコ神(蛭子神)はいずれにしても國産みと呼ばれる、イザナギ、イザナミの間に生まれたことは変わりません。
この不具の子が生まれた理由は、イザナギとイザナミが国産みを行う際に、天の御柱を回って声をかけるという寓話の中で、イザナミからイザナギに声をかけてしまったために、道理に反したとされ水蛭子(ひるこ)ができてしまったと神話の中では言われています。こうして、イザナギとイザナミの間に生まれた神様であるヒルコ神(蛭子神)ですが、二柱の子供としては見られなくなります。
 ヒルコ神(蛭子神)がイザナギとイザナミに舟で流された後、摂津の国西の浦という場所に流れ着きます。その土地の人々がヒルコ神(蛭子神)を見つけ、「戎三郎(えびすさぶろう)」とお呼びして大切に育て上げ、後に戎大神(えびすおおかみ)として祀られるようになったという話です。
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ひたすらに願えば叶う五智如来

2020年11月22日 19時49分43秒 | 日記
藤枝市岡部町の旧国道一号線沿いにある五智如来です。私は、この五智如来公園(静岡県藤枝市岡部町岡部29)の隣の町道の拡幅工事を担当しました。合併前のことですからもう10数年前のことです。
五智如来(ごちにょらい)とは、五大如来ともいい、密教で五つの知恵(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)を5体の如来にあてはめたもので金剛界五仏のことです。
岡部町指定文化財である2組の五智如来像。(上の写真、五智如来像の後ろにもう一組あります。)
この五智如来像の一組は、宝永4年(1707)田中城主内藤弌信(かずのぶ)の家老脇田次郎左衛門が寄進したもので、地元の三輪石(安山岩質凝灰岩)で作られている。
この五智如来には、次のような伝説が残っている。

宝永2年(1705)内藤豊前守弌信が陸奥棚倉城(福島県棚倉町)から、田中藩5万石の藩主として転封して来た。内藤家の息女は言語にやや障害があり、殿様と奥方にとって心痛の種であった。
ある時、奥方が府中の宝台院に参詣した折、ちょうど居合わせた徳川家の奥方に悩みを打ち明けたところ、岡部宿のはずれに宝台院の隠居寺(当時誓願寺は宝台院末)の誓願寺がある。その誓願寺の本尊である阿弥陀如来をひたすら拝むように薦められた。
そこで田中城主は家老脇田次郎左衛門を代参役として、奥方ともどもお参りに行くようになった。
毎日のようにお参りを続けていると、不思議なことに姫の口が次第になめらかになって行く。やがて満願の日には普通の人のように話すこともでき、後には大名の許へ輿入れしたとのことである。
この霊験を喜んだ代参役の家老脇田次郎左衛門が宝永4年(1707)五体の五智如来像を寄進した。五智如来像の傍には内藤弌信の法名を記し「現世安穏後世善所」と刻まれた碑文が建っている。
五智如来像は2組あり、後列は田中城主が寄進したもので、前列は明治中期に森川重蔵と藤田権三郎が作ったものです。

元は、誓願寺の境内に安置されていましたが寺が移転した際に、現在の場所に移されました。私が担当した道路拡幅工事と同じ時期に公園として整備され観光案内所が併設されています。


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植物を学んだ先生顕彰す

2020年11月15日 10時38分17秒 | 日記
『静岡県植物誌』の著者・杉本順一先生の略歴を紹介して郷土の偉人として顕彰したいと思う。私が高校生の時に伊豆天城山系で採集した植物標本の鑑定をお願いした先生である。

1901年(明治34年)静岡市(旧豊田村)に生まれる。早くから植物学に没頭し、静岡県下をほとんど隈なく歩き、植物観察・採集を行う。また、国立科学博物館・東京帝国大学・京都帝国大学等に出向き、研鑽を重ねる。

1930(昭和5年)、天皇陛下が天城山に行幸の折には、県産の代表的植物の標本を天覧に供した。
この間に、静岡県天然記念物調査員・静岡県文化財専門委員・伊豆半島国立公園及び南アルプス国立公園調査員・登呂遺跡発掘調査員・牧野標本館研究員・天然記念物緊急調査員などとして植物関係の調査に従事した。さらに、静岡生物同好会々長、熱帯植物友の会々長などを務め、静岡県自然保護協会の設立にも参画した。

1974年(昭和49年)秋の叙勲において、文化に尽くした功により勲五等双光旭日章を受章する。

 杉本順一氏の主な著書には『日本樹木総検索誌』『日本草本植物総検索誌』『静岡県の植物』(共著)『伊豆半島の植物』(共著)『東海の自然』(共著)など多数がある。


 杉本順一氏の植物標本が静岡県に寄贈されたのは、31年前の1989年(平成元年)である。当時は県立自然史博物館の構想も固まっていなかった。

 寄贈された標本は維管束植物などの腊葉標本61,870点、果実・種子約 150点。合計約62,000点である。静岡県産の標本は約半数で、外国の標本も 2,844点ある。科別では90 ~ 100%収集されている科が多数あり、静岡県に該当する維管束植物は約90%が在中している。重要なことはアシタカマツムシソウのように、杉本氏が関係されたタイプ標本が多数含まれていることである。最近、植物の分類が新しく見直されていることから標本を分析することで、新しい種や分布の発見などもあることが予測される貴重な標本である。

 2020年8月には、静岡市駿河区の「ふじのくに地球環境史ミュージアム」で、静岡県を中心に活躍した植物研究家、故・杉本順一さんが戦前に県内で集めた植物コレクションが展示された。


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吾輩が汗を流した現場です

2020年11月09日 17時40分17秒 | 日記
「伊東市観光会館」は、静岡県伊東市和田1丁目にある。伊豆半島の東の玄関口である伊東市の観光会館です。昭和40年3月に当時は不動建設㈱だった現在の㈱不動テトラへ入社した筆者が最初に赴任した現場です。
 「伊東市観光会館」は山紫水明の豊かな自然に周りを囲まれた伊東市の観光地の紹介から、自然保護や市民の健康づくりなど、また文化事業等を推進しています。
延べ床面積は約4,600平方メートルで、地上3階建ての建物となっている。 ホール、別館の他に会議室が4つある。ホールは定員1,007名(1階席715名・2階席292名)収容可能である。有名な歌手のコンサートや 映画も上映されていている。

 設計は、横浜の㈱国設計が1964年の指名コンペで獲得しました。事務所創設者の江國正義(旧姓田中)は、東京帝国大学建築学科を卒業後、大正9年に同大学助教授に就任しました。大正12年の関東大震災直後には、帝都復興のための特別委員としてメートル法による日本初の「建築構造基準」を制定しています。
 昭和になり研究の成果を実践に求め、服部時計店本店(銀座和光・昭和5年)、 東京高島屋(日本橋・昭和5年)、軍人会館(九段会館・昭和7年)、台湾銀行本店(昭和8年)、 日本生命本社ビル(大阪・昭和10年)など多くの構造設計を手がけました。戦後、横浜国立大学や法政大学に招聘され、研究者・教育者として精力的に活躍しました。昭和27年には横浜国立大学工学部長を、同28年からは同大学学長を2期努め、 同34年の退官後、名誉教授に推挙され、昭和37年6月横浜に「国建築事務所」を創設しました。
 株式会社不動テトラ(ふどうてとら)は、東京都中央区日本橋小網町に本社を置く、日本の建設業者(ゼネコン)。2006年 (平成18年) 10月1日に、総合建設業の不動建設株式会社と、海洋土木・消波根固ブロック大手の株式会社テトラが合併して誕生した。テトラの設立時の経緯から、新日鐵住金が株主となっている。消波ブロックの代名詞ともなっている「テトラポッド」は、不動テトラの登録商標である。不動建設㈱は1947年(昭和22年)1月28日 大阪市に株式会社瀧田ノ組として設立された。筆者が入社した時の本社は大阪市南区鰻谷中之町にあった。
 閑話休題。
 伊東温泉の中心を流れる松川の川沿いには東海館などが建ち風情ある景色を演出しているが、其の河口に位置する伊東港に観光会館は面している。

 徳川家康の外交顧問・三浦按針(英人:ウィリアム・アダムス)が松川河口で日本最初の洋式帆船を建築したことを記念して松川河口に架かる“なぎさ橋”のたもとに按針碑が立つ。イギリス生まれのアダムスはオランダ商船隊の水先案内人を勤めていたが、慶長5年(1600)に船が難破して九州に漂着。後に家康の信任を得たアダムスは250石取りの旗本に取り立てられ、帯刀を許されたのみならず相模国逸見に采地も与えられた。また、三浦按針の"按針"の名は、彼の職業である水先案内人の意。姓の"三浦"は領地のある三浦郡にちなむ。その記念碑の前の空き地に現場事務所と飯場があった。江東区砂町の資材置き場から運ばれた畳には、南京虫が巣食っていて駆除するまでに何度も食われた。南京虫は、床虱ともいう吸血性の寄生昆虫で、首や手首の被服との境目を吸血する。刺されたところは極めて痒い。
 港には東海汽船の事務所があり宇佐美から通勤してくる年上の別嬪の事務員さんとすぐに親しくなった。着任時の現場は基礎工事の最中で、掘削はモンケンでレールを打ち込んで松矢板で土留めをする工法で行われていた。深い部分の掘削は湧水が多く砂質土のために苦労した。海側の部分では水中ポンプを埋め殺したこともある。
 コンクリ-ト打設はタワーのバケットをウィンチで引き揚げ、3才の深型カート車で運ぶという、所謂、猫打ちで行った。鉄筋工の配筋検査が済み、型枠の穴を襤褸(ウエス)で塞ぐのが済むと設備工事や電気工事のスリーブ入れと続き、スラブの上にカート用の通路を作る。コンクリート打設は現場のお祭りだから別途工事の監督まで全員が青竹を持ってコンクリートを突き固めた。
 鉄骨工事は大阪の㈱豊南製作所が担当し、リベットで鉸める工法だった。灼熱したリベットを空中でキャッチする鍛冶鳶の妙技には舌を巻いた。基礎に埋め込んだアンカーボルトの台直しやモルタル饅頭による高さの微調節など此の現場で覚えたことは多い。
 現場のスタッフは、現場代理人が本籍福島県で大阪都島工業卒の菅原和雄氏。次席が都城工業卒の野上正直氏。野上氏は当時、伊東の芸者と同棲していた。野上氏は、友人の姉にあたる教師に筆おろしをされたという人物。次が女形タイプのなよっとした阿部氏。次が筆者と同期の渡辺君。支店の担当課長は浅草寺宝蔵門の現場代理人だった忠岡氏。安全担当は支店の塚越氏。設備担当は支店の寺内氏。他に飯炊きの小母さんとその娘が事務員でいた。
 別途工事の空調設備は静岡市の菱和設備㈱で担当の分部氏は小柄でちょび髭をはやしていた。分部氏の静岡弁は大阪弁の多い会社の中では懐かしく聞こえた。
 仕事が終わった後は港で釣りを楽しみ、月に二度の休日にはスクーターに乗って近隣を遊びまわった。当時、原付免許しか所持していなかったが一度も捕まったことはない。
 風呂は現場の近くの銭湯へ通ったが天然温泉だったと思う。その他に開通したばかりの新幹線に乗って銀座の支店に行くのが楽しみだった。当時は新幹線にビュッフェがあった。
 取りとめもない話に終始したが世の中に出て最初に携わった仕事だから意外に憶えているものだと我ながら思う。
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水鴎流清水袖師に今もあり

2020年11月03日 15時33分50秒 | 日記
 水鷗流(すいおうりゅう)は、居合を中心とする日本の武術流派。流派は静岡県静岡市清水区袖師町に現存する。正式には水鷗流居合剣法(すいおうりゅういあいけんぽう)という。水鷗流は三間与一左衛門景延(みま よいちざえもん かげのぶ:1577年~1665年)によって天正、元和の間に創始された。居合剣法(居合)を基とした剣法、薙刀術、杖術、小具足などが伝わる総合武術。また第九代の福原景利が正木流萬力鎖術より編み出した正木流鎖鎌術を併伝している。
 流祖は天正5年出羽国佐竹氏に仕える十二社権現の神官、三間斎宮の子として生まれ、父につき卜傳流剣術、父の剣友で林崎甚助重信の高弟、東下野守元治(神明夢想東流)の系統である桜井五郎左衛門直光から林崎流居合の極意を学び、さらに奥秘を極めんと昼は神木に向かい抜刀撃剣、夜は神殿に坐し瞑想、神助を祈願した。そして修行すること20年、神殿内陣において、夜三更(真夜中)になり、大円想の中に白鴎が無心に浮かぶ姿を想見し、忽然と大悟し、天の二十八宿に篭って居合法形二十八本を定め、これを基とし諸般の武術の妙を究めた。これを水鷗流と号して諸国を巡り、流儀を広め門人を取り立てた。作州津山で宝山流の浅田九郎兵衛との試合が『撃剣叢談』に記されている。

 現宗家は第十五代 勝瀬善光景弘。静岡市清水区の碧雲館道場で指導に当たる。(碧雲館の命名は中山博道・・・中山博道(なかやま はくどう / ひろみち、1872年3月19日(明治5年2月11日)~1958年(昭和33年)12月14日)は、日本の武道家。流派は神伝重信流、神道無念流剣術、神道夢想流杖術。称号は剣道範士、居合術範士、杖術範士。大日本武徳会から史上初めて剣・居・杖の三道で範士号を授与された人物である。
 現在、赤穂藩で伝えられていたと思われる水鴎流の伝書(1740年)が赤穂市に存在する。伝書の内容は居合のみで、流祖の名前と創始された年代は一致しているが、同流創始の経緯や型の名前は現在伝わる水鴎流と一致していない。
 後、当流は江戸に伝わり、幕末の頃、水間半兵衛景次が十三代を継ぐ。維新後、景次は修験者となり各地を巡って遠州で勝瀬光安に奥義を相伝する。光安は十四代を名乗り、現在、息子勝瀬善光景弘が十五代を継承している。
 『撃剣叢談』の堤宝山流の項目に水鴎流についての記述がある。『撃剣叢談』(げっけんそうだん)は、江戸時代後期に著された武芸書。1790年(寛政2年)、備前国岡山藩士の三上元龍著。全5巻。
 『撃剣叢談』には「時に北国浪人三間與一左衛門と曰う者来りて居合を教授す。其門に入るもの多し。此人十六歳の時より十二社権現(国郡等詳ならず)の神木に対し二十年抜きたりしに神木終に枯れたりと云ふ。流名を水鴎と曰ひて之を弘む。作州の士人輩之に対し一の勝つ者なし。九郎兵衛に非さざば敵手ある可らずと衆人の勤めに任せ勝負を試むること已に定まる。門人之を危み、窺に問うて曰く「諸国の剣客彼れに及ぶ者なしと聞く。知らず、先生何の術を以て之に勝つや」と。九郎兵衛曰く「何の難きことか之あらん。抜かしめて勝つなり」と。三間之を聞き「浅田は聞く所に違はざる名手なり、其一言を以て勝負を知る。我が及ぶ所に非ず」と。終に技を較せずと云ふ。」と記されている。

 なお、漫画『子連れ狼』の主人公・拝一刀が学んだ剣術流派として知られているが、これは偶然の一致である。作中では水の中(主に川や池)での立ち合いで無類の強さを発揮するものであり、登場する剣技は一部を除き全て創作である。『子連れ狼』(こづれおおかみ)は、小池一夫原作・小島剛夕画の日本の時代劇漫画作品。1970年9月から1976年4月まで『漫画アクション』(双葉社)に連載された。柳生烈堂率いる柳生一族の手により妻の命と職を失った、水鴎流剣術の達人で胴太貫を携える元・公儀介錯人拝一刀と息子・大五郎の、さすらいと復讐の旅物語。
 出典元:水鴎流碧雲館ホームページより。
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