日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
人生を大いに楽しむために言いたい放題、書きたい放題!!
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痩せ畑に美味きものあり藷の蔓

2011年10月26日 12時38分29秒 | グルメ
生家の前は二反歩ほどの畑になっていてサツマイモと小麦を交互に収穫していた。元々この畑は小石交じりの痩せた耕地であったが、私が幼い頃、父親が長い期間を掛けて「簀漉し」を行い土壌を改良したのである。「簀漉し」というのは、木の枠に篠竹を二センチ間隔ほどに打ち付けたスクリーンへ土を通すことによって、二センチ以上の礫を取り除く仕掛けである。つまり、耕土を篩いにかけたのである。多くの労力と根気の要る作業であったが父はほとんど一人で成し遂げた。畑にあった段差もこのときに解消してほぼ平坦な小石の少ない耕地に生まれ変わったのである。

 生家の床下には芋倉と称する地下室があってサツマイモや生姜などが貯蔵されていた。春に種芋を植えると、小麦の収穫が終わる初夏に種芋が蔓を出す。麦を刈取った畑に畝を拵えて、芋の蔓を挿す。初めはぐったりと萎れていた芋の蔓が一雨降るとたちまち元気になって見る間に畑中に蔓延る。蔓は延びるに任せればよいのだが、徒に放置すると途中で根を出して小さな芋を作るので「蔓返し」という作業を行うのである。稀にアサガオに似た花を咲かせることもあるが花を見ることは滅多に無い。当時のサツマイモは「護国」とか「農林一号」とかいう品種で味よりはむしろ収量に重きが置かれていたように思う。サツマイモの品種は他にもたくさんあった。  

 さて、そのサツマイモであるが、元々は南米の中央アンデス地方で栽培されていたものを西暦一四九〇年代にイタリアはジェノヴァの奴隷商人クリストファー・コロンブスがヨーロッパへ持ち帰ったとされている。日本へは西暦一六〇〇年ごろに中国から渡ってきた。コロンブスの時代から一〇〇年ちょっとで日本まで到達したことになるが、これは同じ頃にコロンブス一行がアメリカ原住民女性と交わって感染したとされる梅毒の伝播より半世紀以上も遅れている。

 サツマイモと呼ばれるのは薩摩国(鹿児島県)から全国に広まったからだが、その鹿児島では「琉球芋」と呼び、沖縄では「唐芋」と呼んでいるので渡来の経路がよく判る。因みに中国では「甘藷」と呼んでいる。甘藷は土地を選ばず何処にでも育つので有力な食料として栽培が奨励された。その最も熱心だった人が八代将軍徳川吉宗のころに活躍した蘭学者の青木昆陽で世に「甘藷先生」と呼ばれている。

 ところで、本稿ではサツマイモについて云々しようと言うのではない。テーマは芋蔓である。

 サツマイモの収穫に先立って畝を覆っている蔓を刈取るのであるが、その前に蔓の先端の柔らかな部分を摘み取るのである。この柔らかな蔓と葉を軽く湯がいてアク抜きをしたあと煮浸しにして食べるのであるが、これが意外に美味いのである。私が子供のころに食べたのは煮浸しだけであるが、葉柄や蔓を佃煮や金平にするレシピも紹介されている。いずれにせよ固くなった芋蔓は牛馬の飼葉ならともかく人間の食料には不向きだろうと思う。料理に適するのは蔓の先端十五乃至二〇センチの柔らかな部分としておく。機会があったら是非お試しいただきたい。

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宗長も住みし駿河の鞠子宿

2011年10月19日 15時17分06秒 | 日記
静岡市の西のはずれにある丸子宿は東海道53次の20番目の宿場町である。東海道中でもっとも小さい宿場。天保14年(1843年)の記録によると、家の数は211軒、旅籠は24軒であったという。

室町時代後期の連歌師・柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)が結んだ庵が吐月峰柴屋寺として今もこの地にある。吐月峯と書いて「はいふき」と読む。煙草道具の灰落としの竹筒はここのお寺の名物である。

宗長は文安5年(1448年)駿河国島田(現在の静岡県島田市)において鍛冶職五条義助の子として生まれた。

五条義助(ごじょう-よしすけ)は相模国鎌倉の正宗に師事し,駿河国島田で刀鍛冶(かじ)を業とした。永正年間(1504~1521年)相模国小田原に移住。義助の名跡は江戸時代までつづき多くの名工を輩出した。

宗長は寛正6年(1465年)に出家して後に今川義忠に仕えたが、義忠が戦死すると駿河を去り上洛した。宗祇に師事して連歌を学び水無瀬三吟(長享2年(1488年))、湯山三吟(延徳3年(1491年))などの席に列する。
大徳寺の一休宗純に参禅、大徳寺真珠庵の傍らに住み宗純没後は神奈備に近い山城国薪村(現在の京都府京田辺市)の酬恩庵に住んで宗純の菩提を弔った。
明応5年(1496年)、駿河に戻って今川氏親に仕える。文亀2年(1502年)、宗祇が箱根湯本で倒れたときその最期を看取った。宗祇没後は連歌界の指導者となる。また有力な武将や公家との交際も広く三条西実隆や細川高国、大内義興、上杉房能とも交流を持ち今川氏の外交顧問であったとも言われている。永正元年(1504年)、斎藤安元の援助により駿河国丸子の郷泉谷に柴屋軒(現在の吐月峰柴屋寺)を結び京との間を往還して大徳寺の山門造営にも関与した。

江戸時代初期の安楽庵策伝『醒睡笑』は連歌師・宗長の歌「武士(もののふ)のやばせの舟は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋」を引用し、「急がば回れ」の諺の発祥であると紹介している。

代表作として句集「那智篭(なちごもり)」、日記「宗長手記」、「宗長日記」があり、ほかに「東路の津登(あづまじのつと)」、「宇津山記」、「宗祇終焉記」がある。

丸子宿といえばもう一つの名物は「とろろ汁」である。今でも丁子屋をはじめとして「とろろ汁」を食わせる店が何軒もある。

「とろろ汁」の作り方を簡単に書いておく。

先ず自然薯を手ごろな長さに折り丁寧に洗う。髭根をガスの炎で焼くと良い。

洗った自然薯を卸し金で摩り下ろす。これを擂鉢で丁寧にあたる。

鰹節や鯖節或いは煮干などで濃い目のダシを取り、気持ち濃い目の味噌汁を作る。

擂鉢の自然薯の下ろした物へ少しずつ味噌汁を加えながら延ばす。このときに極めて慎重にしないと上手に延びないので注意を要する。

最後に醤油を数滴垂らして隠し味にする。

人によっては鯖を焼いたものを加えたり、鶏卵を加えたりするようだが私は鰹節のダシだけである。
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乳金物撫でて推古の世を偲ぶ

2011年10月14日 14時00分51秒 | 日記
写真の丸いものは法隆寺夢殿の【乳金物・ち‐かなもの】である。
門扉の釘隠しとして打つ乳房形の金物。饅頭(まんじゅう)金物或いは「ちちかなもの」ともいう。

法隆寺(ほうりゅうじ) は、奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳宗の総本山である。別名を斑鳩寺(いかるがでら)という。

聖徳宗(しょうとくしゅう)は、日本の仏教宗派の一つであり、奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺を総本山とする。小本山に法起寺・法輪寺、門跡寺院の中宮寺など末寺は、29ヵ寺。
昭和25年(1950年)に、法相宗からの独立を果たす(宗教法人として認可されたのは、昭和27年(1952年))。聖徳太子を宗祖とする。所依の経典は、聖徳太子が撰したとされる「三経義疏」である。

三経義疏(さんぎょうぎしょ)とは、聖徳太子の撰と伝える「勝鬘経義疏:しょうまんぎょうぎしょ」、「維摩経義疏:ゆいまぎょうぎしょ」、「法華経義疏:ほけきょうぎしょ」の総称である。三経に対する注釈書で、日本人の手になる最初の本格的な仏典の研究書とされている。

 聖徳太子伝暦によれば、法華義疏(615年)、勝鬘経義疏(611年)、維摩経義疏(613年)ともに、太子の著作とされ、勝鬘経(しょうまんぎょう)義疏1巻・維摩経(ゆいまぎょう)義疏3巻・法華経(ほけきょう)義疏4巻の併称。太子はこの順に選述されたという。

 天平19(747)年の「法隆寺資帳」や、このころの写経文書に書名がみえ、とくに法華経義疏については太子自筆の草稿本と伝えられるるものが現存しているという。聖徳太子の実在を証す物的証拠とされるものである。

法隆寺は飛鳥時代の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。
創建は推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートルで西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。

法隆寺は、「日本仏教興隆の祖である聖徳太子が創建した寺院である」とするのが、一般的・常識的理解である。
聖徳太子は謎の多い人物であり、20世紀末頃からは「聖徳太子は実在しなかった」とする言説が盛んになっているが、これには反論も出されている。『<聖徳太子>の誕生』の著者である大山誠一は、超人的人物として信仰の対象となっている「聖徳太子」は架空の存在だとしながらも、「聖徳太子」のモデルとなった厩戸王という人物の存在と、その人物が斑鳩宮及び斑鳩寺を建てたことは史実と認めている。

聖徳太子は敏達天皇3年(574年)、橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれた。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛(きたしひめ)を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘・小姉君(おあねのきみ)であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。厩戸皇子の父母はいずれも欽明天皇を父に持つ異母兄妹であり、厩戸皇子は異母のキョウダイ婚によって生まれた子供とされている。幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。

聖徳太子の業績は知らずとも、かつては紙幣に肖像が描かれていたことから日本銀行券の代名詞のような感じさえあった。これは戦後、GHQにより戦前紙幣の肖像は軍国的として使用が禁止されたが聖徳太子のみは平和主義者と認められ、「日本紙幣といえば聖徳太子」と親しまれるほど、繰り返し採用されたのである。

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捨てるほど生える狭庭の実のなる木

2011年10月11日 14時16分55秒 | 日記
現在住んでいる家を建てたのは平成元年である。土地、建物、家具などを含め〆て4千数百万円は全て妻の親の遺産ときているからありがたい話である。
庭と呼ぶにはおこがましいが自宅とガレージの間に僅かながらの植え込みがある。私の好みで針葉樹は一本も植えてない。全て広葉樹である。
先ず、ドウダンツツジが10本ほど。花はほとんど咲かないが、日当たりのよい部分の紅葉は素晴らしい。
サツキは鉢植えだったものを地植えした。薄紫の花が咲く。その隣にムラサキシキブが植えてある。花蘇芳の木もあまり大きくならないのが良い。花蘇芳の下に芍薬を植えてあるがどうも勢いが悪い。
白実のマンリョウは大きくなりすぎたので切り戻した。シュウカイドウは20年も前に栃木県宇都宮の友人の家から移植したものだが、毎年見事に花を咲かせてくれる。
百日紅は毎年切り戻しても威勢良く伸びる。その隣の楓はデショウジョウである。グミの木はこじんまり刈り込んである。
土佐水木の勢いは盛んで早春には黄色い花をたくさんつける。八手は常に刈り込んで小さくしてある。サラサドウダンは完全に樹勢を回復した。
紫陽花は日陰でもよく育つ。
ミツバツツジは30センチほどの苗木から3メートル以上に育って毎年綺麗な花を咲かせてくれる。
マユミは雌雄二本植えたので確実に受粉して赤い実をつける。
アメリカハナミズキは一度も咲かないので根元から切り倒した。ムベの蔓も伸びないように剪定を欠かさない。
万年青とエビネは半日陰の環境になじんでいるようだ。
植えた覚えの無い茗荷が徐々に殖えてきて去年辺りから花が咲くようになった。
ウメモドキも根元から切り倒したのだがまた芽を出している。
シコンノボタンはヒイラギモクセイの生垣の根元から伸びている。
表の生垣はヒイラギモクセイとサツキである。海棠の木が一本雑じっている。
狭い庭にはざっと20種類ほどの植物が雑然と植わっているのであるが、これらの下草として蕗が植えてあるので春先はフキノトウがたくさん出る。また、コオニユリも毎年咲く。

地植えの植物とは別にボタンやブルーベリー、石楠花、バラ、スグリなど沢山の鉢植えがあるので木や草花の種類は優に30種類以上になる。

玄関先の睡蓮鉢の睡蓮はなかなか咲かないが、睡蓮鉢には野鳥がひっきりなしに訪れる。キジバトやヒヨドリなどである。
庭木の枝はこれら野鳥の休憩場所となっているが、その結果として鳥の糞から発芽したナンテン、マンリョウ、モチノキ、アケビ、マユミ、八手などの小さな苗が大量に生えている。
妻は白実のマンリョウと思われる苗木を育てているが、ほとんどの苗木はこころならずも引き抜いて捨てている。放置すればたちまちジャングルになってしまいそうである。
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働いて日々安穏の飯を喰う

2011年10月07日 15時48分08秒 | 日記
今回の応募者「ご飯ススム君」は28歳の若者である。妻あり。子供ありの所帯持ちである。

ハローワークの紹介で営業職の募集に応募してきたのであるが、実は「ご飯ススム君」には前歴があるのだ。その前歴というのは丁度2年ほど前にトビ職見習いの募集に応募してきて採用が決定したのに”しょんべん”したのである。

当時26歳の彼「ご飯ススム君」は、現在は妻となっている同い年の彼女と同棲し始めたばかりで1円でも多くのお金が欲しかったそうである。私どもの会社の次に面接を受けた運送会社で運転手として採用が決まり、条件も少し良かったそうである。それで、トビ職見習いの方は”しょんべん”を決め込んで、運送会社へ就職したそうである。その運送会社は数ヶ月で辞めて、派遣会社に入社したのだがその派遣会社も9月一杯でお払い箱にされ、キャバクラの送迎をアルバイトでしているという。
妻も介護の仕事を辞めてスナックでアルバイトをしているのだが、2歳の子供がいるのでどちらかが子供の面倒をみないといけないらしい。

その「ご飯ススム君」が何で再び我社の募集へ応募したのか、と、いうと本人はまさか憶えてはいまいと思っていたようだ。
冗談ではない。こちらではちゃんと”しょんべん小僧”の「ご飯ススム君」の名前を憶えていたのである。

傑作なのは「ご飯ススム君」の履歴書である。前回応募時の履歴書と今回提出の履歴書とでは、学歴、職歴はもとより運転免許の取得日までが見事に違うのである。おまけに履歴書の筆跡までが違うのだ。

氏名、生年月日、現住所は前回と同じである。「ご飯ススム君」は我社の事務所から徒歩で数分の県営団地に住んでいる。
学歴は前回は県立高校定時制を数ヶ月で中退したことになっていたが、今回は卒業したことになっていた。前回はトビ職見習いだから学歴はどうでもよかったが、今回は営業職だから学歴もあったほうがよいと考えたようだ。

職歴は前回は2社くらいだったが、今回の履歴書には7~8社が書いてあった。免許証の取得日は単純な勘違いだそうだ。

筆跡は前回の履歴書の方が上手に書かれていたが、これは当時、同棲中だった妻が書いたそうである。その妻が職歴もわざと少なく書いたのが前回の履歴書で、今回の下手な字で書いたのが本当の履歴だと本人が言っている。

学歴、前歴は不問だから、嘘まで書いてもらう必要はないのだが、親子三人の生活費にも事欠く事態になって「ご飯ススム君」の顔には明らかに焦りの色が読めてとれた。

その「ご飯ススム君」は余程懲りない性格とみえて、今回も複数の面接を掛け持ちしていたようである。そこで、午後4時にもう一度出直してくるように言うと、約束の時刻にまた事務所へ来た。別の面接先では採用してもらえなかったということである。

営業というのは取り扱う業務や商品の知識がないと出来ない仕事である。「ご飯ススム君」の職歴には我社で求められる経歴はないのでトビ職見習いとして少し現場の修業をして、その間に仕事を覚えてから営業になったらどうかということにして採用することにしたのだが、とりあえずは真面目に働いているようである。
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怪我をせぬ無手勝流が極意なり

2011年10月04日 11時52分03秒 | 日記
山南さんが今度は塚原卜伝を主演するという。
私が山南さんと呼んでいるのは俳優の堺雅人さんのことである。
2004年NHK大河ドラマ『新選組!』の新選組総長山南敬助役を演じた人で、いつも微笑んでいるような顔つきが特徴である。あのときは女郎役の鈴木砂羽さんとの駆け落ち場面が印象に残っている。
2008年再びNHK大河ドラマ『篤姫』の徳川家定役を演じているが、私にとってはやっぱり山南さんの印象が強い。

さて、私は数いる剣豪のなかでも塚原卜伝高幹を子供のころから好きである。

天児屋根命十代の孫なる国摩大鹿嶋命の後裔、国摩真人(くになつまひと)という者が、第十六代仁徳天皇の御代に、鹿島の高間ヶ原に神壇をきずいて祈った結果、神妙剣と称する刀術を発明した。これが「鹿島の太刀」と称する刀法の古伝で、時代が下がるにつれ、鹿島上古流、鹿島中古流の区分ができた、という。

卜伝の実家は吉川氏といって、鹿島神宮の祝部であり、また常陸大掾鹿島家の四宿老の一、鹿島七人衆の一に数えられ、鹿島家の重職に任じていた。吉川氏は、本姓は卜部で、卜伝の祖父卜部呼常は、前記の国摩真人五代の孫にあたり、鹿島の太刀の秘伝をつたえて鹿島中古流と称していた。呼常の子の覚賢のとき、越前の戸田流の一部(剣・短剣・縄術)を採り入れて、「外の物」と称した。

卜部覚賢(吉川覚賢)の次男朝孝、これが塚原家へ養子に行った卜伝で、延徳元年(1489年)常州鹿島(今の茨城県鹿島郡鹿島町宮中)に生まれた。

幼名は朝孝であるが、塚原(鹿島町須賀)の塚原土佐守安幹の養子となってからは新右衛門高幹と改めた。塚原氏の本姓は平氏で、大掾氏の一族・鹿島氏の分家である。卜伝と号したのは、実家の本姓卜部の字に拠ったのである。

卜伝は、実父吉川覚賢からは鹿島古流(鹿島中古流とも)を学び、義父からは天真正伝香取神道流を学んだ。『関八州古戦録』『卜伝流伝書』によれば、松本政信の奥義「一の太刀」も養父の安幹から伝授されたという(松本から直接学んだという説、卜伝自身が編み出したとする説もある)。やがて武者修行の旅に出て、己の剣術に磨きをかけた。『卜伝百首』の後にある加藤信俊(相模守)による序では、39度の合戦、19度の真剣勝負に臨みながら一度も負傷しなかったと記述されている。生涯に斬って捨てた剣士の数は、記録に残っているだけでも212人である。よく知られている真剣勝負に川越城下での梶原長門との対決がある。

弟子には唯一相伝が確認される雲林院松軒(弥四郎光秀)と、諸岡一羽や真壁氏幹、斎藤勝秀(伝鬼房)ら一派を編み出した剣豪がいる。また、足利義輝や北畠具教にも剣術を指南したという。また、この両者には奥義である「一の太刀」を伝授したとされている。

剣聖と謳われ、好んで講談の題材とされ、広く知られた。

著名なエピソードのひとつで、勝負事にまつわる訓話としてもよく引き合いに出されるものに、「無手勝流」がある。
次のような話である。琵琶湖の船中で若い剣士と乗り合いになり、相手が塚原卜伝だと知ったその若者が決闘を挑んでくる。
卜伝はのらりくらりとかわそうとするが、血気にはやる若者は卜伝が臆病風に吹かれて決闘から逃れようとしているのだと思いこみ、ますます調子に乗って卜伝を罵倒する。周囲に迷惑がかかることを気にした卜伝は、船を降りて決闘を受けることを告げ、若者と二人で小舟に乗り移る。そのまま卜伝は近傍の小島に船を寄せると、若者が船を飛び降りるや否や櫂を漕いで島から離れてしまう。取り残されたことに気付いた若者が大声で卜伝を罵倒するが、卜伝は「戦わずして勝つ、これが無手勝流だ」と言って高笑いしながら去ってしまうというものである。これは『甲陽軍鑑』にある話だが、どこまでが真実かは判然としない。

また、若い頃の宮本武蔵が卜伝の食事中に勝負を挑んで斬り込んだ際、囲炉裏の鍋の蓋を盾にしたとする逸話があるが、塚原の死後に宮本武蔵は誕生しており、これは史実ではない。

『天真正伝新当流兵法伝脉』では、鹿島沼尾郷田野(現・鹿嶋市沼尾)の松岡則方の家で死去とする。『鹿島史』によれば元亀2年3月11日(1571年3月6日)、83歳で死去。 法名は宝剣高珍居士。墓は須賀村(現・茨城県鹿嶋市須賀)の梅香寺にあるとするが同寺は焼失し、墓のみが現存している。位牌は近くの長吉寺にある。 
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みちのくの治山治水に天の声

2011年10月03日 09時42分38秒 | 日記
「民主国家では考えられない」
元秘書3人の有罪判決に対して小沢一郎民主党元代表が発した言葉である。

小沢一郎民主党元代表は民主国家を口にする前に、国民の86パーセントが証人喚問するべき、66.5パーセントが議員辞職するべきだといっている世論調査の結果に謙虚に耳を傾けるべきではないのか。政治家として自らにかけられた多くの嫌疑・疑惑に対して、自らの言葉で明確に説明する責任があるのではないか。

民主国家とは、民主制をとる国家。主権が国民にある国家。民主国。と、いう意味である。
日本は主権在民の民主国家であると日本国憲法に明記してある。三権分立で司法の判断は独立している。

しかし、司法が権力を独占して暴走するのを防ぐために法務大臣には「指揮権」が付与されている。法務大臣が必要とみとめれば検事総長を通じて検察全体をコントロールできるのである。逆に検察が不起訴とした案件を国民目線で起訴するように促すことができる検察審査会の制度もある。現に小沢氏はこの制度により強制起訴を受けたのである。

2010年、民主党政権下の千葉景子法務大臣は就任当初から従来の大臣とは異なり「法務大臣が一般的に指揮権を持っているということは認識をしています」と指揮権発動もありうることを示唆していた。

2009年に小沢一郎民主党元代表秘書が起訴された際には民主党の第三者委員会が「指揮権発動による捜査中止もありえた」と指揮権発動に肯定的な報告書をまとめたことも指揮権発動の容易さに拍車をかけていた。

2010年に小沢一郎氏の資金管理団体の土地購入に関する陸山会事件で与党民主党幹事長の小沢一郎氏に対して強制捜査が行われ、石川知裕衆議院議員を含む元秘書3人が捜査対象になった時は指揮権発動の可能性が指摘されたが、最終的に元秘書3人は逮捕、起訴され、指揮権発動は行われなかった(当時の検事総長は樋渡利秋氏)。

つまり、民主的な制度によって強制起訴となった小沢一郎氏の司法に対する批判は、本人の希望に副わないという意味においては理解もできるが、民主国家としての日本の司法制度を批判するのは言い過ぎではないかと思われる。

日本では通常の案件では三審制が採用されている。第一審の判決に不服で第二審の裁判を求めることを控訴、第二審の判決に不服で第三審の裁判を求めることを上告という。

しかし、上告が可能な理由は限定されていることから、必ずしも同じ議論を3度繰り返すことができるわけではない。実務的には、ある上告理由に該当するとして上告を行うこととなるが、上告審では「上告理由にあたらない」として上告が棄却される場合がほとんどであるため、裁判は事実上は二審制に等しいとも指摘されている。

いずれにせよ小沢一郎民主党元代表が元秘書達に対する判決に不服であることは解からなくも無いが、法と証拠に基づいて下された判決には、法と証拠に基づいて、控訴、上告を行うべきであり、徒に民主国家の司法制度を批判するべきではない。
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