日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
人生を大いに楽しむために言いたい放題、書きたい放題!!
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石が泣く 小夜の中山 青しぐれ

2018年04月26日 17時35分53秒 | 日記
「小夜の中山峠」
 小夜の中山峠は、旧東海道の金谷宿と日坂宿の間にあり、急峻な坂のつづく難所である。古来、歌枕としても有名であり、古今和歌集の紀友則「東路(あづまぢ)のさやの中山なかなかに何しか人を思ひそめけむ」や新古今和歌集の西行法師「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」で広く人口に膾炙しています。

「夜泣き石伝説」
 曲亭馬琴の『石言遺響』(文化2年)(1805年)によれば、その昔、お石という身重の女が小夜の中山に住んでいた。ある日お石がふもとの菊川の里(現・静岡県菊川市菊川)で仕事をして帰る途中、中山の丸石の松の根元で陣痛に見舞われ苦しんでいた。そこを通りがかった轟業右衛門という男がしばらく介抱していたのだが、お石が金を持っていることを知ると斬り殺して金を奪い逃げ去った。
その時お石の傷口から子供が生まれた。そばにあった丸石にお石の霊が乗り移って夜毎に泣いたため、里の者はその石を『夜泣き石』と呼んでおそれた。生まれた子は夜泣き石のおかげで近くにある久延寺の和尚に発見され、音八と名付けられて飴で育てられた。音八は成長すると、大和の国の刀研師の弟子となり、すぐに評判の刀研師となった。
そんなある日、音八は客の持ってきた刀を見て「いい刀だが、刃こぼれしているのが実に残念だ」というと、客は「去る十数年前、小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったため、音八はこの客が母の仇と知り、名乗りをあげて恨みをはらしたということである。
その後、この話を聞き同情した弘法大師が、石に仏号を刻んでいったという。
なお、ほぼ同様な伝説は安永2年(1773年)刊行の随筆「煙霞綺談」(遠州の人・西村白鳥 著)にも記載されている。


「子育て飴」
 久延寺の和尚が飴で子を育てたという伝説から、琥珀色の水飴が小夜の中山の名物となっている。
久延寺の隣にある茶屋「扇屋」が、峠を通る客に出したのが始まりとされる。「国道1号線小夜の中山トンネルの手前」には「名物 子育飴 元祖 小泉屋」があり、この店の裏に「夜泣き石」がある。

「夜泣き石の場所」
 現在「夜泣き石」と伝えられている石は二つ存在し、以下の場所に安置されている。
(1)国道1号小夜の中山トンネルの手前(東京側)の道路脇。「名物 子育飴 元祖 小泉屋」の裏。
「夜泣き石」を東京で見せ物にする興行が失敗し、焼津に置き去りになっていたものを地元の人々が運んだとされる。
(2)久延寺境内。こちらは本来の夜泣き石ではない。
また、かつて置かれていた場所には、夜泣石跡の石碑がある

コメント (2)
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砂ずりの 塩焼きで喰ふ 初鰹

2018年04月23日 15時45分31秒 | 日記


砂ずりの塩焼きで喰ふ初鰹
(よみ)すなずりのしおやきでくふはつがつを
砂ずりは鶏の砂嚢ではなくて鰹のハラモです。居酒屋メユーです。


鬼ごろし鰹は土佐に叩くべし
(よみ)おにごろしかつをはとさにたたくべし
鬼ごろしとして愛された「忠正」蔵元の吉屋酒造は廃業しましたが銘柄は別の蔵元に引き継がれています。鰹の土佐造りには諸説ありますが藁の直火で焼霜にして冷水で冷やしてから刻むのを「たたき」というそうです。


秘めやかに引墨匂ふ梅雨の文
(よみ)ひめやかにひきずみにほふつゆのふみ
引墨は封書の封じ目に〆などの墨を引くこと。墨書きの手紙なんか滅多には届きません。

賽の目が背く卯の花腐しかな

(よみ)さいのめがそむくうのはなくたしかな
「卯の花腐し・うのはなくたし」は初夏の長雨。
俗に「土方殺すにゃ刃物は要らぬ雨の三日も降ればよい」と云います。飯場では仕事にあぶれた土工たちが朝から酒を飲みながら博奕に興じます。賽子の目はどうにもなりません。


母の日も知らず飯場を流れけり

(よみ)ははのひもしらずはんばをながれけり
飯場は作業員宿舎(workers' living quarters)です。
若いころの数年間は工事現場で飯場暮らしも経験しました。
母の日どころか自分の誕生日すらも忘れて酒浸りの不甲斐無い生活でした。

コメント (4)
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白兎奴は 小判の色を 好みます

2018年04月05日 16時04分26秒 | 日記
 『後拾遺和歌集』という勅撰和歌集に中務卿兼明親王の歌として「ななへやへはなはさけども山ぶきのみのひとつだになきぞあやしき」というのが載っているそうです。

 若き日の太田道灌が蓑を借りるべくある小屋に入ったところ、若い女が何も言わず山吹の花一枝を差し出したので、道灌は怒って帰宅しました。後に山吹には「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき」の意が託されていたのだと教えられ無学を恥じたという有名な話が『常山紀談』に載っています。
 『常山紀談』(じょうざんきだん)は、江戸時代中期に成立した逸話集。著者は備前岡山藩主池田氏に仕えた儒学者・湯浅常山。

落語「道灌」のあらすじ。
 「岩田のご隠居」宅に遊びに来た八五郎は、隠居に張りまぜの屏風を見せてもらう。八五郎は絵のひとつについて、「シイタケの親方みてェな帽子かぶって、虎の皮のモモヒキ履いて突っ立ってるあれは誰です?」とたずねる。それは太田道灌の「山吹の里」の伝説を描いたものであった。隠居は以下のような道灌の逸話を語る。

 室町時代中期の武人・道灌は、狩りをしている最中に村雨に遭い、雨具を借りようと1軒のあばら家に立ち寄った。15歳くらいの少女が出てきて、「お恥ずかしゅうございます」と言いつつ山吹の枝を盆に乗せて差し出し、頭を下げた。道灌が意味をつかみかねていると、家来のひとりが「『七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき』という古歌がございます(後拾遺和歌集・兼明親王作)。

 これは『実の』と『蓑(みの)』をかけ、『お出しできる雨具はございません』という断りでございましょう」と進言した。これを聞いた道灌は「ああ、余はまだ歌道(かどう)に暗い(=詳しく知らない)のう」と嘆き、それ以来和歌に励み、歌人として知られるようになった。

 これを聞いた八五郎は「うちにもよく傘を借りに来る男がいる。ひとつその歌で追っ払ってやろう」と思いつき、歌を仮名で隠居に写してもらって帰宅する。
 
 ほどなくして雨が降り出し、その男が飛び込んでくる。からかうチャンスがやって来たと感じた八五郎は内心で喜ぶが、男はすでに傘を持っていて、「提灯を貸してほしい」と八五郎に頼む。雨具でなければ「蓑ひとつだに」ができないため、八五郎は困り、「『雨具を貸してください』と言やァ(=言えば)、提灯を貸してやらァ」と男に告げる。男がしかたなく「雨具を貸してくれ」と言うと、八五郎は少女を演じ、「お恥ずかしゅうございます」と言いつつ、歌が書かれた紙を差し出した。男はそれを「ナナヘヤヘ、ハナハサケドモ、ヤマブシノ、ミソヒトダルト、ナベトカマシキ」とつかえながら読み、「短(みじ)けェ都々逸だな」と感想を漏らす。八五郎が「都々逸う? おめえ、よっぽど歌道が暗(くれ)ェなァ」とからかうと男は、

「カド(=角)が暗ェから、提灯借りに来た」・・・・噺のオチです。

 ヤマブキは普通一重で花びらは五弁です。これには実がなります。八重咲きにおける、内側の花びらは、雄蘂や雌蘂にあたり、それらが花弁化したのが八重咲きです。

 花弁はもともと雄蘂や雌蘂を囲む葉に由来するものであり、雄蘂や雌蘂はそれぞれ小胞子葉、大胞子葉であるから、やはり葉が起源です。いずれも葉に由来するものなので、それらがすべて花弁化すること自体はさほど不思議ではない。ただし、八重咲きの花では雄蘂や雌蘂が正常に形成されないので、種子や果実は作られない場合が多い。繁殖には株分けや挿し木などの栄養生殖が行われる。
コメント (2)
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