日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
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卵茸無毒と識るも口にせず

2023年10月16日 13時36分30秒 | グルメ


卵茸無毒と識るも口にせず   白兎

たまごだけむどくとしるもくちにせず

茸(きのこ)は晩秋の季語。
卵茸は、ハラタケ目テングタケ科テングタケ属のテングタケ亜属タマゴタケ節に分類されるキノコの一種。夏から秋にかけて、広葉樹(ブナ科・カバノキ科)および針葉樹(マツ科)の林内、あるいはこれらの混交林に孤生ないし点々と群生する。鮮美な色調を有することから、日本では有毒キノコのように誤解されがちだが、実は無毒であり優秀な食用キノコとして人気がある。キノコ自体壊れやすいため、一般にはほとんど流通していない。茹でると煮汁に黄色い色素が出るため、色を楽しむには茹でずに焼いた方がいい。味は強いうま味があり、フライや炊き込みご飯、オムレツなどによく合う。殻を破る前の幼菌は生食されることもある。現在、信州大学で栽培に向けた研究が進められている。写真はFBフレンド満森傑さん撮影。

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有東木は水のふるさと山葵咲く

2023年05月18日 10時16分51秒 | グルメ

有東木は水のふるさと山葵咲く  白兎
うとうぎは みずのふるさと わさびさく
山葵の花(わさびのはな)は初夏の季語。子季語に、花山葵。
山葵は、日本原産で北海道から九州まで渓流のほとりに自生する。栽培されることも多い。五月ごろ、小さい白い十字の花を、短い房状ににつける。根茎は和食に欠かせない香辛料「わさび」。花穂も食用になる。
有東木は「うとうぎ」と読む。静岡市葵区有東木である。旧安倍郡大河内村に属し、静岡市街から安倍川沿いに三〇キロメートルほど北上した山間高地に位置する。
十枚山、仏谷山、青笹山と続く安倍山系の中腹に開けた戸数八〇戸ばかりの集落であるが、寺や神社もあれば、商店や農協の出張所もあり、路線バスの運行もあるので、所謂、山間僻地の感覚はない。「静岡のチベット」などともいうが、これは伝統芸能や昔からの習俗をよく伝えていることに対する譬喩だろう。この地の標高は五〇〇メートルを超えており、一般的に温暖と言われる静岡にあって、冬季には積雪もみられる寒冷な地域である。
慶長年間、一六〇〇年頃というから丁度関ヶ原の合戦があったころだが、有東木の人、白鳥亀衛門がワサビ山の野生ワサビを村内「井戸頭」湧水地に移植したところ非常によく成長繁殖したので、他の村民もこれを見習ったのがワサビ栽培の始まりとされる。このワサビの人工栽培を我が国で最初に始めたのが有東木の人たちであったと言うのが、何と言ってもこの土地の人たちにとって最大にして最高の自慢の種なのである。
慶長一二年(一六〇七年)七月、駿府城へ入城した大御所家康に献上した折に、その味が絶賛されたことや、葉が徳川家の葵の家紋に通じることから、幕府の庇護を受けることとなり、村外不出の御法度品扱いとなって厳重に管理された。

ワサビの栽培技術が有東木以外へ流出したのは家康の時代からずっと下って延享元年(一七四四年)に伊豆の天城から当地へシイタケ栽培の技術指導のために来ていた板垣勘四郎と与市主従によって翌延享二年五月に伊豆の天城へ伝えられた。これは東照権現家康公の決めた掟を破るものとして寛延三年(一七五〇年)五月十日、駿府町奉行所の白洲において訴訟裁判が行われたが、九代将軍家重の御側御用取次側衆の大岡忠光によって一切お構いなしの裁定が下されている。写真はFBフレンド白鳥洋子さん撮影。
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蟹漬けに合ふ甜酒を見繕ふ

2023年05月10日 10時30分20秒 | グルメ


蟹漬けに合ふ甜酒を見繕ふ   白兎

がんづけにあふたむざけをみつくらふ

蟹胥(かにびしこ)は三夏の季語。子季語に、蟹醤、蟹漬。
蟹の塩辛のこと。蟹の肉や味噌に塩と唐辛子を混ぜ熟成させる。酒肴などに珍重される。
『がん漬け』は干満差の大きい干潟として知られる有明海沿岸地域で昔から食べられている郷土料理。干潟に棲む小型のカニをよく洗った後で丸ごとすりつぶし、塩や唐辛子などと混ぜ合わせてねかせる塩辛の一種だ。『がに漬け』、『がね漬け』などと呼ばれることもある。『万葉集』の第16巻3886番に『がん漬け』の作り方を詠んだ愉快な歌がある。
『万葉集』の原文は全て万葉仮名であるから訓読みを書いて置く。
おしてるや 難波の小江に 廬作り 隠りて居る 葦蟹を 大君召すと 何せむに 我を召すらめや 明けく 我が知ることを 歌人と 我を召すらめや 笛吹きと 我を召すらめや 琴弾きと 我を召すらめや かもかくも 命受けむと 今日今日と 飛鳥に至り 置くとも 置勿に至り つかねども 都久野に至り 東の 中の御門ゆ 参入り来て 命受くれば 馬にこそ ふもだしかくもの 牛にこそ 鼻縄はくれ あしひきの この片山の もむ楡を 五百枝剥き垂り 天照るや 日の異に干し さひづるや 韓臼に搗き 庭に立つ 手臼に搗き おしてるや 難波の小江の 初垂りを からく垂り来て 陶人の 作れる瓶を 今日行きて 明日取り持ち来 我が目らに 塩塗りたまひ きたひはやすも きたひはやすも。歌作者不詳(乞食者)。 
意訳は以下の通り。
私めは難波の小江に棲んでひっそり隠れている葦蟹(あしがに)でござんす。あいや聞いて下され、その私めを大君が召しておられるというじゃありませんか。どうして私めなんかお召しになるのでしょう。明らかなことは、歌う人とこの私めを、笛吹き人と私めを、琴弾き人と私めを、一緒に所望なさったらしい。とにもかくにもお召しをお受けしようと、今日明日の飛鳥に至り、置くともの置きなに至り、つかないとの都久野に至り、東の中の御門より参内して用命をお受けしました。私めが馬なら手綱、牛なら鼻輪で、片山の楡(にれ)の木につなぎとめるが、私めは蟹ゆえ幾日も日に干し、からからとさえずるような音を立てて、韓臼で搗き、庭に出て、手臼に搗くのでございます。そうしておいて、私めの故郷である難波の小江から作った濃く辛い初塩を陶職人の作る瓶(かめ)に垂らし込む。その瓶を早急に取り寄せてわが目に塗り込めるんでござんす。そうしておいて、干物にさらし、干物にさらすんでがんすよ 。画像出典:ウイキペディア。


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ロゼーテの シマサルナシに 絆される

2022年01月10日 16時48分53秒 | グルメ
 私が敬愛する友人の一人にロゼーテさんがいる。彼女の著作や私の俳句がきっかけのご縁だがもう10年以上も心温まる交流が続いている。遠方にお住まいの方なので電話やメールでのやり取りは頻繁にしているがいまだ直接にお会いしたことはない。

 最近、居住地付近に生育するシマサルナシを送ってくださったので簡単ではあるがここに紹介しておく。

 シマサルナシ(島猿梨)は、琉球列島から九州、四国、紀伊半島南部の沿岸部に分布する亜熱帯性のマタタビ科のつる性植物。キウイの仲間で、果実は栄養価が高く、収穫後に追熟すると糖度は一五度に達する。樹上では実が固いままのため、獣害の恐れが少ない。

 樹皮は暗褐色で、茎が他物に巻きついて生育する。葉は厚い紙質でやや硬く、表面は光沢がある。葉は先端の尖った心形~卵形で、鋸歯がまばらにあり、互生する。5月頃、葉腋から集散花序を出し、1~8個の5花弁を咲かせる。花弁は白色で、基部付近は淡紅色を帯びる。果実は緑褐色~褐色の広楕円形で、果実の表面には褐色の斑点があり、小さいキウイフルーツのようで、11月頃に熟す。

 今から二千二百年前に秦の始皇帝の命を受け、不老不死の薬を求めて日本を訪れたとされる徐福が探していた仙薬の一つは、熊野市などに自生するキウイに似た果実「シマサルナシ」だったとする説を提唱する研究者もいる。和歌山県紀南果樹研究室の田中一久室長(当時)である。田中室長は、山口県上関町の祝島で徐福の不老長寿の薬と伝えられる「ナシカズラ」が、シマサルナシとよく似ていることを知り、文献で調べたところ、同一種であることを確認した。

 写真のシマサルナシを早速に食してみたが、樹上で既に完熟状態になっており、皮は簡単にむけるし、甘味も十分にある。大きさこそ市販のキウイフルーツには劣るものの食味は遜色ないのである。

 シマサルナシは挿し木などで簡単に殖やせるというし、沿岸性だそうであるから、耕作放棄地などで栽培し、徐福の仙薬として商品化したら案外ビジネスになるのかもしれない。

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憧れは 縄文食を 食べること

2018年01月11日 19時12分43秒 | グルメ
 私の原風景の一つに「鎮守の森」がある。記憶の中の「鎮守の森」は黒くてこんもりとしている。小高い丘の頂に小さな社殿があって小学校の帰りによく遊んだものである。

 子供の頃は何の意識も持たず、ただ無心に遊んでいただけであったが、今にして思えば黒くてこんもりしていたのはシイの大木に覆われていたからに他ならない。

 シイはブナ科の樹木で、樹高は二十五メートルにも達する大木となる。広葉樹であるが落葉はせず、所謂、照葉樹である。

 文化人類学という学問の分野に「照葉樹林文化論」というのがある。

 日本西半部から中国華南、ブータン、ヒマラヤにかけての照葉樹林帯とこの地域に住む民族の文化要素の類似性を一つの文化圏として捉えようとしたものである。

 その内容をつぶさに知るところではないが、シイやクスが茂る「鎮守の森」は、祖先からの宗教観を伝えるのと同時に、その文化を育んだ自然環境としての照葉樹林をかたくなに守ってきた場所なのである。

 私が子供の頃に教えられた日本の歴史では、先ず原始時代、石器時代があって、人々は洞窟などに住み、狩猟や漁労や採集などで生活していた。

 続く縄文時代には竪穴式住居に住み、縄文式土器を使い、狩猟や漁労や採集を主とした生活をしていた。次の弥生時代になると稲作が伝わり農耕を主とした生活に変わった、といった具合であった。

 ところが、最近の考古学では、紀元前約一万年から紀元前約五〇〇年頃まで続いた縄文時代においても、イヌやブタを飼育し、ヒョウタンやウリ、ゴボウ、エゴマ、クリなどの植物を栽培し、縄文時代後期においては穀物の生産も行なわれていたことが明らかになりつつある。

 話があらぬ方向へ向いてしまったが、縄文時代の狩猟、漁労、採集の生活とは一体どのようなものであったろうか。

 私自身の経験からすれば、狩猟は、クマ、イノシシ、シカ、カモシカ、ウサギ、タヌキ、キツネなどの獣類。キジ、ヤマドリ、カモ、ヤマバト、ウズラ、カケスなどの野鳥類を罠や落とし穴や弓矢を使って行なっていたものと思われる。私はサツマイモ畑を荒らしに来るイノシシを捕えるための落とし穴や野鳥を捕える罠の仕掛けを子供の頃に見た記憶がある。

 漁労は骨角製の釣針やヤスのほか魚網や簗や筌などの漁具を使って行なったであろう。日本の河川にはサケやアユやウナギ、ウグイなどが豊富に遡上した。

 さて、これからが本題の採取である。山菜の採取を趣味とする私には最も関心のあるところである。縄文時代ならずとも今日の日本でも盛んに採取が行なわれているのである。

 先ず、ワラビ、ゼンマイ、コゴミ、ノビル、トトキ、ウド、タラの芽などの山菜類。マツタケ、ハツタケ、シイタケ、シメジなどの菌類。ヤマイモやヤマゴボウや百合根、ワラビ粉、カタクリ粉、クズ粉などの根茎類。アケビ、マタタビ、ヤマブドウ、キイチゴ、ヤマボウシの実などの果実類。シイの実、クルミ、クリ、ドングリ、トチの実、ヒシの実などの堅果類である。

 そしてこの堅果類がもっとも安定した収量があり、且つ長期の貯蔵にも耐え得る重要な食料であった。今日でもクリやクルミは普通に食べられている。トチノミはトチ餅に、ドングリも四国の高知あたりでは加工されて今でも食べられていると聞いたことがある。


 シイの実もドングリの仲間であるが、一つ違うのは生でも食べられるということである。普通、デンプン類は生で摂取するとデンプン中毒を起こすことがある。生で食べても安全なのはシイの実とヤマイモのデンプンくらいではなかろうか。

 今でも福岡の大宰府天満宮では露店で炒ったシイの実を売っているそうであるが、シイの実は軽く炒って食べるのが美味いし、堅い皮を剥くのも楽である。

 子供の頃にはたくさんのシイの実を拾っておいて炒って食べたものである。その方法は缶詰の空き缶などに釘で孔を開けて針金で把手を付け、焚き火にかざして炙るのである。当時の悪餓鬼はマッチを持っていたし、マッチがなくても凸レンズと消し炭で簡単に火をおこすことが出来た。 

 シイの実のところで縄文時代の主食はシイの実やドングリなどの堅果類だったと述べた。

 これまでに判っている考古学の成果として、遺跡などから出土して確認されている木の実などは約六〇種類に及ぶ。その中で圧倒的に多いのがドングリやクリなどの堅果類である。


 そして注目すべきは、これらの実を収穫するために集落の周辺に意識的に栽培されていた節があるということである。青森県の三内丸山遺跡などの発掘から縄文時代においても人口の密集した集落があったことがわかった。

 これらの集落において安定した食料を確保するために縄文人はどうしたのか。集落周辺に作物を栽培或いは保護していただろうし、それぞれの集落の特産品を交易していたことは遺物からも証明されている。

 話は少し脇道へ逸れる。

 三月三日、桃の節句に供える菱餅は、今では菱形に切った三色の餅を指すが、本来は水草の菱の実に由来するようである。菱の実には烏菱(くろひし)のほかに青・紅・紫があったと『本朝食鑑』にある。

 稲作が伝播する前の穀物の中で重要な位置を占めていたのは真菰(まこも)である。マコモは、イネ科マコモ属の多年草。別名ハナガツミ。東アジアや東南アジアに分布しており、日本では全国に見られる。

 水辺に群生し、沼や河川、湖などに生育。また食用にも利用される。成長すると大型になり、人の背くらいになる。花期は夏から秋で、雌花は黄緑色、雄花は紫色。葉脈は平行。黒穂菌に寄生されて肥大した新芽(マコモタケ)は食用とされ、古くは万葉集に登場する。

 中国、台湾、ベトナム、タイ、ラオス、カンボジアなどのアジア各国でも食用や薬用とされる。さらに、日本では、マコモダケから採取した黒穂菌の胞子をマコモズミと呼び、漆器の顔料として用いる。北米大陸の近縁種 (アメリカマコモ) の種子は古くから穀物として食用とされており、今日もワイルドライスの名で利用されている。以上の記述はマコモで検索した結果です。五月五日には葉・茎を採って角粽(ちまき)を作り、燈心草で繋る。これは我が国の端午の佳例であると『本朝食鑑』にある。

 ここで本題のドングリに話を戻す。ドングリは現在でも「かしきり」または「樫豆腐」と呼ばれる食品として食べられている。「かしきり」の「きり」は「葛きり」の「きり」と同義である。「かしきり」は、高知県安芸市の山間地「東川地区」に伝わる、樫の実(あらかしの実)で作る豆腐のことである。



 炭焼きが人々の生活を支えていた頃は、「かしきり」が重要な食材であり、「かしきり」作りは、主に留守宅を守る年寄りの仕事でした。この食べ方は朝鮮渡来のもので、韓国では今でも団栗を食べています。

 日本では、ここだけに残っている貴重な食文化です。十六世紀に長宗我部元親が朝鮮から帰国するとき、朴好仁一族を連れ帰り、土佐に豆腐・にんにく・樫の実を原料とする「かしきり」の文化を伝たといわれています。以上も検索の結果です。

 かしきりの詳しい作り方なども検索できます。

≪注≫写真はネット上に公開されているものをお借りしました。










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ほろ苦き 春の味こそ 土筆飯

2017年03月11日 19時25分34秒 | グルメ
 春になると土手や野っ原のいたるところに顔を出すのがツクシである。ツクシといえば星野立子の「まま事の飯もおさいも土筆かな」という句を思い出す。平明で解りやすい一句だと思う。

 また、「土筆、誰の子、杉菜の子」というわらべ唄は誰でも一度ならず聞いたことがあるだろう。唄の通りツクシは木賊(とくさ)科の植物スギナの胞子茎である。胞子ということは即ち隠花植物ということであってスギナは羊歯植物の仲間である。

 ツクシの語源は澪標(みおつくし)からきたとする説が有力であるが、これには勿論異説も多い。ツクシは漢字で土筆と書くが、姿を筆に見立てたもので的確な表現だと思う。なお、定かではないがツクシを男性器に見立てた俳句もあったように記憶している。一方、親のスギナの語源は姿が杉に似ているから杉菜と呼んだという説が解りやすいように思うが、これにも諸説がある。

 スギナは庭や畑に蔓延ってなかなか手ごわい雑草となる。その理由は細くて長い地下茎にあって、地上部をいくら抜き取っても、地下茎を取り除かない限り、次から次へと生えてくるのである。また除草剤などにも比較的強いようである。スギナを根絶するためにはワラビの地下茎を細くしたような黒くて長い地下茎を残らず掘り起こして取り除く必要がある。

 初夏から夏の盛りにかけて青々と茂ったスギナを採取して水洗いしたのちに天日で乾燥したものを問荊(もんけい)といって利尿や淋病などの生薬にする。また、花粉症に効能があるとの説もあるが科学的な根拠が示されているわけではない。
問荊は少量を水で煎じて服用するのだが、病気の治療に用いるのは専門家の指導を受けるのが適切であることは言うまでもない。

 さて、ツクシの食べ方である。先ず、ツクシはなるべく未熟なものを選んで採取していただきたい。未熟なツクシは頭の部分が青くて広がっていない。反対に熟して胞子を散らしたものは急速に衰え、皺が寄ったりしているから見分けは簡単である。

 採ったツクシは関節の部分についている袴(はかま)を丁寧に取り除く。この際に未熟な頭の部分は残してよい。よく水洗いしてから笊にあげ水を切れば料理の準備完了である。軽く茹でてアクを抜いてからだし汁で煮たり、玉子で閉じたりするのが手っ取り早い食べ方であるが、天麩羅に揚げたり、佃煮にして保存する方法もある。

 また、少量のツクシを御飯に炊き込んで土筆飯として季節の風味を楽しむのもよい。ただし、ツクシにはアルカロイドやケイ酸などが含まれているので一度にたくさん食べるのは控えた方がよい。

 私が俳句の先輩のお宅でご馳走になった土筆飯は帆立貝柱の出汁が効いて実に美味であった。ちなみにツクシにはちょっとしたほろ苦さがある。

 最後にこれは蛇足である。江戸時代の静岡は幕府の直轄地であったがために駿府城には城主がいなかった。代わりに幕府の重役が城代や町奉行、
代官として赴任し、多くの勤番侍を統率していた。これらの勤番侍たちを慰労するために「土筆ぶるまい」という年中行事があったそうである。地元に住んでいながら「土筆ぶるまい」についての詳しい経緯がわからないのが残念である。

◆ つくしつむとて妻と野に出る  白兎




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柚子湯して 南瓜を食ふて 冬至かな

2016年12月21日 13時02分23秒 | グルメ
 日本には、古来から季節の節目などにお供え物を飾る風習がある。たとえば、ひな祭りには菱餅、端午の節句の柏餅、夏の土用にはウナギなどの「う」のつく食べ物、十五夜には月見だんごなどといった類のものだ。

 その風習のひとつに、冬至の運盛りがあり、 冬至の七種と呼ばれる食べ物をお供えしていた。

【冬至の七種(ななくさ)】

・南瓜(なんきん)※かぼちゃ
・蓮根(れんこん)
・人参(にんじん)
・銀杏(ぎんなん)
・金柑(きんかん)
・寒天(かんてん)
・饂飩(うんどん)※うどん

 一見すると共通点が浮かばないが、よく見ると「ん」という文字が2回ずつつく食べ物である。

 この他にも大根、蜜柑、蒟蒻、昆布など「ん= 運」のつく食べ物をお供えしていた。

 「ん」のつく食べ物は「運盛り」といわれて縁起をかついだり、また「いろはにほへと」の47音が「ん」で終わることから、「ん」が物事の終わりをあらわすといった「一陽来復」の願いも込められているのである。


 もう一つの冬至の風習に柚子湯がある。柚子には、 血行を促進する効果があり、風邪予防に良いとされている。

 寒さ厳しい冬を健康に過ごすため、冬至に栄養豊富なかぼちゃを食べ、柚子湯に入るという風習は夙に有名である。

 他にも、ゆずの香りが「邪気払い」になるという説や、万一何かあっても、「融通が利く(ゆうずう=ゆず)」という言い伝えもあります。

 我が家も今日は柚子湯に浸かり、南瓜を食うことになる。
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とろろ汁 自然薯擂って 作ります

2016年11月22日 17時25分14秒 | グルメ
 鞠子宿(まりこしゅく、まりこじゅく)は、東海道五十三次の20番目の宿場である。丸子とも書く。現在の静岡県静岡市駿河区丸子。

 東海道中でもっとも小さい宿場。天保14年(1843年)の記録によると、家の数は211軒、旅籠は24軒であったという。となりの岡部宿(藤枝市)との間の宇津ノ谷(静岡市駿河区)には昔の街並が残る。また、付近には源氏・今川氏・徳川氏ゆかりの史跡がのこる。名物はとろろ汁で、広重が描いた「丁子屋」で現在も食することができる。広重の鞠子宿の浮世絵はクロード・モネの連作「積みわら」に構図やグラデーションの使い方など影響を与えた。

 丁子屋の歴史は、今から400年ほど前の慶長元年にさかのぼれる。東海道五十三次の20番目の宿場「丸子宿」として栄えたこの地は、自然薯が成育して薬や食料として用いられ地元の人々の栄養源となっていた。



 1596年(慶長元年)この宿場町の茶屋として丁子屋平吉が【丁子屋】を開いた時から現在の当主13代目、柴山馨氏まで伝統の味は受け継がれてきた。店内は安藤広重の大作「東海道五十三次」が並ぶ大広間「広重」をはじめ、ゆかりのある人物の名前をつけた和室が広がる。看板料理は土つくりからこだわった、自然薯を使った滋味豊かな『とろろ汁』である。

 松尾芭蕉の『梅若菜丸子の宿のとろろ汁』の句は元禄4年正月、江戸に出発する門人乙州に与えた餞<はなむけ>の吟。この句を、発句として歌仙が巻かれた。句意は新春を迎えて梅も花咲き、川辺には水菜が青々と茂っている。駿河の国鞠子の宿のとろろ汁もおいしい季節を迎えていることだろう。

 乙州の旅立ちへの激励が込められた餞の吟。餞別吟として古来最高の句ではないだろうか。土芳の『三冊子』には芭蕉の言葉として、「工みて云へる句にあらず。ふといひて、宣しとあとにてしりたる句なり。梅、若菜と興じて、鞠子の宿には、といひはなして当てたる一体なり」と記されている。作者自身もどうしてこの句が脳裏に湧いたか分からないと言いたいようである。

 山芋の葉が黄葉してそろそろ自然薯掘りの季節になった。私が元気だったころには自然薯掘りやとろろ汁を作ることを最も得意としていたのである。
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藻屑蟹伊豆は河津の名物だ

2016年06月01日 14時33分14秒 | グルメ
 モクズガニ(藻屑蟹)は、エビ目(十脚目)・カニ下目・イワガニ科に分類されるカニの一種。食用として有名な「上海蟹」(チュウゴクモクズガニ)の同属異種であり、日本各地で食用にされている内水面漁業の重要漁獲種である。

 別名については、モクゾウガニ(千葉県習志野市)、ズガニ(静岡県伊豆地方)、ツガニ、ツガネ(長崎県)、ヤマタロウ、カワガニ、ケガニ、ヒゲガニ(徳島県貞光町)、ガンチ(徳島県阿南市)、太田川流域の広島市では「毛ガニ」などがある。モクズガニはおもに関東地方の呼び名であり、西日本ではツガニやズガニと呼ぶ地域が多い

 甲幅は7-8cm、体重180gほどに成長する、川に産するカニの中では大型種である。鋏脚に濃い毛が生えるのが大きな特徴で、"Mitten crab(手袋ガニ)"という英名もこの毛に由来している。

 成体はおもに晩夏から秋に河川の淡水域に出現する。雌雄とも、一部の個体は越冬するが、多くの個体は秋から冬にかけて繁殖のために海へ下る。そのため成体は春以降夏の終わりまで淡水域ではほとんど採集されない。河口や海岸では、秋から翌年の初夏にかけて甲幅3-8cm程度の成体が採集される。長く海にいる成体には甲に海藻が付着していることがあり、時には20cm以上に成長した緑藻が見られることもある。

 日本各地で「ツガネ」「ツガニ」(津蟹)、「ヤマタロウ」(山太郎)などという方言でよばれ、古来から食用にされてきた。漁はふつう秋から冬にかけて産卵のために川を下るモクズガニを狙い、梁のような仕切りを併用した籠漁などがおこなわれる。

 消費傾向は地域により差があり、多くの地域で地元で自家消費される他、県内で販売され消費される地域が多い。九州は消費の盛んな地域であり、鹿児島、宮崎、大分、島根などから福岡や北九州方面へ出荷されている。

 炭坑のあった筑豊では、穴から出られるという縁起担ぎのために食する習慣があった。また富山や福井から関西・中京方面へ出荷されることもある。四国では仁淀川や四万十川のものが有名である。

 食べ方は基本的に上海蟹と同じで、大雑把に2つ折にして甲羅の身にかぶりつくと、この香りと甘味旨味が人生観が変わるほどに旨い。またこれを臼などでつぶして水で濾し、それをみそ汁などにする。これは全国どこでも行われる料理である。郷土料理では、寿司、煮物、釜飯などにするところもある。

 写真の固体は私が施工した静岡市駿河区の都市河川から採取したもので栄養状態が少し悪いようである。獲れたところが下水同様のところだったから食べることはしなかった。

 この蟹は幸運にも現場へ働きに来ていた職人さんによって葵区油山の清流油山川(安倍川支流)へ放流された。
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タケノコは淡竹が一番美味である

2016年05月22日 12時28分03秒 | グルメ
 静岡あたりでは一番茶の摘採が終わったころハチコが出ます。ハチコウともいいます。

 ハチク(淡竹)は中国原産の竹の一種。黄河流域以南に広く分布し、日本ではモウソウチク、マダケに次いで各地でよく植栽されている。北海道南部以南に分布し、モウソウチクよりも耐寒性を有するために特に日本海側に多い。山地では野生化しているものもある。別名アワダケ、呉竹(くれたけ)。

 直径は3~10cm、高さは10~15m程だが高いものは20mになるものもある。節の輪は2個で節間は20~40cm。若い桿には白い粉があり、各節から枝が2本出る特徴を有する。

 750年(勝宝3年)頃には日本にあったことが知られているが、起源は不明である。 細く割れるため茶筅などの茶道用具、花器に利用されるほか、枝が細かく分枝するため竹箒として利用される。 正倉院の呉竹笙、呉竹竿、彫刻尺八、天平宝物の筆などはハチク製と鑑定されている。 また、内側の薄皮は竹紙と呼ばれ、笛の響孔に張り音の響きを良くするほか、漢方薬としても使用される。

 ハチクの筍(タケノコ)は食用で径が約3~10cmで、最盛期は3月半ばから5月上旬、皮は紫色で まばらに毛がある。掘り出したばかりの筍は癖がなくモウソウチクのようにあく抜きをしなくても生で食べられるので美味とされる。時間が経つと通常ぬかを入れて茹でるあく抜きが必要。 筍はマダケと非常に良く似ているが、生える時季が早いことやマダケでは皮にある黒い斑点がない事や皮の色で見分けがつく。

 ただいまアク抜きのために茹でています。今夜はタケノコ飯にしてもらいます。
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