日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
人生を大いに楽しむために言いたい放題、書きたい放題!!
読者のコメント歓迎いたします。

白兎句の言い訳めいた自解です

2018年03月20日 17時34分28秒 | 日記
花伝書を閲す浅間祭かな
(よみ)かでんしょをけみすせんげんまつりかな
風姿花伝(花伝書)を書いたとされる世阿弥元清の父・観阿弥清次は元中元年5月19日(1384年6月8日)駿河静岡浅間神社社頭で演能したのち駿府で死去した。「閲す」は「えっす」あるいは「けみす」と読み文書・書物などに、目を通すといった意味です。

人を待つ片とき愉し夕ざくら
(よみ)ひとをまつかたときたのしゆふざくら
【日本伝統俳句協会・山本素竹先生の選評】
誰を待つかによって読者の楽しみ方がかなり変ってくるのですが、それは置いといて。
 花とは関係のない待ち合わせのようです。その場所にたまたま夕桜。本来なら人を待ったりするのは好みませんが、今日はできるだけ遅れてきてもらいたいくらい…。人を待つという揺れる心を通して、夕桜が美しく描かれています。
 片とき…と軽く、楽し…と言わず愉し、そして夕桜でなく…夕ざくら…。気持の行き届いた句です。ベテランと思いますが、いやみのない叙しぶりに好感が持てます。ステキな女性が目に浮かびます。 

鼻唄も春めくものの一つかな 
(よみ)はなうたもはるめくもののひとつかな
春らしい陽気になって気分もよく鼻唄のひとつも唸ろうというものだ。

たたなづく木曽の檜山も霞みけり
(よみ)たたなづくきそのひやまもかすみけり
山が幾重にも重なっている木曾のヒノキ山も春霞している。開田高原からみた木曾御嶽は雄大でした。


田螺和へ大吟醸の封を切る 
(よみ)たにしあへだいぎんじょうのふうをきる 
田螺の和え物を肴に美味い地酒を開封して一献傾けた。
コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

饅頭を伝えた聖一国師です

2018年03月19日 19時12分37秒 | 日記
今回は狐石の隣りにある聖一国師の碑です。

静岡茶の祖・聖一国師(1202〜1280年)は、足久保と釜石峠をへだてた旧・安倍郡大川村栃沢の生まれです。聖一国師という名は、死後、花園天皇から贈られた称号で、生前は円爾(えんに)といいました。
 幼いころから利発であった聖一国師は、5歳で久能寺に入門、その後、各地で修行を積み、嘉禎元年(1235)に宋へ渡りました。中華人民共和国浙江省杭州市余杭区径山鎮の径山にある径山興聖萬壽禅寺の無凖師範(ぶじゅんしばん)のもとで学び、仁治2年(1241)に帰国しますが、その 際、経典をはじめ、様々な技術を持ち帰りました。九州に博多織やうどんを伝えたのも聖一国師の功績といわれます。
 博多祇園山笠振興会は一般に広く知られている聖一国師が仁治二(1241)年、疫病除去のため施餓鬼棚に乗って祈祷水(甘露水)をまいたのが始まりという説を取っている。現在では毎年、栃沢の水が送られております。
 聖一国師は帰国後、多くの貴族の尊敬を受け、九州の崇福寺や承天寺、京都の東福寺の開山として迎えられました。
 寛元2年(1244)、聖一国師は入宋前に学んだ上野国(群馬県)の長楽寺に栄朝禅師を訪ね、その帰り、故郷栃沢の母のもとを訪れます。このとき、宋から持ち帰った茶の種を穴窪(足久保)に播いたことが『東福寺誌』に記されています。茶の栽培法や利用法も学んできた聖一国師は、この地が茶の栽培に適していることを見抜いていたのでしょう。このことが、静岡茶の発祥として伝えられています。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

諺に茶は人化かす狐草

2018年03月18日 14時12分32秒 | 日記
 今回ご紹介するのは静岡市葵区足久保奥組奥長島にある「狐石」です。

 静岡茶発祥の地の足久保には、「狐石(きつねいし)」と呼ばれる日本で一番大きいと思われる松尾芭蕉翁の句碑があります。
大きな自然石の表面に、天明8年(1788)に駿府の茶商・山形屋庄八(初代竹茗)によって刻まれたと伝わる碑文があり、松尾芭蕉の「駿河路や はなたちばなも 茶のにほひ」の句とともに自らの製茶技術復活の業績が記されています。
 
 竹茗堂の初代・竹茗(山形屋庄八)は、茶道や歌道に通じる文化人でした。宇治に出かけた時、同地の茶が非常に優れていることに感銘を受けた竹茗は、天明の頃、安倍川上流の足久保が茶樹の品種改良に適していると考え、茶園を開きます。そして竹茗自身も鮒沢(舟沢)の辺りに小屋を構えて茶を栽培し、古老から話を聞くなどして、十年に及ぶ苦心の末、青仕立て煎茶の製法復活に成功しました。


 「狐石」の名の由来は、かつてここに狐が棲んでいたことからと言われていますが、諺に「茶は狐草」というのがあるので小生は狐草説が有力だと思います。
台湾日日新報(新聞) 1917.10.17-1917.10.19(大正6)の茶業改良意見 という記事に、三好徳三郎氏談として次のようにあります。

 「余は茶産地たる山城に生れ殆んど半生を茶業に没頭し多年の経験より現在にては自から生産者となり自から販売者となるの簡便を悟了し数年前より淡水方面に茶園を設け自から製造に従事し居れり然るに茶の鑑定程困難なるものなく内地斯業界にては之を狐草と称し居れり即ち茶は光線の如何に依り品質を左右せらるるものにて例えば南受けの光線にては品質優良に見ゆるも北受けの光線にては品質劣悪に見ゆ、斯くの如き商品なれば製造よりも寧ろ販売に注意と努力とを要し純然たる茶農にては能く其の利益を保護し得ざるを以て旁々共同販売機関を必要と信ず云々」と。

 お茶が狐草と呼ばれるのは、水によって味が「化ける」からということからきているらしいです。たとえば、東京で飲んだお茶と大阪で飲んだお茶、あるいは京都で飲んだお茶が、同じ茶葉を使っているのに、まったく違ってくるのは、水によって変わってくるからとも言えます。

 台湾日日新報の記事中には、光によっても変わってくるともあります。
よく考えると、温度によっても変わってきます。
 一方で、お茶の葉の見極めは熟練の技を要するため、知識がないとだまされてしまう、ということからも、茶は「狐草」といわれていたそうです。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梅毒は始末の悪い病気です

2018年03月17日 13時13分07秒 | 日記
今回は静岡市葵区足久保口組神明原にある浄土宗の遍照山新光明寺の瘡守稲荷です。
瘡といえば瘡蓋であるが、これは傷などを覆う血や膿が乾いたもの。「疱瘡(ホウソウ)」は天然痘、「赤瘡(あかがさ)」は麻疹(はしか)の古名、「銭瘡(ぜにがさ)」は田虫の古名です。

しかし一般に「瘡・かさ」といえば黴毒、瘡毒(そうどく)とも呼ばれた梅毒(ばいどく)の俗称です。
梅毒はスピロヘータの一種である梅毒トレポネーマによって発生する感染症です。
第一感染経路は性行為であるため性病の一つとして数えられるものの、妊娠中、出生時の母子感染による先天性梅毒もある。
1940年代のペニシリンの普及以降、発症は劇的に減少したが、2000年以降、多くの国々で感染率が増加しつつある。たびたびヒト免疫不全ウイルス所謂エイズウイルスと併発するケースがあり、乱交、売春、コンドーム不使用に起因する。有効なワクチンは存在せず、抗菌薬の投与により治癒しても終生免疫は得られず、再感染が起こる。
『解体新書』を出した杉田玄白は1757年、25歳の若さで江戸・日本橋に開業し、町医者になりました。それから隠居するまでの50年、江戸のさまざまな病気を診たわけですが玄白が70歳の頃に書いた回想録『形影夜話』(1802年)には、次のような記述があります。
《已に痘瘡・黴毒、古書になくして後世盛に行はるる事あるの類なり》
 どういう意味かというと、「昔は医学書に天然痘や梅毒が書かれていなかったのに、今はずいぶん増えた」ということです。玄白が年を取るにつれ、梅毒患者は激増していきました。その一方で有効な治療法は見つからず、あらゆる医学書を読みあさったけれど、結局いまだにいい治療法がない。そして、これまで数万人の梅毒患者を診たという玄白は、次のような衝撃的なコメントを残すのです
「毎年1000人あまり治療するうち、実に700〜800人が梅毒である」
 一方、幕府医学所頭取の松本良順が書いた『養生法』(1864)には、《下賎の人間100人のうち95人は梅毒にかかっている。その原因は花街・売色に規制がないからだ》とあります。梅毒が花柳病と呼ばれるのは、このあたりに理由があるんですね。
 いずれにせよ、18世紀中旬にほとんど見られなかった梅毒は、19世紀中旬にはかなりの感染者がいた……つまり、わずか100年ほどで、日本に梅毒が異常に蔓延したことがわかります。
 日本で梅毒が初めて記録されたのは、1512(永正9)年のことで、歌人・三条西実隆の『再昌草』に記されています。《4月24日「道堅法師、唐瘡(からがさ)をわづらふよし申たりしに、 戯に、もにすむや我からかさをかくてだに口のわろさよ世をばうらみじ」》
 上の「唐瘡」が梅毒のことで、この年、京都では梅毒が大流行したのです。
 梅毒の起源ははっきりわかっていませんが、コロンブスがアメリカからヨーロッパに持ち込んだというのが通説。
 第1回航海でイスパニオラ島(ハイチ島)からもち帰り、1493年、まずバルセロナ全市で流行。1495年、フランスがイタリアに進駐したとき、傭兵にいたスペイン人からイタリア人に感染。ナポリで大流行したため、フランス人は「ナポリ病」、イタリア人は「フランス病」と呼びあいました。
 梅毒はヨーロッパ全域に広がったあと、大航海時代の波に乗ります。ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマ一行がインド航路を発見すると同時に梅毒もインドに上陸。その後、マレー半島経由で、16世紀の初めには中国の広東に達しました。
 やがて日明貿易や和冦経由で日本にも梅毒が伝来。関西で大流行を起こしたあと、江戸にもやってきて吉原などで一気に広まりました。中国や琉球経由だったため、日本では「唐瘡(とうそう)」や「琉球瘡」などと呼ばれました。
 前述したとおり、日本で梅毒が初めて記録されたのは1512年。ちなみに鉄砲伝来は1543年。ということは、梅毒は弾丸より速く日本にやってきたわけですな。恐るべし下半身パワー(笑)。
(余談ながら、後に吉原の隠語では最下級の遊女のことを「鉄砲」と呼びました。そういう遊女を買うと、梅毒に当てられるから)

さて、梅毒は日本人にとって脅威でした。それは有効な治療法がなかったからです。江戸時代まで、日本では「五宝丹」などの血液浄化の煎じ薬を飲む以外、何の対策もありませんでした。
 1775年、スウェーデン生まれのツュンベリーがオランダ東インド会社の外科医として長崎にやって来ます。そこで、梅毒の惨状を見て、ヨーロッパで普及していた特効薬を紹介します。この薬は1754年にオランダのファン・スウィーテンが発明したもので、0.104%の昇汞(しょうこう)液を服用するものでした。この薬の効果は劇的で、1776年までに長崎を中心に多くの患者が完治し、みな奇跡だと絶賛しました。
 ちなみに昇汞というのは塩化第2水銀のこと。服用量を間違えると水銀中毒になるため、おそらく、かなりの数の日本人が“水俣病”に苦しんだはずです。
(というか、特にヨーロッパでは水銀中毒になってよだれを流せば流すほど治癒すると信じられていました)
 江戸時代にはこんな川柳がはやりました。
 親の目を 盗んだ息子 鼻が落ち
 これがまさに梅毒の症状ですな。
 梅毒というのは4期に分かれていて、
 (1)感染後3カ月以内、陰部にしこり、潰瘍
 (2)3カ月以降、全身の皮膚に紅斑(ばら疹)や膿疱
 (3)3年以降、臓器、筋肉、骨に結節やゴム腫が生じる
 (4)10年以降、中枢神経系と循環器系を中心に全身が冒され、麻痺や痴呆、精神障害
(3)のゴム腫が崩れると瘢痕(傷)となるため、これを「鼻が落ちる」と表現したわけですな。
 ちなみに徳川家康の第2子、結城秀康は梅毒のため鼻が落ちて死にました。ほかには加藤清正あたりが梅毒病みの有名人。
あの野口英世がもっとも熱心に取り組み、成果をあげた分野が、梅毒の研究であったというのも意外です。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正体を見た人はなし池の主

2018年03月14日 17時32分15秒 | 日記
静岡市葵区足久保口組にある諸川池(舟渡池)は、自然環境に恵まれ準絶滅危惧種に指定されている珍しいトンボのフタスジサナエなどの生息が市内で唯一確認されております。

この池には、高山の池の主が鯨ケ池に逃れる際にしばらく体を休めた場所だという伝説があります。
私が入学した小学校は美和村立第二小学校・・・現在の静岡市立安倍口小学校です。高山の池の主や鯨ケ池の伝説には幾通りかありますが、ここでは生まれ故郷の「美和村誌」を引用しておきます。

『足久保に池があった。今は跡があるばかりだが、まだ水をたたえていた頃のこと。水見色の杉橋長者の一人娘の許に夜な夜な通う若者があった。いつの間にか来て帰るので、家人にも娘にも正体が知れなかった。そこで、母はタフ(藤)の糸を若者の襟に縫いつけるよう娘に教え、これで行方を窺った。

追うと若者は高山の頂の古池に姿を没した。主の仕業だったかと怒った長者は、下男人夫を引き連れ池に行くと、巨石を多数焼かせて池中に投げ入れた。耐えられぬ主は下村の鯨ヶ池に逃れたが、この時一眼を失ったという。それで鯨ヶ池の魚は眇となったのだそうな。(美和村誌)』
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

疣取りの石の窪みを拝みけり

2018年03月14日 17時10分51秒 | 日記

『疣取り窪石』
日本各地に「いぼとり地蔵」「いぼとり観音」「いぼ神様」「いぼ石」など疣(いぼ)にまつわる信仰をあつめている神仏や自然石がたくさんあります。

 イボ(疣)とは皮膚から盛り上がっている小さなできもの一般をさす俗語で専門的には疣贅(ゆうぜい)と呼ばれます。イボの多くはウイルス性で、一度、感染・発症すると周囲に広がり、治りにくくなるため、早期の治療が大事です。

 静岡市葵区内には大原釜戸と足久保奥組の二か所に「いぼ石」があるといわれています。

 今回、現地を訪れたのは、静岡市葵区足久保奥組奥長島にある「疣取り窪石 」です。

 奥長島バス停から足久保川沿いに道なりに進むと左手に小屋があり小屋の向かいの道路曲がり角に高さ3mほど幅が3~4mの自然石があります。この石が目的の疣取り窪石です。

 石の頂上に窪みがあり水が溜まっています。この水を木の葉につけてイボにつけるとイボがとれると言われています。

 ヒューマンパピローマウイルス(人乳頭腫ウイルス)による伝染性の疣だけが暗示療法で治ることがあるというのが皮膚科専門医の見解です。
 
 専門医で正しく診断を受けて皮膚科治療と共に神仏による暗示療法を併用すればきっと治癒が早まるだろう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

弱い者 いじめて何が  教育だ

2018年03月07日 13時38分31秒 | 日記
平成13年の古い記事ですが未だに反響がありますので上に持ってきました。


 香川県綾川町の町立綾南(りょうなん)中学校(同町には二つの中学がある)1年生のパキスタン国籍の男子生徒(13)が昨年11月、校内の廊下で同級生に足をかけられて大けがを負っていたことが、両親からの訴えで明るみになった。

 綾川町は「讃岐うどん」発祥の地として有名なところで、平安時代に讃岐国司でもあった学問の神様、菅原道真公ゆかりの土地でもある。

 綾南中学校の教育目標は、

思いやりと広い心で,ともに生きることを学ぶ

知性と創造性を磨き,世界に生きることを学ぶ

と、あるが、この学校では掲げた教育目標とはまったく逆行したことが行われている。校長、教頭以下の全教職員はもっとまじめに働いてもらいたい。

 両親は男子生徒がいじめを受けていたと主張。18日、足をかけたとみられる男子同級生を傷害容疑で県警高松西署に告訴し、町教委にいじめ防止と調査を求める申入書を提出した。町教委側は「いじめはなかった」と否定している。

 町教委によると、昨年11月28日、廊下を走っていた男子生徒に同級生が足をかけた。生徒は顔から廊下に倒れ、ひざ付近を強く打ち、現在も松葉杖で通学しているという。

 高松市内で記者会見した父親(41)らによると、男子生徒は日本で働く父親の元から学校に通うため昨年3月に来日し、同中学校に入学。当初、日本語はほとんど話せず、1週間ほどたつと同級生数人から「国へ帰れ」などと暴言を浴びせられるようになった。
 
 同年5月になると、濡れた雑巾を顔にぶつけられたり足を蹴られたりするなどし、足をかけられ転倒し、顔に軽い怪我をしたこともあったという。父親(41)は「担任や教頭に何度も改善を訴えたがかなわなかった」と話している。

 父親は「息子は『いじめが怖い』と話している。いじめが広がる前に解決してほしい」と訴えた。

 会見した中学の校長は「子供たちのふざけあいや偶発的な事故と把握していた。申入書を真摯(しんし)に受け止め対応したい」と調査することを明らかにした。


 さて、今回の事件は読者からの情報により綾南中学校で起きたことが判明したので、モデル校云々の記事は訂正してお詫びしておく。

 担任、教頭らは一体何をしていたのか。とぼけるのもいいかげんにしろといってやりたい。校長の認識は甘すぎるのではないか。松葉杖を突いた生徒を見て何も感じなかったとしたらこの校長はまったくの愚か者である。

 教育委員会はこの期におよんでも「いじめ」を否定している。教育委員会は何はさておき、まず第一に「弱いものいじめをしないこと」をスローガンに掲げてもらいたい。

 私の下衆の勘ぐりに過ぎないが、担任、教頭、校長、教育委員会がグルになって、大津市のように「いじめ」を隠蔽しようとしているとしか思えてならない。

 田舎町の出来事であるが町長なり県教育委員会なりが本気を出して取り組まないと有耶無耶の内にもみ消されてしまうのではないかと危惧するところである。
コメント (52)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする