日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
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新しき大河内橋開通す

2020年04月15日 15時20分29秒 | 日記
安倍川に架かる静岡市葵区渡の大河内橋が2020年3月28日開通し、地元自治会ら主催の式典が開かれた。行政関係者や地元住民ら約120人が出席し、待ち望んでいた橋の開通を祝った。
橋は長さ165・5メートルで幅8メートル。梅ケ島・大河内地区と市街地を結ぶ道路として重要な役割を担う。1951年に完成した旧橋が増水による被害を受けてきた教訓を生かし、新橋は河川内に橋脚を作らないニールセンローゼ橋という形式で造られた。

旧大河内橋は、一級河川安倍川に架かる橋梁で、昭和26年に架設され、架設後約70年を経過した高齢橋です。幅員が4.5mと狭く、すれ違いが困難な状況にあることから架替え事業に着手されました。
梅ヶ島温泉昭和線(県道29号)は、安倍川上流の梅ケ島・大河内地区と市街地を結ぶ唯一の道路であり、緊急輸送路に位置付けられています。また、地元住民の生活や通学、奥静岡エリアの観光資源へのアクセス道路として重要な役割を担っています。

旧大河内村は1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、横山村、相淵村、蕨野村、平野村、中平村、渡村、有東木村が合併して発足。
大河内橋を渡ったばかりの地域を下渡、その先が上渡と呼ばれます。下渡には旧大河内北小学校の跡地があり、上渡には渡公民館と地域の寺、臨済宗妙心寺派・大森山全福寺があります。全福寺には「精進料理とどろき」があります。
私は下渡にある林道沢山石津線落石防止工事を二か所施工しております。
日本の食文化を代表する山葵、実は有東木が栽培発祥の地です。山葵は日本原産のアブラナ科の植物で、江戸時代に静岡県安倍郡大河内村有東木(現在の静岡市葵区有東木)で、自生の山葵を採取して湧水を用いて栽培したのが最初と言われています。
旧大河内村出身の著名人といえば長谷川 博(はせがわ ひろし、1948年10月3日 - )氏です。氏は、日本の海鳥研究者。東邦大学理学部動物生態学研究室名誉教授。アホウドリを絶滅の危機から救った人物であり、『アホウドリ』から『オキノタユウ』への改称を主張する第一人者です。画像はFBフレンドの朝比奈玄甫さん撮影。
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春野まで続く秋葉の常夜燈

2020年04月06日 10時57分39秒 | 日記
第六〇番 安西五丁目地蔵堂。川除延命地蔵尊の地蔵堂が道路拡張工事で間口が狭くなってしまった。地蔵堂の前にある秋葉山常夜燈は静岡市指定有形民俗文化財に指定されている。

安西五丁目地蔵堂は、安西橋の東側のたもと、国道三六二号線(安西通り)の北側に面して建っている。
この国道三六二号線は、安西から羽鳥、藁科、清沢、川根を経て春野町の秋葉山に通じており、かつては「主要地方道静岡春野天竜線」と呼ばれていた。秋葉山は火伏せの神として名高く、そこへ通じる街道沿いには、秋葉山に献灯された常夜灯が各地に残されている。安西五丁目の地蔵堂の境内にも、嘉永元年(一八四八)一一月に再建された常夜灯が建っており、これは馬場町の赤鳥居の脇にある常夜灯と同型のものである。
ところで、江戸時代には安倍川に橋が架かっていなかった。そのため、秋葉山に参詣する人にとっても、安倍川越えは難所の一つだった。川除延命地蔵は、江戸時代の中頃、秋葉神社へ参詣する途中で行き倒れたり、安倍川を渡る途中で流されて命を落とした人を弔うために祀られたと言われている。同時に、安倍川の度重なる氾濫に苦しめられた地元の人々は、この地蔵に川除け、水害除けの祈願を行った。こうして、地蔵に対する信仰は深められたのである。ちなみに、現在の安西橋の場所には、明治七年に「稚児橋」という仮橋が初めて架けられ、その後、明治三二年になって本格的な木橋が建造された。これは蛇足だが「稚児橋」とは浅間神社の廿日会祭に奉納される稚児舞に由来する。稚児舞は現在の静岡市葵区建穂にあった建穂寺(明治初年廃寺)に伝わった舞で、建穂寺より浅間神社に出向いて奉納する習わしであった。建穂寺は秦氏の氏寺として白鳳13年(684)に建立された寺院で、浅間神社には秦氏の氏神を祀った賎機(しずはた)神社が鎮まっていたという。また建穂寺の稚児舞は大阪の四天王寺から伝わったとする伝承もあり、四天王寺舞楽が秦河勝の子孫が掌ったといわれているので、この関係からも相当古い時代にすでに両社寺で舞われていたと推察される。現在は徳川家康奉納の稚児舞として有名だが、これは戦国時代に今川家滅亡とともに衰退したものを、家康が大御所として駿府入城の折、先例にならって建穂寺からの奉納を復活させたもので、以降この舞を舞う稚児は幕臣の子弟から選ばれ、建穂寺から浅間神社へ向かう稚児の行列は、与力・同心などの警護が付き、大名行列並み(10万石相当)の格式が与えられた。また駿府城外堀には加番などの役人が高張提灯を建てて警護にあたり、江戸幕府庇護のもと盛大に行われるようになった。

閑話休題。
川除延命地蔵は、もともと現在の位置に祀られていたが、明治時代以後に通りの南側に移されて、土手の上に東向きの地蔵堂が建てられた。当時のお堂は間口二間程で、地蔵も木像だった。
しかし、昭和二〇年、空襲によって古い尊像と地蔵堂が焼失した。そこで昭和二六年、現在地に間口四間、奥行三間からなる南向きのお堂を建てて、石造りの尊像を安置した。尊像は高さ一二〇センチ程の立像で、左手に宝珠、右手に錫杖をもっている。
地蔵堂の中には、この川除延命地蔵を中心に、左右に一体ずつの地蔵が祀られている。向かって左側の地蔵は石造りの坐像で、高さ約七〇センチ。摩滅が進んでいて古さを感じさせるが、由緒などはわからない。一方、右側の地蔵は高さ八五センチ。裏面に「昭和廿二年八月之建」と刻まれている。この地蔵は、空襲の際にこの近くに墜落して死亡したB二九の搭乗員を弔うためのものである。遺体は地蔵堂の境内に埋葬されたといい、お堂が再建されるまでは、地蔵の隣に小さな石が置かれていたという。
この地蔵堂は安西五丁目の町内会が守っており、毎月九日と二四日にはご詠歌の奉納が行われる。言い伝えによれば、かつては子供が笛や太鼓を鳴らす「ドンチャカ」が行われていたという。大祭は八月二四日。この日には、安西四丁目の大林寺住職による読経が行われるほか、夕方には屋台が立ち並び、参拝者の行列が連なる。また、戦後間もない頃までは、大祭の日に子供の相撲大会や踊りの披露などが行われたというが、平成七年からは二台のみこしが町内を練り歩き、太鼓の演奏が行われるようになった。
話を元に戻す。
藁科川流域の谷筋は古来より重要な交通路であった。谷を遡り分水稜線を越える街道は商いの道、戦の道、そして信仰の道として賑わった。藁科川流域の谷は大きく開け、また分水稜線も比較的ゆったりした地形であるため、古代より自ずと交通路が開かれたのだろう。笹間峠で分水稜を越える道、いわゆる「笹間街道」は大井川流域に通じている。この道は東海道の裏街道として、また駿府から秋葉山への参詣道として賑わった。また、洗沢峠で分水稜を越える道は「川根街道」と呼ばれ、木材集積地としてその賑わいは江戸にも勝るといわれた川根地方に通じていた。武田信玄の侵略を受けた今川氏真はこの道を通って掛川城へ落ち延びていった。しかし時代が移り、人と物の流れが変化した今、これらの峠越えの道はすっかりその様相を変えた。
川根街道もまた、道筋を若干変えた上で国道362号線として今に余命を保っているものの、国道とは名ばかりの車も擦違えない狭いところもある道路であり、その重要性は昔と比ぶべくもない。旧川根街道の起点である昼居渡集落最上部の人家の裏手から、古道と思える一本の道が茶畑を突っ切って背後の尾根へ登っている。途中の八伏集落を経て洗沢に至るこの街道を明治の終わりまで毎日何百人という人々が往復したという。しかし、大正2年、蛇塚集落からいきなり谷筋に下りる車馬通行可能な新川根街道が開削されたことにより、峠道としての使命を終えた。この新川根街道が現在の国道362号線である。
旧清沢村の久能尾集落から黒俣川を遡り、上流の中村集落から支尾根を登って峠に達する道はいわば間道である。
この笹間峠は昭和10年代までにぎわった。毎日「持子」と呼ばれる荷運び人夫が数十人単位でこの峠を往復した。笹間からは茶、椎茸、繭が、久能尾からは生活用品が運ばれた。そして駿府方面からの秋葉山参詣の人々もこの峠を川根笹間へ越えた。昭和10年代に、すぐ隣の清笹峠に車馬通行可能な道路が開削されたことによりこの峠道は使命を終えた。
話は以上でお終いですが、実は改築前の地蔵堂の裏手にあったガードレールは私が管理して設置したものでした。

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安西の水月堂をお詣りす

2020年04月05日 16時26分49秒 | 日記
水月堂(通称おはつかさん)は、静岡市葵区安西1丁目南裏に位置し、十一面観世音菩薩を安置し、神選府辺観音霊場(新西国)33ケ所巡礼札所中第26番にして本尊は鎌倉初期の名匠運慶の作と伝えられ国宝的存在でありました。しかし戦災(昭和20年6月20日)で焼失してしまいました。

元亀年間、今を去る事400有余年(405年)前、安倍郡籠鼻(今の井宮町西北部)の圓皆寺(現在は廃寺)の住僧宗文の創建で今川家の臣福島淡路守の夫人然正印智現妙本大姉の開基と伝えられています。
毎月20日を以て御縁日と定め毎年3月には僧侶を招き特別大法要を続けております。「水月堂奉賛会」

水月堂は「今川家の臣福島淡路守の夫人然正院智現妙本大姉の開基」とあります。
然正院智現妙本大姉は福島上総介正成の夫人のことですが、福島(くしま)家というと歴史的資料が乏しく断定的なことは判らない。しかし今川家臣団の一角で小笠原家が入る前の高天神城主としてその名は伝わっています。
福島 正成(くしままさしげ)は、戦国時代の武将。北条綱成・福島勝広の父とされる(正成の父は福島基正と伝わる)。通称は兵庫介、上総介ともされるが明確ではない。姓は「九島」・「久島」・「櫛間」とも表記され、遠江土方城(高天神城)城主だったといわれている。

1873年(明治6年)6月14日 邏卒屯所2カ所開設。周辺部を管轄する屯所が有度郡静岡札之辻町自身番所(現・静岡伊勢丹角)、市中を管轄する屯所が安倍郡静岡安西一丁目水月庵(現・水月堂)に設置。『静岡県警察史』


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新コロナ鴎外荘も廃業す

2020年04月03日 08時39分33秒 | 日記

新型コロナウイルスの影響で、東京・上野にある文豪・森鴎外(おうがい)ゆかりの老舗旅館「水月ホテル鴎外荘」(台東区池之端)が令和2年5月末で閉館することが分かった。宿泊などのキャンセルが相次ぎ、約八十年の歴史に幕を下ろす。
敷地内には鴎外が傑作「舞姫」を執筆した旧邸がある。女将の中村みさ子さん(62)は「旧邸を守るため、倒産前に閉館しようと決断しました」と話している。(東京新聞記事)

森 鷗外(もり おうがい、文久2年1月19日(1862年2月17日 ) - 1922年(大正11年)7月9日)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医(軍医総監=中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。
石見国津和野(現:島根県津和野町)出身。東京大学医学部卒業。
鴎外の旧宅・水月ホテル鷗外荘(旧居、東京都台東区池之端)は、鴎外が20代後半に住んでいた住宅であり、最初の妻の実家である磐田の赤松家が、結婚の際に贈ったもので、2年ほどで離婚した時に返却を求めなかった。
その後、売りに出された際、隣にあった旅館の創業者が購入し宿泊できるようにした。天然温泉は都内第1号とされる。
先妻 登志子(1871-1900。海軍中将赤松則良娘)とは、1889年に結婚したが1年半で破綻。登志子は鷗外と別れた後、1900年に再婚先で結核で死亡。登志子との間には長男 於菟(おと、医学者、台北帝国大学医学部教授などを歴任)がいる。
磐田市に残る旧赤松家は、近代日本の造船技術の先駆者で、明治期に磐田原台地に茶園を開拓した海軍中将男爵赤松則良の邸宅跡です。

赤松 則良(あかまつ のりよし、天保12年11月1日(1841年12月13日) - 大正9年(1920年)9月23日)は、日本の武士(幕臣)、軍人、政治家。貴族院議員。
栄典は海軍中将従二位勲一等男爵。通称は大三郎。日本造船の父と呼ばれる。中世の播磨の名族赤松氏の末裔と称する播州網干(現姫路市網干区)新在家の龍野藩御用商人であった廻漕業赤松良則を実父とする幕府十五番組御徒士(御家人)・吉沢雄之進の次男として江戸深川に生まれる。
弘化4年(1847年)、祖父赤松良則の後を継ぎ父の実家である赤松姓となる。先祖の出自から父の経歴まで「赤松則良半生談」に本人が詳しく述べている。祖父赤松良則(泰輔)の墓は網干本柳寺に現存する。咸臨丸にて渡米した際、艦長・勝海舟より、航海中の功績あり、として、礼砲発射の号令を発する名誉を授かっている。
沼津兵学校勤務の際、明治新政府からの出仕を命ぜられても則良は渋っていた。出仕を決意した背景には勝海舟の助言があったと言われる。
妻・貞はオランダ留学に同行した林研海の妹であり、同じくその姉を娶った榎本武揚とも義兄弟となった。また、長女・登志子が森鴎外に嫁する際、媒酌人をつとめたのは、同じくオランダ留学生であった西周である。
オランダ留学中、榎本武揚とともに第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を観戦しており、その際前線の塹壕まで進み、戦闘を直に体験している。また、その帰路にドイツのクルップ社へ立ち寄り、招待された晩餐の席で、同社社長のアルフレート・クルップと会話している。以上はウイキペディアから主要な記述を抜粋した。

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