蒸し暑い日中、今年はまだクーラーをつけずにいる。宵の時間がくると、やっと本来の自分になるようだ。日没の時刻、その少し前をみはからって散歩に出る。
きょうはリゾート地で買ったオリーブ色のビーチサンダルにした。脚をいれた時には、親指と人差し指の真ん中らへんが擦れて、鼻緒が少し痛かったが、履いていると慣れてきた。足裏の神経は、脳に直結しているというが、ぺたぺた歩いているうちに、その辺の草の茎や花の匂いが風に運ばれて、鼻孔に届く。
眺めのいい場所をみつけて、月を仰いだ。魂の強さが抜け出たような、聡明な光。夏の月は、不思議なくらいひやっとする冷たい光である。
遠くが見晴らせる丘の上にのぼった。
眼を移せば、山と山の間から、宝塚や大阪平野の灯りがちかちか動いている。光に灯のなかに、ビルの頂上に付いた航空機に知らせるための赤い灯が混ざる。瞬いている。じっとしていないことが、さらに美しく魅せるのだろうなと、思った。
そして、ブルーモーメントがやってきた。
蒼い時刻だ。眼を凝らしていると、自分まで蒼く染まっていくのがわかる。光の渦に彩られた都市が、いつのまにか湖の中に沈んでいくようにみえる。水の都市になる
夏は夜。月のころはさらなり。やみもなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、 ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。
枕草子でも、都人は、夏の夜を讃えている。そういえば。わたしがかつて住んでいた温泉街の川のほとりでは、真っ暗のなかに蛍がふわりふわり飛ぶさまを、目にしたことがあった。父親が獲り、虫籠の中に移し、庭で光を囲みながら家族で瓜を食べた。
きらっと水粒の光るなか、蛍の灯りは、息しているみたいで、はかなく、か弱いからこそ美しいのだと思った。朝、飛び起きたらすぐに蛍を見に行ったが、たいてい動かなかった。死んでいる? 幼なごごろに、光はみるもので決して捕まえてはいけないのだとこの時に悟った。あれから、何年か。時は変わったが、それでも夏の宵はうつくしい。
散歩からかえっても、陰翳礼賛よろしく、リビングではランプだけ灯した。
薄暗い部屋で眼を凝らしていたら、ふと思いついたことがある。いつかの丑三つ時のことだ。
わたしは提出前にも関わらず、思った原稿があがらない場合、時々ふて腐れて、寝てしまうことがある。たいていはソファの上で、ごろんとなりそのまま寝る。そうして、2時半から3時半くらいの間に目を覚ます。
しまった! 机の電気はそのままだ。やり残した原稿が気になり、えいやっと起きる。寝落ちしてから、2時間半か3時間経ったころである。
机の前にしばらく座っていたら、しんとした室内に、誰かがいるような見守られている空気を感じ、そういう時、外はたいてい水っぽい墨色だ。
不思議なほどに原稿がたたたっと書けてしまう。寝るまでの、まんじりと書きあぐねていたあの、わからなさはどこにいったのだろうか。なんの迷いもなく、パソコンのデジタルの光のなかに言葉を連ねていく。かちっと、頭のネジが宇宙とつながった。そう信じられた。そんな時に書いた原稿は、たいていクライアントに驚きをもって迎えられて、新連載につながったり、数人で担当した本ならライターのリーダーにさせていただいたり……、普段は起こらないことがあり得た。
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