月の晩にひらく「アンデルの手帖」

writer みつながかずみ が綴る、今日をもう一度愉しむショートショート!「きょうという奇蹟で一年はできている」

混沌とした一日の中で

2020-05-02 20:37:14 | コロナ禍日記 2020

 

 

 

4月10日(金)

 朝。4時に起きたが、胸の下のくぼみが少し重痛い。体をクの字に曲げていないといられない気がして、20分かけて白湯をつくって飲んだ。外はまだ暗い。いろいろな鳥が遠くで鳴いていた。

 8時。パパさんが起き出してテレビの前にすわっているので、朝食の準備をする。

 コロナウイルス感染拡大の影響により、パパさんがテレワークになって以来、ひとりの時間がほぼない。3月2日から始まって1カ月少しか。

 10時。再び、社内の人とテレビ会議をしていたので、お風呂リゾートに本をもって退散。出て、またすぐ台所に立った。昼食の用意だ。

 午後から焦って原稿を書こうとするが、仕事部屋はリビングに隣接しているため(パパさんはテレビの音がないと落ち着かないタチの人)気になって今日も原稿がはかどらず。

 5時になったので近所を散歩。マスクをして並んで一緒にウォーキングをしている夫婦を2組みつけた。また少し歩いていくとマンションの前でマスクをして話して込む4人組の近所の奥様方の姿。なにやら真剣な表情で話し込んでいらっしゃる。

 顔をチラリとみる。きょうのごはんのメニューや、子どもたちの勉強の話しではなさそう。互いに不満を言い合っているような鋭い目の動き、手の組み方などから怒りを発しているのだろうと察する。笑っている人を一人として見かけなかった。

 みんな不安を抱えて生きている日常なのだ。

 夕ご飯は、肉じゃが、山菜と小エビのかき揚げ風(雪の下、たらの芽、こごみ、菜の花)。おみそ汁。おぼろ豆腐をショウガ醤油で。

 珍しく25時まで原稿を書く。

 

 

4月11日(土)

 

 朝。神戸三宮のフランジュールで買い求めた、アッサムティー(パレデテ)を煎れて飲む。ちょっと台湾紅茶と似ていて、味わいよりも香りがたち、個性がはっきりしているので好みの分かれるお茶だと思う。

 昨晩は、2冊本をもってお風呂にはいったのに、どうしても紙の中に入りきれなかったので、すごくうなだれ、落ち込んだ。読解力が乏しいのだと、暗い気持ちのまま寝た。(多和田葉子さん本)

 自分で書く文が進まないのはイライラ、ぐるぐる頭が混沌としてくるが、本を読めない時はもっと辛い。読めたら、書ける。が私のジンクスなのである。

 

 この頃。仕事で原稿を書いている最中でもコロナ関連のニュースをネットで検索してしまう自分がいる。どうにか体制を立て直して原稿を書こうとするが、集中できない。思考があちらこちらに飛ぶ。同じところを何度もなぞり、朱入れをするが、しばらくして最初から戻って読んでいると、それも良い表現とはいえない気がして。再考の朱入れとなる。1万文字あまりをプリントアウトして、一気に朱入れを済まそうとした。普段なら、原稿を書くのはリビングに隣接している仕事部屋で書いて、それを編集者の目でみるため、ダイニングテーブルの上に原稿をもって移動するけれど。パパさんがパソコンを広げて、テレビをつけているので。ムリだ!

 原稿書きも、編集作業も、最終チェックも。同じところでする。もちろん、気分転換のための読書も同じ場所。これがなかなか慣れなくて集中力の続かない理由だろうか。(いや今後の私たちの将来のためにも、はやく慣れなくては)

 煮詰まってくると、だから台所に逃避して、料理に専念することになる。

 (わたしの料理には迷いがない。冷蔵庫を空けたトタン、思い浮かんだメニューをつくる。父は料理人だったのでという根拠のない自信かもしれない。それでも失敗はまずない。きっと書くことより得意なんだろう)

 きょうは、うるめを焼き、ほたるいかの煮付け、大根おろしを添えたあかもくのもずく、ブロッコリーにニンニクと塩で調味して蒸し焼きしたもの、ワカメとタマネギのお味噌汁。(質素。夫婦の体を考えて食事もヘルシーなものにする)

 夜。おうちシネマ。是枝裕和氏の映画「誰も知らない」をみる。やりきれない社会を風刺したドラマ。大都市・東京の影の部分を描く。

 

 夜のネオン街で働く女性は、4人の子どもの母親でもある。父親はそれぞれ違う。自分本位のやり方で子どもの機嫌をとり、面倒をみるが、ある日「好きな人ができちゃったのよ。今度は大丈夫、結婚してみんなで暮らそうと思っているから」といいながら、4人の子どもを家に置き去りにして、男と大阪に出ていってしまう。数カ月に1度、届くごくわずかな振り込み。

 4人の子どもたちが共に力をあわせて、自分たちの命を守るために奮闘をするが……。ある過失から下から2番目の女の子が尊い、命を失ってしまった。トランクにいれて、女の子を土に埋める、お兄ちゃんの姿が痛ましい。「お母さんだって幸せになってなにが悪いのよ」

 ノンフィクションが土台になっている考えさせられるシネマだった。