愛と情熱の革命戦記

猫々左翼の闘争日誌

日本上空における真の脅威とは 3

2009年04月23日 23時20分27秒 | 戦争のない世界をめざす
 1977年9月27日横浜市緑区(現在の青葉区)にて厚木基地を飛び立った米軍戦闘機が墜落した。墜落した米軍機は岩国基地所属のRF-48ファントム偵察機であって千葉県沖のミッドウェーにむかって厚着基地を飛びたったものであった。厚木基地を飛び立って2分後にエンジン故障により火災が発生して横浜市緑区(現在の青葉区)の荏田の住宅地に米軍機は墜落し、炎上した。時刻は午後1時20分であった。墜落現場から2キロほど離れたところにある横浜市立鉄(くろかね)小学校では、運動会が行なわれていたが火を噴き、黒煙を上げながら米軍機の墜落するところが目撃されるなか運動会は中断した。

 墜落現場は、重量26トンもの機体と飛散したジェット燃料により、周囲の民家や付近の公園を巻き込んであたり一面火の海となった。炎上する家の中からは大やけどを負って助けを求める人、血だるまの幼子をしっかりと抱きかかえて飛び出す母親の姿があった。2人の幼児を含む9人が病院へ運ばれた。この事件では、林雄一郎君(1974年8月24日生まれ)と弟の林康弘君(1976年3月28日生まれ)が搬送先の青葉台病院で亡くなった。雄一郎君と康弘君の母親である林和枝さんは、1982年(昭和57年)1月24日の夜病室で呼吸困難におちいり意識不明のまま窒息死した。和枝さんは事件による皮膚の奥にまで及んだやけどの治療のために不自然な体位を余儀なくされたことやジェット燃料の火炎を吸い込んだことなどから呼吸器障害などを併発していた。

 事件当時の米軍や日本の自衛隊の対応には誠実さがかけらも無かった。米軍から連絡を受けた自衛隊はすぐに救難ヘリコプターを厚木基地から緊急発進させた。ヘリコプターは事件発生から10分ほどで現場に到着した。しかし、自衛隊の救難ヘリは墜落する前にパラシュートで脱出してほとんど無傷だった2人の米軍パイロットを乗せて厚木基地へ飛んだきり再び戻ってはこなかった。米軍、自衛隊ともに大やけどを負って救助を求めている被災者には見向きもしなかったのである。しかも、米軍、自衛隊は事件のことを消防署へ連絡すらしなかった。消防署は被災者の救援にあたっていた民間人の通報により事件を知り、現場へ駆けつけた。

 幼児2人の母親である和枝さんがわが子の死を知ったのは事件から1年と4ヵ月後のことであった。わが子の死を知ったとき和枝さんは文字通り涙がかれるまで泣きつづけた。しかし、泣いていてもどうにもならないと、なくなったわが子の分まで生き抜く決意を和枝さんは固めた。和枝さんは事件の経過を振り返り、国の不誠実な態度に怒りを覚え抗議の声も強くなっていった。しかし、国は、和枝さんの度重なる治療や訴えの抗議の電話もまともに受け付けようとしなかった。のみならず国は和枝さんを精神病者扱いにして、家族にもまともな説明もしないまま精神病者だけを収容する国立武蔵療養所に転院を強要した。こうして、1982年1月24日の夜和枝さんは鉄格子をはめられた病院の一室で呼吸障害による窒息死した。ジェット機墜落事件から4年4ヵ月後であった。

 1977年9月27日に横浜市緑区(現在の青葉区)での米軍機墜落事件は、在日米軍が日本の人民のとくに基地周辺に住んでいる人々にもたらしている脅威の現われの一端に過ぎない。それでも、このような事件からは以下の教訓を我々は汲み取ることができるし、汲み取らねば成らない。

一、日本の上空、及び地上に真に脅威をもたらしているのは、在日米軍であり、日本人民の安全保障を現在進行形で脅かしている。

一、日本の自衛隊は日本の人民の生活と命を守るのではなく、米軍の補完部隊に過ぎず、人民をふみにじりながら日本国の国家権力及び在日米軍を守るための武装組織に過ぎない。自衛隊という武装組織は、日本の人民を在日米軍の人身御供にすることすらいとわない売国的武装組織としての本質を有する。

一、上の二つのことを根本的に解決するためには、日米安保条約第10条の規定により、日米安保条約を解消し、在日米軍を日本列島から一切取り除かなければならない。同時に、自衛隊の対米従属的な部分を取り除かなければならない。これも日米安保条約解消により可能となる。そして、国民的合意を得ながら自衛隊を解散させなければならない。




終わり



主要参照ページ

「なくなれ!厚木基地のページ」

「パパ ママ バイバイ」

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