貧困は真っ先に子どもたちに襲い掛かる
最近になってようやく子どもの貧困に対して目が向けられるようになりました。もっとも、このことは自分自身についても言えることでした。貧困根絶そのものについては、私自身に関心がありましたし、貧困を根絶しようという意志があったから1994年に日本共産党へ入党したわけです。だからといって、子どもの貧困というものにたいして独自的に追求する姿勢が私にあったかというとそういうわけではありませんでした。おそらく、私だけではなく革新陣営の人々でさえも教育や保育など日常的に子どもたちの問題に向きあう状況にある人でもない限りは子どもの貧困を独自的に追求する姿勢はなかった、あるいは弱かったのではないかと考えられます。
なぜかといいますと、子どもの貧困というのが単純に見えにくいということが一つの要素としてはあります。子どもは一人で暮らしているのではなく多くの場合、親や兄弟と暮らしています。ですから、貧困に子どもたちが苦しんでいる状況というのが私たちの目に真っ先に飛び込んでくるのが家庭の貧困状況、大人(親)の貧困状況です。大人である親の貧困と切り離した形で子どもたちの貧困というのが存在しているわけではないのです。このことが子どもの貧困を見えにくくしています。そして、そもそも論で言うと貧困というのには具体的な形がありません。貧困というのは、子どもとのかかわりで言うと児童虐待、DV、援交(大人による児童への性的搾取の一形態)等の個別的な問題という形をとって現れますし、教育費に家庭がお金をかけられないことによる教育課程からの排除などという形でも現れます。世界を見渡せば戦争被害が子どもを貧困に苦しめる事例が数多(あまた)あります。このように、貧困そのものが実は見えにくいわけです。大人の貧困さえも見えにくいのですから、子どもの貧困は親など大人と通例暮らしているわけであるがゆえにどうしても大人の貧困の背後に隠れやすいのです。
以上のようなことで子どもの貧困というのが見えにくいわけです。しかし、見えにくいから見なくていいというわけではありません。子どもたちは社会の未来を担います。未来を担う子どもたちが貧困に苦しむというのは、未来に希望がないことの現われです。今、全国には医療保険から排除されている、いわゆる無保険の子どもたちが少なからずいます。これは、命にもかかわる問題です。日本社会に貧困が拡大するなかで貧困というのは見えにくいのですが実は真っ先に子どもたちに襲い掛かってきます。言うまでもないことですが、子どもは何らかの形で大人に依存することでしか生活できないからこそ、貧困が真っ先に子どもたちに襲い掛かってきます。子どもの貧困に向き合うことは社会のあれこれの問題の一つというにとどまらず社会全体の未来への希望をつむぎだすのに欠かせないことです。
記事を改めて子どもの貧困に向き合う意義とその必要性について述べていきたいと思います。