細田暁の日々の思い

土木工学の研究者・大学教員のブログです。

学生による論文(84) 「荒川の治水翁」 木崎 拓実 (2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-25 06:16:13 | 教育のこと

「荒川の治水翁」 木崎 拓実 

 地図を荒川に沿ってみていくと、埼玉県に入ったあたりからいくつも三日月湖がみられる。三日月湖は、もともと蛇行していた川を氾濫しにくくするために直線化工事を行うときにできる、旧河道のことである。その三日月湖群の一つに、埼玉県さいたま市と富士見市に位置する、びん沼がある。このびん沼のできる原因となった、河道直線化を推進した政治家が治水翁・斉藤裕美である。ここでは、治水翁とまで呼ばれるようになった、彼の人生から、私たちが防災とどのように向き合うべきかについて述べる。

 荒川の直線化工事が行われる前、びん沼周辺では氾濫が頻発していた。地図を見ればわかるように、埼玉県南部の平地に位置するびん沼は複雑にカーブしている。そこに、大雨が降って大量の水が流れてくると、水はカーブにぶつかって堤防を壊したり、乗り越えたりしてしまう。また、直線化工事と同時期に建設された荒川横堤からも、この地域の氾濫が深刻だったことがうかがえる。横堤とは、上流からくる水流の勢いを抑え、下流を守るために作られるものであり、横堤が建設される地域は水浸しになってしまうからである。当時のびん沼周辺は、そんな水浸しになっても仕方ないと思われるような地域であった。

 斉藤裕美は、1866年に現在の荒川本流に位置する埼玉県馬宮村で外科医の次男として生まれた。彼は当初、医学を学んでいたが、1890年に荒川で起こった洪水を経験して、治水事業を実現すべく、政治家となった。荒川の治水を修正の事業として、荒川治水会を設立し、荒川の治水事業の必要性について県議会などで訴えていた。当初、彼の計画は受け入れられなかった。しかし、1910年に、大洪水が起こった。この洪水の被害は、埼玉県内だけでも死傷者401名、農産物の損害は2,400万円(現在の約1,000億円)にも上った。これを契機として、直線化工事や横堤を含む荒川の抜本的な治水計画がすすめられた。その後、裕美は政治家として、河道直線化に関わる用地取得や、現在の荒川をまたぐ治水橋の建設などにも尽力した。

 以上、斉藤裕美の人生を概説してきたが、これらのことから、私たちが防災に向き合うためのヒントが見える。まず、地元が深く関係していることである。彼が治水事業を志すきっかけは、地元である馬宮村の洪水経験であるし、建設した橋も、新しく河道を作ったことにより分断された馬宮村をつなげるようになっている。地元で行う事業は、自分事としてとらえやすいため、周りに反対されてもモチベーションを保ち、放棄せずに事業をやり遂げることができたのだと思われる。

 このことは、非常に単純なことであり、自己中心的であるようにも思える。もちろん荒川治水事業のような国家プロジェクトの目的としては、地元だけでなくより多くの人の利益となることを目指すべきである。しかし、多くの反対意見に対してもあきらめず、自分の正しいと信じることを貫くために、この自分事意識、あるいは地域への愛着は重要であるように思える。

参考文献:
「明治43年の洪水」 荒川上流河川事務所 
https://www.kumagaya-bunkazai.jp/kounanmatinoiseki/kbk_2021_019.pdf (2022/11/19閲覧)
「斎藤祐美」 荒川上流河川事務所
https://www.ktr.mlit.go.jp/araike/pdf/100neta/100neta_021.pdf (2022/11/19閲覧)

 


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