NHKの「100分 de 名著」の「荘子」が終わりました。4回、すべて録画して、最終回の分は今朝、郡山へ出張する朝の4時半ごろから見ました。面白い。
万物斉同。
「私」という自分のフィルターを通すから、すべてのものが斉しく無くなる。屎尿も唾も、私の体内にあるときは汚いと思わないのに、体外に出たとたんに汚く思う。
自分が苦しい、と思うのも、様々な状況を、「私」が苦しいと捉えるから。
「胡蝶の夢」のごとく、現実も過ぎ去ればまさに夢のごとし。これまでにも楽しいことも苦しいことも、様々なことがありましたが、夢だったと言われると否定できません。現実と夢を区別することも、万物斉同からすると愚かな考え方のようです。
今回、荘子を勉強し始めて、いろいろと面白いエピソードを学びましたが、その中でも一つ、とても印象に残るものがありました。先の丸くなった錐(きり)。
先の尖った錐はもちろん役に立ちますが、先が丸くなってしまった錐は役に立たないでしょうか?もちろん、孔を開けることはできません。
一見役に立つようで、実は周囲の人々を傷つけている人もたくさんいます。つつましく生きておられるおばあちゃんがいたとして、尖っていないので誰も周りを傷つけない。 周囲の方々はそのおばあちゃんを見て心が落ち着くかもしれないし、和やかな気持ちになるかもしれない。どちらが役に立っているか、分かったものじゃない。
また、人生の大先輩として、曽野綾子さんの人生を楽しむ物の見方も大変、参考になります。昨日も一冊、「人生の収穫」という本を楽しく読み始めましたが、いわば老荘的です。
今日も出張を楽しもう!