Me & Mr. Eric Benet

私とエリック・ベネイ

インド夜想曲:Indian Nocturnal

2014-07-22 21:51:49 | 私の日々
図書室にあったこのDVDをみつけ、懐かしさと共に手に取り、
久々に鑑賞することになる。
原作を読んだ時期を確認すると1991年、
その半年程後に公開された映画もリアルタイムで観ている。

今回、借りたDVDの特典映像、これが秀逸だった。
監督のアラン・コルノーと主演のジャン・ユーグ・アングラード、
映画化された1989年から10年後のインタビューが挿入されている。

失踪した友人を探しにイタリアからロンドンを経てインドを訪れた主人公、
不可思議な旅の持つ魅力と友人ではなく自分探しとも取れる物語。
原作はアントニオ・タブッキ、翻訳は須賀敦子。
DVDがきっかけで改めて原作も読み返すことになるが、
後書きに訳者がこの物語を知ったのは1990年の春、
フィレンツェの書店で知人から「騙されたと思って読んでみて。」
と渡されたと記されている。
1984年に書かれた作品がこのような経緯を経て、
日本語に訳され、映画もその年に公開される。
須賀敦子が手を付けなければ、この作品を日本語で読むことも、
また日本での映画封切りへの流れもなかったのではと思わせる。



映画は原作に忠実だった。
そしてテーマとして繰り返し使われている曲、
シューベルト:弦楽五重奏曲ハ長調D.956
クライマックスの言葉のない場面で、
常に雄弁に美しく物語りの奥行きを広げていく。
監督はインド音楽が好きだったが、
インドで迷う欧米人の心象を表すのにはクラシック、
シューベルトの静かでありながら死を連想させる、
悩ましく抒情的なこの曲が相応しいと選んだそうだ。
そしてこの曲は監督と意を違えたインド側のスタッフやキャスト達、
をも納得させ、すべてを包み込み和合へと導いたと言う。

イタリアの文学作品を映画化したのはフランス人の監督アラン・コルノー。
彼はインドとこの作品に魅入られていた。
アランは親しみを込めて「アントニオ」とタブッキを呼ぶ。
わけのわからない部分は電話で確認したいとさえ思ったが、
それはそれでそのままに描こうと思ったそうだ。

その他にもインドで女優を見つけようとすると、
自分が綺麗だと思うインド美人は色黒で痩せた女性なのに、
価値観、美意識の違いから色が白く厚化粧、太った女性を紹介されたり、
またボリウッドやインドの舞台俳優が台詞を覚える習慣がなく、
指導に戸惑ったこと、政府や軍との撮影許可の折り合いをつけることなど、
苦労話はつきないが、それでもインドで映画を撮るという得難い体験をしたこと、
この作品を通して刑事物中心の監督から、新たな自分の世界を構築したことなどを語る。



一方、主役のジャン・ユーグは一足踏み入れるなり、
インドに対する嫌悪感を持ち、ずっとぬぐえなかったと語る。
監督には動きや大げさな表情は控え、あくまでも内面で演技することを求められ、
これがさらに彼を混乱させた。自分を見つめる役に入り込み過ぎ、
迷いから自分自身をも見失ってしまい撮影に困難をきたす。
それはタブッキ本人に数年後に会った時にも伝えたそうだが、
タブッキは自分も同じだったと受け止めてくれたそうだ。
10年後の今ならもっとうまく演じられたはずとジャン・ユーグは話しているが、
インドへの畏怖の念や自身の悩む気持ちが素のままに出ているのが、
むしろ映画としては効果的だったと思う。

今回の特典映像のインタビューで最も驚いたことは、
この映画に出てくる病院、駅の構内で死んだように横たわる人々、
これらがすべてエキストラではなく真実の人々の姿であったということ。
低予算の作品ゆえにセットが組めずにそれしか方法がなかったとのことだが、
それが映画にドキュメンタリーのような風格を添えている。

特に原作に出てくるマドラスに向かうバスの待合所でのできごと、
「僕は少年のそばにすわった。
彼は素晴らしくきれいな目で、僕を見てにっこりした。
僕もにっこりした。
その時初めて、僕は少年がおぶっている動物と思ったものが、
猿ではなく、人間だとわかって慄然とした。
それは恐ろしい形をした生きものだった。」
原作では少年の兄とあるが映画では姉となっている。
CGではなく、実際にいた人物から選んだと監督のインタビューで知る。
監督は彼女をすんなり受け入れることができたが、
ジャン・ユーグは強い恐怖心を抱いたまま、
二日続いたこのカットの撮影に神経をすり減らす。
収録が終わった時に監督の胸に倒れ込んで号泣してしまったそうだ。



時を経て自分の中で最初に観た時と解釈が変わる映画がたくさんある。
そういう意味で年を取ることも悪くないと思う。
物語の主題は仮の姿と本質についてで、
幻想『マーヤー』のみでほんとうの姿『アートマン』などどこにもない、
というメッセージが見えてきた。
ボンベイ、マドラス、ゴアなどのインドの土地の風景、
ヘルマン・ヘッセやビクトル・ユーゴの言葉に作品は彩られていく。

映画ではなく本の「インド夜想曲」、須賀敦子の流麗な翻訳に魅惑される。
物語にぐいぐいと惹きこまれ、会話の部分は生き生きとしている。
平仮名と漢字、片仮名の外国語名、時には原文そのままの引用の使い分けが、
巧みなことに息を呑むばかりだ。

原作者のアントニオ・タブッキ、翻訳者の須賀敦子、
映画を監督したアラン・コルノーも既に故人となっている。