進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

私は知らないことを知っている

2011-02-21 17:39:37 | スピリチュアル
私は知らないことを知っている。
そして、知らないことを知りたいと願っている。
そこに私の知らないことがあるから、知りたいと思う。
そこに私の知らない桜の木があると思うから、見たいと思う。
その時、私がどう感じるかは知らない。
知らないから知りたいと思う。
ただ、それだけだ。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆

最近、これまでと異なった形で「先験的感覚」を実感するようになった。

脳の歴史は、生物の進化にしたがって内側から外側に向かって増築された歴史である。
原始的な生物から人間に進化するまでの脳の過程は、内側から外側に向かって説明できる。
だから、原始的な欲求は脳の内側から発し、人間らしい理性の部分は外側で活動する。

よく「理屈じゃない感情」というが、これは本当だ。
理屈じゃない原始的な欲求は人間の内側から発し、これを人間の外側の理性で抑制するなり、導くなりしている。
理屈じゃない感情を、理性によって後付的に解釈することはできるが、感情レベルが理性で制御できるレベルを超えると人間は自己同一性を保持できなくなる。
人は普段、理性によって仮想的に「自分」を構築しているわけだが、自分に統合できない感情をうまく処理できず「自分」を統率できなくなるからだ。

時に、人は自分でない自分を恐れ、「自分」を統率できない状況を避けたがる。
人にとって自分を統合している基準を失うことは非常に恐ろしいことだからだ。

しかし、この「自分を破壊する感情」は人にとって非常に重要な役割を果たす。
ある特定の「自分」で凝り固まってしまった場合に、そこから抜け出す機会をもたらすからだ。
悪均衡状態を抜け出すために、重要なのだ。

そして、ここからが本題だ。
「理屈じゃない感情」が善にも悪にもなるとして、
では「理屈じゃない感情」は、その性質ゆえに理性によって制御不能なのだろうか。

実は、理屈じゃない感情を包含する理屈が存在する。
それが「先験的感覚」である。
言葉の通り、経験に先立つ感覚である。
人は、この先験的感覚を使って理屈じゃない感情を発火させることができる。

いや、理屈じゃない感情が発火するのは、この先験的感覚が故である。
理屈じゃない感情が発火する前に、この先験的感覚が先立って存在している。

ゆえに先験的感覚を研ぎ澄ませば、
ある程度の方向性を持って理屈じゃない感情を発火させることができるし、
また、理屈じゃない感情の解釈にも有意な影響をもたらす。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆

私には文才がないので、自分の考えを文章にするのは骨が折れる。
話し言葉なら幾分かまだ楽なのだが、誰にでもわかる文章にするのには決して楽ではない。
だから今日も他人の言葉を使わせてもらう。
ありがたや。

こびとさんをたいせつに(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2009/10/03_1726.php


[前略]

今回はふと口を衝いて「ゼミの目的は自分の知性に対して敬意をもつ仕方を学ぶことです」と申し上げてしまう。
言ってみてから、そういえばそうだなと思う。
ポランニーの「暗黙知」(Tacit Knowing)も、カントの「先験的統覚」も、フッサールの「超越論的直観」も要するに、「私は自分の知らないことを知っている」という事態を説明するためにつくられた言葉である。

[中略]

どうやらわれわれの知性というのは「二重底」になっているらしいということに思い至る。
私たちは自分の知らないことを知っている。
自分が知っていることについても、どうしてそれを知っているのかを知らない。
私たちが「問題」として意識するのは、その解き方が「なんとなくわかるような気がする」ものだけである。
なぜ、解いてもいないのに、「解けそうな気がする」のか。
それは解答するに先立って、私たちの知性の暗黙の次元がそれを「先駆的に解いている」からである。
私たちが寝入っている夜中に「こびとさん」が「じゃがいもの皮むき」をしてご飯の支度をしてくれているように、「二重底」の裏側のこちらからは見えないところで、「何か」がこつこつと「下ごしらえ」の仕事をしているのである。
そういう「こびとさん」的なものが「いる」と思っている人と思っていない人がいる。
「こびとさん」がいて、いつもこつこつ働いてくれているおかげで自分の心身が今日も順調に活動しているのだと思っている人は、「どうやったら『こびとさん』は明日も機嫌良く仕事をしてくれるだろう」と考える。
暴飲暴食を控え、夜はぐっすり眠り、適度の運動をして・・・くらいのことはとりあえずしてみる。
それが有効かどうかわからないけれど、身体的リソースを「私」が使い切ってしまうと、「こびとさん」のシェアが減るかもしれないというふうには考える。
「こびとさん」なんかいなくて、自分の労働はまるごと自分の努力の成果であり、それゆえ、自分の労働がうみだした利益を私はすべて占有する権利があると思っている人はそんなことを考えない。
けれども、自分の労働を無言でサポートしてくれているものに対する感謝の気持ちを忘れて、活動がもたらすものをすべて占有的に享受し、費消していると、そのうちサポートはなくなる。
「こびとさん」が餓死してしまったのである。
知的な人が陥る「スランプ」の多くは「こびとさんの死」のことである。
「こびとさん」へのフィードを忘れたことで、「自分の手持ちのものしか手元にない」状態に置き去りにされることがスランプである。
スランプというのは「自分にできることができなくなる」わけではない。
「自分にできること」はいつだってできる。
そうではなくて「自分にできるはずがないのにもかかわらず、できていたこと」ができなくなるのが「スランプ」なのである。
それはそれまで「こびとさん」がしていてくれた仕事だったのである。
私が基礎ゼミの学生たちに「自分の知性に対して敬意をもつ」と言ったときに言いたかったのは、君たちの知性の活動を見えないところで下支えしてくれているこの「こびとさん」たちへの気遣いを忘れずに、ということであった。


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