『バカの壁』(養老孟司)
君たちだってガンになることがある。ガンになって、治療法がなくて、あと半年の命だよと言われることがある。そうしたら、あそこで咲いている桜が違って見えるだろう。
ガンの告知で桜が違って見えるということは、自分が違う人になってしまった、ということです。
これは「知る」ということの本質を物語っている。
人は知ることで変わり、その変化は不可逆だ。
一度知ってしまったことを都合よく知らなかったことにはできないが、
知ることができる限り、人は変わることができる。
見えるものは視点によって変わる。
異なる視点、より多くの視点を持てば、当然見えるものは変わる。
新しきを知り、より多くを知れば、人はより変化することができる。
人生が経験に裏付けられるものだということだ。
だが、人が変わりたいように変われるかといえば、そうではない。
なぜなら、人は知りたいように知ることができない。
これが安易な自己啓発がうまくいかない理由だ。
知るということは、今知らないことを知るということである。
今知らないのに、なぜ知る前に知ることがわかるのか。
わかるわけがない。
知らないから、知ろうとするのである。
知った後に何を知ることができるのか、それは実際に知った後でなければわからない。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
多くの人々は幻想を持っている。
「○○をすれば△△を知ることができる。」といった思い込みだ。
しかし、実は多くの人々はそう思い込みたいと思っている。
なぜかといえば、「知る」ということは本質的に人にとって恐いことだからだ。
(正確に言えば、知るということが、新しい知らないということをもたらすからだ。)
一度知ってしまったら今の自分には戻れないのだ。
「知る前の自分」から「知った後の自分」になるためには勇気を振り絞った飛躍が必要だ。
「知った後の自分」は「知る前の自分」とは別人なのだ。
別人になる勇気がなければ「知る」ことはできない。
だから、臆病者は人生の中で様々な意味を模索することを諦める。
だが、知ることでしか、桜の美しさは感じることができない。
余命半年と宣告されて見る桜の木は美しく見えるだろう。
それと同じように、あなたが何かを知ることで、あなたは何かを見ることができるようになる。
何を見ることができるのか、それは知る前にはわからない。
人間は葛藤のうちにしか成熟できない。
私は葛藤の中に身を置く。
それが、どれだけ辛く、苦しく、悩ましいものであっても。
私は、桜を見たい。
桜を見たいのだ。