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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

大人が逃げ続ける国、日本

2011-02-24 18:07:10 | 社会
心底同意します。

【赤木智弘の眼光紙背】子供と真剣に向いあおう(赤木智弘)
http://news.livedoor.com/article/detail/5366662/
(強調は当Blogによるもの)


そして、人間同士の出会いで産まれるはずの、心や体やお金といった複雑な関係性を否定し、どこにもあるはずのない「清く正しい出会い」があるかのように、人々に思わせてしまっている。そして正しく無い出会いは全部不健全なのだとして、子供を家庭の中に押し込めようとする。

 他者との出会いというのは、常にリスクと隣り合わせである。それは親戚であろうが、学校であろうが、ネットであろうが、会社であろうが、それは変わらない

 重要なのは、あくまでも「出会いはいつでもリスクを含む」ということを子供に伝え、対処法を伝授することであって、「悪いから悪いのだ」というトートロジーで、子供が他者と出会い、成長しようとする欲求を押さえつけることでは無いはずだ。

 非出会い系での子供の被害とやらが増加しているのは、決してフィルタリングが不十分だからではない。

 大人が、人と人が知り合ったり付き合ったりすることの複雑さを、子供に対して真っ正面から真剣に対話して伝えようと考えず、フィルタリングや都道府県の青少年育成条例、そして警察に、子供の行動を抑制してもらうことばかりを考えているからだ。

 そうして逃げ続ける限り、被害が増えていくのは避けられないと、私は考えている。


"大人が、人と人が知り合ったり付き合ったりすることの複雑さを、子供に対して真っ正面から真剣に対話して伝えようと考えず"

人と人との関係性というのは、非常に複雑なもので、とても一般化できるようなものではない。
そこに万事に通用する理論も方程式も定石も存在しない。
だが、日本人達はそんな一般化できないものをリスクとして扱い、そして遠ざける。
自分達の理論を拡張せず、自分達の理論に合うものを取り込むだけだ。
だから日本には純粋培養された単純君か、もしくは粗暴に育ったガサツ君ばかりになっていく。
恋愛の「れ」の字も語れないような大人たちが大量生産されて、人生というベルトコンベアに乗ったまま使い古されて死んでいくだけだ。
そうやって、世界の構造が大きく変化していく時に、時代に合わなくなった理論をいつまでも使い続ける。
生産ラインが稼動し続ける限りにおいて、それが必要とされているかどうかに関わらず、使い続ける。

ある研究者が人間をテクノロジの力で拡張可能かどうかなどとカッコいいことを言っていたが、その前に人間そのものの拡張について考えることの方がよっぽど大事だ。
複雑さ、不確実性、こういったものに大人たちが勇気をもって向き合わなければ、明日を担う子供たちは育たない。

こんな時、私はある言葉を思い出す。

西洋では病気をしないことを健康と考える。
しかし、東洋では病気とうまく付き合っていくことを健康と考える。
西洋的な考えでは、一生健康でいることは不可能で、また健康を維持するために常に多大な労力を要する。
東洋的な考えでは、一生健康でいることができるし、また健康を維持していくために適度な労力を要する。

社会には複雑さ、不確実性に溢れている。
それを否定したいと思っても、否定し尽くすことはできない。
大人が自分の論理矛盾に気づく時は、子供が大人になった後だ。

※注
このエントリは、一方に偏った意見であることを自覚して書いています。

幼児教育への集中投資が明日の日本を創る

2011-02-24 13:48:48 | 政治
既に幾人もの識者が提案しているが、日本は高等教育ではなく幼児教育に投資を集中させるべき。
これは日本の長期戦略を考える上でも最重要項目の内の1つでなければならない。
これを怠れば明日の日本はない。

幼児教育や初等教育に力を入れずに、高等教育で有能な高度人材を育成するのは、不可能に近い。
なぜなら、高等教育における"教育効果"なんてものがほとんどないからだ。

高度知識労働者にとって最も重要な能力は専門性などではなく、「思慮深い」「誠意がある」「一貫性を持っている」「信頼できる」といった基本的人格に紐づく「人間性」であり、この能力は高等教育で修練することはほぼできない。
高等教育で習得できるのは、知識や方法論だけである。

そして、最近の就活議論の中で全くもって軽視されているのが、上記の論点である。
日本企業の雇用慣行を批判するのは間違っていないが、長所を読み解かずに短所のみを強調して批判するのは辞めにすべきだ。
日本の雇用関係を破壊してアメリカ型もしくはヨーロッパ型にすればよいという短絡的な発想では、明るい未来は望めないだろう。

まずもって求められる専門性などというものは、時代の要請によって変わるものである。
この宇宙に永続性を保証してくれるものなど何もないのだ。
ゆえに、一時の繁栄を謳歌するために専門性にロックインすることほどリスクの高いことはない。
それでも短期利益を重視する大人たちは、専門性こそ反映の基礎と考えるから、若者に専門性を持つことを期待する。
「これだけは人に負けない領域を持て」「なんでもいい、自分のオリジナリティを持て」と言うのだ。
日本を覆う一つの病「差異化原理主義」である。

だが、若者は無意識的にでも直感的にこの言葉の嘘を見抜いている。
その言葉は、あくまでもそれを"今"求める人々の声であり、その人の人生を慮っている言葉ではない。
専門性を持つことほどリスクのあることはないのだから、誰しも「何の専門性を持つべきか」に思い悩むことになる。
「なんでもいいわけがない」のである。
だから受験エリートはリスクの小さい専門性である医者を目指す。

そうではないのだ。
「人間性」を磨き上げることこそ最も有用なのであり、差異化を考える必要性は低いのだ。
専門性は人間性さえあれば後から付いてくるからだ。

企業は、新しい製品、新しいビジネス、新しい産業、新しい分野に挑戦していかねばならない。
こういう変化に対応するために必要なのは専門性ではなく、人間性である。
高度知識社会において必要な能力は「人間性」である。
いや、正しく言おう。
専門性は人間性のないところに宿ったりしない。
専門性は人間性のあるところにしか存在しないのだ。
人間性のないところに、うわべだけで存在する専門性などは、時代の変化とともに廃れていく。
使い古されたら捨てられるだけだ。
向かう先は、使い捨てられる有期労働者になるだろう。

人間性こそドラッカーのいう組織社会を生き延びるために必要な能力であり、人間にとって獲得すべきより高次な能力である。

幼児教育・初等教育をさぼって、うわべだけの理解を高等教育で与えることはできない。
人格形成に強い影響を及ぼせる幼児教育にこそ、投資を集中させるべきである。

それと、何も経済合理的な理由からのみ幼児教育に投資すべきといっているわけではない。
社会的問題に対する建設的な世論の形成、治安・風紀の向上、文化的な質的向上などにも十分に効果を発揮するであろう。

幼児教育が人生に与える影響:研究結果(WIRED VISION)
http://wiredvision.jp/news/201102/2011022320.html


政府の財務状況がますます乏しくなる中で、社会にとって有効な公共への投資は何かについての判断が重要になってきている。

シカゴ大学の経済学者でノーベル賞受賞者のJames Heckman(ジェームズ・ヘックマン)氏と、ペンシルベニア大学の経済学者Flavio Cunha氏が2010年7月に発表した論文は、そのような賢い公共投資の例を挙げている。幼稚園教育だ。

[中略]

興味深いのは、この実験が「IQスコアの向上」に長期的な効果をもたらしたわけではないことだ。就学前教育を受けた子どもたちは、最初のうちは一般知能の向上を示したが、この傾向は小学2年生までに消失した。代わりに就学前教育は、さまざまな「非認知的」能力、例えば自制心や粘り強さ、気概などの特性を伸ばすのに効果があったとみられる。

われわれの社会は「頭の良さ」に価値を置く傾向が強いが、冒頭の論文を執筆したHeckman氏とCunha氏は、こういった「非認知的」な能力こそが重要であることが多いと論じる。彼らは、信頼できる人間性こそ雇用者が最も評価する特性であり、「粘り強さや信頼性、首尾一貫性は、学校の成績を予測する上で最も重要な因子」だと指摘する。

これらの有益な能力は、むろん一般知能とはほとんど関係がない。そして、それはおそらく喜ぶべきことだ。非認知的な能力はIQに比べて、はるかに順応性が高いからだ――少なくとも、早い年齢から介入を行なう場合は。幼児教育はわれわれの知能を賢くすることはないかもしれない(知能には遺伝の影響が大きい)が、われわれをより良い人間にするし、それはより重要なことなのだ。

[中略]

Cunha氏とHeckman氏は、早期教育の効果は明白であり、リスクのある幼児に教育を行なうための1ドルで、社会全体は8ドルから9ドルの「益」を得ると計算している。税金の使い方としては望ましいものと言えるだろう。

[低所得層および中所得層の学生における認知力の発達を扱った長期の研究で、子ども時代の貧困とストレスは、成人になってからの記憶力等に影響するという結果も発表されている