心底同意します。
【赤木智弘の眼光紙背】子供と真剣に向いあおう(赤木智弘)
http://news.livedoor.com/article/detail/5366662/
(強調は当Blogによるもの)
そして、人間同士の出会いで産まれるはずの、心や体やお金といった複雑な関係性を否定し、どこにもあるはずのない「清く正しい出会い」があるかのように、人々に思わせてしまっている。そして正しく無い出会いは全部不健全なのだとして、子供を家庭の中に押し込めようとする。
他者との出会いというのは、常にリスクと隣り合わせである。それは親戚であろうが、学校であろうが、ネットであろうが、会社であろうが、それは変わらない。
重要なのは、あくまでも「出会いはいつでもリスクを含む」ということを子供に伝え、対処法を伝授することであって、「悪いから悪いのだ」というトートロジーで、子供が他者と出会い、成長しようとする欲求を押さえつけることでは無いはずだ。
非出会い系での子供の被害とやらが増加しているのは、決してフィルタリングが不十分だからではない。
大人が、人と人が知り合ったり付き合ったりすることの複雑さを、子供に対して真っ正面から真剣に対話して伝えようと考えず、フィルタリングや都道府県の青少年育成条例、そして警察に、子供の行動を抑制してもらうことばかりを考えているからだ。
そうして逃げ続ける限り、被害が増えていくのは避けられないと、私は考えている。
"大人が、人と人が知り合ったり付き合ったりすることの複雑さを、子供に対して真っ正面から真剣に対話して伝えようと考えず"
人と人との関係性というのは、非常に複雑なもので、とても一般化できるようなものではない。
そこに万事に通用する理論も方程式も定石も存在しない。
だが、日本人達はそんな一般化できないものをリスクとして扱い、そして遠ざける。
自分達の理論を拡張せず、自分達の理論に合うものを取り込むだけだ。
だから日本には純粋培養された単純君か、もしくは粗暴に育ったガサツ君ばかりになっていく。
恋愛の「れ」の字も語れないような大人たちが大量生産されて、人生というベルトコンベアに乗ったまま使い古されて死んでいくだけだ。
そうやって、世界の構造が大きく変化していく時に、時代に合わなくなった理論をいつまでも使い続ける。
生産ラインが稼動し続ける限りにおいて、それが必要とされているかどうかに関わらず、使い続ける。
ある研究者が人間をテクノロジの力で拡張可能かどうかなどとカッコいいことを言っていたが、その前に人間そのものの拡張について考えることの方がよっぽど大事だ。
複雑さ、不確実性、こういったものに大人たちが勇気をもって向き合わなければ、明日を担う子供たちは育たない。
こんな時、私はある言葉を思い出す。
西洋では病気をしないことを健康と考える。
しかし、東洋では病気とうまく付き合っていくことを健康と考える。
西洋的な考えでは、一生健康でいることは不可能で、また健康を維持するために常に多大な労力を要する。
東洋的な考えでは、一生健康でいることができるし、また健康を維持していくために適度な労力を要する。
社会には複雑さ、不確実性に溢れている。
それを否定したいと思っても、否定し尽くすことはできない。
大人が自分の論理矛盾に気づく時は、子供が大人になった後だ。
※注
このエントリは、一方に偏った意見であることを自覚して書いています。
【赤木智弘の眼光紙背】子供と真剣に向いあおう(赤木智弘)
http://news.livedoor.com/article/detail/5366662/
(強調は当Blogによるもの)
そして、人間同士の出会いで産まれるはずの、心や体やお金といった複雑な関係性を否定し、どこにもあるはずのない「清く正しい出会い」があるかのように、人々に思わせてしまっている。そして正しく無い出会いは全部不健全なのだとして、子供を家庭の中に押し込めようとする。
他者との出会いというのは、常にリスクと隣り合わせである。それは親戚であろうが、学校であろうが、ネットであろうが、会社であろうが、それは変わらない。
重要なのは、あくまでも「出会いはいつでもリスクを含む」ということを子供に伝え、対処法を伝授することであって、「悪いから悪いのだ」というトートロジーで、子供が他者と出会い、成長しようとする欲求を押さえつけることでは無いはずだ。
非出会い系での子供の被害とやらが増加しているのは、決してフィルタリングが不十分だからではない。
大人が、人と人が知り合ったり付き合ったりすることの複雑さを、子供に対して真っ正面から真剣に対話して伝えようと考えず、フィルタリングや都道府県の青少年育成条例、そして警察に、子供の行動を抑制してもらうことばかりを考えているからだ。
そうして逃げ続ける限り、被害が増えていくのは避けられないと、私は考えている。
"大人が、人と人が知り合ったり付き合ったりすることの複雑さを、子供に対して真っ正面から真剣に対話して伝えようと考えず"
人と人との関係性というのは、非常に複雑なもので、とても一般化できるようなものではない。
そこに万事に通用する理論も方程式も定石も存在しない。
だが、日本人達はそんな一般化できないものをリスクとして扱い、そして遠ざける。
自分達の理論を拡張せず、自分達の理論に合うものを取り込むだけだ。
だから日本には純粋培養された単純君か、もしくは粗暴に育ったガサツ君ばかりになっていく。
恋愛の「れ」の字も語れないような大人たちが大量生産されて、人生というベルトコンベアに乗ったまま使い古されて死んでいくだけだ。
そうやって、世界の構造が大きく変化していく時に、時代に合わなくなった理論をいつまでも使い続ける。
生産ラインが稼動し続ける限りにおいて、それが必要とされているかどうかに関わらず、使い続ける。
ある研究者が人間をテクノロジの力で拡張可能かどうかなどとカッコいいことを言っていたが、その前に人間そのものの拡張について考えることの方がよっぽど大事だ。
複雑さ、不確実性、こういったものに大人たちが勇気をもって向き合わなければ、明日を担う子供たちは育たない。
こんな時、私はある言葉を思い出す。
西洋では病気をしないことを健康と考える。
しかし、東洋では病気とうまく付き合っていくことを健康と考える。
西洋的な考えでは、一生健康でいることは不可能で、また健康を維持するために常に多大な労力を要する。
東洋的な考えでは、一生健康でいることができるし、また健康を維持していくために適度な労力を要する。
社会には複雑さ、不確実性に溢れている。
それを否定したいと思っても、否定し尽くすことはできない。
大人が自分の論理矛盾に気づく時は、子供が大人になった後だ。
※注
このエントリは、一方に偏った意見であることを自覚して書いています。