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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

[妄想シリーズ] 群雄割拠の時代

2010-01-07 10:16:11 | 政治
本エントリは全く本質的ではない無内容なものです。
単なる妄想です。

鳩山首相が民主党による政権交代を「無血の維新」に例えたことで、現状を幕末に例える論者が多いように思います。
今はまだ公武合体の段階だとか、維新前夜だとか。

しかし、私が思うに、現状に近いのは室町幕府が力を失って下克上が置き始める戦国時代前夜であると思います。


多分似たようなことを感じて似たような記事とか書いてる人がいるような気がします。
いたら教えてください。
ググってないですが、予想すると室町幕府の崩壊過程になぞらえている人がいるはずです。

歴史を紐解くと、日本全国規模で中央集権国家が生まれたのは明治政府が確立された時でした。
平安時代以前は中国に似せて作られた貴族による擬似中央集権国家といえるのかもしれませんが、それ以降は幕府を中心とする緩い連合国でありました。
(そもそも大和朝廷の成り立ちからして天皇を中心とした連合国家であります。)
日本において強い中央集権国家が生まれなかったのは、日本が島国かつアジアの端にある小国で外敵の侵略を強く意識する必要がなかったからです。
人間は強い敵に立ち向かうために、強い力を持とうとし結束するのです。
しかし、時代も江戸時代末期くらいになると、世界は帝国主義の時代です。
西欧諸国列強がアジアに植民地化の手をのばしてきました。
例えば、日本にとっては長年強大な国家であったお隣の中国がイギリスなどに簡単に負けてしまったのです。
(これは中国が内政的な問題で実力出し切れずに弱かったという説が有力です。)

こうなると、日本は自分がいつやられるか心配する必要があります。
このような問題意識が維新志士を突き動かし、紆余曲折しながら日本には革命が起き、中央集権国家への道を直走るのでした。
(初めからそんな大そうな問題意識を持っていたわけではないが)


昔大和朝廷は緩やかな連合体であったようですが、朝鮮半島で起きた戦争に加担して負けたことがキッカケでより中央集権的国家になったそうです。防人なんかは学校で習ったのではないでしょうか。

少し簡単に歴史の話をしてしまいましたが、次になぜ私が戦国時代前夜だと考えるか説明します。

日本は明治政府確立後から太平洋戦争に敗北するまで、貴族的な緩い中央集権的国家であったと思います。
しかし、戦後、政治は徐々に武士(政治家)によるものに変わっていきました。
貴族社会が終わって幕藩体制(幕藩というか幕府による政治)に変わったのです。
実際、自民党という幕府は様々な派閥による連合体でした。
(見かけ上野党として戦っていた社会党も派閥の一つみたいなものです。)

時代が流れ自民党幕府の力は弱まりました。
社会秩序は乱れ、社会不安が広まり、世には不平不満が溢れていました。
誰もが新しい秩序を求めていたのです。
そこに生活者という御旗を掲げる反体制勢力が現れました。
その勢力はこれまで何度か立ち上がりましたが、その度に自民党幕府に潰されてきました。
しかし、もはや自民党幕府に対抗するだけの力は残されておりませんでした。
人々は自民党幕府に嫌気がさしていたので、新しい勢力に希望を託しました。
そして民主党幕府ができたのです。


面白い調査研究がある。
人々は「革命」という言葉を好むが、歴史上に「革命」と呼ばれる出来事は思ったよりも少ない。
なぜなら、反体制的活動は、そのほとんどが潰されて「変」や「乱」、「蜂起」といった形になるからだ。
とある著名歴史学者は、反体制活動が「革命」に至る場合とそうでない場合を分ける条件について考えた。
そしてある結論に至った。
反体制活動が成功するかどうかは、反体制側の属性にはほとんど依存せず、体制側の状態に依存する。
反体制側に倒される体制とは、そのまま放って置いてもいつかは滅ぶ体制なのだという。
つまり、「革命」が起きるかどうかの分岐点は反体制側がいかに素晴らしいかではなく、体制側がいかに自滅するかにかかっている。

しかし、民主党幕府は旧幕府が没落することによってできた体制であり、全国をまとめる能力が低かったのです。
思うように人心を掌握することができずに焦っていました。
この状況を利用して旧幕府側の残党が息を吹き返す前に、民主党幕府は徹底的に残存勢力を殲滅する必要がありますが、残存勢力によるレジスタンス活動が活発で抑えることができません。
急ごしらえの民主党幕府は危機的状況にあります。

ただ、民主党幕府によって唯一の救いは、旧幕府の残存勢力は一枚岩にはなれず力が分散してしまっていることです。
残存勢力側は衰退の道にあります。
そのため、中には新しい勢力として独立する動きも出てきています。
民主党幕府の基盤が磐石にならない今、あらゆる勢力にチャンスが回ってくる可能性があるのです。
混沌とした情勢の中、先に民意と言う御旗を手にした勢力が実権を握るチャンスがあるのです。
時代は今、群雄割拠の時代へと突入しようとしているのでした。

歴史をなぞっても無意味ですが、戦国時代に模すると、この群雄割拠の時代を制するのは織田信長的強権者ではないかと愚考します。
意見集約型の政治姿勢では、混沌とした情勢を乗り切ることは難しいからです。
人々は答えを求めているのです。
「この無意味な政治の混迷を終わらせる」と主張する誰かです。
既得権益をバッサバッサと切り崩し、日本の未来のために非情で冷酷な哲学で温かさを主張する人です。
その人は「物語」を多用してマイノリティを集団に組込むでしょう。
人々は坂本竜馬的な人を求めますが、実際には織田信長的な人が時代を制するでしょう。
ゆえに、独裁が生まれる可能性に注意する必要があります。
(既得権を切るためには、誰かに損失を与えることに他ならず、これを実行するためには2つ方法がある。一つは全体最適観点で理解を得ること。もう一つは強権を発動すること。)
聞こえのいい言葉だけに耳をかしてはいけません。

妄想です。

「認識に格差」ではなく「認識に偏り」が正しい表現

2010-01-05 19:09:59 | 政治
1票の格差認識も地域格差(山内康一)
http://yamauchi-koichi.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-b05f.html

太字の部分に注目。
この手の話は地方に行けばいくらでも聞けると思う。
気持ちはわかるが、誰か論理的に説明して欲しい。


年末に「1票の格差が最大2.3倍だったのは憲法違反」
とする判決を大阪高裁が出しました。
私もまったくその通りだと思います。

同じ日本国民なのにたまたま住んでいる地域が異なるだけで
1票の重みがちがうのは理不尽だと思っていました。
ふつうに考えればそうだろうと確信していました。

男と女で1票の重みがちがうのは、今の時代では理不尽です。
(むかしは女性には選挙権がありませんでした。)

納税額で1票の重みがちがうのも、今の時代では理不尽です。
(むかしは納税額で選挙権の制限がありました。)

居住地で1票の重みがちがうのも、これからは理不尽だ、
という時代にしなくてはいけないと思っています。
(今のところ1票の格差是正に本気で取り組む議員は少ないです。)

ところが年末年始に実家の福岡に帰省して驚きました。
実家で購読している西日本新聞社説に次のような記述がありました。


---------------------------------------------------------------
人口が減り続ける地方にとっては「平等の原則」を厳格に追求すれば、
地方選出の国会議員が減っていくことになる。
政治の地域間格差がさらに広がるのではないか。
そんな不安を抱かせる判決でもある。
-------------------(中略)------------------------------------
「投票価値の平等」を追求するだけでは、地方に不平等感が広がる。
---------------------------------------------------------------



私は地方紙がこの手の論説を書くのは反対ではない。
地方の人間が地方の利権を主張するのは当たり前だからだ。
(ちなみに私は都市部に住んでいる)

しかし、次の一文についてはもう少し論理的に考えてもらいたい。


「投票価値の平等」を追求するだけでは、地方に不平等感が広がる。


利権を主張するのは問題ないが、問題の本質を見極めないと自分で自分の首を絞めることになりかねないからである。

「地方における平等」とは何か。
この点についてもう少し地方の方々は考えられた方がよいように思う。
不適切な平等を求めた結果、不平等を手にすることもあるかもしれないからだ。

下記のエントリは参考になりそうだ。

沖縄行政改革(樋口耕太郎)
http://agora-web.jp/archives/865425.html

ちなみに


衆議院選挙は、明らかに「国民の代表」を選ぶ選挙です。
したがって、1票の格差は小さければ小さいほど望ましいと思います。


衆議院選挙がどうして"明らかに「国民の代表」を選ぶ選挙です。"なのか。
みんなの党は応援したいが、国会議員としてその認識はおかしいのではないか。
一票の格差の有無に関わらず小選挙区で選ばれる以上、どう考えても地域選出の議員だろう。
「地域選出の議員」を「国民の代表」と置き換えるロジックは如何なものかと思う。
(「国民に選ばれているから国民の代表」ってそういうロジック?)
(つまり「地域の国民に選ばれた地域別の国民の代表」ってことね)
日本政治の欠陥は「国民の代表」が不在のため、国家戦略に対する責任の所在が不明確なことだ。
現状の議院内閣制では国民は政府の長たる国民の代表を選べない。
衆議院選挙という狭い選択肢の中で間接的に選んでいるに過ぎない。

既成の政治システムにのっかるだけの最近の政治家はシステムそのものへの認識が足りないように思う。
それゆえ民主主義や資本主義についての議論というものが全く聞こえてこない。
その点について唯一プレゼンスを発揮しているのは小沢一郎くらいだ。
もう少ししっかりして欲しい。

新年を祝うこころ

2010-01-05 14:03:07 | スピリチュアル
「新年あけましておめでとうございます。」

と言っておきながら、いつも思うのだが、今どき年が変わっておめでたいと思っている人はどれだけいるのだろうか。
むしろ、今はおめでたいどころか、嬉しくない人達の方が多いのではないだろうか。

様々な締切りに迫られる人、現状の苦しみが永続的に続くと感じている人、時の流れに漠然と不安にかられる人、などなど「迎えたくない未来を待つ人」にとって時の流れは冷酷なほど厳しい。

不確実極まる大自然によって生活が左右されてしまうような時代には、新たに迎える年における豊穣を願うことに疑問を差し挟む余地はなかった。
願うことしか人間にはできなかったからだ。

しかし、科学時術が発達した近代において人類は中途半端ながらも予見可能性を手にした。
より正確にいえば「予見可能性を保てる生活を支える技術を手にした。」といえるだろう。

明日のことがわからなかった時代、人々は明日を祈った。
今、この時代、人々は明日を否定する。
明日を祈ったりしない。
明日のことは、もうわかっているからだ。
(本当にわかっているかどうかに関わらず)

「決められた自分の人生を歩む絶望」を受け入れることを拒否する者達は後を絶たないが、「自分の考えの及ばないところに自分の明日があるという希望」に気づくものは少数で、そしてその証明は難しい。

私はよくこういう言葉に遭遇した。
(世を悟ったように言うのだ)

「人間は賢くなればなるほど不幸になる。」

確かに、「坂の上の雲」などを見るにつけ、明治時代の人間は昭和や平成時代の人間より明るく前向きだったのかもしれない。
(司馬史観が正しいのかは不明だが)
しかし、その理屈でいえば、それは弥生時代と明治時代の人間の間でも同じであったのではなかろうか。

であるならば、我々は猿になるべきか。

否、それは違う。

我々が「賢くなる」と考えるのは「山登り」と似ている。
登っている途中は先がどのようになっているのかわからない。
その未知さこそ、我々をかり出す。

5合目、8合目、頂上で経験するであろう未知さこそ、我々が山を登る理由だ。
しかし、山を登り切れば「全てが見える」ように思える。
そこから見える景色、全貌、歩いてきた道、それらが見える。
その時、人はこれまでの道を登る快を失うであろう。
これまで楽しんできたものでは、我々は満足できなくなる。
それはもう「未知」ではなく「既知」であるからだ。

では、頂上に辿り着いたなら、全てが「既知」になり、人は不幸になるのか。

それも違う。

なぜなら、それは「頂上」などではないからだ。

人が「頂上」に辿り着くことなど有り得ない。

「結果」とは常に「途中経過」であり、プロセスの一部に組込まれるものである。
プロセスのある瞬間を切り取って「結果」として捉えることはできても、それを「結果」にすることはできない。
全ては永続的なプロセスである。

我々が「頂上」だと思っている「結果」は、全て思い込みに過ぎない。
いや、方便(「ものの考え方」でもよい)というべきだろう。
その思い込みに左右されて「不幸」だと考えることこそ、「真の不幸」であろう。

もし、「頂上についた」と思うのであれば「新たな山」をもう一度定義することだ。
多くの人があなたの「頂上」を決めたがるであろう。
そうでなければならないと、あなたを諭すであろう。
しかし、あなたの「頂上」はあなたが自由に決めていい。
その自由はこの宇宙が設計された段階で埋め込まれた生命の奇跡だ。

新年を祝おうとするこころとは、人間が明日の不確実性を受入れ、その上で自由という宇宙に組込まれた機能を謳歌するものだ。
我々が新年を祝う気持ちを見出せないとしたなら、それは自由という機能を忘れてしまっているからかもしれない。


さて、永遠の山を登りきった時、つまり全てが「既知」になったとしたら、何が待っているだろう。
それは、このスピリチュアル・シリーズで語っていこうと思う。


結局、いつもの相対性の話と言い回しが違うだけで同じじゃないかと思われたあなたは正しい・・。