ここでの議論は反証可能性がないので、これはあくまで虚論の域を出ない。
だからここから何を得ようかということは、ひたすら読み手に任されるものなのである。
前回第一部に引き続いて内田樹のブログをコピペしながら持論を述べる。
その後、彼のブログが更新されたのだが、その内容も実に興味深い「ミドルメディアの時代」ので、この議論の後に続けてそちらも引用させてもらうことにする。
※
鳩山首相が内田樹の日本辺境論をお買い上げだそうです。
(私は立ち読みしていたのですが、彼への敬意をこめて購入させていただきます(笑))
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100112k0000m010043000c.html
鳩山由紀夫首相は11日、東京・丸の内の書店「丸善・丸の内本店」を訪れ、経済書や思想書など計28冊を自費で購入した。記者団から経済書などが多かった理由を聞かれると「資本主義も新しいものが求められており、日本の風土にどう生かしていくか勉強したい」と語った。
...前回からの続き
資本主義に対するもっともラディカルな批判はマルクスによるものだが、マルクスの主張は一言に尽くせば「万国のプロレタリア、団結せよ」という『共産党宣言』の言葉に要約される。
資本主義に対する根底的批判の言葉が「資本主義打倒」ではなく「貧しいもの弱いものは団結しなければならない」という遂行的なテーゼであったことを見落としてはならない。
資本主義が「悪い」とされるのは、別にそのシステムが本質的に邪悪なものだからではない。
それが市場を形成し、貨幣を流通させ、人々を共通の言語で結びつけ、通信、交通、信用、決済のシステムを整備する限り、資本主義はまことにけっこうなものである。
問題は、資本主義の活動性がある閾値を超えると、人々を分断し、孤立化させる点にある。
資本主義の邪悪さはその構造そのもののうちにではなく、「人類学的水準」において顕在化する。
だから、資本主義に対する抑制的行動は「人類学的」水準において、つまり「弱者の連帯」というかたちでのみ効果的に果たされる。
なるほど。「そうきたか」と思わされる名導入である。
さすが、内田樹。
ここが、これから彼が語る物語の出発点になる。
このエントリの後半部分について私は激しく同意するものであるけれど、彼と私の結論を違ったものにしてしまうのは、この部分に関する認識の違いである。
彼の問題意識は「資本主義の問題は、人々がそれを採用する時、人々を分断し、孤立化させる点である」と述べるのである。
思わず話しに引き込まれそうになるが、逆をいえば、ここが否定されると彼の資本主義否定は無効化されてしまう。
「人々を分断し、孤立化させたものは何か?」
この問題については確実に答えることは難しいであろう。
どのレベルで答えるかによって、答えが変わるからだ。
(原因には原因があり、またその原因にも原因がある。このどの時点での原因を述べるかだ。)
また、資本主義を採用する国家で起きたことが、資本主義ではない制度を採用する国家で起きないのかどうかも確かめられるべきであろう。
そもそも人類的進化の上で、人々の孤立化は不可避かどうかという問題だ。
資本主義に促進する効果があるのか、たまたま資本主義国家で顕在化したのか、などだ。
続いてもう少し細かい説明があるので見ていこう。
マルクスの説いた「共産主義」とは「コミューン主義」communismeということである。
コミューンを基礎単位として社会は構築されるべきだという論である。
別に経済活動を国家統制しろとか、一党独裁にしろとか、そういうけちくさい話ではない。
コミューンとは人間と人間のあいだの距離が「わりと近い」共同体なので、「論の政治的正しさ」や整合性ではなく、「ガキのころから知っとるけど、あれはなかなか肚のすわったやっちゃ」とか「あれは口だけのヘタレや」という判断が合意形成に際して優先的に配慮される場所というふうに私は理解している。
そういう集団を社会活動の基本単位とすべきだと提唱していたというふうに私はマルクスを理解している(日本のマルクス主義者のほとんどは私と意見を異にされるであろうが)。
そんなマルクス主義の最期の「彗星の尻尾」も1970年代の初めに宇宙の彼方に消え去り、それ以後覇権を握った資本主義は共同体の解体と消費主体の「孤立」を国策的に推進してきた。
自己決定・自己責任論も、「自分探し」も消費主体を家族や地域や同業集団から切り離し、「誰とも財産を共有できないので、要るものは全部自分の財布から出したお金で買うしかない(金がないときはサラ金から借りる)生活」をデフォルトにすることをめざしてきたのである。
その「趨勢」に日本人の全員が加担してきた。
その「結果」として若い世代の方々は「共生する能力」を深く損なわれたのである。
彼らの責任ではない。
教育も、メディアも、思想家たちも、率先して「誰にも決定を委ねない、自分らしい生き方」を推奨してきた結果、「共同体の解体」と「消費主体の原子化」が晴れて実現して、こうなったのである。
日本社会が官民を挙げての努力のこれは「成果」なのである。
「共同体の再生」という大義名分には反対する人はいないだろう。けれども、それが「消費活動の冷え込み」を伴うという見通しについては、「それは困る」と言い出すだろう。
申し訳ないけれど、これはどちらかを選んでもらうしかない。
資本主義者のみなさんにご配慮いただきたいのは、限界を超えて「原子化」した人間はもはや消費活動さえ行わなくなるということである。
「資本主義は共同体の解体と消費主体の孤立を推進してきた。」
なぜなら
「共同体生活では消費は活発化されないので、消費活動の極大化を目指すため」
その内容は
「共同体の解体と消費主体の原子化」
ここに
「自己決定・自己責任論という理路がある」
その結果
「共生する能力が深く損なわれた」
その上
「限界を超えて原子化した人間は消費活動さえも行わない」
つまり、資本主義者は消費活動を極大化するため共同体を解体することに一生懸命になった。
必然的に人々は分断され、孤立化する。
なるほど。一理ある。
しかし、彼の意見が資本主義者に受け入れられることはないだろう。
残念だが、彼と私の結論が異なる原因はここで決定的になる。
「資本主義者が消費活動を極大化するために共同体を解体しようとした。」というのは、ある意味で陰謀説に近い。
(思うに彼は妄信する者を嫌った議論が多いが、資本主義者が妄信していると思うには少し早い。)
なぜなら、私が思うに「人々は消費活動を極大化したいと思った」のではなく、「人々は己の欲望を充足するということがどういう事であるかを知りたいと思った」なのだ。
資本主義社会において見られた共同体の解体は、消費を指向したこと(消費活動を際限なく可能とする資本主義とうい仕組み)に要因があるのではなく、己の欲求を満たそうとする人間の性質そのものに要因があるのだ。
すると、この共同体の解体の要因は「資本主義」ではなく「人間が人間であること」にあることになる。
彼はこういう。
資本主義の邪悪さはその構造そのもののうちにではなく、「人類学的水準」において顕在化する
これはミスリーディングだ。
邪悪という相対的概念を使うのは好まれないが、「人類学的水準」において顕在しているのは、常に「人類学的邪悪さ」である。
彼のいうとおり資本主義は生きていない。
ゆえに邪悪さを持ちようがない。
邪悪だというなら、邪悪なのは人間でしか有り得ない。
いや、もちろん「資本主義という仕組みが人類学的邪悪さを顕在化させる」という議論は成り立つ。
では、資本主義以前のコミューン主義制度において人類は邪悪ではなかったのであろうか。
彼の論理に従えば、コミューン主義制度においては人類の邪悪さは抑制されるので、よりよい社会が成立するということになる。
これは現実か。
歴史上、そんな時代はあったか。
(これから先にあるという意見か。とりあえず過去の話を。)
昭和の「3丁目の夕日」や明治の「坂の上の雲」のような時代に日本人は幸せだったか。
その時代に日本に訪れた西欧の人間が「日本人は幸せそうだ。心が洗われる。」なんて言っているのを聞いて、「あの時代はよかったのだ。」と思っているのだとしたら、それは大きな勘違いである。
それは西欧から訪れた人間の価値観に照らし合わせて幸せそうなだけである。
ここは断言しよう、そのように皆が幸せだった時代はなかった。
そんな時代が存在できるのは人間の頭の中だけだ。
古代ローマ時代や江戸時代にはあったという人がいるかもしれないが、無駄な問いである。
なぜか。
答えは簡単である。
幸福とは常に相対的なものだからである。
この時代だけが特に幸せなんてことは有り得ない。
なぜか。
不幸がなければ幸せで有り得るはずがないからだ。
苦労を知らずして優しさを理解できぬように、不便さを知らずして便利さを知ることはできないし、憎しみや無関心をを知らずして愛を知ることもできない。
人間の認知の本質は、行為や結果にはなく、常に中身(動機)なのだ。
(同じことをしても、感じるものは人や時代によって変わる。)
我々が、この相対的な宇宙の住人である限り相対性から逃れることはできない。
幸せというものが絶対的基準であるかのように思う人は、そう思う限りにおいてこの考えは理解できぬであろう。
(幸せと不幸せのバランスが重要だが時間的作用性を考慮に入れるとそのバランスがいつ結実するのかは難しい問題で、結局すべてがプロセスなのだ。その上、時間の矢は過去方向には戻らない。我々には未来という希望を信じることしかできない。なんてこった!)
つまるところ、こうである。
人間は「人々は己の欲望を充足するということがどういう事であるかを知りたいと思った」。
この決して飽きることのない欲望こそ、人類を人類足らしめる要素である。
これは太古の時代から変わらず、いつの時代も人類は新たな主義や思想や制度を採用してきた。
そして近代という人類史上ごく狭いわずかな期間において資本主義という制度を採用している。(現在進行形)
しかし、これは人類が出した答えでもなければ、結論でもない。
あくまでも途中の結果であり、プロセスの一部でしかなく、過渡的な現象である。
これまでにそうしてきたように、これからも人類は走り続ける。
人々は己の欲望を充足するということがどういう事であるかを知るために、あらゆる手段を使うであろう。
そのために資本主義が障壁となるようであれば、資本主義を修正または乗り換えるであろう。
しかし、それは人類の欲望を抑制するためではなく、それが最善の方法と信じるからである。
この種の議論に慣れない方には細かい違いとうつるかもしれないが、これは本質的に大きな違いである。
要因を取り違えるということは、対策を誤るということになり、結局、結果として損失を被る可能性があるからだ。
誤った情報に基づいてなされた判断は誤った結果を導く。
(もちろん、完璧な答えなど誰も知らないが)
第3部へつづく。。