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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
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「日本辺境論」雑感

2010-01-29 14:24:18 | TV・書籍
「私的日本辺境論」を述べる前に、今回書籍そのものについての簡単な雑感です。

内田樹の「日本辺境論」を読んだ。
(以前、羽田空港で軽く立ち読みしていたのだが、彼に敬意を表して購入した。)

まず、面白い
売れるだけのことはある。(鳩山総理もお買い上げだそうで。読んでるのかは不明。)
私個人としては8割程度は率直に同意できた。
(私個人の考えとも近いのが改めて確認できた)

思想的なことにあまり興味がない人も、1章「日本人は辺境人である」2章「辺境人の「学び」は効率がいい」の読み物としてスラスラ楽しく読めるだろう。
1章と2章だけでも「日本辺境論」のほとんどは理解できるから、それだけでもこの本を読む価値はある。
日本人論としてではなく、今後の日本人論を述べるにあたっても有意な考えとなるであろう。


これまで「日本人は・・・だから~」という雑談で発言できなかったあなた、会話のネタにできるのでおススメ。
または仕事か何かで日本的思考に苦しめられているあなた、あなたの悩みを解決するヒントになるかも。

しかし、3章「「機」の思想」は哲学的な素養をもたない人が理解するのには難しいと思う。
たぶん「わかったつもり」の人達がいっぱいいるはずだ。
これは当Blogの主張の中核テーマである「絶対性と相対性」についての彼なりの洞察だが、こういう議論が一般にウケが悪いのは、なんとなく想像できても、実践を想定した追体験を、その経験がない人が想像することが難しいという点にある。
特に「時間」という概念に関する考察は、ほとんど理解されないといっていい。
我々は普段「時計(時刻)」は意識しても「時間」を意識して生活することはほとんどない
「時間そのもの」について考える機会があるのは物理学者と哲学者、死にゆく人と僧侶ぐらいである。
例外としては、スポーツ選手や武道家、職人などはその仕事を極限まで極めようとする中で、自然と時間に関する手触り感覚が身につく場合もある
彼は武道家の立場から、彼は彼自身の説明通り「先駆的な知」により「日本人ならその手触り感をなんとなく理解できるであろう」ということで、その手触り感で「時間」をわかりやすく説明しようとしている。
そういう意味では「なんとなく理解する」でもいいのかもしれない。
これはほとんど彼の趣味、ライフワークなのだ。

私自身、この3章の彼の主張の半分には、理解はできるが同意できないというか、そういう考え方でいいのか疑問に思うところがある。
というのは、「「機」の発想」と「我々の現生活」との間のギャップを埋める方法が述べられていないからである。
いや、むしろ「ギャップを埋める方法が述べられていない」ということが、彼の作為的な意見、政治的スタンスを表明しているであろうと捉えることができ、それが無駄な反感を買うのだと思うのだ。
この日本辺境論に唯一欠けているのは、「日本人の性質」と「日本人の性質と乖離し始めた現実生活の性質」を有機的に結び付けようとする「気概」ではないかと思う。
むろん、彼自身、本書の目的は「大風呂敷を広げること」のみと述べているのであるから、確信的に行われたことなのであろう。
たしかに、辺境人として生きることも、気概を持つことも、どちらがよいのか、それは自明ではないから。

第4章は後から取って付けた印象。
あってもなくてもいいと思う。
読んだ後の印象もさほど残らない。
彼としては、日本人の思考方法を説明するにあたって「日本人が並列処理が得意な理由」に意味があるのだろうが、第1章と第2章の補完的説明だから、第4章は必須ではないと思う。


彼の文章を読んでいると、不思議と「美輪明宏」氏の書籍を読んでいる気分になってくる。(私は彼の本も読んでいる。私は彼の人生」のファンだ。)
美輪氏と同じで、構えさえしなければ自然と入ってくる文章で、とてもわかりやすい。
語り口や、論理展開の仕方だけに理由があるのではなく、彼の問題意識の延長線上に人間の「霊性」があり、彼はそこに向かって語りかけようとしているからではないかと思う。
彼は固体としての人間、表層意識の理性に向かってではなく、その奥にある人間性そのもの、潜在的な理性に向かって語りかけているのだ。
だから頭で理解しようとした時の悶々とした納得感ではなく、直感に刺激されて心底からジワジワと湧き上がるインスピレーションが我々にもたらされる
これが彼の人気の秘訣なのだと思う。

「みんなの党」は進化できるか

2010-01-29 12:14:45 | 政治
やばい。(←もう古いのかな?)
みんなの党が第2野党になる時代がそこまで来てる。

ヨッシー日記(渡辺喜美)
http://yossie-w-diary.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/


今日の日経新聞は、みんなの党支持率5%(前回2%)で公明・共産を抜いた。次の参院選投票先では8%で民主・自民に次いで第3党。驚くべき数字である。

ラジオNIKKEIのマーケットサーベイでは超サプライズの数字。投資家のみなさんに聞いた。「支持または好意をもつ政党は?」。

民主19%、自民13%、みんなの党49%で堂々の第1位!!投資家は先を読む。


私自身「みんなの党」の掲げる政策が特段素晴らしいと考えているわけではないが、民主党と自民党の評価が低いので「みんなの党」の評価が相対的に上がっているのが実情ではある。
自民党も民主党も外交政策以外のところではあまり大きな違いがなく、どちらもいわゆる「大きな政府」指向であり、いわゆる「小さな政府」指向の政党が「みんなの党」以外存在せぬのである。


民主と自民は内政問題で方針の違いで揉めているが、大きな/小さな政府のスケールで見ると同じ枠組みの中での争いに見える。
一応、予防線を張っておくが、よく「大きな/小さな」というのは問題の本質ではないという批判がある。
例えば、オバマは「大きいか小さいではなく賢い政府」と言ったし、つい先日の自民党の議論では「無駄なことをせぬ政府」という表現が使われた。
だが、これは周回遅れの議論である。
「大きい」「小さい」を主張している人達は、その議論を何十年も前に経ているのだ。
個人の尊厳と自由と幸福を最大化するためには、どういう政府がいいのかという長い間の議論の末に辿り着いたのが「大きい政府」と「小さい政府」の議論なのであり、「大きい」か「小さい」かを問題にしているのではない。
本質的でないのはわかりきっていることで、話の単純化のために用語として使っているだけだ。
「小さい政府」を主張している人が原理主義的に「政府は小さい方がよい。」などと考えているわけではない。
個人の尊厳と自由と幸福を最大化するために、それが最もよい方法と思うがゆえに主張するのである。
理由はこれまで繰返し述べてきたので、ここでは述べない。
(後日まとめる)

よって「小さな政府」指向の国民は「みんなの党」を選択せざるを得ないのだ。
中産階級以上の富裕層は「小さな政府」指向の人が多い。
政府の助けを比較的に必要としてないので全体最適が重視されるからだ。
税は少ない方がいいし、政府による規制がビジネスを妨げることもある、政府は小さいにこしたことはない。
「みんなの党」が投資家に人気があるのは当然である。

しかし、そういう人達は日本国民全体でみるとマイノリティーでもある。
(もちろんマイノリティーでもオピニオンリーダーとしての影響力はあるではあろう)
「みんなの党」が国民政党としてもう一歩飛躍するためには、総合力を上げる必要がある。
民主党のように右も左もということではなく、もう一回り大きな風呂敷を広げないとより多くの支持を得ることができないであろう。
(もう一つ高い視点からの政策提言が必要だという意味)
今は小さい風呂敷を幾つか広げているだけだが、もっと大きな風呂敷が必要だ。
ただ「みんなの党」は層が薄すぎるので今のままでは無理であろう。

そんな中、小野次郎氏が合流するのは朗報だ。
まだまだだが・・。

それもそうだが、そもそも渡辺喜美氏が総理大臣というのがピンとこない。
非常に勝手なことを言わせてもらえば、彼の突破力は担当大臣の方が向いていると思う。
多くの国民が彼に安心感を抱けないのはそれが原因ではなかろうか。
「みんなの党」が野党第1党、政権与党になるためには、たぶんリーダーとして大物を連れてこないとだめだと思う。
これは完全に個人の感想でしかないのだが。