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進化する魂

フリートーク
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気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

ブログ近況報告(2010/01/20)

2010-01-20 10:04:45 | ブログ情報(News Release)
不定期でお届けしているブログ近況報告です。

最近、小沢ネタが多いのですが、私は決して小沢シンパでもなければ賛美者でもありません。
さらにいえば擁護するつもりも毛頭ありません。
ただただ、小沢批判があまりに稚拙過ぎるので、皆様にもう少し想像力を働かせていただきたいという思いでエントリを重ねさせていただきました。

そもそもの日本の風潮として政治家に対する「不信」があるため、政治家が無能であるかのような言説が自然と多くなっていると私は感じています。
財産の継承ということが能力よりも重視されて2世、3世政治家が多く生まれているという事実も片方ではありますが、しかし現代において政治家という仕事を続けていくのは大変に労力が必要であるというのも、もう片方ではあるのです。
昨年に起きた政権交代をきっかけに政治の世界にダイナミクスが生まれることが期待されるわけですが、もしそうなれば、政治家という職業は能力と意志を持つ人達の手に渡るであろうと考えます。

政治のダイナミクスは国民を変えます。
これは「ニワトリと卵」かもしれませんが、何かがキッカケとなり、ダイナミクスは生まれることは事実です。
どちらが先でもいいのです。

「変化」は人に「成長の機会」を与えてくれるのです。
その変化が、これまでの日本の政治ではあまりに軽んじられてきました。
むしろ変化しないことを是とする人々によって、その重要性への気づきが封印されてきたのです。
政治に関わる人々は、己の利益のために国民が変わることを望まなかったのです。
政治はひたすら分配の調整機構として存在すればよかったし、それを望む人達の手によって政治の問題は隠されてきました。

日本が経済成長過程にある時には、それでよかったのです。
しかし、世界は変わり続けます。
この宇宙の変化が留まることがないように、我々人間が置かれた環境もまた変化し続けます。
このような状況においては、
「変わらないでいるためには、変わり続けなければならない。」
「そこに留まるためには、全力で走り続けなければならない。」
というような言葉が識者からは叫ばれ続けてきましたが、多くの人達の耳には届きませんでした。

特に、冷静終結後、世界は大転換の時を向かえたのです。
近代の時代は終わりを告げ、ポスト近代の時代を迎えたのです。
西と東の壁が取り払われると、世界のビジネス領域は大きくなりました。
世界の国々は自分達を閉じ込めてきた古びたイデオロギーを捨て、自由を手にしたのです。
この流れは大きなグローバル化の波となり、世界中を覆ったのです。

このような世界情勢の中にあって、当然、日本も変化する必要がありましたが、政治の世界は旧来型の利益分配調整機構としてあり続けようとしたのです。
「終わりのはじまり」は誰もが認めたくないものです。
特に、今この瞬間に利益を受けている人は、その利益を決して離そうとはしないものです。

この政治を断固否定し、日本がポスト近代の時代に埋没しないよう、新しい民主主義を日本に打ち立てる必要性を感じた大物政治家がいたのです。
「小沢一郎」という人です。

彼は当時政権与党であった自民党の実力者でしたが、自民党を出て自民党と対峙する道を選びます。
彼がそう考えた理由は、必ずしも気高いものだけだったことはなく、自民党内の権力闘争に疲れたこともあったでしょう。
しかし、彼は決断しました。
今、この瞬間にも、勇気もビジョンも無く自民党を出れずに埋没していく自民党改革派議員
に比べ、なんという意志でしょうか。
自民党にこだわりつづける政治家とは比較にならない意志の強さです。

小沢のこの行動によって、短期間ではありましたが細川連立政権が55年体制を崩したのでした。
ただ、この連立政権は中身が貧弱であっという間に自民党に食いつぶされてしまいました。
自民党は社会党と組むというウルトラCをやってのけてまた自民党政権への逆戻りしたのです。
小沢は己の準備の不足を感じましたが、政権与党に戻ったものの自民党は既に崩壊状態でしたし、小選挙区制度の導入で近い将来に政権交代が実現することは期待できました。
しかし、ここで現れたのが「小泉純一郎」という政治家です。
彼は常に非自民党的であり続けることによって自民党を存続させたのです。
実質的な政権交代が自民党内で起きてしまったのです。

実は、それまでの日本の政治は自民党による実質的な一党独裁体制でしたが、実質的な政権交代は自民党内で起きていたのです。
その多様性こそが自民党の強さでもありました。
しかし、その政権交代では残る既得権益が多すぎて、本来の意味での政権交代の必要性が消えるわけではなかったのです。

その日がくることはわかっていました。
ただ、いつくつかはわかりませんでした。
だから、一刻でも早めるための努力を彼はしたのです。
彼は自身の政策理念を変えても、政治へのダイナミクスを手にするために民主党と組んだのです。
しかし、このことによって15年という時間がかかりましたが、ついに政権交代を実現させることができました。
彼は決して民主党に満足しているわけでも、民主党が正しいとも考えていないでしょう。

彼に残された仕事は徹底的に自民党の兵站を破壊し、旧来の閉鎖的な政治を過去のものとすることです。
選挙に勝つことが目的なのではありません。
「日本の民主化」こそが目的なのです。
そのために民主党を利用するし、あらゆる手段を使うでしょう。

既得権益者が小沢を敵視するのはわかるんですが、
国民のみなさんが小沢を敵視する理由ってないと思うんですけど・・。

当Blogでは小沢一郎を賛美するものでも擁護するものでもありません。
ただ、日本がこれから迎える時代において自らの手で衰退せぬために、民主主義を打ち立てるという彼の問題意識に賛同するものです。
同様の問題意識を持っているなら彼でなくても賛同します。
「彼だから」ということはありえません。

ただ、あまりに多くの人が彼の問題意識を理解することが出来ず、彼を旧来の基準に基づいて無意味に批判するのがあまりに悲しいと思うがゆえに、ブログで個人的意見を表明するものです。
いつの時代もパラダイムシフトが起きるときには、必ず起きる問題ではありますが。


しかし最近、アクセス数が伸び悩んでいます。
また人気Blogにトラックバックやコメントをして呼び込みをやらねばならないようです。
いつものことですが、多くの人に読んでもらうためには、もっと具体的で明確なトピックが必要かもしれませんね。
難しい・・

小沢は民主主義政治家

2010-01-19 18:28:23 | 政治
トラックバックを貼り付けるために前半部分を追加しました。

民主党の非民主的性格(岡田克敏)
http://agora-web.jp/archives/894605.html


「ものが言えない」ということは小沢幹事長への権力集中が相当進んでいることを示しており、宮本時代の共産党を思わせます。3名の逮捕後は散発的に批判が党内から出ているようですが、多くは匿名を条件とするボヤキのようなものです。これでは自浄能力など期待できそうにありません。


各種メディアで民主党の「ものを言わない」性質が批判されているようですが、私にはこの言説がとても恣意的なものにうつる。
ここでいう「ものを言う」というのは民主党議員が民主党執行部に対して「批判をする。」ということであろうが、この時点で何を言えというのだろう
逮捕されたといっても真相が明らかになったわけでもなく、当人達が「違う」と言っているのだから同じ政党の人間として疑うよりは信じることがより自然であるし、なによりもまだ何かを意見するには早い段階ではなかろうか。
コメントを求められても「事実関係が明らかになるのを信じて待ちます。」程度しか言えないのが実際のところで、言うこともないのに「言え」とつつかれても困るだけなのではなかろうか。

まだ何も言う段階にないことは下記ブログなどでバランスよくわかりやすく書いてある。

小沢問題に関する考察 - 検察の捜査方法への疑問(Nothing Ventured, Nothing Gained.)
http://esquire.air-nifty.com/blog/2010/01/post-a55d.html

検察「魔法の杖」に踊る司法記者クラブ(永田町異聞)
http://ameblo.jp/aratakyo/entry-10436946084.html

そもそも、小沢を頂点とする民主党執行部が独裁体制をしいているかの説明は陰謀説に近い。
小沢が「俺の言うことを聞け」などと言うわけがなく、ただ自分が思うところを述べているだけに過ぎない。
その時、小沢の意見が勝るのは小沢の意見を覆すだけのプレゼンができない民主党議員が劣っているだけだ。
民主党に小沢くらい大局観を持った政治家がいないのだからどうしようもない。
同じ土俵で議論できる政治家がいないのだ。
逆にそれゆえに小沢が独り批判を受け止める側にたって辛いだろう、彼の使命感が彼を突き動かしているなどと考えてしまう。

私個人としては小沢は人の話を聞かないほど頑固でもなければ頭が悪いわけでもない。
ただただ己の戦略を理解できない人がうっとおしいだけである。
(確かに実は人をバカにしているところが勘違いされるところもあるだろう。)
それを周りの人間が気を使いすぎるからといって、小沢の独裁だというのはおかしい。
何をもって独裁と認定するかは様々な定義があろうが、ただ現状はアマチュアの中に独りプロがいて、アマチュア連中がプロの意見を尊重しているだけだ。
「恐くてものが言えない」と「いや、あの人にはもっと深い考えがあるはずだ。」は全く違う。
これを独裁というのか。

鳩山首相は単に彼の性格上、小沢を尊重しているだけで、別に恐がっているわけではない。
度々小沢に意見を聞くのは鳩山首相に確固たる意見がないからで、別に小沢が強いからではない。

と、私なんかは思う。

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小沢幹事長の目的は、自民党からの利権を奪うこと、ただそれだけ(大前研一)
http://blog.goo.ne.jp/ohmaelive/e/cceb156171d8440a4e50253c9a343eb6


半分は同意で、それ以降は不同意。
小沢一郎を田中角栄路線の延長で捉えているところが間違いである。
弟子は師匠と同じ枠内で物事を思考するわけではない。
ソクラテスvs.プラトンvs.アリストテレスが好例だ。

まず同意する部分から。


[前略]

小沢幹事長の一連の行動は、これまで自民党が独占してきたあらゆる利権を全て民主党に移してしまうという、ただこの1点にのみ目的がある。

[中略]

自民党の利権を根絶する、それが難しいなら予算の理由で案そのものをつぶしてしまう、という単純なことを徹底的に繰り返しているだけだ。


当Blogで主張してきたように、小沢の目的は自民党の兵站を破壊し、自民党を過去の政党にしてしまうことだ。
そう考えれば彼の言動に合点が行くだろう。

これを聞いて多くの人は「また政局か」と思いがっかりするかもしれない。
大前氏も同様の批判のように思われる。


利権を自民党から民主党に移すことで民主党による長期政権が可能だと小沢幹事長は考えているのだろう。

こうした小沢幹事長の動きを見ていると、つくづく田中角栄元首相の染色体が入っている人なのだと感じる。
小沢幹事長とはこういう行動原理に基づく人なのだと認識するべきだろう。

[中略]

私に言わせれば、民主党の幹事長という立場にあるにも関わらず、小沢幹事長は日本という国の将来像などは全く考えていない人だと思う。

自民党による安定政権が長期間継続できたのは、日本的な利権構造を抑えたからであり、それこそが重要なのだ、これが小沢幹事長の価値観だ。


全く違うと思う。
誤解もいいところだ。

小沢が「民主党の長期政権化」を目指しているなんていうことは"ない"と私は思う。
彼は民主党が中途半端で未熟な政党だということを知っているから、民主党を鍛え上げようとは思うことはあっても、その目的はあくまでも自民党の兵站の破壊である。
旧来の利権を壊すために利権を使っているのだ。
民主党を目的のために利用しているに過ぎない。

そして、自民党の兵站を破壊を目的とするのは、その上に大目的があるからである。
それは「日本の民主化」である。

彼の哲学の一つが「国民のレベル以上の政治家が生まれることはない。」である。

それでは永遠に有能な政治家は生まれぬのであろうか。

それは違う。

国民は変わることはできるからだ。

どうすれば国民は変わることができるのか。

それは国民が様々なことを経験し、様々なことを考えることによってだ。

そのような機会を与えるものが、変化することのできる民主主義というシステムである。

何が変わるべき正しい方向なのかは誰にもわからない
時代によって善悪も変わる。
だから、間違っても変化できることが重要なのだ。
これが何度も繰り返すように「デモクラシーのコスト」である。

民主主義は間違う
しかし、間違うことによって人は学習し成長するのだ。
国民は右に左に揺れながら、そして間違えながら民度をあげていくのだ。

そういう変わることのできる社会を構築すること、それこそ小沢が政治の世界に実現しようとしている「日本の民主化」に他ならない


だから彼は言う。
「政権交代が実現した。日本に民主主義が生まれたのだ(生まれの始まり)。」
また彼は言う。
「国民の政治を実現する。国民の政治とは、国民が政治に責任を持つこと。」

そのために、変化を阻害してきた旧来の自民党政治を終わらせることこそ、彼が彼自身に課した使命なのだ。

私はその気高き意志を応援したいと思っている。

小沢バッシングに思うこの国のかたち

2010-01-19 13:16:24 | 社会
駄文&一面的な見方で申し訳ない。

連日の民主党の小沢一郎幹事長に対するバッシングを見ていて、日本という国は、まっこと保守的な国であるなと思わされる。
(「保守」と書くと誤解を生むのが日常茶飯事であるが)

(この手の議論は使い古されているのだが)
面白いことに、日本という国では、個人としてではなく総体として見た時に、「表象としての絶対的な支配者」を排除する力が働く。
(ポイントは"表象として"の部分だ。)
歴史を紐解いて欲しいのだが、この国では皇帝も絶対王政的な王も存在したためしがない。
実質的な支配者として実権を握った者や、王になろうと目指した者は多く入るが、絶対支配者としての王になることに成功した者はいない。
(3,4000年前まで遡れば日本にも存在するのかも知れないが不明。)

話を単純化して述べれば、日本人は「支配者が嫌い」だからである。
(歴史といってるけど「日本人」が成立したのはいつの時代だよ?と思うあなたは融通の利かない人だ。)

これには理由がある。
今日は、その話をしよう。
(肯定・否定を問わずコメントを待つ!)


そもそも、なぜ「支配者」なる階級が存在するのだろうか。
この世に「支配されることが好きだ」なんていうのはいわゆる変態と呼ばれる少数民族だけだ。
にも関わらず「支配者」は存在できるのだろうか。
歴史が好きではない人は「武力や経済などの理由で恐いから従う」と考えるであろう。
しかし、ミクロではそれで正しいかもしれないが、マクロでは違う。

(実は過去に当Blogの主張の焼き直しだ)
支配者が存在できる本当の理由は「被支配者が支配を必要とするから」なのである。

一番わかりやすい例は「戦争」である。
戦争は勝つか負けるかで結果が大きく異なる。
勝てば相手を従えられる可能性があるが、負ければ悲惨である。
戦争は非常にリスクが大きい。
だから戦争をする以上は負けるわけにはいかないのである。
(負ける戦を仕掛けることはある。感情が理性に勝つ時だ。)


だったら、戦争しなきゃいいじゃん。
そうすればノーリターンかもしれないがノーリスクだぜっ。と思うあなた。
めちゃくちゃ間違っている。(そんな人いないと思うけど)
だって自分が戦争したくなくても、相手が戦争しかけてくるんだから!
戦争したくないから外交手段に訴えかけ、そして攻めてきたから仕方なく防衛線張って専守防衛しようとするけど、相手はルール無視の思う付く限りの姑息な手を使ってくるんです!
しかも和解しようと外交的な妥協を重ねれば重ねるほど相手が増長するだけ、さすがに切れます。
「これを打ちのめさずして何が正義か」といわんばかりに!

戦争に負けるのを座して待つ胆力のある国についてはここでは触れない。(現代に存在するとは思えないが)
しかし、「負けたくない」と思うのならどうすればよいか。
それは「強くあること」だ。
強くあるためにはどうすればよいか。
それは「みんなの力を結集すること」である。
みんなの力を結集するために必要なものは何か?
それは「強いリーダーシップ」である。
国難に当たっては国家総動員的な協力が必要である。

で、そのための仕組みは?

代表的な仕組みが「ピラミッド型組織」である。
バラバラの個人から成る集団を組織的にまとめるには、意思決定の集約が有効である。
意思決定をそれぞれの個人に委任していたのでは組織的に無駄が生じてしまう。
個人レベルで策定される戦略では、ミクロで正しくともマクロで正しいとは限らず、組織としての力が半減する可能性が大きい。
組織としての力を最大化するためには、目的に対して無駄なくその利益を追求できるよう、組織を徹底的に合理化および効率化することが重要である。
ピラミッド上位に意思決定を集約し、指揮権を持たせるのだ。
これが軍隊式ピラミッド型組織の理由であり、これは「階級」が生まれることを意味する。
「命令する側」と「命令される側」である。


もちろん目的に応じて適切な組織の形は異なる。
一つの目的に集団として一心不乱に取り組むのに適切のにピラミッド組織は有効だが、答えがなく、何が成功するかわからないようなイノベーション創発を目的とするのであればピラミッド組織は個人の自由を奪い、創造性を失わせるため向かない。
最近では「逆ピラミッド型組織」の有用性なども議論されている。

戦争などが予測されるような状況では、国民は自分達に明るい未来を提示できる強いリーダーシップ、つまり支配者を求めるであろう。

この本質的な解釈は「被支配者は支配者の支配に順ずることで得る利益を求めるゆえに支配される道を選ぶ。」なのである。


これまで「なぜ支配者と被支配者がいるのか。」ということについて簡単に理由を述べた。
次は「なぜ日本人は支配者を嫌うのか。」という問いについて答えよう。

日本人が支配者を嫌う最大の理由、それは「名目的な支配者が必要ないから。」である。
先述したような意味で、支配者を必要とする局面が少なかったことが大きい。

例えば、日本は外敵の侵略をほとんど受けずにこれた。
侵略の危機が訪れた「白村江」「元寇」「黒船」「アメリカ(太平洋戦争)」の時はいずれも中央集権化が促進されている。
例えば、お隣の中国に目をやると領土争いはひどいことになっている。
様々な民族が入り乱れての支配権争いにあけくれ、自然と皇帝のような支配者が必要になったのだ。
外敵の侵略がほとんどなかった日本はずっと緩い連合体でこれた。
(必要がないのにあえて階級を意識する必要はない。)
戦国時代などに織田信長のような強権者が現れたが必要なくなったタイミングで排除された。

多くの時代で内乱や人心の乱れなどは経験したが、実質的な権力者によってほどよく統治されていたのだ。
天皇についても支配者であった時期は短く、そのほとんどは表象としての存在であった。
いつの時代も天皇が意識されていたかについては横に置くとして、日本人は表象としての権力者として天皇を認めつつも、実質的な権力が他にあることを知っていた。
それが誰であるかもだいたい知っていたり、実態としての支配体制があったとしても問題ではなかった。
名目としての支配者を認めないことで無駄なコンプレックスを招かず、緩い連合体を築き、そこでコミュニティの構築に専念してこれたのだ。
(抑圧されている人々のコンプレックスは第2次世界大戦も生んだし現代ではテロリストを生んでいる。)

それともう一つ日本人が支配者を必要としなかった大きな理由がある。
自然に恵まれていたため、誰かの庇護に入らずとも生活することができた。
日本国内であれば、土地と人手と少しの創意工夫があれば、なんとか生きることができた。
必要なかったから誰も強いリーダーシップを望まなかったし、支配されずに済むならそれでよかったのだ。


さて、以上で日本人がなぜ支配者が嫌いかを述べた。(つもり)
この思想は今でも日本の中に残っている。
なぜなら今でも環境が残っているように思えるからだ。
(実際には残っていない。)


あくまでも一つ観点からの要因を説明したのであって、これで説明が尽きているなどとは考えていない。


そういう意味では、「皇室」という存在は実に如実に日本の性質を表していて面白い。
「皇室」をとりまく文化は日本独自に進化を遂げている現在進行中のものである。
現在の憲法や法律がアメリカの押し付けなどという批判があるかもしれないが、この意見は無意味だ。
なぜなら、現在の皇室はその押し付けられた法の上に自生しているからである。
たとえそれが鉄条網であっても、ここで述べているのはその鉄条網の中で自生した皇室文化を述べているのである。
人々は皇室が偉くないことを知っているのに偉いと思っている。
皇室に何も権限がないことを知っているのに象徴としての存在を認めているのだ。
その脇に政治という権力構造があることがより一層皇室の存在を際立たせている。
表象としての支配者を嫌っているし、認めたくないという心理の表れであると見ている。


もう一つ大きな理由に「非連続性」もあるだろう。

「出る杭を打つ」のが好きである。
なぜ好きか?
「非連続性」を嫌うからである。
なぜ嫌うのか?
劇的な環境変化を望まぬからである。
なぜ望まぬのか?
連続性を指向することこそが持続的社会を実現するのに最も合理的に思えるからである。
なぜそう思えるのか?
過去の失敗体験と成功体験を持つがゆえである。
過去の失敗体験と成功体験とは何か?
失敗体験とは太平洋戦争であり成功体験とは日本的社会民主主義である。
なぜそれが成功であり、失敗なのか。
・・・またあとで。

民主党の「第3の道」の考え方 (改訂版) 第三部

2010-01-18 15:49:09 | 政治
第一部第二部に続きまして、第三部です。

第一部では、政府による「産業政策」の有効性が低く、「競争政策」や「規制緩和」の有効性が高いことについて軽く触れました。
経済発展のためには、旧来の発想から抜け出ることの必要性を直感的に理解していただけると助かります。
第二部では、「規制を導入する難しさ」と「規制を緩和する難しさ」について触れました。
旧来の発想を批判する人達による主張は往々にして正しいこともあるのですが、人々にとって受け入れがたさも同時に持つことを直感的に理解していただけると助かります。
第三部では、ようやく本題の「第3の道」の考え方について触れます。


民主党の政策が旧来の産業政策の枠組みから抜け出せないでいること、規制緩和についての無理解でいることの批判内容について説明してきました。
では、民主党の成長戦略には希望はないのでしょうか。
正直いって現実に打ち出されている成長戦略には大きな期待をもてません。
批判者の指摘がほとんどの場合正しいと思います。
しかし、「第3の道」として主張されている「需要サイドの成長戦略」は決して間違っているものではありません。
これについては批判者の皆様が理解されていないことがありますので説明させていただきます。
(理解しないというより方法論が貧弱すぎて納得できないというべきでしょうか)

民主党が主張する「第3の道」は、「需要の喚起」による「内需の拡大」のことであり「消費の拡大」のことです。
GDPの6割を占める個人消費を拡大することで経済成長を促そうとする考え方です。
「需要を喚起する力は供給側が持つ」「所得を増やす効果が需要側にはない」という批判者のロジックはわかるのですが、ここでいう「需要の喚起」というのは、それとは少し意味が違います。
民主党の「第3の道」をよりよく理解するために、少し説明します。

この部分は話を単純化し過ぎと批判覚悟で書いています。

経済というのはサービスと対価の交換によって成り立っていますが、理論上「交換」は無限に行うことができます。
市場に流通する「マネー」の量が一定だとしても、交換自体は無限に行うことができるのです。
だから市場の実態として、流通している貨幣の量よりもマネーの量は多くなります。
もちろん交換するモノやサービスには資源などによって制限がかかるので、実際には無限というわけにはいきません。
また、逆にマネーの量を増やしたとしても市場で交換する必要性がなければ交換数を増やすことはできません。

これだけを踏まえると、国がマネーを一度発行してしまえば無限とまではいかなくてもマネーが市場を回りまわってみんな裕福になるのではないかと考えることができるかもしれません。
しかし、そういうわけにはいかないのです。
ここに登場するのが「需要」です。
先ほど、「マネーの量を増やしたとしても市場で交換する必要性がなければ交換数を増やすことはできません」と書きましたが、この「交換する必要性」というのが「需要」です。

私達人間は、欲しいモノがある(交換する必要性がある)時、自分が持っているマネーとモノを交換しようとしますが、欲しいモノがない時、自分の持っているマネーを将来のために取っておきます。
これが「貯蓄」です。
(欲しいモノがあるけど貯蓄する場合、もっと欲しいモノが他にあるのかもしれません。)
新興国のように開発途上にある国では、みんな欲しいモノばかりなので、みんなガムシャラにお金を使います。
先進国のようにモノで満たされてしまった国では、セレブ気分を味わったり、旅行したり、マネーゲームしたりとサービスにマネーが使われるようになります。

このとき、どのくらいマネーを供給すると、どのくらいマネーが回るかといったものを「乗数効果」と呼びます。
発展途上にある国では乗数効果が高くなるのは説明した通りです。
先進国ではモノで満たされているので、モノに関する乗数効果は必然的に低くなり、それでは経済の成長力が低下してしまうので、サービス分野の乗数効果が高くなければなりません。

しかし、ここで日本がぶち当たっている壁があります。
サービス分野というのは不景気に弱いのです。
人間、将来に向けての見通しが悪いとき、生きていくのにあまり重要ではないサービスなんかにお金を使うのをやめます。
そして、モノは溢れているのでモノを買うためにマネーを交換する必要がありません。
将来欲しくなるもののために「貯蓄」しようと考えます。

そうです。
将来に向けての見通しが悪いとき、つまり「不安」でいっぱいの時、マネーは貯蓄に回ります。
人々はせっかくマネーを持っていても、それを使おうとしないので、乗数効果は低下します。

最近(といってもこの手の議論は昔からありますが)、中央銀行がマネーを大量に発行すれば「貯蓄」する必要がなくなり、「不安」がいっぱいでも人々はマネーを使うのではないかという話題が流行いたしました。
しかしながら、この手法を実現することは非常にテクニカルで非現実的です。
まず、どの程度マネーを供給すればよいのか、誰にもわかりません。
「不安」で乗数効果が低下している状況下で、供給量が小さければ「貯蓄」に回って効果がないですし、供給量が大きければ逆に皆がマネーを使い過ぎてマネーの価値を低下させてしまいます。
マネーが大量供給される状況では誰もがマネーを大量に手に入れられるので、売り手は交換比率を変更します。
マネーの交換価値が低下して、交換されるモノの値段が上がるのです。
これが「インフレ」です。
(国を跨いで為替が暴落するリスクもあります。)

他にも、乗数効果が低下している時に、マネーを供給すると何が起こるかといいますと、交換したいものがありませんので金融商品と交換されるようになります。
乗数効果が低下しているとき、中央銀行は金利を下げてマネーを市中に引き出そうとしますので人々は「貯蓄」していてもまったく儲かりません。
ただ「貯蓄」してマネーを持っていてももったいないので、少しでも利益が得られるように金融商品に投資するのが一般的です。
(一律的に乗数効果が低い時と書いてますが、投資利益が低い時と同義語で考えてください。)
こうすると金融商品に紐づいている資産が高騰します。
「資産バブル」とか「資産インフレ」とよばれるものです。
(ちょうどいいマネー流通量に調整するのが中央銀行の重要な役割だと考えましょう)

話を戻します。
今、日本では「将来不安」に溢れています。
連日のように不正や不平等や不安を煽る情報が駆け巡っています。
こんな「不安」でいっぱいなのに「マネーを使え」という方が無理なのです。
人々は冬を越す動物のように縮こまり、リスクを取らずに状況が好転するのを待っています。

人々のマネー交換活動を活発化するためには、乗数効果を上げるしかありません。
乗数効果を上げるためには「不安」を払拭することです。


さて、まえおきが終わり、ようやく本題の本題です。

ここでようやく民主党の「第3の道」の登場です。

日本経済が落ち込んでいる病理、それは「不安」です。
誰もが「安心」を求め彷徨っています。

これまでの実績からして、政府は供給側の力を伸ばすことが苦手です。
供給側の成長は民間の力を伸ばすことによって実現するしかないのです。
あえてできることは規制改革、高度社会インフラ整備などです。

しかし!
他にも政府が主導してできることもあるのです。
日本社会を覆う「不安」を振りほどき、皆で「安心」を共有することができれば、需要側の意識を喚起できるかもしれません。
そうすれば日本に眠る潜在的マネーを引き出し、乗数効果を上げることができるのです。
供給と需要の両輪を回すことができるのです。



ここでは潜在力を引き出すのに「安心」が重要だと述べているのであって、それだけで経済が発展すると述べるものではありません。


と。
そのために何が必要でしょうか?

(実態よりも)人々に「安心して生活できる」ということが広く認知されることです。
これが民主党の「生活が第一」の理由なのだと考えてみてください。
民主党はバラマキを指向しているわけではなく、「安心」を認知してもらうことを指向していると。

では、安心して生活できるために何が必要でしょうか?

いわゆるセーフティネットの構築でしょう。

では、セーフティネットの構築のためには何が必要でしょうか?

・・・という議論をしていくことが重要です。

以上より、簡単ではありましたが、民主党の「第3の道」についての考え方を説明してきました。
(え?ここで終わり?とがっかりされた方すみません・・)
とてもコンセプチュアル(概念的)なお話ですが、このコンセプトを皆さんが認識することがまず大事です。
コンセプトが誤解されたまま批判されることが多々あるからです。

ここで述べたことを踏まえて、ようやく次の方法論の議論に着手できるのです。

さて、民主党の方法論を見ていくと・・・ん?

民主党の「第3の道」の考え方 (改訂版) 第二部

2010-01-18 12:09:57 | 政治
第一部に引き続き、第二部をお送りします。

第一部では、政府による「産業政策」の有効性が低く、「競争政策」や「規制緩和」の有効性が高いことについて軽く触れました。

では、彼らが主張する「競争政策」や「規制緩和」とはどういったものなのでしょうか。
少々極端なものですが、そのわかりやすい例が下記ブログで述べられています。

需要サイドの成長戦略とは?(藤沢数希)
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51642847.html


どうも民主党はこども手当などで家計の所得を増やしてやれば、需要が増えるので経済が成長すると思っているようで、そのことに関しては多数の評論家から批判されています。
僕も、そういう手当は、格差を是正するための政府の再分配の機能であって、成長戦略にはなり得ないと思っています。
というのも家計を増やすといっても、その財源は赤字国債の発行で、将来の税金の先食いですし、その先食いした税金以上に再分配された人が付加価値を創出するかといえば大いに疑問です。

しかし、需要サイドの成長戦略というのは、実は、日本経済には非常に重要だと思っています。

[中略]

本には売春業に対する男性側の需要は非常に高いのですが、このように規制されているし、また、そのような中でいちおう合法的に営業を行っているところも、サービスの質が非常に低い上に国際水準からかけ離れた価格になっているため、あまり利用されていないというのが実情ではないでしょうか。
需要があるところで、それを法律で規制しているのだから、そういったサービスを供給しているのは主に法律を破るのがお仕事の方々ということになります。
しかし、そういったブラック・マーケットの経済活動は、もちろん税収にはつながりませんし、やはり安価で質の高いサービスはどうしても過小供給になりがちです。
そこで、日本で吸収しきれない旺盛な需要は、海外で吸収されることになります
売春業を合法化し、観光政策の一環として積極的に推進している東南アジアの新興国に、日本の潜在的な需要がすべてうばわれてしまっているのです。

こういった状況を改善して、日本のGDPを成長させ、税収を増やし、きたるべき少子高齢化社会にそなえるにはどうすればいいでしょうか?
非常に簡単です。
売春を合法化すればいいのです。

[中略]

合法化することによって、ブラックマーケットの経済活動がすべて表に出てくるので、GDP統計にも反映されますし、もちろん国家の税収にもなります
さらに、就職氷河期で就職先がなくなってしまった女子の有望な雇用先にもなるので、若年層失業率の大幅な改善も期待できるでしょう。
日本の売春業は、一部の既得権益層を守るために、潜在的な需要が抑えつけられ、国民全体の利益が損なわれているいい例ですね。

潜在的に大きな需要があるのに、それがグローバリゼーションやIT革命についていけない規制によって、抑えられていることがたくさんありません。
また、そういった抑えられた需要にサービスを供給するのは、ブラック・マーケットやオフショア業者で、顧客は安心してサービスを受けられないし、国の税収にもならないのです。

[中略]

つまり、需要サイドの成長戦略とは、ひとことでいえば戦略的な規制緩和なのです
規制緩和をして、新たな需要をつくり出すのです。
規制をうまく取り除けば、需要がすぐに生まれる分野に、「医療」、「教育」、「介護」などがあります。
こういった分野は、政府の規制によってがんじがらめに縛られているため、ちょっと規制を緩和するだけで、大きな成長が期待できるでしょう。

ところが、規制によって守られている既得権益層の政治活動はかなり熾烈なものになるので、実際に意味のある規制緩和を実行するのはなかなかむずかしいのです。


「規制をかける」ということは、誰かの活動を抑制するということですから、国家が規制をかけることのできる場合というのは、その活動が国家や社会、または個人に対して損失を与える可能性がある場合に限られます

規制とは、誰かが利益を得ようとする行為を禁止したり抑制したりすることです。
つまり、規制をかけるということは、その人に損失を与える(利益を得ることを禁止する)ことを意味します。
これを国家が正当化するためには、その規制によって得る損失回避という利益が、規制による損失を上回る必要があります
実態がどうかは置いておいて、少なくても名目的に上記の条件を満たしていることが表明されなければなりません。
でなければ、規制が不公平な利益誘導ということになってしまい、国民は規制を認めないでしょう。
古い言葉でいえば「大義名分」なしに国家権力を用いて規制をかけることはできないのです。



古い時代に見られた王や貴族などの一部の集団に利益を誘導することは現代において非常に難しくなっています。
なぜ現代において難しくなったのかといえば、国民の知的水準が上がったこと、情報公開が進んだこと、権威者と強制力が分離されたことなどがあります。
もちろん古い時代にも「大義名分」が重要視された時期はあります。
昔も今も人心の掌握こそが政策遂行効果の極大化における最も重要な要因である点は変わらないのです。
ゆえに賢い支配者は「大義名分」を重んじたのです。


では、なぜ今「規制緩和」が声高に叫ばれるのでしょうか。(今ではなくもうずっと前から)
必要があり、皆が納得したから規制がかけられたのにです。
それは、時代とともに国家や社会がおかれている環境が変化し、規制をかけていた対象の状況も変わるからです。



ここでよく置き忘れられる議論があるので注釈しておきます。
世論は時代とともに左に右にぶれます。
何かが加熱すれば規制強化論が強くなりますし、その逆の状況では規制緩和論が強くなります。
その分野の専門家同士の議論においては各種具体的項目毎に比較的論理的に規制の是非が論じられるのに対し、一般的な世論は情緒的反応を強く示す傾向があります。(マスコミの影響もあるでしょう)
規制緩和論者が声を上げると必ずそれに総論として反発する勢力が出ますし、逆に規制強化論者が声を上げると必ずそれに総論として反発する勢力が出ます。
時として、神学論争などといって揶揄される場合もあります。
しかし、これはとても非生産的な議論です。
なぜなら、人間が不完全である限り、いつの時代においても環境に合わせて規制はかけていくべきものですし、環境に合わせて規制を緩和していくものなのです。
議論の軸が「規制緩和派vs規制強化派」であっては永遠に適切な答えには辿り着けないでしょう。


時代が変われば、古くなり環境に合わなくなった規制は緩和する必要が出てきます。
しかし、規制を緩和するのは容易ではない場合がほとんどです。
ここに「規制」の難しさがあります

人間に限らず全てにおいて同様なのですが、我々は環境に適応する生き物です。
熱帯雨林を想像してみてください。
自然に自生していた熱帯雨林の中で観光名所になっていた杉が害虫によって弱っているとします。
そこで当局は害虫を駆除するためのシステムを熱帯雨林の中に建造しました。

何が起きるでしょうか?

当局の期待は害虫だけが駆除されて杉が力を取り戻すことです。
しかし、思惑通りに事が運ぶとは限りません
害虫を駆除すれば、その害虫が存在したことによって成立していた熱帯雨林の生態系が壊される可能性があるからです。
生態系の乱れが小さくおさまり、ほぼ期待通りの結果を得る可能性はありますが、下手をすると生態系を大きく乱し熱帯雨林の形そのものを変えてしまう可能性もあります。
そうすると期待結果であった杉を守ることすらできない可能性すらあります。
本当に杉を守りたいのであれば、害虫の発生要因は、そしてさらにその発生要因は・・・と研究していく必要があります。
そのどこかの時点で、生態系に与える影響を小さく抑えたまま杉を守れると判断できる対策が得られたら、それが目的に照らし合わせて最適な行為(規制)といえるでしょう。
(もちろん、事前的に最適でも事後的に誤りであることは往々にしてあります。)

また、一度対策を行ってしまうと、その対策に依存した生態系ができてしまうことに注意が必要です。
杉に栄養剤を打つと、杉は栄養剤なしには生きていけなくなる可能性があります。
熱帯雨林の中に人造物があれば、その周りをシダ植物がまとわりつき、そこに巣食う動物が出てきます。
動物にとっては安全で暖かくて、とてもよい住まいかもしれません。

ここで杉が元気を取り戻したので人造物を除去することに決めたとします。
その住まいを奪ってしまったらどうなるでしょうか。
(動物に心があるかは関係なく)動物達は可哀相でしょうね。

この熱帯雨林の話の前半部分で「規制を導入する難しさ」を、後半部分で「規制を緩和する難しさ」を表現したつもりです。
話を単純化し過ぎかもしれませんが、わかりやすい説明になったかと思います。


規制を導入する難しさとは、現代社会では利害関係が複雑に入り組んでいるため万人に通用する「大義名分」はほとんどの場合有り得ず(認識を共有することは難しく)、また利権化した政治の力で「大義名分」とは関係なく一部の集団へ利益誘導が行われることにあるのです。

(そのための情報操作も日常茶飯事です)


規制を緩和する難しさとは、規制により利益を受けていた人達が損失を受けるということであり、その損失の正当性が認められない限り緩和できないことにあるのです。




一部の方々はこの「規制緩和の難しさ」を重々承知しておいでなので、多少強引にでも一生懸命に思惑を予算に組込もうとします。
予算に組込まれる前には議論を分かつ問題でも、一度予算に組込まれると政治はその予算を削るのが容易ではなくなります。
その予算に助けられている人々が生まれるからです。
予算を削るということは、弱者を救うという政治の大義名分を著しく毀損してしまいます。
この場合「フレーズ」が必要です。
「改革」「痛みに耐えて~」のようなフレーズです。


「規制緩和」の有意性は万人が認めるところ(総論で賛成)でありますが、各集団や各個人が損失を被るとわかったとき、人々は反対に回る(各論反対する)のです。
絡み合った各要因を一つ一つ解きほぐし、万人が納得する「大義名分」を唱えることは非常に難しいことです。
あるとすれば、オバマ米大統領のように利害対立を止揚した理念を唱えることですが、理念を具体的政策に落とし込む際にはやはりこの問題にぶち当たるのです。

このとき、政治に求められるのは「決断」です。
「決断」とは「諦める」と同意です。
一部の利益をとり、一部の損失を諦める。
これが「決断」であり、人々が今政治に求めているものなのです。
誰に対しても好かれたいと思っているようでは「決断」することはできません。
現代の政治家に必要な能力とは「決断の正当性を説明する能力」です。


小泉内閣でいうところの「痛みに耐える」ということですね。
だが、やりかたを失敗すると小泉改革のように巻き返しに合うのです。

私はこれこれこういう理由でこういう決断をする。
ただし、これによって損失を受ける人達のことにも十分に配慮しなければならない。
みんなのためとはいえ、誰か1人に痛みを背負わせることがあってはいけない。
その痛みは皆で分け合うべきだし、そのために国家は努力しなければならない。
みなで強きを伸ばし、弱気を助ける。そのための国家である。
だから、こういう条件をつけて、こういう対応をします。
しかし、このことによって、我々はこんな明日を~~

という具合に。

民主党の「第3の道」の考え方 (改訂版) 第一部

2010-01-18 10:50:35 | 政治

ちょっとずるいですが、前回(2009/01/15)のエントリを分割して整理しなおします。
少し長すぎたため(gooブログの文字制限にひっかかってしまい)論点がよくわからないものになってしまった感がありました。
私自身がそうなのですが、長すぎるブログは読むのが大変で、そういうエントリが続くと読む気力を喪失してしまいます。
(1万文字というと400字詰め原稿用紙で25枚分ですね・・。タグをカウントに含むので実際にはそこまで長くないでしょうけれど。)
さすがに読む側も辛かろうということで整理し直すものです。


"民主党"の「第3の道」について少し誤解されている方々がいるので個人的見解を説明します。

民主党(というより菅直人氏?)が主張する新たなる「第3の道」について多くの批判がなされています。
民主党の政策が旧来の産業政策の枠組みから抜け出せないでいることや、規制緩和についての無理解さについて批判が集中しています
最近の幾つかのブログ・エントリから代表的な意見をかいつまんでみます。

民主「新成長戦略」のお粗末 産業政策なんかもうやめろ(高橋洋一)
http://www.j-cast.com/2010/01/14057771.html


なぜ民主党も自民党も政治家は成長戦略が好きなのか。簡単な成長戦略があれば、世界で貧困問題はとっくに解決しているだろう。つまり、成長戦略は容易に解が見つけられない難問なので、政治家が夢を与えられるからだ。そこに官僚が産業政策という名目でつけいり、政治家のほうにも選挙対策として個別産業・企業とパイプを持ちたいという心境が垣間見える

成長産業を見いだすという産業政策は、日本独特のモノだ。そんなによければ、とっくに世界中で流行しているはずだ。もちろん、環境、医療などの分野で、国の環境政策、医療政策までを否定するものでないが、国を挙げての産業育成には問題がある。国がある特定産業をターゲットにすると、結果として産業がダメになるというネガティブな話は多い。
日本の戦後成長の歴史を見ても、通産省(現経産省)がターゲットにした産業は、石油産業、航空機、宇宙産業などことごとく失敗している。逆に、通産省の産業政策に従わなかった自動車などは、世界との競争の荒波にもまれながら、日本のリーディング産業に成長してきている。竹内弘高教授(一橋大学)の研究でも、日本の20の成功産業についても政府の役割は皆無だったようだ。要するに、国に産業の将来を見極める眼力があればいいのだが、現実にはそんな魔法はない。必要なのは、国による選別ではなく、競争にもまれることだ。

[中略]

それでは、政府は一切関与できないかというと、そうでもない。例えば、競争政策や規制緩和は大いに結構だ。それに知的所有権などの法整備もいいだろう

[中略]

特定産業に対する産業政策を重ねることは不必要だ。冒頭に掲げた論考を書いた約20年前、産業政策の議論の時に、産業政策の正当性を主張する役人に対して、どうしても産業政策をやりたいなら自らがプレーヤーとなって行えばいい、といったことがある。そのときに彼らの反応から、産業政策は役人の失業対策になるかもしれないが、国民のための政策ではないと思った


社会インフラがよく整備された先進国における伝統的な公共事業が、単なる政府による所得の再分配に終わってしまい、ほとんど経済発展に寄与しないことは、これまでの日本の経験から確かのようです。
(なぜそうなってしまうかは後述します。)

そこで、民主党は「コンクリートから人へ」と掲げて昨年末に「新成長戦略」を打ち出したのですが、内容を見てみると自民党時代からつづく旧来型の産業政策思想に基づくものと批判されています。
(もちろん民主党はその批判について反論をしています。批判者からみて自民党と同じものに見えるのです。)
なぜ旧来型の産業政策政府が批判されるかといえば、政府が行う産業政策がほとんどまともに機能してこなかったという現実があるからです。
そればかりか、政府による産業政策が産業構造を歪めてしまい、労働資本の分配に悪影響を与え、結果として日本経済の力を削いでしまっているといわれています。

元財務官僚にて小泉・竹中改革のインサイダーとして活躍した"(官僚から見て)暗黒卿"こと高橋洋一氏の説明によると「自民党でも民主党でも経済政策を考えるのは結局のところ経産省だから」だそうです。


正月のテレビ番組で、自民党のある政治家は、民主党の成長戦略は自民党のものと内容が同じであると言っていた。そうだろう、元ネタは経産省の役人からであるから、民主党も自民党も内容は似たり寄ったりで、ポイントは、具体的な成長産業をターゲットに掲げ、その産業に各種の助成措置を行う「日本的産業政策」である。


ワイドショーとは違って「官僚の発想だからよくない」ということを皆さん言いたいのではありません
これまでの日本経済史を紐解く限り「 日本の戦後成長の歴史を見ても、通産省(現経産省)がターゲットにした産業は、石油産業、航空機、宇宙産業などことごとく失敗している。逆に、通産省の産業政策に従わなかった自動車などは、世界との競争の荒波にもまれながら、日本のリーディング産業に成長してきている。」といのが現実であり、これについて深く反省する必要があると識者は発信しているのです。
このことは経済の専門家以外にも、地方で活躍しているビジネスパーソンからも「補助金というシステムが地方の自立心を奪い、力を失わせている」といった声を聞くことができます。

では、彼らが主張する「競争政策」や「規制緩和」とはどういったものなのでしょうか。
第2部につづきます。

民主党の「第3の道」の考え方

2010-01-15 17:03:26 | 政治
「第3の道」について少し誤解されている方々がいるので個人的見解を説明しよう。

民主党(というより菅直人氏?)が主張する新たなる「第3の道」について多くの批判がなされています。
民主党の政策が旧来の産業政策の枠組みから抜け出せないでいること、規制緩和についての無理解さについてです。
最近の幾つかのブログ・エントリから代表的な意見をかいつまんでみます。

民主「新成長戦略」のお粗末 産業政策なんかもうやめろ(高橋洋一)
http://www.j-cast.com/2010/01/14057771.html


なぜ民主党も自民党も政治家は成長戦略が好きなのか。簡単な成長戦略があれば、世界で貧困問題はとっくに解決しているだろう。つまり、成長戦略は容易に解が見つけられない難問なので、政治家が夢を与えられるからだ。そこに官僚が産業政策という名目でつけいり、政治家のほうにも選挙対策として個別産業・企業とパイプを持ちたいという心境が垣間見える。
成長産業を見いだすという産業政策は、日本独特のモノだ。そんなによければ、とっくに世界中で流行しているはずだ。もちろん、環境、医療などの分野で、国の環境政策、医療政策までを否定するものでないが、国を挙げての産業育成には問題がある。国がある特定産業をターゲットにすると、結果として産業がダメになるというネガティブな話は多い。
日本の戦後成長の歴史を見ても、通産省(現経産省)がターゲットにした産業は、石油産業、航空機、宇宙産業などことごとく失敗している。逆に、通産省の産業政策に従わなかった自動車などは、世界との競争の荒波にもまれながら、日本のリーディング産業に成長してきている。竹内弘高教授(一橋大学)の研究でも、日本の20の成功産業についても政府の役割は皆無だったようだ。要するに、国に産業の将来を見極める眼力があればいいのだが、現実にはそんな魔法はない。必要なのは、国による選別ではなく、競争にもまれることだ。

[中略]

それでは、政府は一切関与できないかというと、そうでもない。例えば、競争政策や規制緩和は大いに結構だ。それに知的所有権などの法整備もいいだろう。

[中略]

特定産業に対する産業政策を重ねることは不必要だ。冒頭に掲げた論考を書いた約20年前、産業政策の議論の時に、産業政策の正当性を主張する役人に対して、どうしても産業政策をやりたいなら自らがプレーヤーとなって行えばいい、といったことがある。そのときに彼らの反応から、産業政策は役人の失業対策になるかもしれないが、国民のための政策ではないと思った。


経済の専門家(TV芸人的経済評論家は除外)の間では、社会インフラがよく整備された先進国における公共事業が単なる政府による再分配で終わって、ほとんど経済発展に寄与しないということが周知の事実です。
そこで、民主党は「コンクリートから人へ」と掲げて昨年末に「新成長戦略」を打ち出したのですが、内容を見てみると自民党時代からつづく旧来型の産業政策思想に基づくものでした。
これもまた、経済の専門家(TV芸人的経済評論家は除外)の間では、政府が行う産業政策がほとんどまともに機能しないことが周知の事実です。
そればかりか、政府による産業政策によって産業構造を歪めてしまい、労働資本の分配に悪影響を与え、結果として日本経済の力を削いでしまっているのです。

元財務官僚にて小泉・竹中改革のインサイダーとして活躍した"暗黒卿(官僚から見て)"こと高橋洋一氏の説明によると、「自民党でも民主党でも経済政策を考えるのは結局のところ経産省だから」だそうです。


正月のテレビ番組で、自民党のある政治家は、民主党の成長戦略は自民党のものと内容が同じであると言っていた。そうだろう、元ネタは経産省の役人からであるから、民主党も自民党も内容は似たり寄ったりで、ポイントは、具体的な成長産業をターゲットに掲げ、その産業に各種の助成措置を行う「日本的産業政策」である。


「官僚の発想だからよくない」というつもりは皆さんないのですが、これまでの日本経済史を紐解く限り「 日本の戦後成長の歴史を見ても、通産省(現経産省)がターゲットにした産業は、石油産業、航空機、宇宙産業などことごとく失敗している。逆に、通産省の産業政策に従わなかった自動車などは、世界との競争の荒波にもまれながら、日本のリーディング産業に成長してきている。」といのが現実であり、これについて深く反省する必要があると識者は発信しているのです。
このことは経済の専門家以外にも、地方で活躍しているビジネスパーソンからも「補助金というシステムが地方の自立心を奪い、力を失わせている」といった声を聞くことができます。

では、彼らが主張する「競争政策」や「規制緩和」とはどういったものなのでしょうか。
少々極端なものですが、そのわかりやすい例が下記ブログで述べられています。

需要サイドの成長戦略とは?(藤沢数希)
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51642847.html


どうも民主党はこども手当などで家計の所得を増やしてやれば、需要が増えるので経済が成長すると思っているようで、そのことに関しては多数の評論家から批判されています。
僕も、そういう手当は、格差を是正するための政府の再分配の機能であって、成長戦略にはなり得ないと思っています。
というのも家計を増やすといっても、その財源は赤字国債の発行で、将来の税金の先食いですし、その先食いした税金以上に再分配された人が付加価値を創出するかといえば大いに疑問です。

しかし、需要サイドの成長戦略というのは、実は、日本経済には非常に重要だと思っています。

[中略]

日本には売春業に対する男性側の需要は非常に高いのですが、このように規制されているし、また、そのような中でいちおう合法的に営業を行っているところも、サービスの質が非常に低い上に国際水準からかけ離れた価格になっているため、あまり利用されていないというのが実情ではないでしょうか。
需要があるところで、それを法律で規制しているのだから、そういったサービスを供給しているのは主に法律を破るのがお仕事の方々ということになります。
しかし、そういったブラック・マーケットの経済活動は、もちろん税収にはつながりませんし、やはり安価で質の高いサービスはどうしても過小供給になりがちです。
そこで、日本で吸収しきれない旺盛な需要は、海外で吸収されることになります。
売春業を合法化し、観光政策の一環として積極的に推進している東南アジアの新興国に、日本の潜在的な需要がすべてうばわれてしまっているのです。

こういった状況を改善して、日本のGDPを成長させ、税収を増やし、きたるべき少子高齢化社会にそなえるにはどうすればいいでしょうか?
非常に簡単です。
売春を合法化すればいいのです。

[中略]

合法化することによって、ブラックマーケットの経済活動がすべて表に出てくるので、GDP統計にも反映されますし、もちろん国家の税収にもなります。
さらに、就職氷河期で就職先がなくなってしまった女子の有望な雇用先にもなるので、若年層失業率の大幅な改善も期待できるでしょう。
日本の売春業は、一部の既得権益層を守るために、潜在的な需要が抑えつけられ、国民全体の利益が損なわれているいい例ですね。

潜在的に大きな需要があるのに、それがグローバリゼーションやIT革命についていけない規制によって、抑えられていることがたくさんありません。
また、そういった抑えられた需要にサービスを供給するのは、ブラック・マーケットやオフショア業者で、顧客は安心してサービスを受けられないし、国の税収にもならないのです。

[中略]

つまり、需要サイドの成長戦略とは、ひとことでいえば戦略的な規制緩和なのです。
規制緩和をして、新たな需要をつくり出すのです。
規制をうまく取り除けば、需要がすぐに生まれる分野に、「医療」、「教育」、「介護」などがあります。
こういった分野は、政府の規制によってがんじがらめに縛られているため、ちょっと規制を緩和するだけで、大きな成長が期待できるでしょう。

ところが、規制によって守られている既得権益層の政治活動はかなり熾烈なものになるので、実際に意味のある規制緩和を実行するのはなかなかむずかしいのです。


規制をかけるということは、誰かの活動を抑制するということですから、国家が規制をかけることのできる場合というのは、その活動が国家や社会、または個人に対して損失を与える可能性がある場合に限られます。

規制とは、誰かが利益を得ようとする行為を禁止したり抑制したりすることです。
つまり、規制をかけるということは、その人に損失を与える(利益を得ることを禁止する)ことを意味します。
これを国家が正当化するためには、その規制によって得る損失回避という利益が、規制による損失を上回る必要があります。
実態がどうかは置いておいて、少なくても名目的に上記の条件を満たしていることが表明されなければなりません。。
でなければ、規制が不公平な利益誘導ということになってしまい、国民は規制を認めないでしょう。
古い言葉でいえば「大義名分」なしに国家権力を用いて規制をかけることはできないのです。


古い時代に見られた王や貴族などの一部の集団に利益を誘導することは現代において非常に難しくなっています。
なぜ現代において難しくなったのかといえば、国民の知的水準が上がったこと、情報公開が進んだこと、権威者と強制力が分離されたことなどがあります。
もちろん古い時代にも「大義名分」が重要視された時期はあります。
昔も今も人心の掌握こそが政策遂行効果の極大化における最も重要な要因である点は変わらないのです。
ゆえに賢い支配者は「大義名分」を重んじたのです。

では、なぜ今「規制緩和」が声高に叫ばれるのでしょうか。(今ではなくもうずっと前から)
必要があり、皆が納得したから規制がかけられたのにです。
それは、時代とともに国家や社会がおかれている環境が変化し、規制をかけていた対象の状況も変わるからです。


ここでよく置き忘れられる議論があるので注釈しておきます。
世論は時代とともに左に右にぶれます。
何かが加熱すれば規制強化論が強くなりますし、その逆の状況では規制緩和論が強くなります。
その分野の専門家同士の議論においては各種具体的項目毎に比較的論理的に規制の是非が論じられるのに対し、一般的な世論は情緒的反応を強く示す傾向があります。(マスコミの影響もあるでしょう)
規制緩和論者が声を上げると必ずそれに総論として反発する勢力が出ますし、逆に規制強化論者が声を上げると必ずそれに総論として反発する勢力が出ます。
時として、神学論争などといって揶揄される場合もあります。
しかし、これはとても非生産的な議論です。
なぜなら、人間が不完全である限り、いつの時代においても環境に合わせて規制はかけていくべきものですし、環境に合わせて規制を緩和していくものなのです。
議論の軸が「規制緩和派vs規制強化派」であっては永遠に適切な答えには辿り着けないでしょう。

時代が変われば、古くなり環境に合わなくなった規制は緩和する必要が出てきます。
しかし、規制を緩和するのは容易ではない場合がほとんどです。
ここに「規制」の難しさがあります。

人間に限らず全てにおいて同様なのですが、我々は環境に適応する生き物です。
熱帯雨林を想像してみてください。
自然に自生していた熱帯雨林の中で観光名所になっていた杉が害虫によって弱っているとします。
そこで当局は害虫を駆除するためのシステムを熱帯雨林の中に建造しました。

何が起きるでしょうか?

当局の期待は害虫だけが駆除されて杉が力を取り戻すことです。
しかし、思惑通りに事が運ぶとは限りません。
害虫を駆除すれば、その害虫が存在したことによって成立していた熱帯雨林の生態系が壊される可能性があるからです。
生態系の乱れが小さくおさまり、ほぼ期待通りの結果を得る可能性はありますが、下手をすると生態系を大きく乱し熱帯雨林の形そのものを変えてしまう可能性もあります。
そうすると期待結果であった杉を守ることすらできない可能性すらあります。
本当に杉を守りたいのであれば、害虫の発生要因は、そしてさらにその発生要因は・・・と研究していく必要があります。
そのどこかの時点で、生態系に与える影響を小さく抑えたまま杉を守れると判断できる対策が得られたら、それが目的に照らし合わせて最適な行為(規制)といえるでしょう。
(もちろん、事前的に最適でも事後的に誤りであることは往々にしてあります。)

また、一度対策を行ってしまうと、その対策に依存した生態系ができてしまうことに注意が必要です。
杉に栄養剤を打つと、杉は栄養剤なしには生きていけなくなる可能性があります。
熱帯雨林の中に人造物があれば、その周りをシダ植物がまとわりつき、そこに巣食う動物が出てきます。
動物にとっては安全で暖かくて、とてもよい住まいかもしれません。

ここで杉が元気を取り戻したので人造物を除去することに決めたとします。
その住まいを奪ってしまったらどうなるでしょうか。
(動物に心があるかは関係なく)動物達は可哀相でしょうね。

この熱帯雨林の話の前半部分で「規制を導入する難しさ」を、後半部分で「規制を緩和する難しさ」を表現したつもりです。
話を単純化し過ぎかもしれませんが、わかりやすい説明になったかと思います。

規制を導入する難しさとは、現代社会では利害関係が複雑に入り組んでいるため万人に通用する「大義名分」はほとんどの場合有り得ず(認識を共有することは難しく)、また利権化した政治の力で「大義名分」とは関係なく一部の集団へ利益誘導が行われることにあるのです。
(そのための情報操作も日常茶飯事です)

規制を緩和する難しさとは、規制により利益を受けていた人達が損失を受けるということであり、その損失の正当性が認められない限り緩和できないことにあるのです。

「規制緩和」の有意性は万人が認めるところ(総論で賛成)でありますが、各集団や各個人が損失を被るとわかったとき、人々は反対に回る(各論反対する)のです。
絡み合った各要因を一つ一つ解きほぐし、万人が納得する「大義名分」を唱えることは非常に難しいことです。あるとすれば、オバマ米大統領のように利害対立を止揚した理念を唱えることですが、理念を具体的政策に落とし込む際にはやはりこの問題にぶち当たるのです。

このとき、政治に求められるのは「決断」です。
「決断」とは「諦める」と同意です。
一部の利益をとり、一部の損失を諦める。
これが「決断」であり、人々が今政治に求めているものなのです。
誰に対しても好かれたいと思っているようでは「決断」することはできません。
現代の政治家に必要な能力とは「決断の正当性を説明する能力」です。


小泉内閣でいうところの「痛みに耐える」ということですね。
だが、やりかたを失敗すると小泉改革のように巻き返しに合うのです。

私はこれこれこういう理由でこういう決断をする。
ただし、これによって損失を受ける人達のことにも十分に配慮しなければならない。
みんなのためとはいえ、誰か1人に痛みを背負わせることがあってはいけない。
その痛みは皆で分け合うべきだし、そのために国家は努力しなければならない。
みなで強きを伸ばし、弱気を助ける。そのための国家である。
だから、こういう条件をつけて、こういう対応をします。
しかし、このことによって、我々はこんな明日を~~

という具合に。


話が長くなってしまったが、ようやく本題に入ります。

このエントリでは、民主党の政策が旧来の産業政策の枠組みから抜け出せないでいること、規制緩和についての無理解でいることの批判内容について説明してきました。
では、民主党の成長戦略には希望はないのでしょうか。
正直いって現実に打ち出されている成長戦略には大きな期待をもてません。
批判者の指摘がほとんどの場合正しいと思います。
しかし、「第3の道」として主張されている「需要サイドの成長戦略」は決して間違っているものではありません。
これについては批判者の皆様が理解されていないことがあります。
(理解しないというより方法論が貧弱すぎて納得できないというべきでしょうか)

民主党が主張する「第3の道」は、「需要の喚起」による「内需の拡大」のことであり「消費の拡大」のことです。
GDPの6割を占める個人消費を拡大することで経済成長を促す考え方です。
「需要を喚起する力は供給側が持つ」「所得を増やす効果が需要側にはない」という批判者のロジックはわかるのですが、ここでいう「需要の喚起」というのは、それとは少し意味が違います。
民主党の「第3の道」をよりよく理解するために、少し説明します。

この部分は話を単純化し過ぎと批判覚悟で書いています。

経済というのはサービスと対価の交換によって成り立っていますが、理論上「交換」は無限に行うことができます。
市場に流通するマネーの量が一定だとしても、交換自体は無限に行うことができるのです。
だから市場の実態として、流通している貨幣の量よりもマネーの量は多くなります。
もちろん交換するモノやサービスには資源などによって制限がかかるので、実際には無限というわけにはいきません。
また、逆にマネーの量を増やしたとしても市場で交換する必要性がなければ交換数を増やすことはできません。

これだけを踏まえると、国がマネーを一度発行してしまえば無限とまではいかなくてもマネーが市場を回りまわってみんな裕福になるのではないかと考えることができるかもしれません。
しかし、そういうわけにはいかないのです。
ここに登場するのが「需要」です。
先ほど、「マネーの量を増やしたとしても市場で交換する必要性がなければ交換数を増やすことはできません」と書きましたが、この「交換する必要性」というのが「需要」です。

私達人間は、欲しいモノがある(交換する必要性がある)時、自分が持っているマネーとモノを交換しようとしますが、欲しいモノがない時、自分の持っているマネーを将来のために取っておきます。
これが「貯蓄」です。
(欲しいモノがあるけど貯蓄する場合、もっと欲しいモノが他にあるのかもしれません。)
新興国のように開発途上にある国では、みんな欲しいモノばかりなので、みんなガムシャラにお金を使います。
先進国のようにモノで満たされてしまった国では、セレブ気分を味わったり、旅行したり、マネーゲームしたりとサービスにマネーが使われるようになります。

このとき、どのくらいマネーを供給すると、どのくらいマネーが回るかといったものを「乗数効果」と呼びます。
発展途上にある国では乗数効果が高くなるのは説明した通りです。
先進国ではモノで満たされているので、モノに関する乗数効果は必然的に低くなり、それでは経済の成長力が低下してしまうので、サービス分野の乗数効果が高くなければなりません。

しかし、ここで日本がぶち当たっている壁があります。
サービス分野というのは不景気に弱いのです。
人間、将来に向けての見通しが悪いとき、生きていくのにあまり重要ではないサービスなんかにお金を使うのをやめます。
そして、モノは溢れているのでモノを買うためにマネーを交換する必要がありません。
将来欲しくなるもののために「貯蓄」しようと考えます。

そうです。
将来に向けての見通しが悪いとき、つまり「不安」でいっぱいの時、マネーは貯蓄に回ります。
人々はせっかくマネーを持っていても、それを使おうとしないので、乗数効果は低下します。

今、日本では「将来不安」に溢れています。
連日のように不正や不平等や不安を煽る情報が駆け巡っています。
こんな「不安」でいっぱいなのに「マネーを使え」という方が無理なのです。
人々は冬を越す動物のように縮こまり、リスクを取らずに状況が好転するのを待っています。

さて、まえおきが終わり、ようやく本題の本題です。

ここでようやく民主党の「第3の道」の登場です。

日本経済が落ち込んでいる病理、それは「不安」です。
誰もが「安心」を求め彷徨っています。

これだ!
と思ったのです。

これまでの実績からして、政府は供給側の力を伸ばすことが苦手だ。
供給側の成長は民間の力を伸ばすことによって実現するしかない。
あえてできることは規制改革、高度社会インフラ整備などだ。

しかし!
政府が主導してできることもある!
日本社会を覆う「不安」を振りほどき、皆で「安心」を共有することができれば、需要側の意識を喚起できる!
そうすれば日本に眠る潜在的マネーを引き出し、乗数効果を上げることができる!
供給と需要の両輪を回すことができるのだ!

と。

そのために何が必要だ?

将来不安を解消することが最優先だ!
よし、セーフティネットの構築だ!


と書いてきたのですが、疲れたのでここで一度エントリをリリースします。
長すぎてgooブログの文字数制限にひっかかってしまいました。
後ほど書き直す可能性がありますが、前置きが長すぎて飽きてしまいました(笑)

先端分野では評判メカニズムが生き残る

2010-01-14 18:37:24 | 経済
かなり適当なエントリです。

どの分野でも先端領域において行政が取り締まるのは難しいので、市場において淘汰される仕組みがないとたまらんですね。
法整備はいつも後追いにしかなりません。
専門家やインサイダーによるブログやツイッターを起点とした評判メカニズムがその役割を担うのでしょうか。
それだけだと時代に逆行しているようですが、信頼メカニズムとの2重構造になるのでしょう。

日本航空については言わねばならぬことがどうしてもひとつある。(ぐっちー)
http://guccipost.jp/cgi-bin/WebObjects/12336a3d498.woa/wa/read/sq_12626e75aa6++6+/#tgl6


これだけ「いんちきファイナンス」を繰り返してきてその上で上場廃止にして既存株主を一気に放り出すという結論が許されるのか? 過去のファイナンスに関わった連中(主幹事証券会社、メインバンク、東京証券取引所および金融庁)は詐欺ではないか??という問題も依然大きいと言わざるを得ません。

[中略]

鳩山首相は株主にも責任があるなんて言っているけどそれはある特定の株主であってあれだけの債務超過を隠し続けて株を買わされた個人および中小企業、とくにはめ込み先になったであろうみずほの取引先企業はたまらない。(証言多数あり)

それは彼らの最後のファイナンスがわずか一年前、2008年に1500億円にも及ぶ金額が不正に堂々と行われているということに尽きるのだ。

再生委員の調査によってもJALが数年前から債務超過(つまり倒産企業)であったことが既に明らかになっている。最後のファイナンスは2008年6月。問題が表面化したのが昨年9月、この時点で政府の支援が決定した訳だから、たった1年で5000億以上の債務超過に一気に陥るなんてことはどうみても説明不可能でしょう。2008年6月の段階でアウトだったことは明白です。

ということはこの資金調達は当然債務超過を知っていて、将来の返済が極めて危ういことがわかりながら、関係各社を核に無理やりはめ込んだファイナンスであり東京証券取引所がそれにお墨付きを与えて個人および個人に近い法人各社をだまして膨大な損害を与えたことに他ならない。

これに口をつぐんでいるなら、当時の金融庁、金融機関、東京証券取引所関係者は全員違法取引もしくは詐欺罪で逮捕するべきで、さもなくば税金投入はあまりにも国民をばかにしていると言えましょう。

[中略]

つまりは返せないことがわかっていてファイナンスをした訳だ。

主幹事はみずほとゴールドマン。


当事者からすればそれなりの言い訳もあるだろうけど、結果としてこれは確かに酷い。
政投銀の民営化阻止と関わっているとすると、、。

稲盛氏で大丈夫なのかはわからないが、とにかく健闘を祈る。(他人事)

3人の財界人が語る「稲盛日航」が危ういこれだけの理由(辻広雅文)
http://diamond.jp/series/tsujihiro/10093/

小沢が正しいかどうかは国民が決めればよい

2010-01-14 17:12:41 | 政治
ちょっと軽率な内容が含まれていたので赤字で追記。

人々が自分達の都合のために国家という存在を認め、国家に力を与え、そして国家に権限を委任する時、国家権力が生まれる。
しかし、人々が国家に権限を委任する時、人々は国家権力の暴走または自分達の意に反する行動を抑止する仕組みを持つ必要がある。
それが憲法であり、法律を作成できる政治家を国会に送り込む意味だ。
国家権力に強い影響力を持つ政治家は必然的に権力を持つ。

人々は自分達で選抜した政治家に対して自分達の意を委任しているので、政治家に裁量が生まれる。
問題が単純であれば政治家の裁量は少なくても済むが、国家的問題はふつう複雑で高度であるため、与えられる裁量は大きくなる。
(問題が簡単であればやるべきことは簡単に見つかり、誰かに任せる必要がない。)
この裁量を一部の利益集団のために行使することが利権である。

政治家は国民によって選ばれるが、政治家の仕事を選ぶ時点で厳密に定めることはできないので、裁量をどのように行使するかの保証はできない。
(一部マニフェスト選挙ということで裁量を縛る趣が近年ある)
政治家に自由な裁量が与えられる限り、利権は必ず発生する。
むしろ国民は政治家が国家権力に強い影響力を持っていることを認めるからこそ、利権を求める。

利権が国家全体に及ぼす影響は自明ではない。
一部の利益集団に益をもたらすことが、全体の利益に資する可能性もある。
逆に、全体の利益を考えた政治家の活動が、一部の利益集団への利益誘導で終わる可能性もある。

しかし、利権は結果の是非に関わらず「公平性」を激しく毀損する。
人々にとって「公平性」は「効率性」よりも重視される。
人は時に、恥じて生きる道よりも誇らしく死ぬことを是とすることすらある。
ゆえに、人々は「公平性」を担保するための権力を国家に認める。
検察機構がその一つだ。

検察は「公平性」を保つために、「公平性」を毀損するあらゆる存在に対して権力を行使できる。
政治家も「公平性」を毀損するのであれば例外ではない。

政治家は、その裁量がある限り利権に絡んでいる。
利権は「公平性」を毀損する。
これは相対的な問題だから、叩けば(価値基準の設定次第で)ボロ(不公平)の一つや二つは必ずが出る。


「公平性が相対的である」という点と「違法かどうか」という点は別次元で語った方がよいかもしれない。
個人的には「違法かどうか」ということは本質的なことではなく、より重要なのは「公平性」だと思っているので上記のような表現になったが、「相対的な問題だから」と切って捨てるのは少々乱暴であった。
世論の支持を得るためには、元長崎地検次席検事の郷原氏が主張するように「問題ないこと」「好ましくないこと」「違法なこと」「処罰すべきこと」に分類して考えるべきだと思う。
不可解な特捜の強制捜査 郷原信郎氏インタビュー (ビデオニュース・ドットコム)


しかし、それが政治家という存在なのだ。
国民が政治家に自由な裁量を与える限り、必ず政治家は公平性を毀損する。
だから、検察には「国民が求めている公平性」と「求めていない公平性」を熟慮することが必要だが、問題を難しくするのは、国民が一様ではないことだ。
検察がいかに慎重であったとしても、行動が常に国民の意と一致するということは有り得ない。

ではどうするべきか。
これは民主政治を自分達の手で打ち立てた人達なら知っている。

政治家も検察も、国民がその権力を認めるからこそ権力を行使できる。
政治家も検察も、最終的に抑止できるのは国民以外に他にない。

(その意味で、裁判に国民が参加することの意味はあるのである。)

自分達の運命は自分達で決めるしかない。
これはいつの時代も変わらぬ真実なのである。


検察はそれがわかっているからマスコミ使って民意の熟成に躍起だ。
彼は民意の後ろ盾なしに自分達の任務を正当化できないことをよく知っている。
小沢もその点をもっと熟考すべきだ。

小沢も国民によって退場させられるのなら、彼の民主主義感からして本望だろう。
国民による国民の政治を実現することが彼の野望なのだから。
しかし、彼はこうも言う。

「国民のレベル以上の政治家は生まれない」

と。


「政治家も検察も、最終的に抑止できるのは国民以外に他にない。」と書いたが、その国民の意思を表明する方法について言及していなかった。
国民の意思を表明するのが選挙であって政治家ではないか!と。
確かに現状のシステムでは、選挙が代表的な手段だが、他にもデモ行進するとか、署名集めるとか、メディアで反論するとか、世論を形成してそれを表明でいることが重要で、考えようによっては様々手段があるだろう。
戦前のように軍が力を持つ状況ではどうするのか、それを言ったら共産圏は崩壊しなかったのではなかろうか。
で、今騒いでいる小沢の件だったらどうすればよいか。
マスコミの意見を無視して声を上げればいい。
電話かけてクレーム入れればいいんだ。
アウシュビッツに収監された経験を持つ精神科医ヴィクトール・フランクルが自分自身の経験を分析して言ったように「人間は人間に対して環境を押し付けることができるが、どう振舞うかといった最終的な決定については介入できない。」のだから、マスコミはお膳立てすることはできても、国民の決定に介入することまではできないのだから。

日本を覆う閉塞感を解決する方法があるか(第三部)

2010-01-14 14:32:58 | 哲学・思想
第一部第二部に引き続いて第三部。
第二部の議論が少々強引だった(説明不足だった)ので補足をする。


言葉と言うのは非常に低レベルなコミュニケーション・ツールで、想いを完璧に伝えることができないばかりか、多くの場合に誤解と偏見を与えてしまう。
どんな人類文学史上に輝く大名セリフも、恋する2人の間で交わされるアイコンタクトやボディ・ランゲージには勝てない。
テレパシーが使えたらどれだけ楽だろう。
しかし、その場合、伝えられないことで発達する文化というのも捨てることになるのだが。
ここでもトレードオフである。


前回の議論では、「資本主義を採用する人々」が「消費活動の極大化」のために「共同体の解体」と「消費主体の原子化」を行ってきたことによって現状の数多の問題が生み出されているので、これらを解決するためには資本主義に共同体という抑制機構が必要であるとする内田樹の主張を斜め45度の方向に受け流した。
私は、「共同体の解体」というのは人々がそれを望むから起きるのであって、資本主義ゆえに起きる現象ではないと主張したのであるが、ここの説明が足りていなかったので補足する。

「○○主義」なるものを漠然と捉えている人達には馴染みがない考え方かもしれないが、「○○主義」というものは人間の頭の中で情報を整理するために行われる無形の情報(ラベリング)であって、形があるものではない。
共産主義や資本主義があたかも構造を持っているように我々がイメージするのは議論の単純化のためにであって、実際に頭があるわけでも手足があるわけではない。
しかも、実は○○主義なんてものは何ら役に立っていない。

我々人類がこれまでしてきたことは「目の前にある問題についてどう対処するか」ということで、その議論の上に出来た制度や文化といったものを事後的に○○主義に分類しているに過ぎない。
いや、もちろん「目の前にある問題についてどう対処するか」を、どういう思想に基づいて考えるかというところに「考え方としての○○主義」なんてものが登場するであろうと考えがちではあるが、実はこの「考え方」というのは、○○主義という大そうなものではなく、単に知識である。

「△△はいけないことだから、□□しなければならない。」
「△△という問題への処方箋は、□□が適切である。」

という具合の知識で、事後的にこれらの知識を体系的にまとめてパッケージングされたものが○○主義なのである。
ゆえに、行為中の人間が「俺は○○主義だから◇◇する!」と考えることはなく、「こういう△△の場合は、◇◇するのが適切だ!」と考えるのである。
これは独裁体制下でも宗教団体内でも同じことである。
「私は■■教だから、●●する!」などと考える馬鹿はいないのである。


だから「市場原理主義者」とか「新自由主義者」とかいって人を罵るのはやめたほうがいい。
なぜなら、言われる側は自分が○○主義者だなんて思っていない。
それなりの理由があるから、そういう主張をするのである。
○○主義者と呼ばれる人達が皆同じ考えを持っているわけではないのと同じ理由だ。
せめてパッケージされた知識を知った上で批判すべきであろう。

さて、第3部の本題に入ろう。

事後的に知識がパッケージングされた○○主義は多くある。
例えば「共産主義」と「資本主義」だ。
(他にも「清貧主義」「菜食主義」「実利主義」「御都合主義」「無主義」・・などたくさんある)
しかし、「共産主義」や「資本主義」を例にとってみても、どこからどこまでが「共産主義」で、どこからどこまでが「資本主義」なのかを、正確に答えられるような人はいないだろう。
海に流れる川を見て「どこからどこまで海水で、どこからどこまでが川の水か」と聞くようなものである。
そんなもの、どこかで思い切りをつけて決めるしかないのだ。

なぜ、そういうことが起きるのか?
なぜ世の中は白黒はっきりつけられることばかりではないのか?

答えは簡単である。
この宇宙が相対的であるからで、2値状態しかとらないものはないからだ。
(またその話か!相対性、相対性ってうるさいよって思うあなた!わかるその気持ちは。しかしこれこそ生きる意味で生命の奇跡なんだ。いずれわかる。)
「0」か「1」かで状態を処理するデジタル信号処理は、人間が思い切ってそう決めているだけで、実際の自然状態は2値で表現できないものばかりだ。

この説明に文章を割くのは面倒だし、これまで当Blogで繰返し説明してきたことなので、以下を参照して欲しい。
(ググったところわかりやすいページを見つけたので、これ以降いつもこのページを参照させていただきます。)

科学哲学史(7) ポパーの決断(哲学的な何か、あと科学とか)
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/t7.html

おっと、本題に入ろうといいながらいきなり横道にそれてしまった。

結局、「○○主義」は情報を整理するために事後的にパッケージ(一般化)された知識であって実態はない。
「○○主義」と「△△主義」とを区別することは、情報を整理するためには有用だが、それ自体に実態がない以上、パッケージング(一般化)されたものを個別に当てはめようとしても、どこかはみ出るし、どこか足りないものになってしまう。
つまり、何かの実態を「○○主義」という言葉で議論する時は、それが一般化されたもので、個別に当てはまらない可能性があることについて注意されるべきである。

上記を理解した上でで、ようやく本題の本題だ。

では、なぜ人類は「○○主義」を乗り換えてきたのであろうか。
歴史上、「○○主義」は腐るほどあるが、時代とともに採用する「○○主義」は移り変わっている。
ここに、歴史を読み間違えない重要なターニングポイントがある。

先述したように、「○○主義」はパッケージングされた知識である。
中身は知識である。
知識には様々なものが含まれるが、実用観点からみた知識はノウハウと呼ばれる。
ノウハウは、試行錯誤した経験から役に立つ知識が体系化されたものであるから、人間の活動における生産性を上げる鍵である。

ここで感の良い人は気づくだろう。
ということは、「○○主義」はそういうノウハウが必要とされていたから存在するのである。
そう、「○○主義」は何もないところに突然湧き出てくるものではない。
それを必要とする環境があるからこそ自生するのだ。
人類が置かれている環境は同じものが2度と繰り返されず、変わり続けている。
「万物流転」である。

これが、人類が「○○主義」を乗り換えてきた理由である。

人類が「○○主義」を採用するのは、それが人類の知恵だからなのではない。
その時、その場所で必要だと思われる知識を採用しているだけである。
「○○主義」というのは前方向への採用ではなく、常に事後的に採用されているのだ。

だから、本来的な意味では「共産主義であったソ連が崩壊したから共産主義はだめだ。」というのはおかしい。
より厳密にいえば「共産主義と呼ばれる考え方に基づいて運用されてきたソ連において、ソ連国民は環境の変化によって共産主義ではない考え方を採用する必要があると考え、その考えに基づきソ連の解体を決断した。」のようになるであろう。

主義・主張はそれが必要とされたから構築され、存在し、必要なくなれば捨てられる。
これが人類の歴史が教えてくれることだ。

ようやく結論だ。

人類の歴史を鑑みるに、主義の変遷は常に前方向(未来方向に向かって)に行われてきた。
それは人類が環境に適応する結果であり、言い換えれば「進化」の一面といえるだろう。

よって、「資本主義が共同体の解体と消費主体の原子化を行った」かのごとき主張はミスリーディングである。原因と結果が逆転している。

人々がそれを望んだから、事後的に資本主義と呼ばれるパッケージされた知識ができたのである。

はてさて、これで理解いただけただろうか。

第四部へつづく。。

日本を覆う閉塞感を解決する方法があるか(第二部)

2010-01-13 14:17:25 | 哲学・思想

ここでの議論は反証可能性がないので、これはあくまで虚論の域を出ない。
だからここから何を得ようかということは、ひたすら読み手に任されるものなのである。


前回第一部に引き続いて内田樹のブログをコピペしながら持論を述べる。
その後、彼のブログが更新されたのだが、その内容も実に興味深い「ミドルメディアの時代」ので、この議論の後に続けてそちらも引用させてもらうことにする。


鳩山首相が内田樹の日本辺境論をお買い上げだそうです。
(私は立ち読みしていたのですが、彼への敬意をこめて購入させていただきます(笑))
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100112k0000m010043000c.html


鳩山由紀夫首相は11日、東京・丸の内の書店「丸善・丸の内本店」を訪れ、経済書や思想書など計28冊を自費で購入した。記者団から経済書などが多かった理由を聞かれると「資本主義も新しいものが求められており、日本の風土にどう生かしていくか勉強したい」と語った。


...前回からの続き


資本主義に対するもっともラディカルな批判はマルクスによるものだが、マルクスの主張は一言に尽くせば「万国のプロレタリア、団結せよ」という『共産党宣言』の言葉に要約される。
資本主義に対する根底的批判の言葉が「資本主義打倒」ではなく「貧しいもの弱いものは団結しなければならない」という遂行的なテーゼであったことを見落としてはならない。
資本主義が「悪い」とされるのは、別にそのシステムが本質的に邪悪なものだからではない。
それが市場を形成し、貨幣を流通させ、人々を共通の言語で結びつけ、通信、交通、信用、決済のシステムを整備する限り、資本主義はまことにけっこうなものである。
問題は、資本主義の活動性がある閾値を超えると、人々を分断し、孤立化させる点にある。
資本主義の邪悪さはその構造そのもののうちにではなく、「人類学的水準」において顕在化する。
だから、資本主義に対する抑制的行動は「人類学的」水準において、つまり「弱者の連帯」というかたちでのみ効果的に果たされる。


なるほど。「そうきたか」と思わされる名導入である。
さすが、内田樹。

ここが、これから彼が語る物語の出発点になる。
このエントリの後半部分について私は激しく同意するものであるけれど、彼と私の結論を違ったものにしてしまうのは、この部分に関する認識の違いである。
彼の問題意識は「資本主義の問題は、人々がそれを採用する時、人々を分断し、孤立化させる点である」と述べるのである。
思わず話しに引き込まれそうになるが、逆をいえば、ここが否定されると彼の資本主義否定は無効化されてしまう。

「人々を分断し、孤立化させたものは何か?」

この問題については確実に答えることは難しいであろう。
どのレベルで答えるかによって、答えが変わるからだ。
(原因には原因があり、またその原因にも原因がある。このどの時点での原因を述べるかだ。)

また、資本主義を採用する国家で起きたことが、資本主義ではない制度を採用する国家で起きないのかどうかも確かめられるべきであろう。
そもそも人類的進化の上で、人々の孤立化は不可避かどうかという問題だ。
資本主義に促進する効果があるのか、たまたま資本主義国家で顕在化したのか、などだ。

続いてもう少し細かい説明があるので見ていこう。


マルクスの説いた「共産主義」とは「コミューン主義」communismeということである。
コミューンを基礎単位として社会は構築されるべきだという論である。
別に経済活動を国家統制しろとか、一党独裁にしろとか、そういうけちくさい話ではない。
コミューンとは人間と人間のあいだの距離が「わりと近い」共同体なので、「論の政治的正しさ」や整合性ではなく、「ガキのころから知っとるけど、あれはなかなか肚のすわったやっちゃ」とか「あれは口だけのヘタレや」という判断が合意形成に際して優先的に配慮される場所というふうに私は理解している。
そういう集団を社会活動の基本単位とすべきだと提唱していたというふうに私はマルクスを理解している(日本のマルクス主義者のほとんどは私と意見を異にされるであろうが)。
そんなマルクス主義の最期の「彗星の尻尾」も1970年代の初めに宇宙の彼方に消え去り、それ以後覇権を握った資本主義は共同体の解体と消費主体の「孤立」を国策的に推進してきた。
自己決定・自己責任論も、「自分探し」も消費主体を家族や地域や同業集団から切り離し、「誰とも財産を共有できないので、要るものは全部自分の財布から出したお金で買うしかない(金がないときはサラ金から借りる)生活」をデフォルトにすることをめざしてきたのである。
その「趨勢」に日本人の全員が加担してきた。
その「結果」として若い世代の方々は「共生する能力」を深く損なわれたのである。
彼らの責任ではない。
教育も、メディアも、思想家たちも、率先して「誰にも決定を委ねない、自分らしい生き方」を推奨してきた結果、「共同体の解体」と「消費主体の原子化」が晴れて実現して、こうなったのである。
日本社会が官民を挙げての努力のこれは「成果」なのである。
「共同体の再生」という大義名分には反対する人はいないだろう。けれども、それが「消費活動の冷え込み」を伴うという見通しについては、「それは困る」と言い出すだろう。
申し訳ないけれど、これはどちらかを選んでもらうしかない。
資本主義者のみなさんにご配慮いただきたいのは、限界を超えて「原子化」した人間はもはや消費活動さえ行わなくなるということである。


「資本主義は共同体の解体と消費主体の孤立を推進してきた。」
なぜなら
「共同体生活では消費は活発化されないので、消費活動の極大化を目指すため」
その内容は
「共同体の解体と消費主体の原子化」
ここに
「自己決定・自己責任論という理路がある」
その結果
「共生する能力が深く損なわれた」
その上
「限界を超えて原子化した人間は消費活動さえも行わない」

つまり、資本主義者は消費活動を極大化するため共同体を解体することに一生懸命になった。
必然的に人々は分断され、孤立化する。

なるほど。一理ある。
しかし、彼の意見が資本主義者に受け入れられることはないだろう。
残念だが、彼と私の結論が異なる原因はここで決定的になる。
「資本主義者が消費活動を極大化するために共同体を解体しようとした。」というのは、ある意味で陰謀説に近い。
(思うに彼は妄信する者を嫌った議論が多いが、資本主義者が妄信していると思うには少し早い。)

なぜなら、私が思うに「人々は消費活動を極大化したいと思った」のではなく、「人々は己の欲望を充足するということがどういう事であるかを知りたいと思った」なのだ。
資本主義社会において見られた共同体の解体は、消費を指向したこと(消費活動を際限なく可能とする資本主義とうい仕組み)に要因があるのではなく、己の欲求を満たそうとする人間の性質そのものに要因があるのだ。
すると、この共同体の解体の要因は「資本主義」ではなく「人間が人間であること」にあることになる。

彼はこういう。

資本主義の邪悪さはその構造そのもののうちにではなく、「人類学的水準」において顕在化する

これはミスリーディングだ。
邪悪という相対的概念を使うのは好まれないが、「人類学的水準」において顕在しているのは、常に「人類学的邪悪さ」である。
彼のいうとおり資本主義は生きていない。
ゆえに邪悪さを持ちようがない。
邪悪だというなら、邪悪なのは人間でしか有り得ない。

いや、もちろん「資本主義という仕組みが人類学的邪悪さを顕在化させる」という議論は成り立つ。
では、資本主義以前のコミューン主義制度において人類は邪悪ではなかったのであろうか。
彼の論理に従えば、コミューン主義制度においては人類の邪悪さは抑制されるので、よりよい社会が成立するということになる。
これは現実か。
歴史上、そんな時代はあったか。
(これから先にあるという意見か。とりあえず過去の話を。)
昭和の「3丁目の夕日」や明治の「坂の上の雲」のような時代に日本人は幸せだったか。

その時代に日本に訪れた西欧の人間が「日本人は幸せそうだ。心が洗われる。」なんて言っているのを聞いて、「あの時代はよかったのだ。」と思っているのだとしたら、それは大きな勘違いである。
それは西欧から訪れた人間の価値観に照らし合わせて幸せそうなだけである。

ここは断言しよう、そのように皆が幸せだった時代はなかった。
そんな時代が存在できるのは人間の頭の中だけだ。
古代ローマ時代や江戸時代にはあったという人がいるかもしれないが、無駄な問いである。

なぜか。
答えは簡単である。

幸福とは常に相対的なものだからである。
この時代だけが特に幸せなんてことは有り得ない。

なぜか。

不幸がなければ幸せで有り得るはずがないからだ。
苦労を知らずして優しさを理解できぬように、不便さを知らずして便利さを知ることはできないし、憎しみや無関心をを知らずして愛を知ることもできない。
人間の認知の本質は、行為や結果にはなく、常に中身(動機)なのだ。
(同じことをしても、感じるものは人や時代によって変わる。)
我々が、この相対的な宇宙の住人である限り相対性から逃れることはできない。
幸せというものが絶対的基準であるかのように思う人は、そう思う限りにおいてこの考えは理解できぬであろう。
(幸せと不幸せのバランスが重要だが時間的作用性を考慮に入れるとそのバランスがいつ結実するのかは難しい問題で、結局すべてがプロセスなのだ。その上、時間の矢は過去方向には戻らない。我々には未来という希望を信じることしかできない。なんてこった!)

つまるところ、こうである。

人間は「人々は己の欲望を充足するということがどういう事であるかを知りたいと思った」。
この決して飽きることのない欲望こそ、人類を人類足らしめる要素である。
これは太古の時代から変わらず、いつの時代も人類は新たな主義や思想や制度を採用してきた。
そして近代という人類史上ごく狭いわずかな期間において資本主義という制度を採用している。(現在進行形)
しかし、これは人類が出した答えでもなければ、結論でもない。
あくまでも途中の結果であり、プロセスの一部でしかなく、過渡的な現象である。
これまでにそうしてきたように、これからも人類は走り続ける。
人々は己の欲望を充足するということがどういう事であるかを知るために、あらゆる手段を使うであろう。
そのために資本主義が障壁となるようであれば、資本主義を修正または乗り換えるであろう。
しかし、それは人類の欲望を抑制するためではなく、それが最善の方法と信じるからである。


この種の議論に慣れない方には細かい違いとうつるかもしれないが、これは本質的に大きな違いである。
要因を取り違えるということは、対策を誤るということになり、結局、結果として損失を被る可能性があるからだ。
誤った情報に基づいてなされた判断は誤った結果を導く。
(もちろん、完璧な答えなど誰も知らないが)

第3部へつづく。。

[ネタ]リア充

2010-01-09 11:34:11 | TV・書籍
リア充の科学(ブプレスティス・スプレンデンス)
http://nikomovie.livedoor.biz/archives/974332.html

ほんとこういう人達の編集能力はすごいものがあるな。

生産性が上がると出来た暇で新しい発想が出てくる。
また生産性が上がると、今度はその発想を具現化できるようになる。

理屈は簡単だ。
生産性が向上すると、やらなきゃいけないことをやらなくてよくなる。
やらなくてよくなって出来た時間を他のものにあてることができるようになる。
するとこれまでになかったことをするようになる。
これまでのことに飽きているので新しいことをしたくなる。
たまに大当たりする暇つぶしが出てくる。
これがイノベーション。

日本を覆う閉塞感を解決する方法があるか(第一部)

2010-01-08 19:29:01 | 哲学・思想
すごい重たいテーマですが内容を見てがっかりした方おりましたらすみません。

内田樹。

私は自分勝手かつ一方的に彼と考え方が似ていると思っている。
彼の経済に関する認識はトンチンカンだから出てくる結論は異なる場合が多いが、問題意識は似たようなところにある。

そんな彼の今日のブログは秀逸である。(しかし相変わらず結論は異なる)
これを読んで書いてあることをさっと理解できるなら、当Blogの主張の真髄を理解したということである。
少なくても当Blogのスピリチュアル・シリーズで表現しようとしたことがあまりにもさらっと書いてある。
「なんだそんなものか。」と思われた方はもう当Blogを読む価値がないのかもしれない。
なぜなら、当分これ以上の結論は出てこないからだ。
(どうしよう・・やっぱ政治あたりをメインにやってくしかないかなぁ)

長くなるが持論を交えてコピペしていく。

そんなことを訊かれても(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2010/01/08_1532.php


仕事始めに取材がふたつ。
太田出版の『atプラス』という雑誌と、『週刊プレイボーイ』。
媒体は違うが、たぶんどちらも対象としている読者の世代は同じくらい。
20代後半から30代、いわゆる「ロスジェネ」世代とそれよりちょと下のみなさんである。
生きる方向が見えないで困惑している若い諸君に指南力のあるメッセージを、というご依頼である。
『atプラス』の方はかなり学術的な媒体なので、「交換経済から贈与経済へ」という大ネタでお話しをする。
「クレヴァーな交換者から、ファンタスティックな贈与者へ」という自己形成モデルのおおきなシフトが始まっているという大嘘をつく。
もちろん、そのようなシフトは局所的には始まっている。
けれども、まだまだ顕微鏡的レベルの現象である。
それを「趨勢」たらしめるためには、「これがトレンディでっせ」という予言的な法螺を吹かねばならぬのである。
めんどうだが、そういう仕事を電通や博報堂に任せるわけにはゆかないので、私がボランティアでやっているのである。


まず、私はなぜ彼が「交換経済から贈与経済へ」と結論に至るのかはわからない。
言葉の問題として、つまり意図を伝えやすくするために「贈与」という言葉を使っているのであれば納得できるが、真なる意味で「贈与経済へ」などと言っているのだとすれば、これはかなりトンチンカンな意見と言わざるを得ない。

もしそうだとすれば「交換経済」の定義が狭すぎる
いや、彼のことだから恣意的に、現資本主義を意図的に貶めるために「交換経済」というラベリングをし、資本主義に置き換わるものを「贈与経済」と言う形で浮かび上がらせているに違いない。
これはかなり作為的な表現である

そもそも真なる意味での「贈与」というものが成立するのかという疑問が浮かぶ
たとえば「無償の愛」などというものが成立するかどうかと同じ問題だ
(これは論点のすりかえか?そのつもりはない)
スピリチュアルな分野ではこの言葉はよく使われるので、多くの人は誤解しているであろうが、この言葉はあくまでも方便であって真実を述べているのではない。
本物のスピリチュアリストが「無償の愛」と口にする時は、これは人間の知性でわかりやすいように言葉にしているだけで、真なる意味での「無償の愛」は存在しない。
「母親の子供に対する愛情のように」などというが、そんなものはマヤカシだ。
「であるなら、なぜ母親は自分の子供にしか愛情を提供できないのだ。それはその愛情が無償の愛などではないからだ」と私なら答えるだろう。
子供がいなければ母親の愛情が存在しないのであるから、子供がいることによって初めて愛情が存在できる
これがどのような意味で「無償の愛」に昇華できるというのか
完全に条件付の愛ではないか。

中にはこう反論する人がいるだろう。
「マザー・テレサのように誰にでも分け隔てない人もいる。」と。
だからそれは、誰かがいないと成立しない愛なのである。
誰かがいることによって成立する愛なのだとしたら、その愛の発生は条件にまみれてるのだ。

そうするとこう反論する人がいるであろう。
それは人間だから不完全なのであって、神の完全なる愛は違う。」と。
なるほど。それはあるかもしれない。
だが、経済は人間社会を暗黙的に前提としているのだから、神の愛では経済は成り立たないのである。

するとこう反論する人がいるであろう。
「ちがう。人間は神の子だから可能性はあるんだ。」と言われるかもしれない。
多分こういう人は初めから議論する気がない。
人間が神になる可能性はある。それは認めよう
だが、人間が神になった時、経済はあるのだろうか
あると言われるのかもしれないが、私はないと思う。
経済が必要なのは人間社会もしくは神ではない下等生物社会だからなのではないか
神の世界にも経済があるのだろうか
完璧なのに経済が?
そんなバカな。

話が脱線したので戻す。(しかしこのネタは脱線しまくることになるであろう)

私は人間が「無償の愛」を実現することは不可能だと思っている。
同様に「贈与経済」なんてことは有り得ないとも思っている
つまり、人間社会における全ては「贈与の形をした交換経済」でしか有り得ない
だから、内田樹の主張する「贈与経済」などというものは「交換経済」の言い回し方の問題だ。
そういう意味で私は「贈与経済」は新しい「交換経済」のコンセプトなのだろうと考えている

そういうことだから、いらぬ批判を受けたり議論が混乱することを避けるために、彼は言い回しを変えた方がいい

「クレヴァーな交換者から、ファンタスティックな贈与者へ」



「クレヴァーな交換者から、ファンタスティックな交換者へ」
とするか、または
「クレヴァーな交換者から、よりクレヴァーな交換者へ」
が適切と思われる。

よし、次へ行く。


資本主義は口が裂けても「共同体の再構築」ということは提言できない。
もちろん、消費者たちに最低限の消費活動を担保することと、人口の再生産のために「核家族」くらいまでは許容範囲だが、それ以上のスケールの共同体ができてしまうと(親族であれ、地域共同体であれ、「疑似家族的」集団であれ)、消費行動はたちまち鈍化してしまう。
経済学者がさっぱり言わないので、私が代わりに申し上げるが、そういうことなのである。
共同体に帰属していれば、耐久消費財のほとんどは「買わずに済む」からである。
誰かが持ってれば「貸して」で済む。
お金もうそうだ。
誰かが持っていれば「貸して」で済む。
銀行もサラ金も要らない。
金融商品もさっぱり売れない。
だって、それは「博打」だからだ。
「みんなの財布」を持ち出して鉄火場で博打をしようと思うんですけど・・・という提案が共同体内部で合意を獲得することはきわめて困難である。
「やるなら自分の手銭の100円玉使ってやれよ」という話である。
経済的に互恵的・互助的な共同体を形成すると、資本主義的な消費活動は一気に鈍化する。
だから、後期資本主義は久しく全力を尽くして「共同体形成」に反対してきたのである。


「資本主義は口が裂けても「共同体の再構築」ということは提言できない。」ということはないだろう
おそらく彼の頭の中では「資本主義者」がいわゆる「新自由主義者」に近いイメージで形付けられているのであろう。
しかし、私が知る限り完全自由競争を指向する専門家はいない。
一部カルト的な信者はいるが、「共同体の再構築」を全面否定するなどというのは一般的には受け入れがたい考え方だ。
資本主義者が反対してきたのは、共同体が形成されて、それが利害関係の調整において強い影響を持つと調整機能が鈍ることであって、決して共同体形成に反対してきたのではない
軸が違う。
「安心」や「公平」という人間の感情が経済活動において重要な要因となることは認知されているし、それが共同体形成であっても特段問題がない
資本主義者は、利害調整や配分機能において一部の利権が優先される市場の歪みを嫌っただけである
市場の調整機能が損なわれると、結局みんなが損するだけなので、全体最適の観点から、市場の歪みを極力排除しようと言っているだけに過ぎない。

「共同体形成は必ず利権を生み出すもの」だというのなら、共同体形成が市場の調整機能を歪めることが必然であるから、資本主義者が共同体形成を嫌うという論理ならわかる
しかし、この議論は少し強引だ。
まず「嫌う」と「否定する」は似てるが違う。
また、共同体形成が必ず利権を生み出すのだとすると、その共同体はある目的(利益)を持った集団であり、その成立動機からして「贈与」から遠いものなのではないか
結局、共同体間では「交換経済」がなされなければならず、「贈与経済」は成り立たない
「贈与経済」が機能するためには、十分に、むしろ地球で一つくらいに規模が大きくならなければならないが、そういうことを意味しているのだろうか

第1部から飛ばしすぎて読者の方は読みにくくて仕方がないのかもしれないがご了承いただきたい。
のっけから内田樹批判を激しくしてきたが、決して彼の言ってることが理解できないわけではない
誰も言わないから私がタネを明かそう
彼の言っているのは「あの世」のお話なのです。(「あの」ってどれだ?)


「あの世」は「生きる」必要がない。
生きる必要がないというのは「何かを必要とすることがない。」という意味だ。
これをイメージするには相当な想像力が必要かもしれない。
必要とする必要がなければ交換する必要がない。
交換する必要がないということは、経済が必要ないのだ。
これは画期的である。
「あの世」では経済が必要ないのだ。
それを「この世」に適用しようというコンセプトは理解できるが、納得できない。
物質的世界で生きるのに様々な条件がついてまわる「この世」に「あの世」の作法を適用しようというお話自体が無理なのである。


でもほら、そう考えると内田樹の主張がよくわかるじゃないか。


第2部へ続く。

坂本龍馬という物語

2010-01-07 21:54:05 | 哲学・思想
個人的に物凄く驚いて思わず絶句する出来事があった。
驚くのは私だけで他の人にはほんとどうでもよいことだけれど
なんとまた内田樹とシンクロニシティ(偶然の一致)である。
今日私は同僚に「私の未来と坂本龍馬」について語ったのだが、その内容が今日更新された内田樹氏のブログの内容とほとんど同じだったのだ。
これまでも度々見られる現象である。

ニコラス・タレブのブラックスワン的に言えば「そりゃ大河ドラマの龍馬伝始まったし、同時期に似たようなこと考えることもあるっしょ。ほとんど違うけどたまに一致するとそこだけ強調されまんがな」となるが、1度や2度ではないのである。
まぁ確かに彼とは出す結論は違えど考え方は近いと勝手に一方的に思っているので、一致することは多いのかもしれない。

坂本龍馬フィーヴァー(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2010/01/07_1037.php

ほとんど原文ままを下記にコピペする。
自分が同僚に語った内容と同じ部分を太字で強調する


私たちの国では、システムや価値観のシフトが時代の趨勢としてやみがたいという「雰囲気」になると、ひとびとは幕末に眼を向ける。
地殻変動的な激動に対応した「成功例」として、私たちが帰趨的に参照できるものを明治維新のほかに持たないからである
日本人がある程度明確な「国家プラン」をもって集団的に思考し、行動した経験は維新前夜だけである。
それはアメリカ人が社会的激動に遭遇するたびに「建国の父たち」を想起するのと似た心理機制なのかも知れない。
司馬遼太郎によると、坂本龍馬の名前はひとにぎりの旧志士たちのあいだでこそ知られていたが、明治中期にはもうほとんど忘れ去られていた
それが国民的な知名度を得たのは、日露戦争前夜の1904年、皇后の夢枕に白衣の武士が立ち、来るべき戦争における日本海軍の守護を約したという「事件」があったせいである。
夢に出てきた侍の容貌が細部に至るまであまりにはっきりしていたため、皇后がそれを侍臣に徴したところ、当時伯爵になっていた田中光顕が「それは坂本龍馬です」と答えたとされている。
田中は旧土佐藩士、武市瑞山の門人だった人である。龍馬が京都の近江屋で遭難したとき、いちはやく現場に駆けつけ、坂本龍馬と中岡慎太郎の死に立ち会った。
このオカルト的エピソードが新聞に掲載されて、龍馬は一躍「日本海軍の守護神」という神格を獲得した。
どこにどういう作為があったのか、今となっては知る術もない。
だが、日露戦争前夜という国家的危機に遭遇したとき、「坂本龍馬」というアイコンが幻想的な国民の統合軸として、集団的に選択されたということに間違いはない。
この選択はおそらく無意識的なものであったはずである(他人の夢の中に出てきた人の容貌を聞いて人間が特定できるはずがない)。
けれども、無意識的な選択であったということは、それが日本人の「欲望の真のありか」に近かったということでもある。
私たちが現在有している坂本龍馬像はその大部分が司馬遼太郎が『竜馬がゆく』で造型したものである
けれども、これを司馬の「創作」とすることに私は微妙な違和感を覚える。
司馬遼太郎は実にさまざまな幕末の人物を列伝的に描いている(西郷隆盛、大久保利通、高杉晋作、近藤勇、土方歳三、沖田総司、村田蔵六、山岡鐵舟、清河八郎、以下無数)が、司馬「竜馬」ほど生き生きと描かれた人物は他にいない。
それは司馬遼太郎自身が「この人を日本人が『危機』のときに帰趨的に参照すべき『日本人の原点』としよう」と願って「竜馬」を造型したからだと私は思う。
そして、そのような種類の「期待」は司馬が描くほかの幕末人士のうちには見ることができない。
高杉晋作も土方歳三も十分魅力的に描かれてはいるが、その人間的欠点まで含めて「愛すべき」人物として描かれたのは坂本「竜馬」ひとりである。
この「えこひいき」のうちに、私は小説家の作為ではなく、田中光顕と同じ種類の「国民的願望」の投影を見るのである。
坂本龍馬が「ほんとうは」どういう人だったのかということには歴史=物語的には副次的な重要性しかない
私たちが自分たちの国民的アイデンティティとして、それに基づいて思考し、行動するのはいつだって「歴史的事実」そのものではなく、「歴史的事実として選択された『物語』」だからである
「ほんとうは何があったのか」を知ることよりもむしろ、「『ほんとうは何があった』ことに私たちがしたがっているか」を知ることのほうが切実なのである
坂本龍馬は私たちが「近代日本人の原点」として、国民的な合意に基づいて選択したアイコンである
私はこれを「賢い選択」だったと思っている。
近代日本人がなしたロールモデル選択のうちで、もしかするといちばん賢明な選択だったのではないかと思っている。


坂本龍馬は本当に国民的人気を得ている。
偉人ランキングで調査をするとほぼ間違いなく「1位坂本龍馬、2位織田信長」である。
私の周囲にもファンは多く、歴史好きでなくても坂本龍馬は好きだという人はよくみかける。
全国に同好会が腐るほどあるし、坂本龍馬の生まれ変わりを自称する輩まで大勢いるのだ。
しかし、世に語られる坂本龍馬像がフィクションであったらみんながっかりするであろう。

だからといってそれが駄目だというつもりはない。
歴史と言うのはそもそもフィクション性を持っているからだ。
その時代、現実がどうだったかということを確かめることはできない。
伝承を物証をもって裏付ける作業には限界がある。

だから、私は歴史が本当かどうかなんてことを考えることはあまり意味がないと思っている。
(歴史に対する理解が争いを解決してくれる場合もあるのかもしれないが)
みんなそれぞれが思うように歴史に物語を求めたらいいと思う。
我々が知っている坂本龍馬は「国民の願望」による創作だ。
だから未だに坂本龍馬はみんなの前に現れる。
「平成の坂本龍馬」だとか言ってね。

「人々に受け入れられる物語には願望が込められている」という仕組みを知ることは、基本的認識として持っておきたいことだ。