政治家の進退(河野太郎)
http://www.taro.org/2010/01/post-704.php
1月に党本部が行った愛知県の世論調査で、浅野勝人参議院議員は民主党の現職他を抑えて、トップに立った。それを見て、今年72歳になる浅野さんは立候補しないことを表明した。
「世論調査でトップなのになぜ辞めるのですか」とたずねる新聞記者に「君も71歳になればわかるよ」と答えた。
話の事実関係はわからないけれど、ちょっとカッコいい話に思えた。
でも、↓こんなことをいつまでも言っているようでは物足りない。
こういう人がいるかと思えば、古い自民党の真ん中にずっと座っていながら、まだしがみつこうとする人もいる。
自民党の中堅・若手の改革派には少し想像力が足りない。
まず、老齢の政治家が政治家であることにこだわるのは必ずしも利権が美味しいからではない。
そういう人も中にはいると思うけど、それでも散々批判されてまでやる合理的理由にならない。
そんなに批判が立ってしまったら選挙に負けてしまう可能性が高くなってしまう。
歳をとってまで政治家にこだわる理由は他にあるのではないか。
なぜその人達は政治家という仕事にこだわるのか?
そういうことに想像力を働かせてみよう。
「なぜ、彼らはそう思うのか?」という問いに答えようとすることは、どんな世界においても我々に「より本質的な理解」という素敵な贈り物を与えてくれる。
個人的な回答をここで紹介しよう。
彼らがこだわっているのは「政治家」という仕事ではなく「人間関係」という情緒的なものだ。
「憎いあいつにいい想いをさせたくない」「俺がいなくなるとあいつが困る」「あいつのやり方は目に余る」「これを許せば悪になる」などなど・・
彼らは全く合理的ではなく、情緒的な判断をしている。
だから「合理的でない」と批判しても意味が無い。
彼らは理ではなく情に流されているのだから。
でもこれは、日本的組織において往々にして行われている判断で、決して他人事ではない。
これを読むあなたも常日頃、日本人であればこういう場面に直面しているはずだ。
例えば、太平洋戦争において全く非合理的な戦略が採用され続けたのは、合理的判断を促す意見をことごとく無視した情だ。
日本人は太平洋戦争当時の軍人は無能だったような印象を持っているかもしれないが、内実を覗いてみると意外に合理的な議論も行われていた。
海軍の軍令部にしても陸軍の参謀本部にしても参謀にはそれなりのエリートが揃っており、それなりに合理的な面子がそろっていた。
それが最終的に情緒的判断になってしまうのは、組織的判断を行うにあたって最も優先される事項が「人間関係」だからであって、その議論に参加している人間が非合理的だからということではない。
「あいつがそこまでいうなら・・」「絶対に間違っているけど上がああいうから・・」「あの人の信念だから仕方ない・・」「あいつに死に花を咲かせてやりたい・・」「名誉挽回の機会を与えてやりたい・・」「あいつはわかってくれる・・」「わかってくれると思う・・」などなど、こういう言葉をあなたは聞きはしないだろうか。
※
なぜ日本的組織においては理よりも情が判断基準となるのか、それは後日。
情に流されてる人間を理で解こうとするのはとても男性的発想だ。
人々が理屈だけで物事を理解してくれるなら誰も苦労しない。
時に人は情を優先することがある。
犬養毅でないが「話せば分かる」は通じないのだ。(失礼)
情を相手にどう対応すべきか。
このあたりについてもっと想像力を働かせてくれまいか。
とても国際性豊かな河野氏なので、このあたりの日本的やり方は好きではないのかもしれないが。
http://www.taro.org/2010/01/post-704.php
1月に党本部が行った愛知県の世論調査で、浅野勝人参議院議員は民主党の現職他を抑えて、トップに立った。それを見て、今年72歳になる浅野さんは立候補しないことを表明した。
「世論調査でトップなのになぜ辞めるのですか」とたずねる新聞記者に「君も71歳になればわかるよ」と答えた。
話の事実関係はわからないけれど、ちょっとカッコいい話に思えた。
でも、↓こんなことをいつまでも言っているようでは物足りない。
こういう人がいるかと思えば、古い自民党の真ん中にずっと座っていながら、まだしがみつこうとする人もいる。
自民党の中堅・若手の改革派には少し想像力が足りない。
まず、老齢の政治家が政治家であることにこだわるのは必ずしも利権が美味しいからではない。
そういう人も中にはいると思うけど、それでも散々批判されてまでやる合理的理由にならない。
そんなに批判が立ってしまったら選挙に負けてしまう可能性が高くなってしまう。
歳をとってまで政治家にこだわる理由は他にあるのではないか。
なぜその人達は政治家という仕事にこだわるのか?
そういうことに想像力を働かせてみよう。
「なぜ、彼らはそう思うのか?」という問いに答えようとすることは、どんな世界においても我々に「より本質的な理解」という素敵な贈り物を与えてくれる。
個人的な回答をここで紹介しよう。
彼らがこだわっているのは「政治家」という仕事ではなく「人間関係」という情緒的なものだ。
「憎いあいつにいい想いをさせたくない」「俺がいなくなるとあいつが困る」「あいつのやり方は目に余る」「これを許せば悪になる」などなど・・
彼らは全く合理的ではなく、情緒的な判断をしている。
だから「合理的でない」と批判しても意味が無い。
彼らは理ではなく情に流されているのだから。
でもこれは、日本的組織において往々にして行われている判断で、決して他人事ではない。
これを読むあなたも常日頃、日本人であればこういう場面に直面しているはずだ。
例えば、太平洋戦争において全く非合理的な戦略が採用され続けたのは、合理的判断を促す意見をことごとく無視した情だ。
日本人は太平洋戦争当時の軍人は無能だったような印象を持っているかもしれないが、内実を覗いてみると意外に合理的な議論も行われていた。
海軍の軍令部にしても陸軍の参謀本部にしても参謀にはそれなりのエリートが揃っており、それなりに合理的な面子がそろっていた。
それが最終的に情緒的判断になってしまうのは、組織的判断を行うにあたって最も優先される事項が「人間関係」だからであって、その議論に参加している人間が非合理的だからということではない。
「あいつがそこまでいうなら・・」「絶対に間違っているけど上がああいうから・・」「あの人の信念だから仕方ない・・」「あいつに死に花を咲かせてやりたい・・」「名誉挽回の機会を与えてやりたい・・」「あいつはわかってくれる・・」「わかってくれると思う・・」などなど、こういう言葉をあなたは聞きはしないだろうか。
※
なぜ日本的組織においては理よりも情が判断基準となるのか、それは後日。
情に流されてる人間を理で解こうとするのはとても男性的発想だ。
人々が理屈だけで物事を理解してくれるなら誰も苦労しない。
時に人は情を優先することがある。
犬養毅でないが「話せば分かる」は通じないのだ。(失礼)
情を相手にどう対応すべきか。
このあたりについてもっと想像力を働かせてくれまいか。
とても国際性豊かな河野氏なので、このあたりの日本的やり方は好きではないのかもしれないが。