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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

河野太郎がいく

2010-01-21 19:44:48 | 政治
ちょっと本エントリとブログの立ち位置の関係について指摘を受けたので内容を少しだけ修正しました。

河野太郎は彼自身のブログでもよく主張しているように行政チェックに余念がない。
彼には官僚の嘘説明を暴くための「行動力」がある。
いや、より正確にいえば「空気読まない性格」か。
その「空気読まない正確」こそ私が彼を評価する最大の要因だ。
(国際感覚にも優れているし、割切って考える論理的思考能力があるなど他にいいところはあるが)

こういう人は新しい何かを始めるのに強い。
新しいことをはじめるためには、既得権益者を犠牲にすることが度々ある。
そういうことに気を使う人は何もできない。
ある意味で情を無視するような性格が、そして決めたことを責められてもめげない性格が必要なのであるが、彼はそれを持っていると思う。

こういう人って既得権益を守る側にしてみれば絶対上司にしたくないタイプなのである。
菅直人以上に鳩山政権にうってつけの人材である。
オバマじゃないけど、鳩山首相は野党側から大臣指名したらいいんじゃないかなと思う。
河野太郎が引き受けないと思うけれど、ここは超党派でやってほしい。

副大臣がやり残したこと(河野太郎)
http://www.taro.org/2010/01/post-698.php


僕が法務省の副大臣をしていたときにホリエモン事件があった。
そのときにすごく気になったのが、XXXという供述をしているというニュースが毎日のように新聞やテレビで流れたことだ。

なぜ取り調べの供述が外に漏れるのか、取り調べをした検事の責任はどうなっているのかということを秘書官に調べさせた。
秘書官は検察庁にいくわけにはいかないから、法務省の幹部に副大臣がこう言っていると聞きに行ったのだろう。

戻ってきた答えは『接見した弁護士が漏らしているのではないか』

僕はぶち切れた。

[中略]

検察のリークがあったと思われる場合には、法務大臣が検事総長なりに記者会見を開かせ、そうした事実があったかどうかを確認させるべきだ。もしそうした供述はなかったというならば、その後、裁判でそれに反する供述は使えなくなるし、そうした供述があったというならば、取り調べた検事が処罰されなければならない。

[中略]

法務副大臣時代に、裁判所から法務省に来た裁判官が、民事局長などの職に就き、入札ルールをねじ曲げて民事法務協会に業務を発注しているのを見て唖然とした。官製談合をやっている人間が裁判官として裁判所に戻るのだ。
しかも、ほとんどそうした問題を法務省の記者クラブは追及してこなかった。

裁判員制度が始まったことでもあるし、日本の司法制度をもう一度きちんとあるべき姿にしていく必要がある。

国家権力に対峙する方法について考える

2010-01-21 16:55:14 | 社会

題名のわりに軽い内容です。


池田信夫氏がプリティなテーマで鋭く日本(京都)体質の本質を切り抜いている。
つい先日、私も少し異なる観点で「小沢バッシングに思うこの国のかたち」で「日本では表象としての絶対的な支配者を排除する力が働く」という主旨のエントリをしたばかりであった。


京のお茶漬け(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51348480.html
(ほとんど全文コピペ,太字による強調は私によるもの)


[前略]

実際の京都人は、排他的で冷たい。ていねいに話すのは、「よそ者」に気を許していないことを示しているのだ。

これには理由がある。京都には1000年以上にわたって国家権力の中心があり、街中が戦乱に巻き込まれる体験を何度もしている。権力が変わると、きのうまでの隣人が敵に回るといった経験が繰り返されてきた結果、「一見さん」を信用しない習性が根強く残っているのだ。魯迅の小説に描かれているように、人間が国家権力と隣り合って生きていると猜疑心の固まりになる。幸い日本は国家に対峙した経験があまりないが、京都だけは例外的に権力を意識し続けた都市である。

「京のお茶漬け」というのは落語のネタだが、それに近い風習は(少なくとも私の子供のころは)あった。「もう遅いさかい泊まっていきなはれ」といわれると、「あしたは朝早いさかい」と辞退して帰る。「泊まっていけ」というのは「早く帰れ」という暗号だが、はっきりいうと相手は気を悪くして敵に回るかもしれないので、あくまでも婉曲にいうのだ。その暗号を理解できるかどうかで敵を識別する意味もあるが、本当のよそ者が誤解して泊まったら大変なので、こういう表現の間合いは非常にむずかしい。

京都にながく共産党府政が続いたのも、このような面従腹背の習性によるものだろう。自民党と共産党を競わせ、決して一つの権力にはコミットしない。こうして昔からマルクス主義に親しんでいるので、京都人は社会主義にも幻想を持っていない。そういう土地に育った私から見ると、国家が永遠に債務を返済してくれると信じる人や、派遣村で貧しい人々を救えと国家に求める人は、権力に裏切られたことのない幸福な日本人の典型にみえる。そういう人に限って「反権力」を語ったりする。



あの織田信長ですら手こずった1000年の歴史を持つ京都の面従腹背の文化は、明治以降に構築されたたかだが100年そこらの官僚機構よりも手ごわいかもしれない。

しかし、この両者には共通点がある
そのことについて、前回の焼き直しだが言い回しを変えて説明しよう。

京都における天皇というシステムは、桓武天皇が奈良の平城京から平安京に遷都した時から、明治初期に東京へ遷都されるまでの間、いくつかの混乱期や荒廃期を経ながらも約1000年の長きにわたり維持された。
この実質骨抜き状態になりながらも1000年にわたり維持されたことは注目点である。

桓武天皇は、平城京における強大化した寺院系勢力を退けるために、既得権益者の抵抗にあいながらも京都への遷都に成功したが、その既得権益者が闊歩していた平城京が都であった期間はわずか100年にも満たない
「権力は腐敗する」という言葉があるが、たった100年であっても天皇の地位を脅かすほど既得権益者の力は強大になる。
京都のように1000年という長期にわたって権力構造を健全に保つためには、工夫が必要であった
それは権力構造を複雑にし外部の誰にも解けないパズルを構築すると同時に「表象としての絶対的な支配者」を認めないようにすることである。

このシステムは誰か1人が設計したものではなく、天皇システムの周囲にいる関係者のある種の防衛本能によって、それもいくつもの困難とともに長い年月がかけられ、少しずつ構築されたものである
1人の人間が設計したものなら外部の人間にも賢ければ解けようものだが、数え切れないほどの者が幾世代にもわたって共同で作り出した複雑系システムなのである。
これは暗黙知的なものではなく形式知化できないほど複雑に作られた知であり、捉えどころがないのではなく全容を把握するのが難しいといった類のシステムである。

天皇システムが生き残るためには、権力構造が複雑なだけでは不十分であった
なぜなら、その場合、相手を権力構造そのものに引きずり込まなければ効果がないからである。
システムの存在そのものを否定する集団には効果がない。
ここで出てくるのが「表象としての絶対的な支配者を認めない」ことである。
これは、目立つ、目立たないということではなくて、「実質として存在する」のではなく「名目として存在する」ということである

君臨すれども統治せず」の極意である。
これは良心でもなんでもなく、統治しないことで己を守るのである。

権力を狙う外部者は、実質的な権力を手にすることができれば満足するからである。
そういう形で征夷大将軍になったり関白になったりする人がいたのだ。
(織田信長はそれでも満足できなかったので消されてしまった。小沢一郎みたい。。)
だから天皇システムは名目として存在し、実質は他に譲るのが得策である。
端的にいえば「私(天皇)はお飾りで、実質的に偉いのはあなたですよ。」ということである。

空っぽの有用性」で天皇の真空エネルギーについて触れたが、天皇が実質的に権力を持っていないということは、むしろ周囲に認知されて意味があるのである。
「みんな偉くないのを知っているのに、偉いと思っている。」ということが重要で、それがなんとも日本的なのである。


そういう体制を構築できた環境的要因については前回のエントリで述べているのでそちらを参照。
外敵の侵入に怯えなくて済む限り、名目的な支配者と実質的な支配者を分け、人々は名目的な支配者を崇めて暮らすことで無駄なコンプレックスを抱かずに済ませたというのが当Blogの主張である。

そういう意味で「象徴天皇制」という考え方は、本質的に昔と何も変わっていない。

話が少しそれてしまったので本題に戻る。


この天皇システムの仕組みは、今でも形を変えて官僚組織に受け継がれている。
しかも今度は逆側から天皇システムを利用しているといっていいだろう。



官僚組織を幾世代にわたって複雑に作り上げ、外部の人間には理解できぬようにし、「名目的な支配者」=「政治」に譲り、「実質的な支配者」=「官僚組織」とし、国民の目を政治に向けさせ、人々に政治を見下させることで人々のコンプレックスを発散させる。
マスコミには政治を叩かせ、政治家に自分達の都合のいいように武器を渡して国民に向けて「政治の責任です。」と言わせる。
政治家にとっても政治の責任なら自分を必要としてもらえるので悪いことではない。
(「なんとかしろ。」と国民に言わせる(つまり必要とさせる)のは政治家の仕事の一つである。)
実質的な支配者そのものを否定するものが現れれば、織田信長を消し去るように寝技で排除する。


さて、我々にはどのような対抗手段があるだろうか。
答えはある。


京都にながく共産党府政が続いたのも、このような面従腹背の習性によるものだろう。自民党と共産党を競わせ、決して一つの権力にはコミットしない。



天皇システムを国民側が逆に利用するのである。
競わせ一つの権力にコミットしないことだ。


本来、官僚機構と競うべき政治が機能しないうえ、さらに官僚機構と政治を抑制すべきマスコミも機能していないという批判はあるだろう。
だが、ここで登場するのが「インターネットによる市民の政治参加」だ。
そもそもマスコミとは市民から権限が委任された存在であるので、それが機能せぬなら、その役割はより直接的に市民に近づくことになる。
専門家個人やその道の有識者がマスコミに変わって統治機構を抑止する力になるであろうし、それは不可避である。
(なぜ不可避かについてはまた後日)

もう一つは、外敵を呼び込むことだ
そして、そこに新しい旗を打ちたてる。
そうすれば人々は新しい権力にコミットする
権力の乗換えだね。

[妄想シリーズ] ハッピー・トレイン計画

2010-01-21 12:45:09 | 経済

妄想シリーズとしてシリーズ化します。
このシリーズは個人的に社会的価値などを無視して、単に思いついたことを表現するものです。
"妄想"というところからわかりますように、これは個人的な願望に近いものと考えていただいてよいかと思います。
「そんなの読まされる側に立って考えろ」と思われるかもしれませんが、テーマに[妄想シリーズ]とつけますので無視していただくでも結構かと思います。

電車内痴漢:39人を検挙 首都圏の新学期集中取り締まり(毎日jp)
http://mainichi.jp/select/today/news/20100121k0000e040035000c.html

どんどんやってくれ。
個人的には、小沢問題よりも警察(検察じゃないけど)はこっちに金かけてもらって構わない。
こっちの方がずっと社会のために役立つから!!

私は、是非政府(JR東and私鉄?)に「ハッピートレイン計画」を遂行していただきたい。
通勤ラッシュを解消するだけでなく、電車内を楽しくして欲しい。
エキュートなんかで駅中を楽しくするのはいいですが、電車内も楽しくしてくれないだろうか。
ただ移動するだけの機関として電車を位置づけるのはとても勿体ないと思うのは私だけだろうか。
iPodやウォークマンなどで時間を潰すだけではもったいないと思うのだ。
これだけ効率化された都市生活において、あの時空間だけは生産性が上がらないのである。
いや、本読みたい人は読めばいいんだ。
電車内に自由があることが生産性向上のために大事なんだ。

例えば、電車というのはいろんな人が行き交うが、まるで出会いがない。
「電車男」ではないが、もっと電車カップルができてもいいと思う。
そのためには、もっと若い女性が楽しく乗れるということが重要だ。
今、若い女性は電車に乗ると男どもからの脅威に耐えなければならず、みな構えている。
若い女性にとって電車にのることはリスクなのである。
そして男も、そういう女性を前にして身構えてしまうのだ。

この状況を是正せずして何が「安心社会」か!!

首都圏800万人の電車通勤者に夢を見させてくれ!!

例えば、女性車両とかセコイことを言わず、もっと妊婦車両とか子供車両とか家族車両とか、出会い車両とかもやって欲しい。
わかった!
例えば15両中の10車両くらいの車両内スペースを車両単位でオークションかけて売却し、各民間企業の創意工夫を導入するというのはどうだろう。
そこに生まれるサービスもあろう。
これまでの輸送量が減ると困るので、幸福実現党ではないが電車を2階建てにしたり、ホームの長さを拡張して車両編成数を増やすというのはどうだろう。
単なる移動手段として電車を位置づけるのはもったいないである。
2階部分を全て売却でもいいだろう。
ビジネスなので痴漢は禁止方向になるだろうし、居酒屋トレイン、バー・トレイン、などがあってもいい。
気づいたら終点でした系の乗り過ごしが増えそうではある。
キャバクラ・トレインを作れば痴漢も減るかも?
わかった、風俗店として痴漢・トレインがあればいいのだ。
やりすぎか・・っていうか絶対禁止されるだろうな。
保育・トレイン、理容・トレイン、カフェ・トレイン、いろいろあると思う。
けど、多分法律かなんかで禁止されてるんだろうな。
もしそうなら、その法律やめてもらえないかな。
でも鉄道会社の人ならこの手のアイディア絶対考えるはずだから、それでも実現されないのは、多分その前段で輸送量が足りていないからなんだと思うんだな。
だ・か・ら、2階建てやホーム拡張やったらいいんだ。
金がない?
コストとのトレードオフ?
だから料金を2階建てにすればいいんだよ。
需要がない?
それはやってみなければわからないよ。

もっと人々が首都圏に集中して都市化するのもいいし、ハッピー・トレインの出現で遠方に住むようになってもいいと思う。
電車が楽しくなったら、もっとみんな遠くに住んでもいいかなって思うようになると思うよ。

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私は毎日通勤に電車を使うのだが、直接痴漢行為を目の当たりにしたことはない。
しかし、痴漢行為に準ずるような行為を見かけることは日常茶飯事である。

私が遭遇する危ない行為は主に2通りある。
1つは、通勤ラッシュ時に若い女性の隣を狙って電車に乗ってくる男が多い。
ラッシュ時には乗車率が高く、体と体の距離がないくらいギュウギュウになる。
隣が若い女性だと嬉しい男がやはり多いらしく、毎日のように狙っている男を見かける。
本人はわからないようにしているつもりだろうが、私なんかは明らかに「こいつ狙ってる」とわかる。
明らかに動きが不審なのである。
普通、ラッシュのように資源を争奪する状況では、参加者は最短経路で目的を達しようとするものであるが、こういう不審者はそうではないのだ。
電車に乗る前の列への並び方が変である。
ラッシュに困ったような顔をして誤魔化している姿が痛い・・。

もう一つは、電車にゆられたふりして若い女性に体を当てる男。
これもわかる。
本人は誤魔化しているが、意識しているのが不自然すぎてわかる。

50くらいの男が女子高生に一生懸命触れようとしているのを見るのが痛い・・
金融日記じゃないですが、もっと性風俗的な規制を緩和して、こういう元気はあるけど発散する先のない男どもに対応して、若い女性に対するリスクを減らした方がいいなじゃないかと思う。
禁欲的なことを是とする時代は、近代の終焉と供に終わったのではないか。
もっと社会全体のために頭を使うべきなんではなかろうかと思う今日この頃である。

「政治とカネ」の問題で置き忘れられる2つのトピックス

2010-01-21 11:16:13 | 社会
日本を騒がしている小沢一郎に関連する「政治とカネ」の問題だが、大局的に見ると2つのトピックスがある。
1つは、民主主義の根幹と言われる「よく知らされた市民(Well known public)」をどう実現するのかということ。
もう一つは、「政治の役割」の定義をどうするのかということである。

前者について、上杉隆氏がわかりやすく指摘をしている。
米国内で指摘された「軍産複合体」と同じように仕組みを持つ「官報複合体」という存在が日本における「よく知らされた市民」の実現を阻んでいるというものだ。
構造としては戦前の「大本営発表」と変わらぬものだと彼は主張している。
(もちろん新聞社の人達は否定する。「我々は検察と緊張感持って仕事をしている。」と。主観的評価で実態を的確に把握するのが難しいという好例である。)

小沢問題で検察リークに踊らされるメディアへの危惧(上杉隆)
http://diamond.jp/series/uesugi/10110/


密室であるはずの取調室の会話が即時に新聞紙上に踊るのだろうか。なぜ、検察からのリーク情報は止まないのか。

 そもそも捜査が順調な場合には、検察は絶対に情報を洩らさない。筋のいい事案を追っているときは、たとえば朝刊に「きょう○○を逮捕へ」という具合に、結果が出た段階で初めて世間に知らされる。

 ということは、事前にメディアに捜査情報が漏れる場合は、捜査が芳しくない状況にあるか、あるいは「死に筋」であったりする。つまり、リークによって局面を打開するためにメディアを利用するのだ。

 この1年弱の小沢報道も同様の可能性が高い。贈収賄、斡旋収賄、脱税などの文字が躍り続けているが、現時点では、元秘書と現職秘書の政治資金規正法違反にぎすない。


「政治の役割」という話題については、ここでは軽く触れるに留める。
(これまでも当Blogで度々触れてきただけでなく、説明が長くなりそうなので日を改めることにする。)

日本の識者やマスコミというのは、片方で加点方式の人的評価を賛美しておきながら、もう片方で旧来の減点方式の人的評価を実際にするという、八方美人ぶりを発揮している

政治家は1つでも法律に違反すると政治生命が絶たれなければならないのか。

「日本は法治国家だから」と言う人々もいるだろうが、しかしその「法」は所詮人間が作ったもので、時代とともに変えていかなければならないものでもある。
その時々に、法による利益と損失のトレードオフを鑑みて成立・修正・削除されるべきものだ。
それに、そもそも法律で何かを規制するのは、皆でその法が守られることによって得る利益が社会的にみて価値があるからで、法そのものを守ることに価値があるわけではない
ただ、「公平性」というものが人間社会の安定において非常に重要な要因であるため、法の適用がケースバイケースであると問題が生じするため、法は名目的に一律的に適用されなければならないとされている。


速度違反なんかいい例だ。(法律家の方々はいや、それは質が違う話だといわれるかもしれないが、マクロで見れば同じである。)
あんなの運が悪いと捕まるが、ほとんど99%は捕まっていない。
速度違反を100%捕まえられると、国民が困るからそんなことはしない。
取り締まるコストが高いから100%でないだけだという人がいるかもしれないが、違う。
もし技術的に100%取り締まれるとするなら、法律を改正する必要が出てくると思われる。
そもそも100%取り締まりたいなら国内で販売される車にメーカー側のコストがかかっても速度制限を設けなければならないが、そんなことはしない。
あくまでも指針なのである。
法律違反がだめだというなら「あなた制限速度40kmの道路で80kmで走ったことあるから、あなたに小沢一郎を追求する権利はない。」と言われたらどうするのだろうか。

ここでの問題は、法律にレベルの高低があるとかないとか、そういうことではなく、「罰を与える」ことが法律の主眼ではないということだ。
水戸黄門のように悪者に懲罰を与えるのが法律の仕事ではない。
社会的価値に照らし合わせて「みなで守る必要のあるものかどうか」が主眼なのである
罰を与えるのは、あくまでも「皆で守らねばならないということを認識させるため」と「公平性の担保」のためである。

他にも犯罪の抑止という観点もあろう。
たとえば、性犯罪者を獄につなぐのは、たとえその犯罪者の人権を犠牲にしたとしても、社会的に見て、その人を市中に出すのは危険だからである。

「あいつ犯罪者だから人でなし」みたいな議論は相当危ない議論だ
太平洋戦争中に日本国内で起きた言論統制を許した雰囲気とは、まさにそういう発想に基づくものだった
犯罪は相対的な基準に基づく判断だが、その相対性はあくまでも自分達の利益に適うかどうかによって評価されるべきものなのである。

あいつにはこういう過去があるが、でもあいつのこの能力は、社会のために役に立つから、社会のために、あいつにこういう仕事をやらせる

という発想ぐらいできないものだろうか。
「悪者は獄に繋げばいい」みたいな発想は大変に危険なのである。