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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

先端分野では評判メカニズムが生き残る

2010-01-14 18:37:24 | 経済
かなり適当なエントリです。

どの分野でも先端領域において行政が取り締まるのは難しいので、市場において淘汰される仕組みがないとたまらんですね。
法整備はいつも後追いにしかなりません。
専門家やインサイダーによるブログやツイッターを起点とした評判メカニズムがその役割を担うのでしょうか。
それだけだと時代に逆行しているようですが、信頼メカニズムとの2重構造になるのでしょう。

日本航空については言わねばならぬことがどうしてもひとつある。(ぐっちー)
http://guccipost.jp/cgi-bin/WebObjects/12336a3d498.woa/wa/read/sq_12626e75aa6++6+/#tgl6


これだけ「いんちきファイナンス」を繰り返してきてその上で上場廃止にして既存株主を一気に放り出すという結論が許されるのか? 過去のファイナンスに関わった連中(主幹事証券会社、メインバンク、東京証券取引所および金融庁)は詐欺ではないか??という問題も依然大きいと言わざるを得ません。

[中略]

鳩山首相は株主にも責任があるなんて言っているけどそれはある特定の株主であってあれだけの債務超過を隠し続けて株を買わされた個人および中小企業、とくにはめ込み先になったであろうみずほの取引先企業はたまらない。(証言多数あり)

それは彼らの最後のファイナンスがわずか一年前、2008年に1500億円にも及ぶ金額が不正に堂々と行われているということに尽きるのだ。

再生委員の調査によってもJALが数年前から債務超過(つまり倒産企業)であったことが既に明らかになっている。最後のファイナンスは2008年6月。問題が表面化したのが昨年9月、この時点で政府の支援が決定した訳だから、たった1年で5000億以上の債務超過に一気に陥るなんてことはどうみても説明不可能でしょう。2008年6月の段階でアウトだったことは明白です。

ということはこの資金調達は当然債務超過を知っていて、将来の返済が極めて危ういことがわかりながら、関係各社を核に無理やりはめ込んだファイナンスであり東京証券取引所がそれにお墨付きを与えて個人および個人に近い法人各社をだまして膨大な損害を与えたことに他ならない。

これに口をつぐんでいるなら、当時の金融庁、金融機関、東京証券取引所関係者は全員違法取引もしくは詐欺罪で逮捕するべきで、さもなくば税金投入はあまりにも国民をばかにしていると言えましょう。

[中略]

つまりは返せないことがわかっていてファイナンスをした訳だ。

主幹事はみずほとゴールドマン。


当事者からすればそれなりの言い訳もあるだろうけど、結果としてこれは確かに酷い。
政投銀の民営化阻止と関わっているとすると、、。

稲盛氏で大丈夫なのかはわからないが、とにかく健闘を祈る。(他人事)

3人の財界人が語る「稲盛日航」が危ういこれだけの理由(辻広雅文)
http://diamond.jp/series/tsujihiro/10093/

小沢が正しいかどうかは国民が決めればよい

2010-01-14 17:12:41 | 政治
ちょっと軽率な内容が含まれていたので赤字で追記。

人々が自分達の都合のために国家という存在を認め、国家に力を与え、そして国家に権限を委任する時、国家権力が生まれる。
しかし、人々が国家に権限を委任する時、人々は国家権力の暴走または自分達の意に反する行動を抑止する仕組みを持つ必要がある。
それが憲法であり、法律を作成できる政治家を国会に送り込む意味だ。
国家権力に強い影響力を持つ政治家は必然的に権力を持つ。

人々は自分達で選抜した政治家に対して自分達の意を委任しているので、政治家に裁量が生まれる。
問題が単純であれば政治家の裁量は少なくても済むが、国家的問題はふつう複雑で高度であるため、与えられる裁量は大きくなる。
(問題が簡単であればやるべきことは簡単に見つかり、誰かに任せる必要がない。)
この裁量を一部の利益集団のために行使することが利権である。

政治家は国民によって選ばれるが、政治家の仕事を選ぶ時点で厳密に定めることはできないので、裁量をどのように行使するかの保証はできない。
(一部マニフェスト選挙ということで裁量を縛る趣が近年ある)
政治家に自由な裁量が与えられる限り、利権は必ず発生する。
むしろ国民は政治家が国家権力に強い影響力を持っていることを認めるからこそ、利権を求める。

利権が国家全体に及ぼす影響は自明ではない。
一部の利益集団に益をもたらすことが、全体の利益に資する可能性もある。
逆に、全体の利益を考えた政治家の活動が、一部の利益集団への利益誘導で終わる可能性もある。

しかし、利権は結果の是非に関わらず「公平性」を激しく毀損する。
人々にとって「公平性」は「効率性」よりも重視される。
人は時に、恥じて生きる道よりも誇らしく死ぬことを是とすることすらある。
ゆえに、人々は「公平性」を担保するための権力を国家に認める。
検察機構がその一つだ。

検察は「公平性」を保つために、「公平性」を毀損するあらゆる存在に対して権力を行使できる。
政治家も「公平性」を毀損するのであれば例外ではない。

政治家は、その裁量がある限り利権に絡んでいる。
利権は「公平性」を毀損する。
これは相対的な問題だから、叩けば(価値基準の設定次第で)ボロ(不公平)の一つや二つは必ずが出る。


「公平性が相対的である」という点と「違法かどうか」という点は別次元で語った方がよいかもしれない。
個人的には「違法かどうか」ということは本質的なことではなく、より重要なのは「公平性」だと思っているので上記のような表現になったが、「相対的な問題だから」と切って捨てるのは少々乱暴であった。
世論の支持を得るためには、元長崎地検次席検事の郷原氏が主張するように「問題ないこと」「好ましくないこと」「違法なこと」「処罰すべきこと」に分類して考えるべきだと思う。
不可解な特捜の強制捜査 郷原信郎氏インタビュー (ビデオニュース・ドットコム)


しかし、それが政治家という存在なのだ。
国民が政治家に自由な裁量を与える限り、必ず政治家は公平性を毀損する。
だから、検察には「国民が求めている公平性」と「求めていない公平性」を熟慮することが必要だが、問題を難しくするのは、国民が一様ではないことだ。
検察がいかに慎重であったとしても、行動が常に国民の意と一致するということは有り得ない。

ではどうするべきか。
これは民主政治を自分達の手で打ち立てた人達なら知っている。

政治家も検察も、国民がその権力を認めるからこそ権力を行使できる。
政治家も検察も、最終的に抑止できるのは国民以外に他にない。

(その意味で、裁判に国民が参加することの意味はあるのである。)

自分達の運命は自分達で決めるしかない。
これはいつの時代も変わらぬ真実なのである。


検察はそれがわかっているからマスコミ使って民意の熟成に躍起だ。
彼は民意の後ろ盾なしに自分達の任務を正当化できないことをよく知っている。
小沢もその点をもっと熟考すべきだ。

小沢も国民によって退場させられるのなら、彼の民主主義感からして本望だろう。
国民による国民の政治を実現することが彼の野望なのだから。
しかし、彼はこうも言う。

「国民のレベル以上の政治家は生まれない」

と。


「政治家も検察も、最終的に抑止できるのは国民以外に他にない。」と書いたが、その国民の意思を表明する方法について言及していなかった。
国民の意思を表明するのが選挙であって政治家ではないか!と。
確かに現状のシステムでは、選挙が代表的な手段だが、他にもデモ行進するとか、署名集めるとか、メディアで反論するとか、世論を形成してそれを表明でいることが重要で、考えようによっては様々手段があるだろう。
戦前のように軍が力を持つ状況ではどうするのか、それを言ったら共産圏は崩壊しなかったのではなかろうか。
で、今騒いでいる小沢の件だったらどうすればよいか。
マスコミの意見を無視して声を上げればいい。
電話かけてクレーム入れればいいんだ。
アウシュビッツに収監された経験を持つ精神科医ヴィクトール・フランクルが自分自身の経験を分析して言ったように「人間は人間に対して環境を押し付けることができるが、どう振舞うかといった最終的な決定については介入できない。」のだから、マスコミはお膳立てすることはできても、国民の決定に介入することまではできないのだから。

日本を覆う閉塞感を解決する方法があるか(第三部)

2010-01-14 14:32:58 | 哲学・思想
第一部第二部に引き続いて第三部。
第二部の議論が少々強引だった(説明不足だった)ので補足をする。


言葉と言うのは非常に低レベルなコミュニケーション・ツールで、想いを完璧に伝えることができないばかりか、多くの場合に誤解と偏見を与えてしまう。
どんな人類文学史上に輝く大名セリフも、恋する2人の間で交わされるアイコンタクトやボディ・ランゲージには勝てない。
テレパシーが使えたらどれだけ楽だろう。
しかし、その場合、伝えられないことで発達する文化というのも捨てることになるのだが。
ここでもトレードオフである。


前回の議論では、「資本主義を採用する人々」が「消費活動の極大化」のために「共同体の解体」と「消費主体の原子化」を行ってきたことによって現状の数多の問題が生み出されているので、これらを解決するためには資本主義に共同体という抑制機構が必要であるとする内田樹の主張を斜め45度の方向に受け流した。
私は、「共同体の解体」というのは人々がそれを望むから起きるのであって、資本主義ゆえに起きる現象ではないと主張したのであるが、ここの説明が足りていなかったので補足する。

「○○主義」なるものを漠然と捉えている人達には馴染みがない考え方かもしれないが、「○○主義」というものは人間の頭の中で情報を整理するために行われる無形の情報(ラベリング)であって、形があるものではない。
共産主義や資本主義があたかも構造を持っているように我々がイメージするのは議論の単純化のためにであって、実際に頭があるわけでも手足があるわけではない。
しかも、実は○○主義なんてものは何ら役に立っていない。

我々人類がこれまでしてきたことは「目の前にある問題についてどう対処するか」ということで、その議論の上に出来た制度や文化といったものを事後的に○○主義に分類しているに過ぎない。
いや、もちろん「目の前にある問題についてどう対処するか」を、どういう思想に基づいて考えるかというところに「考え方としての○○主義」なんてものが登場するであろうと考えがちではあるが、実はこの「考え方」というのは、○○主義という大そうなものではなく、単に知識である。

「△△はいけないことだから、□□しなければならない。」
「△△という問題への処方箋は、□□が適切である。」

という具合の知識で、事後的にこれらの知識を体系的にまとめてパッケージングされたものが○○主義なのである。
ゆえに、行為中の人間が「俺は○○主義だから◇◇する!」と考えることはなく、「こういう△△の場合は、◇◇するのが適切だ!」と考えるのである。
これは独裁体制下でも宗教団体内でも同じことである。
「私は■■教だから、●●する!」などと考える馬鹿はいないのである。


だから「市場原理主義者」とか「新自由主義者」とかいって人を罵るのはやめたほうがいい。
なぜなら、言われる側は自分が○○主義者だなんて思っていない。
それなりの理由があるから、そういう主張をするのである。
○○主義者と呼ばれる人達が皆同じ考えを持っているわけではないのと同じ理由だ。
せめてパッケージされた知識を知った上で批判すべきであろう。

さて、第3部の本題に入ろう。

事後的に知識がパッケージングされた○○主義は多くある。
例えば「共産主義」と「資本主義」だ。
(他にも「清貧主義」「菜食主義」「実利主義」「御都合主義」「無主義」・・などたくさんある)
しかし、「共産主義」や「資本主義」を例にとってみても、どこからどこまでが「共産主義」で、どこからどこまでが「資本主義」なのかを、正確に答えられるような人はいないだろう。
海に流れる川を見て「どこからどこまで海水で、どこからどこまでが川の水か」と聞くようなものである。
そんなもの、どこかで思い切りをつけて決めるしかないのだ。

なぜ、そういうことが起きるのか?
なぜ世の中は白黒はっきりつけられることばかりではないのか?

答えは簡単である。
この宇宙が相対的であるからで、2値状態しかとらないものはないからだ。
(またその話か!相対性、相対性ってうるさいよって思うあなた!わかるその気持ちは。しかしこれこそ生きる意味で生命の奇跡なんだ。いずれわかる。)
「0」か「1」かで状態を処理するデジタル信号処理は、人間が思い切ってそう決めているだけで、実際の自然状態は2値で表現できないものばかりだ。

この説明に文章を割くのは面倒だし、これまで当Blogで繰返し説明してきたことなので、以下を参照して欲しい。
(ググったところわかりやすいページを見つけたので、これ以降いつもこのページを参照させていただきます。)

科学哲学史(7) ポパーの決断(哲学的な何か、あと科学とか)
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/t7.html

おっと、本題に入ろうといいながらいきなり横道にそれてしまった。

結局、「○○主義」は情報を整理するために事後的にパッケージ(一般化)された知識であって実態はない。
「○○主義」と「△△主義」とを区別することは、情報を整理するためには有用だが、それ自体に実態がない以上、パッケージング(一般化)されたものを個別に当てはめようとしても、どこかはみ出るし、どこか足りないものになってしまう。
つまり、何かの実態を「○○主義」という言葉で議論する時は、それが一般化されたもので、個別に当てはまらない可能性があることについて注意されるべきである。

上記を理解した上でで、ようやく本題の本題だ。

では、なぜ人類は「○○主義」を乗り換えてきたのであろうか。
歴史上、「○○主義」は腐るほどあるが、時代とともに採用する「○○主義」は移り変わっている。
ここに、歴史を読み間違えない重要なターニングポイントがある。

先述したように、「○○主義」はパッケージングされた知識である。
中身は知識である。
知識には様々なものが含まれるが、実用観点からみた知識はノウハウと呼ばれる。
ノウハウは、試行錯誤した経験から役に立つ知識が体系化されたものであるから、人間の活動における生産性を上げる鍵である。

ここで感の良い人は気づくだろう。
ということは、「○○主義」はそういうノウハウが必要とされていたから存在するのである。
そう、「○○主義」は何もないところに突然湧き出てくるものではない。
それを必要とする環境があるからこそ自生するのだ。
人類が置かれている環境は同じものが2度と繰り返されず、変わり続けている。
「万物流転」である。

これが、人類が「○○主義」を乗り換えてきた理由である。

人類が「○○主義」を採用するのは、それが人類の知恵だからなのではない。
その時、その場所で必要だと思われる知識を採用しているだけである。
「○○主義」というのは前方向への採用ではなく、常に事後的に採用されているのだ。

だから、本来的な意味では「共産主義であったソ連が崩壊したから共産主義はだめだ。」というのはおかしい。
より厳密にいえば「共産主義と呼ばれる考え方に基づいて運用されてきたソ連において、ソ連国民は環境の変化によって共産主義ではない考え方を採用する必要があると考え、その考えに基づきソ連の解体を決断した。」のようになるであろう。

主義・主張はそれが必要とされたから構築され、存在し、必要なくなれば捨てられる。
これが人類の歴史が教えてくれることだ。

ようやく結論だ。

人類の歴史を鑑みるに、主義の変遷は常に前方向(未来方向に向かって)に行われてきた。
それは人類が環境に適応する結果であり、言い換えれば「進化」の一面といえるだろう。

よって、「資本主義が共同体の解体と消費主体の原子化を行った」かのごとき主張はミスリーディングである。原因と結果が逆転している。

人々がそれを望んだから、事後的に資本主義と呼ばれるパッケージされた知識ができたのである。

はてさて、これで理解いただけただろうか。

第四部へつづく。。