ようやく当Blogと似たようなことをいう論客が現れました。
「国体」とは「國體」のことでありますが、簡略的に「国体」とします。
※
後日、内田樹氏の「日本辺境論」を基に「国体」というキーワードを使って、私的日本論を展開したいと思います。
日本辺境論を読んでみて、やっぱり彼とは考え方が似ていると再確認したのでした。
今回は単に当Blogの方がより深くこの問題を捉えているよという宣伝です。
小沢vs検察 「国体」との最終戦争の行方(カトラー:katolerのマーケティング言論)
http://katoler.cocolog-nifty.com/marketing/2010/01/post-33e3.html
国家とは本来人間が作りだしたシステムであるから、為政者の権力意志を表現している。しかし、日本にあっては、それは天皇を頂点とする「国体」という曖昧な言葉で覆われ、誰が権力者なのか、顔の「見えない構造になっている。この「顔の無い統治構造」こそが「国体」の本質であり、日本の高級官僚たちは、その「国体」の一部を担っているという自覚があるから、強烈な使命感とエリート意識を持ってきた。
敗戦によってこの国の全てが灰燼に帰したが、マッカーサーの下で制定された平和憲法では象徴天皇制がとられたために、こうした統治構造とエリート官僚達の意識構造は、戦後になっても基本的には変わることがなかった。米国の占領に当初は怯えていた官僚たちも米国と手を結びさえすれば、「国体」の構造は温存されることを理解して、親米国体主義ともいえる戦後の奇妙な官僚至上主義が形成されていった。
[中略]
自民党による55年体制が、昨年の夏に終焉したのと同様に、外交、経済、それぞれの政治局面で、パラダイムが変わったことをメッセージとして出し続けることができれば、この陣取り合戦にも、ぎりぎりの所で勝てると小沢はふんでいるのではないか。
とすれば、壊し屋、小沢一郎が、政治家として最後の目標に据えているのは、実は、顔の無い統治構造「国体」そのものを壊すことかもしれない。
国体が壊れる時、この国は、千々に乱れて崩壊してしまうのか、それとも成るようにしかならないのか、その答えはまだ見えていない。
「国体」は絶対に負けません。
なぜなら「国体」に実態はないし、そもそも「国体」が何かは誰にもわかっていないからです。
「国体」が何かがわかっていないのだから、「国体」を倒すことができようはずがありません。
「国体」とは、その場に参加している人間達の間に漫然とある空気が生んだ感覚で、掴もうとしても誰にも掴めないのです。
では、当Blogで繰返し主張する「小沢の目的は日本の民主化」とは何でしょうか。
それは、新しい「空気」を作り上げることです。
これが「今でも日本は民主主義国家じゃん。」という反論に対する私からの回答です。
私のように「日本の民主化が必要だ。」という人の問題意識には、民主主義というものが民主主義制度のうえによって立つものではないという考えがあるのです。
民主主義制度を採用するから民主主義国家だというのではなく、その場にいる国民が民主主義を理解することによって初めて民主主義国家になれるという意味です。
形式論を述べているのではありません。
私が述べるように、もし日本における民主主義がうまく機能していないのだとしたら、民主主義制度を採用しているのに、その民主主義制度がうまく機能していない原因がどこかにあるはずです。
その原因は何でしょうか。
私は「空気」だと考えています。
その「空気」を変えるために必要なものが、何度も繰り返すように社会のダイナミズムです。
だから、社会の柔軟性を失わせ「空気」を固定化する阻害要因を排除しようとする小沢の志に私は賛同するのです。
このことについては、今後も議論してきたいと思います。
「犯罪行為を権力闘争への置き換えるという論理のすり替え」というような批判をする人がいるのですが、私にそのつもりはありません。
単純に小沢批判が稚拙すぎることへの批判です。
興味のある方は最近アップした下記3エントリをご覧ください。
小沢バッシングに思うこの国のかたち
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/5d4f9e273e8a4aad203e5a289859a5d1
小沢は民主主義政治家
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/15018de5306aeb659f9d77a10bec998b
国家権力に対峙する方法について考える
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/92071e9d212d3fef66c7e339622463b6
気づくと他にも似たような内容のエントリをたくさん書いてしまっているのでまとめなきゃですね・・
「国体」とは「國體」のことでありますが、簡略的に「国体」とします。
※
後日、内田樹氏の「日本辺境論」を基に「国体」というキーワードを使って、私的日本論を展開したいと思います。
日本辺境論を読んでみて、やっぱり彼とは考え方が似ていると再確認したのでした。
今回は単に当Blogの方がより深くこの問題を捉えているよという宣伝です。
小沢vs検察 「国体」との最終戦争の行方(カトラー:katolerのマーケティング言論)
http://katoler.cocolog-nifty.com/marketing/2010/01/post-33e3.html
国家とは本来人間が作りだしたシステムであるから、為政者の権力意志を表現している。しかし、日本にあっては、それは天皇を頂点とする「国体」という曖昧な言葉で覆われ、誰が権力者なのか、顔の「見えない構造になっている。この「顔の無い統治構造」こそが「国体」の本質であり、日本の高級官僚たちは、その「国体」の一部を担っているという自覚があるから、強烈な使命感とエリート意識を持ってきた。
敗戦によってこの国の全てが灰燼に帰したが、マッカーサーの下で制定された平和憲法では象徴天皇制がとられたために、こうした統治構造とエリート官僚達の意識構造は、戦後になっても基本的には変わることがなかった。米国の占領に当初は怯えていた官僚たちも米国と手を結びさえすれば、「国体」の構造は温存されることを理解して、親米国体主義ともいえる戦後の奇妙な官僚至上主義が形成されていった。
[中略]
自民党による55年体制が、昨年の夏に終焉したのと同様に、外交、経済、それぞれの政治局面で、パラダイムが変わったことをメッセージとして出し続けることができれば、この陣取り合戦にも、ぎりぎりの所で勝てると小沢はふんでいるのではないか。
とすれば、壊し屋、小沢一郎が、政治家として最後の目標に据えているのは、実は、顔の無い統治構造「国体」そのものを壊すことかもしれない。
国体が壊れる時、この国は、千々に乱れて崩壊してしまうのか、それとも成るようにしかならないのか、その答えはまだ見えていない。
「国体」は絶対に負けません。
なぜなら「国体」に実態はないし、そもそも「国体」が何かは誰にもわかっていないからです。
「国体」が何かがわかっていないのだから、「国体」を倒すことができようはずがありません。
「国体」とは、その場に参加している人間達の間に漫然とある空気が生んだ感覚で、掴もうとしても誰にも掴めないのです。
では、当Blogで繰返し主張する「小沢の目的は日本の民主化」とは何でしょうか。
それは、新しい「空気」を作り上げることです。
これが「今でも日本は民主主義国家じゃん。」という反論に対する私からの回答です。
私のように「日本の民主化が必要だ。」という人の問題意識には、民主主義というものが民主主義制度のうえによって立つものではないという考えがあるのです。
民主主義制度を採用するから民主主義国家だというのではなく、その場にいる国民が民主主義を理解することによって初めて民主主義国家になれるという意味です。
形式論を述べているのではありません。
私が述べるように、もし日本における民主主義がうまく機能していないのだとしたら、民主主義制度を採用しているのに、その民主主義制度がうまく機能していない原因がどこかにあるはずです。
その原因は何でしょうか。
私は「空気」だと考えています。
その「空気」を変えるために必要なものが、何度も繰り返すように社会のダイナミズムです。
だから、社会の柔軟性を失わせ「空気」を固定化する阻害要因を排除しようとする小沢の志に私は賛同するのです。
このことについては、今後も議論してきたいと思います。
「犯罪行為を権力闘争への置き換えるという論理のすり替え」というような批判をする人がいるのですが、私にそのつもりはありません。
単純に小沢批判が稚拙すぎることへの批判です。
興味のある方は最近アップした下記3エントリをご覧ください。
小沢バッシングに思うこの国のかたち
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/5d4f9e273e8a4aad203e5a289859a5d1
小沢は民主主義政治家
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/15018de5306aeb659f9d77a10bec998b
国家権力に対峙する方法について考える
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/92071e9d212d3fef66c7e339622463b6
気づくと他にも似たような内容のエントリをたくさん書いてしまっているのでまとめなきゃですね・・