すごい重たいテーマですが内容を見てがっかりした方おりましたらすみません。
内田樹。
私は自分勝手かつ一方的に彼と考え方が似ていると思っている。
彼の経済に関する認識はトンチンカンだから出てくる結論は異なる場合が多いが、問題意識は似たようなところにある。
そんな彼の今日のブログは秀逸である。(しかし相変わらず結論は異なる)
これを読んで書いてあることをさっと理解できるなら、当Blogの主張の真髄を理解したということである。
少なくても当Blogのスピリチュアル・シリーズで表現しようとしたことがあまりにもさらっと書いてある。
「なんだそんなものか。」と思われた方はもう当Blogを読む価値がないのかもしれない。
なぜなら、当分これ以上の結論は出てこないからだ。
(どうしよう・・やっぱ政治あたりをメインにやってくしかないかなぁ)
長くなるが持論を交えてコピペしていく。
そんなことを訊かれても(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2010/01/08_1532.php
仕事始めに取材がふたつ。
太田出版の『atプラス』という雑誌と、『週刊プレイボーイ』。
媒体は違うが、たぶんどちらも対象としている読者の世代は同じくらい。
20代後半から30代、いわゆる「ロスジェネ」世代とそれよりちょと下のみなさんである。
生きる方向が見えないで困惑している若い諸君に指南力のあるメッセージを、というご依頼である。
『atプラス』の方はかなり学術的な媒体なので、「交換経済から贈与経済へ」という大ネタでお話しをする。
「クレヴァーな交換者から、ファンタスティックな贈与者へ」という自己形成モデルのおおきなシフトが始まっているという大嘘をつく。
もちろん、そのようなシフトは局所的には始まっている。
けれども、まだまだ顕微鏡的レベルの現象である。
それを「趨勢」たらしめるためには、「これがトレンディでっせ」という予言的な法螺を吹かねばならぬのである。
めんどうだが、そういう仕事を電通や博報堂に任せるわけにはゆかないので、私がボランティアでやっているのである。
まず、私はなぜ彼が「交換経済から贈与経済へ」と結論に至るのかはわからない。
言葉の問題として、つまり意図を伝えやすくするために「贈与」という言葉を使っているのであれば納得できるが、真なる意味で「贈与経済へ」などと言っているのだとすれば、これはかなりトンチンカンな意見と言わざるを得ない。
もしそうだとすれば「交換経済」の定義が狭すぎる。
いや、彼のことだから恣意的に、現資本主義を意図的に貶めるために「交換経済」というラベリングをし、資本主義に置き換わるものを「贈与経済」と言う形で浮かび上がらせているに違いない。
これはかなり作為的な表現である。
そもそも真なる意味での「贈与」というものが成立するのかという疑問が浮かぶ。
たとえば「無償の愛」などというものが成立するかどうかと同じ問題だ。
(これは論点のすりかえか?そのつもりはない)
スピリチュアルな分野ではこの言葉はよく使われるので、多くの人は誤解しているであろうが、この言葉はあくまでも方便であって真実を述べているのではない。
本物のスピリチュアリストが「無償の愛」と口にする時は、これは人間の知性でわかりやすいように言葉にしているだけで、真なる意味での「無償の愛」は存在しない。
「母親の子供に対する愛情のように」などというが、そんなものはマヤカシだ。
「であるなら、なぜ母親は自分の子供にしか愛情を提供できないのだ。それはその愛情が無償の愛などではないからだ」と私なら答えるだろう。
子供がいなければ母親の愛情が存在しないのであるから、子供がいることによって初めて愛情が存在できる。
これがどのような意味で「無償の愛」に昇華できるというのか。
完全に条件付の愛ではないか。
中にはこう反論する人がいるだろう。
「マザー・テレサのように誰にでも分け隔てない人もいる。」と。
だからそれは、誰かがいないと成立しない愛なのである。
誰かがいることによって成立する愛なのだとしたら、その愛の発生は条件にまみれてるのだ。
そうするとこう反論する人がいるであろう。
「それは人間だから不完全なのであって、神の完全なる愛は違う。」と。
なるほど。それはあるかもしれない。
だが、経済は人間社会を暗黙的に前提としているのだから、神の愛では経済は成り立たないのである。
するとこう反論する人がいるであろう。
「ちがう。人間は神の子だから可能性はあるんだ。」と言われるかもしれない。
多分こういう人は初めから議論する気がない。
人間が神になる可能性はある。それは認めよう。
だが、人間が神になった時、経済はあるのだろうか。
あると言われるのかもしれないが、私はないと思う。
経済が必要なのは人間社会もしくは神ではない下等生物社会だからなのではないか。
神の世界にも経済があるのだろうか。
完璧なのに経済が?
そんなバカな。
話が脱線したので戻す。(しかしこのネタは脱線しまくることになるであろう)
私は人間が「無償の愛」を実現することは不可能だと思っている。
同様に「贈与経済」なんてことは有り得ないとも思っている。
つまり、人間社会における全ては「贈与の形をした交換経済」でしか有り得ない。
だから、内田樹の主張する「贈与経済」などというものは「交換経済」の言い回し方の問題だ。
そういう意味で私は「贈与経済」は新しい「交換経済」のコンセプトなのだろうと考えている。
そういうことだから、いらぬ批判を受けたり議論が混乱することを避けるために、彼は言い回しを変えた方がいい。
「クレヴァーな交換者から、ファンタスティックな贈与者へ」
を
「クレヴァーな交換者から、ファンタスティックな交換者へ」
とするか、または
「クレヴァーな交換者から、よりクレヴァーな交換者へ」
が適切と思われる。
よし、次へ行く。
資本主義は口が裂けても「共同体の再構築」ということは提言できない。
もちろん、消費者たちに最低限の消費活動を担保することと、人口の再生産のために「核家族」くらいまでは許容範囲だが、それ以上のスケールの共同体ができてしまうと(親族であれ、地域共同体であれ、「疑似家族的」集団であれ)、消費行動はたちまち鈍化してしまう。
経済学者がさっぱり言わないので、私が代わりに申し上げるが、そういうことなのである。
共同体に帰属していれば、耐久消費財のほとんどは「買わずに済む」からである。
誰かが持ってれば「貸して」で済む。
お金もうそうだ。
誰かが持っていれば「貸して」で済む。
銀行もサラ金も要らない。
金融商品もさっぱり売れない。
だって、それは「博打」だからだ。
「みんなの財布」を持ち出して鉄火場で博打をしようと思うんですけど・・・という提案が共同体内部で合意を獲得することはきわめて困難である。
「やるなら自分の手銭の100円玉使ってやれよ」という話である。
経済的に互恵的・互助的な共同体を形成すると、資本主義的な消費活動は一気に鈍化する。
だから、後期資本主義は久しく全力を尽くして「共同体形成」に反対してきたのである。
「資本主義は口が裂けても「共同体の再構築」ということは提言できない。」ということはないだろう。
おそらく彼の頭の中では「資本主義者」がいわゆる「新自由主義者」に近いイメージで形付けられているのであろう。
しかし、私が知る限り完全自由競争を指向する専門家はいない。
一部カルト的な信者はいるが、「共同体の再構築」を全面否定するなどというのは一般的には受け入れがたい考え方だ。
資本主義者が反対してきたのは、共同体が形成されて、それが利害関係の調整において強い影響を持つと調整機能が鈍ることであって、決して共同体形成に反対してきたのではない。
軸が違う。
「安心」や「公平」という人間の感情が経済活動において重要な要因となることは認知されているし、それが共同体形成であっても特段問題がない。
資本主義者は、利害調整や配分機能において一部の利権が優先される市場の歪みを嫌っただけである。
市場の調整機能が損なわれると、結局みんなが損するだけなので、全体最適の観点から、市場の歪みを極力排除しようと言っているだけに過ぎない。
「共同体形成は必ず利権を生み出すもの」だというのなら、共同体形成が市場の調整機能を歪めることが必然であるから、資本主義者が共同体形成を嫌うという論理ならわかる。
しかし、この議論は少し強引だ。
まず「嫌う」と「否定する」は似てるが違う。
また、共同体形成が必ず利権を生み出すのだとすると、その共同体はある目的(利益)を持った集団であり、その成立動機からして「贈与」から遠いものなのではないか。
結局、共同体間では「交換経済」がなされなければならず、「贈与経済」は成り立たない。
「贈与経済」が機能するためには、十分に、むしろ地球で一つくらいに規模が大きくならなければならないが、そういうことを意味しているのだろうか。
第1部から飛ばしすぎて読者の方は読みにくくて仕方がないのかもしれないがご了承いただきたい。
のっけから内田樹批判を激しくしてきたが、決して彼の言ってることが理解できないわけではない。
誰も言わないから私がタネを明かそう。
彼の言っているのは「あの世」のお話なのです。(「あの」ってどれだ?)
「あの世」は「生きる」必要がない。
生きる必要がないというのは「何かを必要とすることがない。」という意味だ。
これをイメージするには相当な想像力が必要かもしれない。
必要とする必要がなければ交換する必要がない。
交換する必要がないということは、経済が必要ないのだ。
これは画期的である。
「あの世」では経済が必要ないのだ。
それを「この世」に適用しようというコンセプトは理解できるが、納得できない。
物質的世界で生きるのに様々な条件がついてまわる「この世」に「あの世」の作法を適用しようというお話自体が無理なのである。
でもほら、そう考えると内田樹の主張がよくわかるじゃないか。
第2部へ続く。
内田樹。
私は自分勝手かつ一方的に彼と考え方が似ていると思っている。
彼の経済に関する認識はトンチンカンだから出てくる結論は異なる場合が多いが、問題意識は似たようなところにある。
そんな彼の今日のブログは秀逸である。(しかし相変わらず結論は異なる)
これを読んで書いてあることをさっと理解できるなら、当Blogの主張の真髄を理解したということである。
少なくても当Blogのスピリチュアル・シリーズで表現しようとしたことがあまりにもさらっと書いてある。
「なんだそんなものか。」と思われた方はもう当Blogを読む価値がないのかもしれない。
なぜなら、当分これ以上の結論は出てこないからだ。
(どうしよう・・やっぱ政治あたりをメインにやってくしかないかなぁ)
長くなるが持論を交えてコピペしていく。
そんなことを訊かれても(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2010/01/08_1532.php
仕事始めに取材がふたつ。
太田出版の『atプラス』という雑誌と、『週刊プレイボーイ』。
媒体は違うが、たぶんどちらも対象としている読者の世代は同じくらい。
20代後半から30代、いわゆる「ロスジェネ」世代とそれよりちょと下のみなさんである。
生きる方向が見えないで困惑している若い諸君に指南力のあるメッセージを、というご依頼である。
『atプラス』の方はかなり学術的な媒体なので、「交換経済から贈与経済へ」という大ネタでお話しをする。
「クレヴァーな交換者から、ファンタスティックな贈与者へ」という自己形成モデルのおおきなシフトが始まっているという大嘘をつく。
もちろん、そのようなシフトは局所的には始まっている。
けれども、まだまだ顕微鏡的レベルの現象である。
それを「趨勢」たらしめるためには、「これがトレンディでっせ」という予言的な法螺を吹かねばならぬのである。
めんどうだが、そういう仕事を電通や博報堂に任せるわけにはゆかないので、私がボランティアでやっているのである。
まず、私はなぜ彼が「交換経済から贈与経済へ」と結論に至るのかはわからない。
言葉の問題として、つまり意図を伝えやすくするために「贈与」という言葉を使っているのであれば納得できるが、真なる意味で「贈与経済へ」などと言っているのだとすれば、これはかなりトンチンカンな意見と言わざるを得ない。
もしそうだとすれば「交換経済」の定義が狭すぎる。
いや、彼のことだから恣意的に、現資本主義を意図的に貶めるために「交換経済」というラベリングをし、資本主義に置き換わるものを「贈与経済」と言う形で浮かび上がらせているに違いない。
これはかなり作為的な表現である。
そもそも真なる意味での「贈与」というものが成立するのかという疑問が浮かぶ。
たとえば「無償の愛」などというものが成立するかどうかと同じ問題だ。
(これは論点のすりかえか?そのつもりはない)
スピリチュアルな分野ではこの言葉はよく使われるので、多くの人は誤解しているであろうが、この言葉はあくまでも方便であって真実を述べているのではない。
本物のスピリチュアリストが「無償の愛」と口にする時は、これは人間の知性でわかりやすいように言葉にしているだけで、真なる意味での「無償の愛」は存在しない。
「母親の子供に対する愛情のように」などというが、そんなものはマヤカシだ。
「であるなら、なぜ母親は自分の子供にしか愛情を提供できないのだ。それはその愛情が無償の愛などではないからだ」と私なら答えるだろう。
子供がいなければ母親の愛情が存在しないのであるから、子供がいることによって初めて愛情が存在できる。
これがどのような意味で「無償の愛」に昇華できるというのか。
完全に条件付の愛ではないか。
中にはこう反論する人がいるだろう。
「マザー・テレサのように誰にでも分け隔てない人もいる。」と。
だからそれは、誰かがいないと成立しない愛なのである。
誰かがいることによって成立する愛なのだとしたら、その愛の発生は条件にまみれてるのだ。
そうするとこう反論する人がいるであろう。
「それは人間だから不完全なのであって、神の完全なる愛は違う。」と。
なるほど。それはあるかもしれない。
だが、経済は人間社会を暗黙的に前提としているのだから、神の愛では経済は成り立たないのである。
するとこう反論する人がいるであろう。
「ちがう。人間は神の子だから可能性はあるんだ。」と言われるかもしれない。
多分こういう人は初めから議論する気がない。
人間が神になる可能性はある。それは認めよう。
だが、人間が神になった時、経済はあるのだろうか。
あると言われるのかもしれないが、私はないと思う。
経済が必要なのは人間社会もしくは神ではない下等生物社会だからなのではないか。
神の世界にも経済があるのだろうか。
完璧なのに経済が?
そんなバカな。
話が脱線したので戻す。(しかしこのネタは脱線しまくることになるであろう)
私は人間が「無償の愛」を実現することは不可能だと思っている。
同様に「贈与経済」なんてことは有り得ないとも思っている。
つまり、人間社会における全ては「贈与の形をした交換経済」でしか有り得ない。
だから、内田樹の主張する「贈与経済」などというものは「交換経済」の言い回し方の問題だ。
そういう意味で私は「贈与経済」は新しい「交換経済」のコンセプトなのだろうと考えている。
そういうことだから、いらぬ批判を受けたり議論が混乱することを避けるために、彼は言い回しを変えた方がいい。
「クレヴァーな交換者から、ファンタスティックな贈与者へ」
を
「クレヴァーな交換者から、ファンタスティックな交換者へ」
とするか、または
「クレヴァーな交換者から、よりクレヴァーな交換者へ」
が適切と思われる。
よし、次へ行く。
資本主義は口が裂けても「共同体の再構築」ということは提言できない。
もちろん、消費者たちに最低限の消費活動を担保することと、人口の再生産のために「核家族」くらいまでは許容範囲だが、それ以上のスケールの共同体ができてしまうと(親族であれ、地域共同体であれ、「疑似家族的」集団であれ)、消費行動はたちまち鈍化してしまう。
経済学者がさっぱり言わないので、私が代わりに申し上げるが、そういうことなのである。
共同体に帰属していれば、耐久消費財のほとんどは「買わずに済む」からである。
誰かが持ってれば「貸して」で済む。
お金もうそうだ。
誰かが持っていれば「貸して」で済む。
銀行もサラ金も要らない。
金融商品もさっぱり売れない。
だって、それは「博打」だからだ。
「みんなの財布」を持ち出して鉄火場で博打をしようと思うんですけど・・・という提案が共同体内部で合意を獲得することはきわめて困難である。
「やるなら自分の手銭の100円玉使ってやれよ」という話である。
経済的に互恵的・互助的な共同体を形成すると、資本主義的な消費活動は一気に鈍化する。
だから、後期資本主義は久しく全力を尽くして「共同体形成」に反対してきたのである。
「資本主義は口が裂けても「共同体の再構築」ということは提言できない。」ということはないだろう。
おそらく彼の頭の中では「資本主義者」がいわゆる「新自由主義者」に近いイメージで形付けられているのであろう。
しかし、私が知る限り完全自由競争を指向する専門家はいない。
一部カルト的な信者はいるが、「共同体の再構築」を全面否定するなどというのは一般的には受け入れがたい考え方だ。
資本主義者が反対してきたのは、共同体が形成されて、それが利害関係の調整において強い影響を持つと調整機能が鈍ることであって、決して共同体形成に反対してきたのではない。
軸が違う。
「安心」や「公平」という人間の感情が経済活動において重要な要因となることは認知されているし、それが共同体形成であっても特段問題がない。
資本主義者は、利害調整や配分機能において一部の利権が優先される市場の歪みを嫌っただけである。
市場の調整機能が損なわれると、結局みんなが損するだけなので、全体最適の観点から、市場の歪みを極力排除しようと言っているだけに過ぎない。
「共同体形成は必ず利権を生み出すもの」だというのなら、共同体形成が市場の調整機能を歪めることが必然であるから、資本主義者が共同体形成を嫌うという論理ならわかる。
しかし、この議論は少し強引だ。
まず「嫌う」と「否定する」は似てるが違う。
また、共同体形成が必ず利権を生み出すのだとすると、その共同体はある目的(利益)を持った集団であり、その成立動機からして「贈与」から遠いものなのではないか。
結局、共同体間では「交換経済」がなされなければならず、「贈与経済」は成り立たない。
「贈与経済」が機能するためには、十分に、むしろ地球で一つくらいに規模が大きくならなければならないが、そういうことを意味しているのだろうか。
第1部から飛ばしすぎて読者の方は読みにくくて仕方がないのかもしれないがご了承いただきたい。
のっけから内田樹批判を激しくしてきたが、決して彼の言ってることが理解できないわけではない。
誰も言わないから私がタネを明かそう。
彼の言っているのは「あの世」のお話なのです。(「あの」ってどれだ?)
「あの世」は「生きる」必要がない。
生きる必要がないというのは「何かを必要とすることがない。」という意味だ。
これをイメージするには相当な想像力が必要かもしれない。
必要とする必要がなければ交換する必要がない。
交換する必要がないということは、経済が必要ないのだ。
これは画期的である。
「あの世」では経済が必要ないのだ。
それを「この世」に適用しようというコンセプトは理解できるが、納得できない。
物質的世界で生きるのに様々な条件がついてまわる「この世」に「あの世」の作法を適用しようというお話自体が無理なのである。
でもほら、そう考えると内田樹の主張がよくわかるじゃないか。
第2部へ続く。