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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

「好き」になりたい人へ

2010-01-25 18:02:03 | 恋愛

初っ端から形而上学的といいますか観念的な話に終始しており、読み手の期待を裏切るものかもしれませんが、考えるところを書かせていただきます。


「彼女がいない」より、「惚れない」ことのほうが深刻なのでは?(シロクマの屑籠(汎適所属))
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20080908/p1


“恋の毒”が頭に回って、寝ても醒めてもいられない心境になることがない・なれないことのほうが余程でっかい問題で、恋が恋として熱情を帯びて始まらないということこそが、問題として最も重要かつシビアなのではないか、と僕は思う。異性が周りにいないというなら出会いの場が必要だろうけど、そうでない場合、本気で異性の誰かを好きになって、その人に自分がどうコミットしていくのかを真剣に思い悩む、というパトスが湧き出る湧き出ないのほうが、「彼女を作るための10のtips」などといった小細工的問題よりよほどクリティカルではないか。


「深刻」かどうかは別問題として横に置くとしても、確かに「人を好きにならない。」ということの方がより本質的な問いだと思います。
ただ、私はそれが(良くないという意味での)問題だとは思っていません。
「問題」だというためには、その事象によって受ける影響が損失だと言わねばならないからです。

別に「人を好きになるならない」なんてことはどうでもいいことですが、ただ、その理由を問うことは、そのことについて悩む人には処方箋となるかもしれません。
なぜ「人を好きになれる人」と「好きになれない人」がいるのでしょうか。
今日はそのことについて考えて行きたいと思います。

まず、初めに言っておくと、私は「人を好きになれる人」です。
いや、こんなことを書くと「不健全な人」と思われるかもしれません。
たいてい社会的道徳の中には「貞操観念」というものがあって、恋多き人は嫌われます。
「1人の人をずっと愛し続けること」を是とする文化もあります。

しかし、私は「人を好きになる。」のは生物として健全な能力の一つだと思っています。
(健全ってことはその逆の能力もあるの?いや、ない。単にニュアンスの問題。)
とりわけ、人間におけるこの能力は知性のある部分と強い関連があります。
個人的な意見を言わせてもらえば、人を好きになることができない人は、ある能力が低いことを示しています。


人と人との結びつきにおける重要な本能的な要因として「免疫関係」などがあると言われていますが、私はその考えに否定的です。
もちろん、無視できるかどうかについては議論がありますが、私は人が人を好きになるというのはもっと精神的なところに依存した問題であると考えています。

その能力とは「想像力」です。

「想像力」に欠ける人は「人を好きになること」はできないし、仮に性欲的充足や社会的地位のために一時的な関係を構築することはできても長続きはしません。


ここでいう「関係」とは実質的な関係であり、名目的な関係ではありません。
実質的関係がなくても名目的な関係、例えば夫婦関係を継続することは可能です。

なぜ「想像力」が「人を好きになること」と関係があるのでしょうか。

答えは簡単です。

「人を好きになること」とは、「知りたいと思うこと」に他ならないからです。
(これは当Blogの主張である「全ての欲求の源泉は知的好奇心である」と同じ意味)

想像してみましょう。
人でなくてもいいです。
あなたが好きな人、モノについて感じているものと、好きでない人、モノについて感じているものと何が違いますか。

あなたの横を好きな人が通ったらあなたはその姿を見ようとするでしょう。
隣り合った時に恐くて見れないかもしれませんが、あなたは見たいと思っているはずです。
夜寝る前に、あの人は何をしているのだろうと気になりませんか。
あなたが好きなバンドについて、あなたが好きな人はどう思うか気になりませんか。
あるレストランで美味しいメニューを見つけたら、一緒に来て相手の反応を見たいと思いませんか。
あなたが感動した話を、好きな人に話して反応を見たいと思いませんか。
あなたの考えを相手と共有したいと思い、共有できるか確かめたいと思いませんか。

あなたが人を好きになるとき、相手のことをもっと知りたいと思っているのではないでしょうか。

将棋でもスキューバダイビングでもいい。
あなたが趣味に没頭するとき、もっとそのことについて知りたいと思うし、もっといろんな世界を見たいと思うのではありませんか。
競技大会で優勝したいのも、優勝するとはどういうことか知りたいと思うからではありませんか。

こういう反論があるかもしれません。

「それは、人を好きになるから知りたいと思うのではないか。」と。

なるほど。確かに、人は自分が恋に落ちるというその瞬間についてよくわかりません。
原因と結果を取り違えることはままあります。
しかし、ここで答えを出しておきましょう。

人を知りたいと思うその瞬間に、あなたはその人を好きになるのです。
つまり、知りたいと思うことが、好きになるということなのです。
好きだから知りたいのではありません。
知りたいから好きなのです。

逆に言えば、あの人のことを好きではなくなったからもう興味がないのではありません。
あの人のことをもう知りたいと思わなくなったから好きではなくなったのです。

あったその瞬間にその人のことをもっと知りたいと思うかもしれません。
知りたくて知りたくて仕方がなくなる。
例えば、あなたは一生懸命努力してその人と付き合うことになったとします。
しかし、3年くらい経ってあなたは倦怠期を迎えました。
この3年の間に、知りたいことが尽きたのです。
お互いの趣味、考え方、相手のしぐさ、当初はあれだけ心を惹きつけたことなのに、あなたは興味をもてなくなります。

マザーテレサもこう言いました。
「愛の反対は無関心だ。」と。

ある学問ではこう教えます。

人類が生物学的進化の上で、子供をつくり、産み、育てるのに夫婦の関係が維持されなければならなかった時間は3,4年程度だから、ドーパミンが3,4年で効果を失い、恋はその時間軸で終わってしまう。
生物学的にみれば、種の保存のため、雄はさらに新しい雌を求めさまよう。

なかなか説得力のある説明ですが、私はこの考えは原因と結果を取り違えていると考えています。
(この話に反証可能性があるわけではありませんので、信じるかどうかは読み手に任されております。)
「知りたいと思う」仕組みが「生きる」ということなのであって、「生きる」から「知りたいと思う」のではないのです。
(機能不全のエロとかをどう説明するかだね。)


「恋愛への飽き」の問題をどう乗越えるかについて、回答になっているつもりです。

だいぶ深みにはまってまいりました。
ここでは深入りせず、話を元に戻します。

もし、私が主張するように「知りたいと思う」ことが「好きになる」ことだとするならば、「知りたい」と思えれば人を「好きになれる」ということです。
では「知りたい」と思うとはどういうことでしょうか。

実は「知りたい」というのは受身な行為ではありません。
「知りたい」とは知的かつ積極的な行為です。

例えば、目の前で何かの事象が発生します。
それを見て、あなたは知りたいと思うのでしょうか。
違います。
あなたは見た、感じたものについて「これはどういうことなのだろうか。」「もしかしてこういうことだろうか。」ということを思考します。
「知りたい」というのは、ある事象の裏にあるロジックや背景、もしくは自分の予測との整合性を確認する行為なのです。
これは受身ではなく、積極的な知的関与があって初めて成立するものなのです。

私はそれをここでは「想像力」ということにします。

だから、あなたが博識であればあるほど、いろんなものについて興味を持つでしょう。
逆にあなたが無知なら、目の前で起きたことに関心を持たないかもしれません。
その事象について思うところがないからです。

ようやく本題です。

目の前に異性がいて、興味を持つか持たないか。
もしくは、異性を求めて行動に移すかうつさないか。
それは、あなたのその時に持っている知識や想像力に強い影響力を受けるのです。

想像力が低い場合、あなたは人を好きにならないでしょう。
その場合、単に異性は経済的、性欲的、社会的な価値としてしか評価されないでしょう。

好きになりたかったら「知りたい」と思うこと。
そのために知識を持つというのもテクニックとしては有効です。


人を好きになるというのは、経済的、性欲的、社会的な価値を一つメタ視点でみた「知性的な価値」だという評価を私はしています。

ただし、自分の想像力を発揮させるための機会が異性にはないと自覚しているなら、それは想像力の欠如を示しているのではないので、全く問題ないのです。
ちなみに、私は妄想族で、「想像」と「創造」の区別もついておりません(笑)


本エントリでは「人を好きになる。」ということがどういうことか、話の単純化のために全く定義してません。


では、「知りたい」と思うためにはどうすればいいの?という問いがあると思います。
でもこの問いはもっと高度で、実は「知りたい」というのは人間の意識の中で何層にも重なっていて、解釈によっては跡付けで「知りたい」と思っているだけに過ぎないと言うこともできたりするのです。
自覚的に感じている「知りたい」だけでは説明し尽くせないので、また後日説明したいと思います。

恋愛ブログ宣言

2010-01-25 15:19:55 | 恋愛
最近は「小沢ネタ」「政治思想ネタ」をヘビーローテーションしましたので、今週は少し趣向を変えていこうと思います。
今週はブログ開設当初にメインに据えようと思っていた「恋愛ネタ」をメインで行こうと思います。

小沢ヘビーローテーションは流石にやり過ぎかと思っていたのですが、案外好評を頂いて驚いております。
できれば感想や雑感などもコメントしていただけると嬉しいです。
もちろん、反論やご指摘いただけるのも勉強のため大変助かります。
当Blogはエントリに関連する限り、コメント・トラックバックをフリーで運用しております。


私は、私のキャラクター上これまで数多くの人生や恋愛などについて相談を受けてきました。
(男女問わず、特に女性の方が多かったのですが。)
「恋愛相談」というと何か甘酸っぱい感じもしてきそうなワードでありますが、しかし時に大変に厳しいものです。
普段、政治や経済、社会情勢などばかりに注視している人にとっては他愛もないトピックスかもしれませんが、多くの人達にとって「恋愛」というのは人生の中で大変なウェートを占めるファクターです。
(例えば殺人などの犯罪における最大の要因は「男と女の問題」です。)
その人の人生を豊かにも狂わせもする計り知れないパワーを持っており、実際、私が見てきたところ「恋愛」は人間を変え得る最大の力を持っていると考えます。
しかも強烈な力(「魔力」といってもいい)を持つ「恋愛」には答えがありません。
そんな恋愛相談を受けるのは、往々にしてその人の人生の悩みを抱え込むようなものです。
相談相手との距離感に気をつけないと、答えのない底なしの泥沼にはまり、こちらが傷つき倒れます。
時には激しい討論も起きますし、修羅場と呼ばれる惨劇もあります。
私自身、そういう修羅場を体験してきましたが、本当に「恋愛」は人を人徳者にもするし殺人者にもするのです。

少しネガティブな話が続いたので、ポジティブな話もしましょう。
「恋愛」には良い面が多くあります。
「恋愛」がなければ、我々を魅了する小説も音楽も、多くの文化的な芸術も生まれなかったでしょう。
我々の住む世界はもっと退廃的なものであったかもしれません。
「恋愛」で我々が持つ願望が、多くのイノベーションを生んできました。
「会いたい」「伝えたい」「わかりたい」という気持ちが、どれだけ時空間を縮める技術開発に発展してきたことでしょうか。
「恋愛」は、我々に生きるという喜びを噛み締める機会も提供してくれます。
小さな幸せへの気づき、自分らしさというアイデンティティ、恋人や家族との関係を育む喜び、恋愛が私達に与えてくれるメリットを考えたらキリがありません。

これほど我々の世界に強い影響力を持つ「恋愛」。
「恋愛」をテーマに何も語れないわけがありません。
「恋愛」という切り口にすれば、社会の様々な問題が見てくるはずです。


「恋愛」というワードに馴染まない方は、ジョージ・アーサー・アカロフ風に「アニマル・スピリッツ」と言ってもいいかもしれない。

当Blogでは私自身の知識と経験から、恋愛関連の様々なテーマについての個人的な考えを、今後Blogで述べていきたいと思います。
質問などは随時受付けております。

戦略は細部に宿る

2010-01-25 12:31:47 | ビジネス
考えさせられる。

http://twitter.com/tatsurot/status/8142408986


JALとANAの両社に、マイルをハイチに寄付したいと要望を送ってみた。
JALの回答:「そのようなサービスはございません」、
ANAの回答:「過去にもお客様ご要望で四川大地震などで臨時対応したことがあり、早速担当部署に検討させます」。
ユーザーと向き合う姿勢がまるで違う。


他の部分を見ずして、ここだけ見て全ての判断するのは早計だ。
なので、本エントリでは、この2社の対応の違いが何を表しているかだけ私見を述べたい。

この違いは、「組織的な体制」の違い。

JALが「個人に与えられた個人の立場」でサービス対応しているのに対して、ANAが「個人に与えられた組織の立場」でサービス対応しているのである。
JALの担当者に問いただしても「権限がない。」「マニュアルに書いていない。」「ずっとこれでやってきた。」「言ったところで組織が変わらない。」などと言われるだけだ。

「マニュアルの違い」だけと指摘する人もいるだろう。
「カスタマーサービスのマニュアルがANAの方が作りこまれているだけに過ぎない。」と。
そうかもしれないが、それでも組織的な違いがある。

マニュアルがどういう観点に基づいて作られているか、
マニュアルがどういうサービス対応者を想定して作られているか、
ということだ。

要は「組織的な観点から見て、どうするのが最適なのだろうか。」という問いについて組織的な答えを用意している組織と、そうでない組織では、現場レベルの細部で差異が表れる。
何か問題が起きたときの対応方法についてどう対応するか、その時の行動原理をどう組織として定義できているかである。

JALの社員は悔しがるだろう。
個人レベルでは努力をしているからだ。
(だから個人を責めても仕方がない。これには官僚批判においても同じだ。)
それが結果に結びつかないのは、組織的な働きが弱いからである。
努力の方向性(戦略)が皆バラバラで、統合されていないから、個別局面ではうまくいっても、全体として期待した結果に結びつかない。

往々にして日本の組織では、どういう組織的な仕組みがあれば「一人ひとりの能力を引き出して、そしてそれを組織的な力に昇華できるのか」について、戦略的思考が欠けている。
この原因は、意思決定における最大の決定要因が「人的関係」であるからだ。

この組織論的論考については後日述べたいと思う。