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民主党の「第3の道」の考え方 (改訂版) 第三部

2010-01-18 15:49:09 | 政治
第一部第二部に続きまして、第三部です。

第一部では、政府による「産業政策」の有効性が低く、「競争政策」や「規制緩和」の有効性が高いことについて軽く触れました。
経済発展のためには、旧来の発想から抜け出ることの必要性を直感的に理解していただけると助かります。
第二部では、「規制を導入する難しさ」と「規制を緩和する難しさ」について触れました。
旧来の発想を批判する人達による主張は往々にして正しいこともあるのですが、人々にとって受け入れがたさも同時に持つことを直感的に理解していただけると助かります。
第三部では、ようやく本題の「第3の道」の考え方について触れます。


民主党の政策が旧来の産業政策の枠組みから抜け出せないでいること、規制緩和についての無理解でいることの批判内容について説明してきました。
では、民主党の成長戦略には希望はないのでしょうか。
正直いって現実に打ち出されている成長戦略には大きな期待をもてません。
批判者の指摘がほとんどの場合正しいと思います。
しかし、「第3の道」として主張されている「需要サイドの成長戦略」は決して間違っているものではありません。
これについては批判者の皆様が理解されていないことがありますので説明させていただきます。
(理解しないというより方法論が貧弱すぎて納得できないというべきでしょうか)

民主党が主張する「第3の道」は、「需要の喚起」による「内需の拡大」のことであり「消費の拡大」のことです。
GDPの6割を占める個人消費を拡大することで経済成長を促そうとする考え方です。
「需要を喚起する力は供給側が持つ」「所得を増やす効果が需要側にはない」という批判者のロジックはわかるのですが、ここでいう「需要の喚起」というのは、それとは少し意味が違います。
民主党の「第3の道」をよりよく理解するために、少し説明します。

この部分は話を単純化し過ぎと批判覚悟で書いています。

経済というのはサービスと対価の交換によって成り立っていますが、理論上「交換」は無限に行うことができます。
市場に流通する「マネー」の量が一定だとしても、交換自体は無限に行うことができるのです。
だから市場の実態として、流通している貨幣の量よりもマネーの量は多くなります。
もちろん交換するモノやサービスには資源などによって制限がかかるので、実際には無限というわけにはいきません。
また、逆にマネーの量を増やしたとしても市場で交換する必要性がなければ交換数を増やすことはできません。

これだけを踏まえると、国がマネーを一度発行してしまえば無限とまではいかなくてもマネーが市場を回りまわってみんな裕福になるのではないかと考えることができるかもしれません。
しかし、そういうわけにはいかないのです。
ここに登場するのが「需要」です。
先ほど、「マネーの量を増やしたとしても市場で交換する必要性がなければ交換数を増やすことはできません」と書きましたが、この「交換する必要性」というのが「需要」です。

私達人間は、欲しいモノがある(交換する必要性がある)時、自分が持っているマネーとモノを交換しようとしますが、欲しいモノがない時、自分の持っているマネーを将来のために取っておきます。
これが「貯蓄」です。
(欲しいモノがあるけど貯蓄する場合、もっと欲しいモノが他にあるのかもしれません。)
新興国のように開発途上にある国では、みんな欲しいモノばかりなので、みんなガムシャラにお金を使います。
先進国のようにモノで満たされてしまった国では、セレブ気分を味わったり、旅行したり、マネーゲームしたりとサービスにマネーが使われるようになります。

このとき、どのくらいマネーを供給すると、どのくらいマネーが回るかといったものを「乗数効果」と呼びます。
発展途上にある国では乗数効果が高くなるのは説明した通りです。
先進国ではモノで満たされているので、モノに関する乗数効果は必然的に低くなり、それでは経済の成長力が低下してしまうので、サービス分野の乗数効果が高くなければなりません。

しかし、ここで日本がぶち当たっている壁があります。
サービス分野というのは不景気に弱いのです。
人間、将来に向けての見通しが悪いとき、生きていくのにあまり重要ではないサービスなんかにお金を使うのをやめます。
そして、モノは溢れているのでモノを買うためにマネーを交換する必要がありません。
将来欲しくなるもののために「貯蓄」しようと考えます。

そうです。
将来に向けての見通しが悪いとき、つまり「不安」でいっぱいの時、マネーは貯蓄に回ります。
人々はせっかくマネーを持っていても、それを使おうとしないので、乗数効果は低下します。

最近(といってもこの手の議論は昔からありますが)、中央銀行がマネーを大量に発行すれば「貯蓄」する必要がなくなり、「不安」がいっぱいでも人々はマネーを使うのではないかという話題が流行いたしました。
しかしながら、この手法を実現することは非常にテクニカルで非現実的です。
まず、どの程度マネーを供給すればよいのか、誰にもわかりません。
「不安」で乗数効果が低下している状況下で、供給量が小さければ「貯蓄」に回って効果がないですし、供給量が大きければ逆に皆がマネーを使い過ぎてマネーの価値を低下させてしまいます。
マネーが大量供給される状況では誰もがマネーを大量に手に入れられるので、売り手は交換比率を変更します。
マネーの交換価値が低下して、交換されるモノの値段が上がるのです。
これが「インフレ」です。
(国を跨いで為替が暴落するリスクもあります。)

他にも、乗数効果が低下している時に、マネーを供給すると何が起こるかといいますと、交換したいものがありませんので金融商品と交換されるようになります。
乗数効果が低下しているとき、中央銀行は金利を下げてマネーを市中に引き出そうとしますので人々は「貯蓄」していてもまったく儲かりません。
ただ「貯蓄」してマネーを持っていてももったいないので、少しでも利益が得られるように金融商品に投資するのが一般的です。
(一律的に乗数効果が低い時と書いてますが、投資利益が低い時と同義語で考えてください。)
こうすると金融商品に紐づいている資産が高騰します。
「資産バブル」とか「資産インフレ」とよばれるものです。
(ちょうどいいマネー流通量に調整するのが中央銀行の重要な役割だと考えましょう)

話を戻します。
今、日本では「将来不安」に溢れています。
連日のように不正や不平等や不安を煽る情報が駆け巡っています。
こんな「不安」でいっぱいなのに「マネーを使え」という方が無理なのです。
人々は冬を越す動物のように縮こまり、リスクを取らずに状況が好転するのを待っています。

人々のマネー交換活動を活発化するためには、乗数効果を上げるしかありません。
乗数効果を上げるためには「不安」を払拭することです。


さて、まえおきが終わり、ようやく本題の本題です。

ここでようやく民主党の「第3の道」の登場です。

日本経済が落ち込んでいる病理、それは「不安」です。
誰もが「安心」を求め彷徨っています。

これまでの実績からして、政府は供給側の力を伸ばすことが苦手です。
供給側の成長は民間の力を伸ばすことによって実現するしかないのです。
あえてできることは規制改革、高度社会インフラ整備などです。

しかし!
他にも政府が主導してできることもあるのです。
日本社会を覆う「不安」を振りほどき、皆で「安心」を共有することができれば、需要側の意識を喚起できるかもしれません。
そうすれば日本に眠る潜在的マネーを引き出し、乗数効果を上げることができるのです。
供給と需要の両輪を回すことができるのです。



ここでは潜在力を引き出すのに「安心」が重要だと述べているのであって、それだけで経済が発展すると述べるものではありません。


と。
そのために何が必要でしょうか?

(実態よりも)人々に「安心して生活できる」ということが広く認知されることです。
これが民主党の「生活が第一」の理由なのだと考えてみてください。
民主党はバラマキを指向しているわけではなく、「安心」を認知してもらうことを指向していると。

では、安心して生活できるために何が必要でしょうか?

いわゆるセーフティネットの構築でしょう。

では、セーフティネットの構築のためには何が必要でしょうか?

・・・という議論をしていくことが重要です。

以上より、簡単ではありましたが、民主党の「第3の道」についての考え方を説明してきました。
(え?ここで終わり?とがっかりされた方すみません・・)
とてもコンセプチュアル(概念的)なお話ですが、このコンセプトを皆さんが認識することがまず大事です。
コンセプトが誤解されたまま批判されることが多々あるからです。

ここで述べたことを踏まえて、ようやく次の方法論の議論に着手できるのです。

さて、民主党の方法論を見ていくと・・・ん?

民主党の「第3の道」の考え方 (改訂版) 第二部

2010-01-18 12:09:57 | 政治
第一部に引き続き、第二部をお送りします。

第一部では、政府による「産業政策」の有効性が低く、「競争政策」や「規制緩和」の有効性が高いことについて軽く触れました。

では、彼らが主張する「競争政策」や「規制緩和」とはどういったものなのでしょうか。
少々極端なものですが、そのわかりやすい例が下記ブログで述べられています。

需要サイドの成長戦略とは?(藤沢数希)
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51642847.html


どうも民主党はこども手当などで家計の所得を増やしてやれば、需要が増えるので経済が成長すると思っているようで、そのことに関しては多数の評論家から批判されています。
僕も、そういう手当は、格差を是正するための政府の再分配の機能であって、成長戦略にはなり得ないと思っています。
というのも家計を増やすといっても、その財源は赤字国債の発行で、将来の税金の先食いですし、その先食いした税金以上に再分配された人が付加価値を創出するかといえば大いに疑問です。

しかし、需要サイドの成長戦略というのは、実は、日本経済には非常に重要だと思っています。

[中略]

本には売春業に対する男性側の需要は非常に高いのですが、このように規制されているし、また、そのような中でいちおう合法的に営業を行っているところも、サービスの質が非常に低い上に国際水準からかけ離れた価格になっているため、あまり利用されていないというのが実情ではないでしょうか。
需要があるところで、それを法律で規制しているのだから、そういったサービスを供給しているのは主に法律を破るのがお仕事の方々ということになります。
しかし、そういったブラック・マーケットの経済活動は、もちろん税収にはつながりませんし、やはり安価で質の高いサービスはどうしても過小供給になりがちです。
そこで、日本で吸収しきれない旺盛な需要は、海外で吸収されることになります
売春業を合法化し、観光政策の一環として積極的に推進している東南アジアの新興国に、日本の潜在的な需要がすべてうばわれてしまっているのです。

こういった状況を改善して、日本のGDPを成長させ、税収を増やし、きたるべき少子高齢化社会にそなえるにはどうすればいいでしょうか?
非常に簡単です。
売春を合法化すればいいのです。

[中略]

合法化することによって、ブラックマーケットの経済活動がすべて表に出てくるので、GDP統計にも反映されますし、もちろん国家の税収にもなります
さらに、就職氷河期で就職先がなくなってしまった女子の有望な雇用先にもなるので、若年層失業率の大幅な改善も期待できるでしょう。
日本の売春業は、一部の既得権益層を守るために、潜在的な需要が抑えつけられ、国民全体の利益が損なわれているいい例ですね。

潜在的に大きな需要があるのに、それがグローバリゼーションやIT革命についていけない規制によって、抑えられていることがたくさんありません。
また、そういった抑えられた需要にサービスを供給するのは、ブラック・マーケットやオフショア業者で、顧客は安心してサービスを受けられないし、国の税収にもならないのです。

[中略]

つまり、需要サイドの成長戦略とは、ひとことでいえば戦略的な規制緩和なのです
規制緩和をして、新たな需要をつくり出すのです。
規制をうまく取り除けば、需要がすぐに生まれる分野に、「医療」、「教育」、「介護」などがあります。
こういった分野は、政府の規制によってがんじがらめに縛られているため、ちょっと規制を緩和するだけで、大きな成長が期待できるでしょう。

ところが、規制によって守られている既得権益層の政治活動はかなり熾烈なものになるので、実際に意味のある規制緩和を実行するのはなかなかむずかしいのです。


「規制をかける」ということは、誰かの活動を抑制するということですから、国家が規制をかけることのできる場合というのは、その活動が国家や社会、または個人に対して損失を与える可能性がある場合に限られます

規制とは、誰かが利益を得ようとする行為を禁止したり抑制したりすることです。
つまり、規制をかけるということは、その人に損失を与える(利益を得ることを禁止する)ことを意味します。
これを国家が正当化するためには、その規制によって得る損失回避という利益が、規制による損失を上回る必要があります
実態がどうかは置いておいて、少なくても名目的に上記の条件を満たしていることが表明されなければなりません。
でなければ、規制が不公平な利益誘導ということになってしまい、国民は規制を認めないでしょう。
古い言葉でいえば「大義名分」なしに国家権力を用いて規制をかけることはできないのです。



古い時代に見られた王や貴族などの一部の集団に利益を誘導することは現代において非常に難しくなっています。
なぜ現代において難しくなったのかといえば、国民の知的水準が上がったこと、情報公開が進んだこと、権威者と強制力が分離されたことなどがあります。
もちろん古い時代にも「大義名分」が重要視された時期はあります。
昔も今も人心の掌握こそが政策遂行効果の極大化における最も重要な要因である点は変わらないのです。
ゆえに賢い支配者は「大義名分」を重んじたのです。


では、なぜ今「規制緩和」が声高に叫ばれるのでしょうか。(今ではなくもうずっと前から)
必要があり、皆が納得したから規制がかけられたのにです。
それは、時代とともに国家や社会がおかれている環境が変化し、規制をかけていた対象の状況も変わるからです。



ここでよく置き忘れられる議論があるので注釈しておきます。
世論は時代とともに左に右にぶれます。
何かが加熱すれば規制強化論が強くなりますし、その逆の状況では規制緩和論が強くなります。
その分野の専門家同士の議論においては各種具体的項目毎に比較的論理的に規制の是非が論じられるのに対し、一般的な世論は情緒的反応を強く示す傾向があります。(マスコミの影響もあるでしょう)
規制緩和論者が声を上げると必ずそれに総論として反発する勢力が出ますし、逆に規制強化論者が声を上げると必ずそれに総論として反発する勢力が出ます。
時として、神学論争などといって揶揄される場合もあります。
しかし、これはとても非生産的な議論です。
なぜなら、人間が不完全である限り、いつの時代においても環境に合わせて規制はかけていくべきものですし、環境に合わせて規制を緩和していくものなのです。
議論の軸が「規制緩和派vs規制強化派」であっては永遠に適切な答えには辿り着けないでしょう。


時代が変われば、古くなり環境に合わなくなった規制は緩和する必要が出てきます。
しかし、規制を緩和するのは容易ではない場合がほとんどです。
ここに「規制」の難しさがあります

人間に限らず全てにおいて同様なのですが、我々は環境に適応する生き物です。
熱帯雨林を想像してみてください。
自然に自生していた熱帯雨林の中で観光名所になっていた杉が害虫によって弱っているとします。
そこで当局は害虫を駆除するためのシステムを熱帯雨林の中に建造しました。

何が起きるでしょうか?

当局の期待は害虫だけが駆除されて杉が力を取り戻すことです。
しかし、思惑通りに事が運ぶとは限りません
害虫を駆除すれば、その害虫が存在したことによって成立していた熱帯雨林の生態系が壊される可能性があるからです。
生態系の乱れが小さくおさまり、ほぼ期待通りの結果を得る可能性はありますが、下手をすると生態系を大きく乱し熱帯雨林の形そのものを変えてしまう可能性もあります。
そうすると期待結果であった杉を守ることすらできない可能性すらあります。
本当に杉を守りたいのであれば、害虫の発生要因は、そしてさらにその発生要因は・・・と研究していく必要があります。
そのどこかの時点で、生態系に与える影響を小さく抑えたまま杉を守れると判断できる対策が得られたら、それが目的に照らし合わせて最適な行為(規制)といえるでしょう。
(もちろん、事前的に最適でも事後的に誤りであることは往々にしてあります。)

また、一度対策を行ってしまうと、その対策に依存した生態系ができてしまうことに注意が必要です。
杉に栄養剤を打つと、杉は栄養剤なしには生きていけなくなる可能性があります。
熱帯雨林の中に人造物があれば、その周りをシダ植物がまとわりつき、そこに巣食う動物が出てきます。
動物にとっては安全で暖かくて、とてもよい住まいかもしれません。

ここで杉が元気を取り戻したので人造物を除去することに決めたとします。
その住まいを奪ってしまったらどうなるでしょうか。
(動物に心があるかは関係なく)動物達は可哀相でしょうね。

この熱帯雨林の話の前半部分で「規制を導入する難しさ」を、後半部分で「規制を緩和する難しさ」を表現したつもりです。
話を単純化し過ぎかもしれませんが、わかりやすい説明になったかと思います。


規制を導入する難しさとは、現代社会では利害関係が複雑に入り組んでいるため万人に通用する「大義名分」はほとんどの場合有り得ず(認識を共有することは難しく)、また利権化した政治の力で「大義名分」とは関係なく一部の集団へ利益誘導が行われることにあるのです。

(そのための情報操作も日常茶飯事です)


規制を緩和する難しさとは、規制により利益を受けていた人達が損失を受けるということであり、その損失の正当性が認められない限り緩和できないことにあるのです。




一部の方々はこの「規制緩和の難しさ」を重々承知しておいでなので、多少強引にでも一生懸命に思惑を予算に組込もうとします。
予算に組込まれる前には議論を分かつ問題でも、一度予算に組込まれると政治はその予算を削るのが容易ではなくなります。
その予算に助けられている人々が生まれるからです。
予算を削るということは、弱者を救うという政治の大義名分を著しく毀損してしまいます。
この場合「フレーズ」が必要です。
「改革」「痛みに耐えて~」のようなフレーズです。


「規制緩和」の有意性は万人が認めるところ(総論で賛成)でありますが、各集団や各個人が損失を被るとわかったとき、人々は反対に回る(各論反対する)のです。
絡み合った各要因を一つ一つ解きほぐし、万人が納得する「大義名分」を唱えることは非常に難しいことです。
あるとすれば、オバマ米大統領のように利害対立を止揚した理念を唱えることですが、理念を具体的政策に落とし込む際にはやはりこの問題にぶち当たるのです。

このとき、政治に求められるのは「決断」です。
「決断」とは「諦める」と同意です。
一部の利益をとり、一部の損失を諦める。
これが「決断」であり、人々が今政治に求めているものなのです。
誰に対しても好かれたいと思っているようでは「決断」することはできません。
現代の政治家に必要な能力とは「決断の正当性を説明する能力」です。


小泉内閣でいうところの「痛みに耐える」ということですね。
だが、やりかたを失敗すると小泉改革のように巻き返しに合うのです。

私はこれこれこういう理由でこういう決断をする。
ただし、これによって損失を受ける人達のことにも十分に配慮しなければならない。
みんなのためとはいえ、誰か1人に痛みを背負わせることがあってはいけない。
その痛みは皆で分け合うべきだし、そのために国家は努力しなければならない。
みなで強きを伸ばし、弱気を助ける。そのための国家である。
だから、こういう条件をつけて、こういう対応をします。
しかし、このことによって、我々はこんな明日を~~

という具合に。

民主党の「第3の道」の考え方 (改訂版) 第一部

2010-01-18 10:50:35 | 政治

ちょっとずるいですが、前回(2009/01/15)のエントリを分割して整理しなおします。
少し長すぎたため(gooブログの文字制限にひっかかってしまい)論点がよくわからないものになってしまった感がありました。
私自身がそうなのですが、長すぎるブログは読むのが大変で、そういうエントリが続くと読む気力を喪失してしまいます。
(1万文字というと400字詰め原稿用紙で25枚分ですね・・。タグをカウントに含むので実際にはそこまで長くないでしょうけれど。)
さすがに読む側も辛かろうということで整理し直すものです。


"民主党"の「第3の道」について少し誤解されている方々がいるので個人的見解を説明します。

民主党(というより菅直人氏?)が主張する新たなる「第3の道」について多くの批判がなされています。
民主党の政策が旧来の産業政策の枠組みから抜け出せないでいることや、規制緩和についての無理解さについて批判が集中しています
最近の幾つかのブログ・エントリから代表的な意見をかいつまんでみます。

民主「新成長戦略」のお粗末 産業政策なんかもうやめろ(高橋洋一)
http://www.j-cast.com/2010/01/14057771.html


なぜ民主党も自民党も政治家は成長戦略が好きなのか。簡単な成長戦略があれば、世界で貧困問題はとっくに解決しているだろう。つまり、成長戦略は容易に解が見つけられない難問なので、政治家が夢を与えられるからだ。そこに官僚が産業政策という名目でつけいり、政治家のほうにも選挙対策として個別産業・企業とパイプを持ちたいという心境が垣間見える

成長産業を見いだすという産業政策は、日本独特のモノだ。そんなによければ、とっくに世界中で流行しているはずだ。もちろん、環境、医療などの分野で、国の環境政策、医療政策までを否定するものでないが、国を挙げての産業育成には問題がある。国がある特定産業をターゲットにすると、結果として産業がダメになるというネガティブな話は多い。
日本の戦後成長の歴史を見ても、通産省(現経産省)がターゲットにした産業は、石油産業、航空機、宇宙産業などことごとく失敗している。逆に、通産省の産業政策に従わなかった自動車などは、世界との競争の荒波にもまれながら、日本のリーディング産業に成長してきている。竹内弘高教授(一橋大学)の研究でも、日本の20の成功産業についても政府の役割は皆無だったようだ。要するに、国に産業の将来を見極める眼力があればいいのだが、現実にはそんな魔法はない。必要なのは、国による選別ではなく、競争にもまれることだ。

[中略]

それでは、政府は一切関与できないかというと、そうでもない。例えば、競争政策や規制緩和は大いに結構だ。それに知的所有権などの法整備もいいだろう

[中略]

特定産業に対する産業政策を重ねることは不必要だ。冒頭に掲げた論考を書いた約20年前、産業政策の議論の時に、産業政策の正当性を主張する役人に対して、どうしても産業政策をやりたいなら自らがプレーヤーとなって行えばいい、といったことがある。そのときに彼らの反応から、産業政策は役人の失業対策になるかもしれないが、国民のための政策ではないと思った


社会インフラがよく整備された先進国における伝統的な公共事業が、単なる政府による所得の再分配に終わってしまい、ほとんど経済発展に寄与しないことは、これまでの日本の経験から確かのようです。
(なぜそうなってしまうかは後述します。)

そこで、民主党は「コンクリートから人へ」と掲げて昨年末に「新成長戦略」を打ち出したのですが、内容を見てみると自民党時代からつづく旧来型の産業政策思想に基づくものと批判されています。
(もちろん民主党はその批判について反論をしています。批判者からみて自民党と同じものに見えるのです。)
なぜ旧来型の産業政策政府が批判されるかといえば、政府が行う産業政策がほとんどまともに機能してこなかったという現実があるからです。
そればかりか、政府による産業政策が産業構造を歪めてしまい、労働資本の分配に悪影響を与え、結果として日本経済の力を削いでしまっているといわれています。

元財務官僚にて小泉・竹中改革のインサイダーとして活躍した"(官僚から見て)暗黒卿"こと高橋洋一氏の説明によると「自民党でも民主党でも経済政策を考えるのは結局のところ経産省だから」だそうです。


正月のテレビ番組で、自民党のある政治家は、民主党の成長戦略は自民党のものと内容が同じであると言っていた。そうだろう、元ネタは経産省の役人からであるから、民主党も自民党も内容は似たり寄ったりで、ポイントは、具体的な成長産業をターゲットに掲げ、その産業に各種の助成措置を行う「日本的産業政策」である。


ワイドショーとは違って「官僚の発想だからよくない」ということを皆さん言いたいのではありません
これまでの日本経済史を紐解く限り「 日本の戦後成長の歴史を見ても、通産省(現経産省)がターゲットにした産業は、石油産業、航空機、宇宙産業などことごとく失敗している。逆に、通産省の産業政策に従わなかった自動車などは、世界との競争の荒波にもまれながら、日本のリーディング産業に成長してきている。」といのが現実であり、これについて深く反省する必要があると識者は発信しているのです。
このことは経済の専門家以外にも、地方で活躍しているビジネスパーソンからも「補助金というシステムが地方の自立心を奪い、力を失わせている」といった声を聞くことができます。

では、彼らが主張する「競争政策」や「規制緩和」とはどういったものなのでしょうか。
第2部につづきます。