「新年あけましておめでとうございます。」
と言っておきながら、いつも思うのだが、今どき年が変わっておめでたいと思っている人はどれだけいるのだろうか。
むしろ、今はおめでたいどころか、嬉しくない人達の方が多いのではないだろうか。
様々な締切りに迫られる人、現状の苦しみが永続的に続くと感じている人、時の流れに漠然と不安にかられる人、などなど「迎えたくない未来を待つ人」にとって時の流れは冷酷なほど厳しい。
不確実極まる大自然によって生活が左右されてしまうような時代には、新たに迎える年における豊穣を願うことに疑問を差し挟む余地はなかった。
願うことしか人間にはできなかったからだ。
しかし、科学時術が発達した近代において人類は中途半端ながらも予見可能性を手にした。
より正確にいえば「予見可能性を保てる生活を支える技術を手にした。」といえるだろう。
明日のことがわからなかった時代、人々は明日を祈った。
今、この時代、人々は明日を否定する。
明日を祈ったりしない。
明日のことは、もうわかっているからだ。
(本当にわかっているかどうかに関わらず)
「決められた自分の人生を歩む絶望」を受け入れることを拒否する者達は後を絶たないが、「自分の考えの及ばないところに自分の明日があるという希望」に気づくものは少数で、そしてその証明は難しい。
私はよくこういう言葉に遭遇した。
(世を悟ったように言うのだ)
「人間は賢くなればなるほど不幸になる。」
確かに、「坂の上の雲」などを見るにつけ、明治時代の人間は昭和や平成時代の人間より明るく前向きだったのかもしれない。
(司馬史観が正しいのかは不明だが)
しかし、その理屈でいえば、それは弥生時代と明治時代の人間の間でも同じであったのではなかろうか。
であるならば、我々は猿になるべきか。
否、それは違う。
我々が「賢くなる」と考えるのは「山登り」と似ている。
登っている途中は先がどのようになっているのかわからない。
その未知さこそ、我々をかり出す。
5合目、8合目、頂上で経験するであろう未知さこそ、我々が山を登る理由だ。
しかし、山を登り切れば「全てが見える」ように思える。
そこから見える景色、全貌、歩いてきた道、それらが見える。
その時、人はこれまでの道を登る快を失うであろう。
これまで楽しんできたものでは、我々は満足できなくなる。
それはもう「未知」ではなく「既知」であるからだ。
では、頂上に辿り着いたなら、全てが「既知」になり、人は不幸になるのか。
それも違う。
なぜなら、それは「頂上」などではないからだ。
人が「頂上」に辿り着くことなど有り得ない。
「結果」とは常に「途中経過」であり、プロセスの一部に組込まれるものである。
プロセスのある瞬間を切り取って「結果」として捉えることはできても、それを「結果」にすることはできない。
全ては永続的なプロセスである。
我々が「頂上」だと思っている「結果」は、全て思い込みに過ぎない。
いや、方便(「ものの考え方」でもよい)というべきだろう。
その思い込みに左右されて「不幸」だと考えることこそ、「真の不幸」であろう。
もし、「頂上についた」と思うのであれば「新たな山」をもう一度定義することだ。
多くの人があなたの「頂上」を決めたがるであろう。
そうでなければならないと、あなたを諭すであろう。
しかし、あなたの「頂上」はあなたが自由に決めていい。
その自由はこの宇宙が設計された段階で埋め込まれた生命の奇跡だ。
新年を祝おうとするこころとは、人間が明日の不確実性を受入れ、その上で自由という宇宙に組込まれた機能を謳歌するものだ。
我々が新年を祝う気持ちを見出せないとしたなら、それは自由という機能を忘れてしまっているからかもしれない。
さて、永遠の山を登りきった時、つまり全てが「既知」になったとしたら、何が待っているだろう。
それは、このスピリチュアル・シリーズで語っていこうと思う。
結局、いつもの相対性の話と言い回しが違うだけで同じじゃないかと思われたあなたは正しい・・。
と言っておきながら、いつも思うのだが、今どき年が変わっておめでたいと思っている人はどれだけいるのだろうか。
むしろ、今はおめでたいどころか、嬉しくない人達の方が多いのではないだろうか。
様々な締切りに迫られる人、現状の苦しみが永続的に続くと感じている人、時の流れに漠然と不安にかられる人、などなど「迎えたくない未来を待つ人」にとって時の流れは冷酷なほど厳しい。
不確実極まる大自然によって生活が左右されてしまうような時代には、新たに迎える年における豊穣を願うことに疑問を差し挟む余地はなかった。
願うことしか人間にはできなかったからだ。
しかし、科学時術が発達した近代において人類は中途半端ながらも予見可能性を手にした。
より正確にいえば「予見可能性を保てる生活を支える技術を手にした。」といえるだろう。
明日のことがわからなかった時代、人々は明日を祈った。
今、この時代、人々は明日を否定する。
明日を祈ったりしない。
明日のことは、もうわかっているからだ。
(本当にわかっているかどうかに関わらず)
「決められた自分の人生を歩む絶望」を受け入れることを拒否する者達は後を絶たないが、「自分の考えの及ばないところに自分の明日があるという希望」に気づくものは少数で、そしてその証明は難しい。
私はよくこういう言葉に遭遇した。
(世を悟ったように言うのだ)
「人間は賢くなればなるほど不幸になる。」
確かに、「坂の上の雲」などを見るにつけ、明治時代の人間は昭和や平成時代の人間より明るく前向きだったのかもしれない。
(司馬史観が正しいのかは不明だが)
しかし、その理屈でいえば、それは弥生時代と明治時代の人間の間でも同じであったのではなかろうか。
であるならば、我々は猿になるべきか。
否、それは違う。
我々が「賢くなる」と考えるのは「山登り」と似ている。
登っている途中は先がどのようになっているのかわからない。
その未知さこそ、我々をかり出す。
5合目、8合目、頂上で経験するであろう未知さこそ、我々が山を登る理由だ。
しかし、山を登り切れば「全てが見える」ように思える。
そこから見える景色、全貌、歩いてきた道、それらが見える。
その時、人はこれまでの道を登る快を失うであろう。
これまで楽しんできたものでは、我々は満足できなくなる。
それはもう「未知」ではなく「既知」であるからだ。
では、頂上に辿り着いたなら、全てが「既知」になり、人は不幸になるのか。
それも違う。
なぜなら、それは「頂上」などではないからだ。
人が「頂上」に辿り着くことなど有り得ない。
「結果」とは常に「途中経過」であり、プロセスの一部に組込まれるものである。
プロセスのある瞬間を切り取って「結果」として捉えることはできても、それを「結果」にすることはできない。
全ては永続的なプロセスである。
我々が「頂上」だと思っている「結果」は、全て思い込みに過ぎない。
いや、方便(「ものの考え方」でもよい)というべきだろう。
その思い込みに左右されて「不幸」だと考えることこそ、「真の不幸」であろう。
もし、「頂上についた」と思うのであれば「新たな山」をもう一度定義することだ。
多くの人があなたの「頂上」を決めたがるであろう。
そうでなければならないと、あなたを諭すであろう。
しかし、あなたの「頂上」はあなたが自由に決めていい。
その自由はこの宇宙が設計された段階で埋め込まれた生命の奇跡だ。
新年を祝おうとするこころとは、人間が明日の不確実性を受入れ、その上で自由という宇宙に組込まれた機能を謳歌するものだ。
我々が新年を祝う気持ちを見出せないとしたなら、それは自由という機能を忘れてしまっているからかもしれない。
さて、永遠の山を登りきった時、つまり全てが「既知」になったとしたら、何が待っているだろう。
それは、このスピリチュアル・シリーズで語っていこうと思う。
結局、いつもの相対性の話と言い回しが違うだけで同じじゃないかと思われたあなたは正しい・・。
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