第一部、第二部に引き続いて第三部。
第二部の議論が少々強引だった(説明不足だった)ので補足をする。
※
言葉と言うのは非常に低レベルなコミュニケーション・ツールで、想いを完璧に伝えることができないばかりか、多くの場合に誤解と偏見を与えてしまう。
どんな人類文学史上に輝く大名セリフも、恋する2人の間で交わされるアイコンタクトやボディ・ランゲージには勝てない。
テレパシーが使えたらどれだけ楽だろう。
しかし、その場合、伝えられないことで発達する文化というのも捨てることになるのだが。
ここでもトレードオフである。
前回の議論では、「資本主義を採用する人々」が「消費活動の極大化」のために「共同体の解体」と「消費主体の原子化」を行ってきたことによって現状の数多の問題が生み出されているので、これらを解決するためには資本主義に共同体という抑制機構が必要であるとする内田樹の主張を斜め45度の方向に受け流した。
私は、「共同体の解体」というのは人々がそれを望むから起きるのであって、資本主義ゆえに起きる現象ではないと主張したのであるが、ここの説明が足りていなかったので補足する。
「○○主義」なるものを漠然と捉えている人達には馴染みがない考え方かもしれないが、「○○主義」というものは人間の頭の中で情報を整理するために行われる無形の情報(ラベリング)であって、形があるものではない。
共産主義や資本主義があたかも構造を持っているように我々がイメージするのは議論の単純化のためにであって、実際に頭があるわけでも手足があるわけではない。
しかも、実は○○主義なんてものは何ら役に立っていない。
我々人類がこれまでしてきたことは「目の前にある問題についてどう対処するか」ということで、その議論の上に出来た制度や文化といったものを事後的に○○主義に分類しているに過ぎない。
いや、もちろん「目の前にある問題についてどう対処するか」を、どういう思想に基づいて考えるかというところに「考え方としての○○主義」なんてものが登場するであろうと考えがちではあるが、実はこの「考え方」というのは、○○主義という大そうなものではなく、単に知識である。
「△△はいけないことだから、□□しなければならない。」
「△△という問題への処方箋は、□□が適切である。」
という具合の知識で、事後的にこれらの知識を体系的にまとめてパッケージングされたものが○○主義なのである。
ゆえに、行為中の人間が「俺は○○主義だから◇◇する!」と考えることはなく、「こういう△△の場合は、◇◇するのが適切だ!」と考えるのである。
これは独裁体制下でも宗教団体内でも同じことである。
「私は■■教だから、●●する!」などと考える馬鹿はいないのである。
※
だから「市場原理主義者」とか「新自由主義者」とかいって人を罵るのはやめたほうがいい。
なぜなら、言われる側は自分が○○主義者だなんて思っていない。
それなりの理由があるから、そういう主張をするのである。
○○主義者と呼ばれる人達が皆同じ考えを持っているわけではないのと同じ理由だ。
せめてパッケージされた知識を知った上で批判すべきであろう。
さて、第3部の本題に入ろう。
事後的に知識がパッケージングされた○○主義は多くある。
例えば「共産主義」と「資本主義」だ。
(他にも「清貧主義」「菜食主義」「実利主義」「御都合主義」「無主義」・・などたくさんある)
しかし、「共産主義」や「資本主義」を例にとってみても、どこからどこまでが「共産主義」で、どこからどこまでが「資本主義」なのかを、正確に答えられるような人はいないだろう。
海に流れる川を見て「どこからどこまで海水で、どこからどこまでが川の水か」と聞くようなものである。
そんなもの、どこかで思い切りをつけて決めるしかないのだ。
なぜ、そういうことが起きるのか?
なぜ世の中は白黒はっきりつけられることばかりではないのか?
答えは簡単である。
この宇宙が相対的であるからで、2値状態しかとらないものはないからだ。
(またその話か!相対性、相対性ってうるさいよって思うあなた!わかるその気持ちは。しかしこれこそ生きる意味で生命の奇跡なんだ。いずれわかる。)
「0」か「1」かで状態を処理するデジタル信号処理は、人間が思い切ってそう決めているだけで、実際の自然状態は2値で表現できないものばかりだ。
この説明に文章を割くのは面倒だし、これまで当Blogで繰返し説明してきたことなので、以下を参照して欲しい。
(ググったところわかりやすいページを見つけたので、これ以降いつもこのページを参照させていただきます。)
科学哲学史(7) ポパーの決断(哲学的な何か、あと科学とか)
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/t7.html
おっと、本題に入ろうといいながらいきなり横道にそれてしまった。
結局、「○○主義」は情報を整理するために事後的にパッケージ(一般化)された知識であって実態はない。
「○○主義」と「△△主義」とを区別することは、情報を整理するためには有用だが、それ自体に実態がない以上、パッケージング(一般化)されたものを個別に当てはめようとしても、どこかはみ出るし、どこか足りないものになってしまう。
つまり、何かの実態を「○○主義」という言葉で議論する時は、それが一般化されたもので、個別に当てはまらない可能性があることについて注意されるべきである。
上記を理解した上でで、ようやく本題の本題だ。
では、なぜ人類は「○○主義」を乗り換えてきたのであろうか。
歴史上、「○○主義」は腐るほどあるが、時代とともに採用する「○○主義」は移り変わっている。
ここに、歴史を読み間違えない重要なターニングポイントがある。
先述したように、「○○主義」はパッケージングされた知識である。
中身は知識である。
知識には様々なものが含まれるが、実用観点からみた知識はノウハウと呼ばれる。
ノウハウは、試行錯誤した経験から役に立つ知識が体系化されたものであるから、人間の活動における生産性を上げる鍵である。
ここで感の良い人は気づくだろう。
ということは、「○○主義」はそういうノウハウが必要とされていたから存在するのである。
そう、「○○主義」は何もないところに突然湧き出てくるものではない。
それを必要とする環境があるからこそ自生するのだ。
人類が置かれている環境は同じものが2度と繰り返されず、変わり続けている。
「万物流転」である。
これが、人類が「○○主義」を乗り換えてきた理由である。
人類が「○○主義」を採用するのは、それが人類の知恵だからなのではない。
その時、その場所で必要だと思われる知識を採用しているだけである。
「○○主義」というのは前方向への採用ではなく、常に事後的に採用されているのだ。
だから、本来的な意味では「共産主義であったソ連が崩壊したから共産主義はだめだ。」というのはおかしい。
より厳密にいえば「共産主義と呼ばれる考え方に基づいて運用されてきたソ連において、ソ連国民は環境の変化によって共産主義ではない考え方を採用する必要があると考え、その考えに基づきソ連の解体を決断した。」のようになるであろう。
主義・主張はそれが必要とされたから構築され、存在し、必要なくなれば捨てられる。
これが人類の歴史が教えてくれることだ。
ようやく結論だ。
人類の歴史を鑑みるに、主義の変遷は常に前方向(未来方向に向かって)に行われてきた。
それは人類が環境に適応する結果であり、言い換えれば「進化」の一面といえるだろう。
よって、「資本主義が共同体の解体と消費主体の原子化を行った」かのごとき主張はミスリーディングである。原因と結果が逆転している。
人々がそれを望んだから、事後的に資本主義と呼ばれるパッケージされた知識ができたのである。
はてさて、これで理解いただけただろうか。
第四部へつづく。。
第二部の議論が少々強引だった(説明不足だった)ので補足をする。
※
言葉と言うのは非常に低レベルなコミュニケーション・ツールで、想いを完璧に伝えることができないばかりか、多くの場合に誤解と偏見を与えてしまう。
どんな人類文学史上に輝く大名セリフも、恋する2人の間で交わされるアイコンタクトやボディ・ランゲージには勝てない。
テレパシーが使えたらどれだけ楽だろう。
しかし、その場合、伝えられないことで発達する文化というのも捨てることになるのだが。
ここでもトレードオフである。
前回の議論では、「資本主義を採用する人々」が「消費活動の極大化」のために「共同体の解体」と「消費主体の原子化」を行ってきたことによって現状の数多の問題が生み出されているので、これらを解決するためには資本主義に共同体という抑制機構が必要であるとする内田樹の主張を斜め45度の方向に受け流した。
私は、「共同体の解体」というのは人々がそれを望むから起きるのであって、資本主義ゆえに起きる現象ではないと主張したのであるが、ここの説明が足りていなかったので補足する。
「○○主義」なるものを漠然と捉えている人達には馴染みがない考え方かもしれないが、「○○主義」というものは人間の頭の中で情報を整理するために行われる無形の情報(ラベリング)であって、形があるものではない。
共産主義や資本主義があたかも構造を持っているように我々がイメージするのは議論の単純化のためにであって、実際に頭があるわけでも手足があるわけではない。
しかも、実は○○主義なんてものは何ら役に立っていない。
我々人類がこれまでしてきたことは「目の前にある問題についてどう対処するか」ということで、その議論の上に出来た制度や文化といったものを事後的に○○主義に分類しているに過ぎない。
いや、もちろん「目の前にある問題についてどう対処するか」を、どういう思想に基づいて考えるかというところに「考え方としての○○主義」なんてものが登場するであろうと考えがちではあるが、実はこの「考え方」というのは、○○主義という大そうなものではなく、単に知識である。
「△△はいけないことだから、□□しなければならない。」
「△△という問題への処方箋は、□□が適切である。」
という具合の知識で、事後的にこれらの知識を体系的にまとめてパッケージングされたものが○○主義なのである。
ゆえに、行為中の人間が「俺は○○主義だから◇◇する!」と考えることはなく、「こういう△△の場合は、◇◇するのが適切だ!」と考えるのである。
これは独裁体制下でも宗教団体内でも同じことである。
「私は■■教だから、●●する!」などと考える馬鹿はいないのである。
※
だから「市場原理主義者」とか「新自由主義者」とかいって人を罵るのはやめたほうがいい。
なぜなら、言われる側は自分が○○主義者だなんて思っていない。
それなりの理由があるから、そういう主張をするのである。
○○主義者と呼ばれる人達が皆同じ考えを持っているわけではないのと同じ理由だ。
せめてパッケージされた知識を知った上で批判すべきであろう。
さて、第3部の本題に入ろう。
事後的に知識がパッケージングされた○○主義は多くある。
例えば「共産主義」と「資本主義」だ。
(他にも「清貧主義」「菜食主義」「実利主義」「御都合主義」「無主義」・・などたくさんある)
しかし、「共産主義」や「資本主義」を例にとってみても、どこからどこまでが「共産主義」で、どこからどこまでが「資本主義」なのかを、正確に答えられるような人はいないだろう。
海に流れる川を見て「どこからどこまで海水で、どこからどこまでが川の水か」と聞くようなものである。
そんなもの、どこかで思い切りをつけて決めるしかないのだ。
なぜ、そういうことが起きるのか?
なぜ世の中は白黒はっきりつけられることばかりではないのか?
答えは簡単である。
この宇宙が相対的であるからで、2値状態しかとらないものはないからだ。
(またその話か!相対性、相対性ってうるさいよって思うあなた!わかるその気持ちは。しかしこれこそ生きる意味で生命の奇跡なんだ。いずれわかる。)
「0」か「1」かで状態を処理するデジタル信号処理は、人間が思い切ってそう決めているだけで、実際の自然状態は2値で表現できないものばかりだ。
この説明に文章を割くのは面倒だし、これまで当Blogで繰返し説明してきたことなので、以下を参照して欲しい。
(ググったところわかりやすいページを見つけたので、これ以降いつもこのページを参照させていただきます。)
科学哲学史(7) ポパーの決断(哲学的な何か、あと科学とか)
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/t7.html
おっと、本題に入ろうといいながらいきなり横道にそれてしまった。
結局、「○○主義」は情報を整理するために事後的にパッケージ(一般化)された知識であって実態はない。
「○○主義」と「△△主義」とを区別することは、情報を整理するためには有用だが、それ自体に実態がない以上、パッケージング(一般化)されたものを個別に当てはめようとしても、どこかはみ出るし、どこか足りないものになってしまう。
つまり、何かの実態を「○○主義」という言葉で議論する時は、それが一般化されたもので、個別に当てはまらない可能性があることについて注意されるべきである。
上記を理解した上でで、ようやく本題の本題だ。
では、なぜ人類は「○○主義」を乗り換えてきたのであろうか。
歴史上、「○○主義」は腐るほどあるが、時代とともに採用する「○○主義」は移り変わっている。
ここに、歴史を読み間違えない重要なターニングポイントがある。
先述したように、「○○主義」はパッケージングされた知識である。
中身は知識である。
知識には様々なものが含まれるが、実用観点からみた知識はノウハウと呼ばれる。
ノウハウは、試行錯誤した経験から役に立つ知識が体系化されたものであるから、人間の活動における生産性を上げる鍵である。
ここで感の良い人は気づくだろう。
ということは、「○○主義」はそういうノウハウが必要とされていたから存在するのである。
そう、「○○主義」は何もないところに突然湧き出てくるものではない。
それを必要とする環境があるからこそ自生するのだ。
人類が置かれている環境は同じものが2度と繰り返されず、変わり続けている。
「万物流転」である。
これが、人類が「○○主義」を乗り換えてきた理由である。
人類が「○○主義」を採用するのは、それが人類の知恵だからなのではない。
その時、その場所で必要だと思われる知識を採用しているだけである。
「○○主義」というのは前方向への採用ではなく、常に事後的に採用されているのだ。
だから、本来的な意味では「共産主義であったソ連が崩壊したから共産主義はだめだ。」というのはおかしい。
より厳密にいえば「共産主義と呼ばれる考え方に基づいて運用されてきたソ連において、ソ連国民は環境の変化によって共産主義ではない考え方を採用する必要があると考え、その考えに基づきソ連の解体を決断した。」のようになるであろう。
主義・主張はそれが必要とされたから構築され、存在し、必要なくなれば捨てられる。
これが人類の歴史が教えてくれることだ。
ようやく結論だ。
人類の歴史を鑑みるに、主義の変遷は常に前方向(未来方向に向かって)に行われてきた。
それは人類が環境に適応する結果であり、言い換えれば「進化」の一面といえるだろう。
よって、「資本主義が共同体の解体と消費主体の原子化を行った」かのごとき主張はミスリーディングである。原因と結果が逆転している。
人々がそれを望んだから、事後的に資本主義と呼ばれるパッケージされた知識ができたのである。
はてさて、これで理解いただけただろうか。
第四部へつづく。。
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