本エントリにおいて述べられている民主主義に関する説明は、全て筆者個人の考えであり、その妥当性については一切責任を負わない。
題名に"他のどれよりも"と書いてあるが民主主義以外のものは何ら明示的に述べていないことに後から気づく。しかしこれは内容が足りないのではなく題名が後付けだからなのである。
前代未聞のボーナス課税 (ウォールストリート日記)
http://wallstny.exblog.jp/11749444/
イギリスのDarling財務大臣は、英国内で経営される銀行が来年4月までに2万5千ポンド(約360万円)以上のボーナス支払いを行う場合には、「銀行が」その50%の税金を納めることを定めて、即日導入したそうです。従業員は通常の40%の所得税を課税され、その税率も4月から50%に上がることが予定されているそうです。
Bloombergの記事の中で会計事務所大手のKPMGが算定したところによると、銀行が従業員に100万ポンド(約1.4億円)のボーナスを支払った場合、英財務省は、銀行から50万ポンド、従業員から40万ポンド、社会保険13ポンドと、合計でボーナス支払額以上を受け取ることが出来るようになるそうです。
銀行が従業員に高いボーナス払うと、イギリス政府は銀行からその50%の税金を取ると。
そうすると、従業員から所得税も取るのでイギリス政府は合計でボーナス支払額を税金として取ることになると。
国も国民も弱いのは、金融機関が高額ボーナス出すことには反対するが、金融機関を潰すことにはGoサインを出せないことだ。
それは、金融が他の産業においてボトルネックであるからで、言わば国も国民も金融機関に弱みを握られているといえる。
要は「あいつら高い給料もらいやがって」と思う反面「でもあいつらいないと自分達の仕事が成り立たない」というジレンマがあるのだ。
そもそも「あいつらが高い給料をもらう」ことが可能なのは、彼らがボトルネックを握っているからなので「あいつらに高い給料払いたくない」と思うなら、彼らの仕事を必要としないようにしなければならない。
例えば、OPECが石油価格について強い影響力を持てるのは、彼らが石油生産を握っているからなので、中東の石油王に嫉妬するなら、我々は石油に依存しない経済構造を構築する必要がある。
このような政策は、イギリス全体の経済を考えるとイギリスのためにはならないと思うが、国民感情を背景にした政治家の心理を考えるとよく理解できる。
経済学者や財界の人達は、こういう政治家のあり方を批判する人も多いだろう。
「どうして政治は衆愚政治に陥るのか」と。
そこで、今回は民主主義というものについて考えてみたい。
(これまで当Blogで述べてきたところと重複する部分が多いがご容赦いただきたい)
民主主義という制度において、民衆の投票によって選ばれる側の政治家の心理が、民衆の反応に対して冷徹でいられるはずがない。
真なる意味で何が正しいかを知るのが神のみであるならば、我々人間が考える正しさは常に間違える可能性をはらんでいるわけで、だから我々はその間違いに備えて代替手段というオプションを持つべきで、これを政治制度に組込むことが不可欠である。
でなければ、ナチスや旧帝国陸・海軍のような独走を許してしまい、取り返しのつかない結果を招くことになる。
そして、我々が辿り着いた制度が「民主主義」である。
(未来において何主義が待っているのかは不明だ)
しかし、「デモクラシーのコスト」でも述べたように、民主主義は代替手段というオプションを持つ代わりに、一貫性と合理性を欠く。
人間にとって己の言動を否定するのは容易ではない。
一度決めた「正しさ」を、その後に改めるのは簡単ではないのだ。
むしろ「君子豹変」する勇気を、我々は卑怯として受け取ることの方が多い。
それは、我々人間が他との関係性の中で「正しさ」という共有経験を持って自分自身のアイデンティティを確立しているからである。
自分自身の「正しさ」を否定することが容易ではないのは、「正しさの否定」が「アイデンティティの喪失」、つまり「自分自身の否定」を意味するからだ。
結局、我々人間は、自分自身の「正しさ」を自分自身で制御することができない。
だから、我々はよく利益集団や権威者の無謬性や反省のなさに怒るが、組織や人間に対して自浄作用を期待してはいけない。
それは、もともと難しいことなのだ。
しかし、人類はここ1万年ほどの時間の中で、気づくのには時間がかかったが、それを学んだ。
「正しさ」が人に付いて回るものなのだとしたら、人を変えることのできる仕組みが必要であることを。
そして、それは君主制や貴族性、世襲性、一部の利権コミュニティのみから選出される選挙制度では効果が不十分であることを学んだ。
利害関係者のみでは「正しさ」を変えることはできない。
あらゆる価値観が入り混じってこそ、あらゆる視点での「正しさ」が見出される。
それゆえ、民主主義制度は、奴隷制も人種、性別、文化も少しずつだが乗越えてきているのだ。
あらゆるプレーヤーがそろってこそ効果を発揮しうる制度が民主主義だからだ。
人類が民主主義制度の名の下に、あらゆる人に1票を与えてきたのは、それが「神の下の平等」という自然権に基づくものだからではなく、それが民主主義制度の目的に適うからなのである。
その意味で、民主主義制度の下では、皆が声を上げて己の利益を主張することが重要なのだ。
我々が恐怖や諦めにより、声を上げることを止めたら、その時、民主主義はその効果を発揮できず終わる。
我々は一部の「正しさ」の独走を許す事になるのだ。
民主主義の欠点は、個々の声を尊重することで、全体最適視点での合理的判断が難しいところである。
そこで考え出されたのが「三権分立」制度である。
立法、行政、司法を3つに分けることで、バランスをとろうとするものだ。
個々の意見を反映する国会(立法)、全体最適を指向する政府(行政)、両者を調停する裁判所(司法)である。
この考えは議院内閣制ではなく、大統領制の方に近い。
よく「全体設計は政治で」と言われることが多いが、地域の代表者である国会議員に全体最適を考えろというのは無茶な要求である。
(もちろん、全体最適派もいるが、仕組み上なっていないのに期待するのは如何なものかと思う。)
全体最適を考えるのは国家の代表である大統領(内閣)が成すべきことである。
「政府と議会が対立すると何もできないから政府与党一体がよい」というのは現実的な妥協案として認めるが、私には日本人が何故そこまで議院内閣制にこだわるのか理解できない。
-<>-<>-<>-<>-<>-
唯一、説得的な説明は"イギリス系の保守"を標榜するグループのもので「連続性の確保」というものである。
(大陸系の保守とは違う)
人間の知性には限界があることを前提として、非連続的な変化をよしとしない思想だ。
人類がその歴史の中で積み重ねてきたノウハウや暗黙知に込められた意味を重要視し、革命や改革のような非連続的な変化の背景にあるであろう安直な願望を否定する。
物事が、革命や改革などの何らかの手法によって一挙解決するというようなうまい話は、必ず信仰のような思考停止を含むものであるはずで、危険であるというものだ。
簡単に表現しすぎて怒られるかもしれないが、「進化は常に漸進的であるという前提で温故知新の精神で物事に取り組むべし」というような考え方だ。
このような考え方に立つと、劇的な政権交代や改革などはまやかしであるから、民意が右に左に振れるような事態は好ましくなく、柔軟性よりも堅実性をとる保守の姿は理解できなくもない。
しかし、「現在」とは常に「進化の過程」なのだから、革命でも改革でも政権交代でも、これもまた漸進的な進化の一部なのであって、結局のところ、民意の成熟度によってしか、つまりノウハウや暗黙知のさらなる積み重ねでしか保守たりえないわけである。
また「温故知新」といっても程度は相対的にならざるを得ないわけで、この言語では表現できない絶妙なバランス(暗黙知)を如何に民衆が習得するかは、いろんなことを経験するしかないのである。
それが歴史の繰返しだとしても、何度も繰り返して学ぶしかないのである。
-<>-<>-<>-<>-<>-
地域の代表者が政党という超地域組織においてグルーピングされ党議拘束がかかるなんということの方が不自然だ。
政策集団としての政党を正当化したいなら、地域ではなくコミュニティ型選挙にするか、全国で一選挙区にするべきだ。
また、政治家は党として責任を負うのではなく、政治家本人として責任を負うべきであると考える。
そういう意味で、政治家の国会(委員会含む)における投票行動は記録しオープンにされ、後で追跡できることが重要だ。
政府と国会との程よい緊張関係があってこそ政策もよくレビューされるはずであるし、そうすれば「脱官僚」などというくだらないテーゼに構う必要はない。
・・長くて疲れた。
途中だが、ここまで述べれば十分だと思う。
今回の内容を踏まえて、次回は小沢一郎の真意を語ろうと思います。(今度こそ!)
(もちろん勝手な私見でしかないけれど)
なぜかというと、民主主義というものをよく理解しないと、小沢の真意が汲み取れないのです。
題名に"他のどれよりも"と書いてあるが民主主義以外のものは何ら明示的に述べていないことに後から気づく。しかしこれは内容が足りないのではなく題名が後付けだからなのである。
前代未聞のボーナス課税 (ウォールストリート日記)
http://wallstny.exblog.jp/11749444/
イギリスのDarling財務大臣は、英国内で経営される銀行が来年4月までに2万5千ポンド(約360万円)以上のボーナス支払いを行う場合には、「銀行が」その50%の税金を納めることを定めて、即日導入したそうです。従業員は通常の40%の所得税を課税され、その税率も4月から50%に上がることが予定されているそうです。
Bloombergの記事の中で会計事務所大手のKPMGが算定したところによると、銀行が従業員に100万ポンド(約1.4億円)のボーナスを支払った場合、英財務省は、銀行から50万ポンド、従業員から40万ポンド、社会保険13ポンドと、合計でボーナス支払額以上を受け取ることが出来るようになるそうです。
銀行が従業員に高いボーナス払うと、イギリス政府は銀行からその50%の税金を取ると。
そうすると、従業員から所得税も取るのでイギリス政府は合計でボーナス支払額を税金として取ることになると。
国も国民も弱いのは、金融機関が高額ボーナス出すことには反対するが、金融機関を潰すことにはGoサインを出せないことだ。
それは、金融が他の産業においてボトルネックであるからで、言わば国も国民も金融機関に弱みを握られているといえる。
要は「あいつら高い給料もらいやがって」と思う反面「でもあいつらいないと自分達の仕事が成り立たない」というジレンマがあるのだ。
そもそも「あいつらが高い給料をもらう」ことが可能なのは、彼らがボトルネックを握っているからなので「あいつらに高い給料払いたくない」と思うなら、彼らの仕事を必要としないようにしなければならない。
例えば、OPECが石油価格について強い影響力を持てるのは、彼らが石油生産を握っているからなので、中東の石油王に嫉妬するなら、我々は石油に依存しない経済構造を構築する必要がある。
このような政策は、イギリス全体の経済を考えるとイギリスのためにはならないと思うが、国民感情を背景にした政治家の心理を考えるとよく理解できる。
経済学者や財界の人達は、こういう政治家のあり方を批判する人も多いだろう。
「どうして政治は衆愚政治に陥るのか」と。
そこで、今回は民主主義というものについて考えてみたい。
(これまで当Blogで述べてきたところと重複する部分が多いがご容赦いただきたい)
民主主義という制度において、民衆の投票によって選ばれる側の政治家の心理が、民衆の反応に対して冷徹でいられるはずがない。
真なる意味で何が正しいかを知るのが神のみであるならば、我々人間が考える正しさは常に間違える可能性をはらんでいるわけで、だから我々はその間違いに備えて代替手段というオプションを持つべきで、これを政治制度に組込むことが不可欠である。
でなければ、ナチスや旧帝国陸・海軍のような独走を許してしまい、取り返しのつかない結果を招くことになる。
そして、我々が辿り着いた制度が「民主主義」である。
(未来において何主義が待っているのかは不明だ)
しかし、「デモクラシーのコスト」でも述べたように、民主主義は代替手段というオプションを持つ代わりに、一貫性と合理性を欠く。
人間にとって己の言動を否定するのは容易ではない。
一度決めた「正しさ」を、その後に改めるのは簡単ではないのだ。
むしろ「君子豹変」する勇気を、我々は卑怯として受け取ることの方が多い。
それは、我々人間が他との関係性の中で「正しさ」という共有経験を持って自分自身のアイデンティティを確立しているからである。
自分自身の「正しさ」を否定することが容易ではないのは、「正しさの否定」が「アイデンティティの喪失」、つまり「自分自身の否定」を意味するからだ。
結局、我々人間は、自分自身の「正しさ」を自分自身で制御することができない。
だから、我々はよく利益集団や権威者の無謬性や反省のなさに怒るが、組織や人間に対して自浄作用を期待してはいけない。
それは、もともと難しいことなのだ。
しかし、人類はここ1万年ほどの時間の中で、気づくのには時間がかかったが、それを学んだ。
「正しさ」が人に付いて回るものなのだとしたら、人を変えることのできる仕組みが必要であることを。
そして、それは君主制や貴族性、世襲性、一部の利権コミュニティのみから選出される選挙制度では効果が不十分であることを学んだ。
利害関係者のみでは「正しさ」を変えることはできない。
あらゆる価値観が入り混じってこそ、あらゆる視点での「正しさ」が見出される。
それゆえ、民主主義制度は、奴隷制も人種、性別、文化も少しずつだが乗越えてきているのだ。
あらゆるプレーヤーがそろってこそ効果を発揮しうる制度が民主主義だからだ。
人類が民主主義制度の名の下に、あらゆる人に1票を与えてきたのは、それが「神の下の平等」という自然権に基づくものだからではなく、それが民主主義制度の目的に適うからなのである。
その意味で、民主主義制度の下では、皆が声を上げて己の利益を主張することが重要なのだ。
我々が恐怖や諦めにより、声を上げることを止めたら、その時、民主主義はその効果を発揮できず終わる。
我々は一部の「正しさ」の独走を許す事になるのだ。
民主主義の欠点は、個々の声を尊重することで、全体最適視点での合理的判断が難しいところである。
そこで考え出されたのが「三権分立」制度である。
立法、行政、司法を3つに分けることで、バランスをとろうとするものだ。
個々の意見を反映する国会(立法)、全体最適を指向する政府(行政)、両者を調停する裁判所(司法)である。
この考えは議院内閣制ではなく、大統領制の方に近い。
よく「全体設計は政治で」と言われることが多いが、地域の代表者である国会議員に全体最適を考えろというのは無茶な要求である。
(もちろん、全体最適派もいるが、仕組み上なっていないのに期待するのは如何なものかと思う。)
全体最適を考えるのは国家の代表である大統領(内閣)が成すべきことである。
「政府と議会が対立すると何もできないから政府与党一体がよい」というのは現実的な妥協案として認めるが、私には日本人が何故そこまで議院内閣制にこだわるのか理解できない。
-<>-<>-<>-<>-<>-
唯一、説得的な説明は"イギリス系の保守"を標榜するグループのもので「連続性の確保」というものである。
(大陸系の保守とは違う)
人間の知性には限界があることを前提として、非連続的な変化をよしとしない思想だ。
人類がその歴史の中で積み重ねてきたノウハウや暗黙知に込められた意味を重要視し、革命や改革のような非連続的な変化の背景にあるであろう安直な願望を否定する。
物事が、革命や改革などの何らかの手法によって一挙解決するというようなうまい話は、必ず信仰のような思考停止を含むものであるはずで、危険であるというものだ。
簡単に表現しすぎて怒られるかもしれないが、「進化は常に漸進的であるという前提で温故知新の精神で物事に取り組むべし」というような考え方だ。
このような考え方に立つと、劇的な政権交代や改革などはまやかしであるから、民意が右に左に振れるような事態は好ましくなく、柔軟性よりも堅実性をとる保守の姿は理解できなくもない。
しかし、「現在」とは常に「進化の過程」なのだから、革命でも改革でも政権交代でも、これもまた漸進的な進化の一部なのであって、結局のところ、民意の成熟度によってしか、つまりノウハウや暗黙知のさらなる積み重ねでしか保守たりえないわけである。
また「温故知新」といっても程度は相対的にならざるを得ないわけで、この言語では表現できない絶妙なバランス(暗黙知)を如何に民衆が習得するかは、いろんなことを経験するしかないのである。
それが歴史の繰返しだとしても、何度も繰り返して学ぶしかないのである。
-<>-<>-<>-<>-<>-
地域の代表者が政党という超地域組織においてグルーピングされ党議拘束がかかるなんということの方が不自然だ。
政策集団としての政党を正当化したいなら、地域ではなくコミュニティ型選挙にするか、全国で一選挙区にするべきだ。
また、政治家は党として責任を負うのではなく、政治家本人として責任を負うべきであると考える。
そういう意味で、政治家の国会(委員会含む)における投票行動は記録しオープンにされ、後で追跡できることが重要だ。
政府と国会との程よい緊張関係があってこそ政策もよくレビューされるはずであるし、そうすれば「脱官僚」などというくだらないテーゼに構う必要はない。
・・長くて疲れた。
途中だが、ここまで述べれば十分だと思う。
今回の内容を踏まえて、次回は小沢一郎の真意を語ろうと思います。(今度こそ!)
(もちろん勝手な私見でしかないけれど)
なぜかというと、民主主義というものをよく理解しないと、小沢の真意が汲み取れないのです。