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子供手当てに所得制限をかけてはいけない 再補足

2009-12-18 16:16:21 | 政治
子供手当てに所得制限をかけてはいけない
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/adec27a471fb28d74f21bcb6a9a6bb8d

子供手当てに所得制限をかけてはいけない 補足
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/c3c4c230b96145bc5926e4de370a6d6b

をさらに補足しよう。

子ども手当の所得制限「目安は1億円」…藤井財務相(痛いニュース)
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1351542.html

コメント欄を読んで思ったが、やはり「子供手当て」は誤解されていると思われる。


1億円の所得制限なんか意味無いじゃん


その通り
藤井財務相はその所得制限に意味無いことわかって言ってるんだから、それを受けて批判する方がおかしいのである

政府は2千万で調整に入ったようだが、藤井財務相の「目安は1億円」は正しい認識に基づくものだ。
藤井財務相は確信犯的に「所得制限は無意味」ということを主張しているのである
当Blogで説明してきたように、子供手当てに所得制限をかけるのは「子供手当ての目的」に合わないのであるから、かけるべきではない
藤井財務相は、党から出された「所得制限」を実質無意味な形で入れ込むことで、「子供手当ての目的」を守ろうとしているのである。

などと思っていたら、当Blogと同様の主張が大和総研の公共政策研究所、斎藤哲史氏が述べているようだ。
全文はリンク先をお読みいただくとして、部分的に抜粋する。

岐路に立つ子ども手当(斎藤哲史)
http://www.dir.co.jp/publicity/column/091218.html


民主党の公約で目玉の1つであった子ども手当が、重大な岐路に立たされている。子ども手当は、日本最大の問題である少子化への初めての抜本的取り組み、という画期的な政策であるにもかかわらず、多くの人がそのことに気付いていないようであり、このままでは単なるばら撒きであると取られかねない。

まず、「出生率の引き上げ効果に乏しい」という批判である。子ども手当が出産促進に焦点を当てているのであれば、この批判は正しい。フランスや北欧のように、事実婚を含めると非婚化があまり進んでいない国では、子ども手当は親の扶養能力を高めることで出産を促進する。だが、我が国の出生率低下の主因は、子ども手当とは無縁の独身者の急増(晩婚化・非婚化)だ。もっとも、直接出産促進を狙っているのでなければ、この批判は的を外していることになろう。

[中略]

社会全体で子育てを支援し、有為な人材を育成することで成長率を高められれば、日本経済にとって明らかにプラスである。これは民間任せでは上手くいかないので、政府が民間から資金を集めて使うことは極めて合理的であり、そのための借金であれば十分な見返りが期待できよう。子ども手当は、人材の量を増やす効果は小さいかもしれない。しかし、子育てをしている家庭の生活安定に貢献し、子育てに投入されるリソースを増やすことで質を高めることができれば、次世代の生産力拡大が見込まれよう。

[中略]

政府与党は、このような論理で国民に説明するのではなく、財源不足や一部の批判を受けて所得制限の導入に傾きつつある。しかし、所得制限が設けられれば、子ども手当の本質が「人口政策の抜本的転換」から、低所得者支援という全く別のモノに変質してしまう(※2) 。これは、子ども手当がこれまでの施策とは一線を画す、長期的ビジョンに基づいた『賢い支出』ではなく、ポピュリズムに基づく従来型のばら撒きだと告白するに等しい。所得制限を主張する政治家は、国民に誤ったメッセージを送り、新政権の画期的な政策を骨抜きにしようとしているのだということを自覚すべきであろう。子ども手当は、今まさに重大な岐路に立っている。



所得制限をかせるかいなかの税制上の技術論とは関係なく、
子供手当ての目的からして、所得制限はかけてはいけないのだ。

所得制限をかけるなら子供手当ては止めるべき!
戦略目的を踏み外した戦略は必ず失敗する。
政策には必ずトレードオフが伴なうが、
目的からはずれたことをすると正当性を維持できないからだ。



「菅vs竹中」論争を支持する

2009-12-18 09:44:42 | 政治
これは「あるべき論」と「するべき論」のすれ違い問題です。
みなさんが「あるべき論」を論じているところ、私は「するべき論」を述べるのですが、これは論理のすり替えではなく、議論の進め方に関する問題提起です。

「需要か供給か」という不毛な論争(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51330123.html

「改革」はどこへ行った?―民主党政権にチャンスはあるか― 竹中平蔵(藤沢和希)
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51628789.html

わかります。
気持ちは痛いほど理解できます。
反論するところもありません。
しかし、みんなにもう少しだけ、ほんのあと少しだけでいいからリアリストになって欲しいと思います。
(竹中平蔵氏はいつも「政策担当者はリアリストでなければならない。」と言っています。)

「菅直人じゃだめだ」ではだめなのです。

「菅直人じゃないとだめだ」にならなければなりません。

いいですか。
当Blogが当初から主張しているように、民主党の国家戦略担当相に菅直人氏が就任したのは不幸中の幸いです。
(みんながいうように不幸ではありません。)

もし、このポストに他の民主党員が就いた場合のことを考えてください
・・・考えたくないほどの惨劇が待っている可能性があります。

仮に、構造改革路線に近い思想をお持ちの方(政治家でも民間人でも)が就任された場合、あっという間に潰れます
コントロールタワーを特定のパワープレーヤによって牛耳られる可能性が高いです。
民主党を取巻く全方位からのプレッシャーに耐えられません。
このポストをやれるのは、周囲の空気を読まないタイプで、かつ間違っていても(たとえ負けることがわかっていても)持論を通せるタイプの人間だけです
そんな人間は民主党では小沢一郎を除いて菅直人だけです。

よって、「民主党政権下で国家戦略担当相をやれるのは菅直人を置いて他になし。」なのです。

であるならば、我々がやるべきことは唯一つ
菅直人氏に対して、並居る競合相手より増して説得力あるレクチャをできるか否か
これにかかっています。

そういう意味で、竹中平蔵氏のレクチャは評価されるべきであるし、どのような理由であれ竹中平蔵氏を招いた菅直人氏側をより評価するべきです。
いいですか、ここで菅直人氏側を評価してあげることで、より先鋭的な議論ができる土俵を作り上げさせてあげることです。
やることなすこと批判されるんじゃ、やる方もやる気を失ってしまいます。


そもそも、経済素人内閣なのだったら国家戦略相というポストを置かなければいいではないか。
という意見があるとすれば、それは正論だ。
しかし、そうすると、なんで民主党になったんだっけ?
という大命題が覆る可能性があって、国民は自己矛盾に向き合うことになるだろう。
国民は「政権交代のコスト」を選んだのである。

子供手当てに所得制限をかけてはいけない 補足

2009-12-17 22:41:06 | 政治
少し説明不足だったので前回のエントリの補足をしておく。
(子供手当てに所得制限をかけてはいけない)

次のような反論があると思われる。


たとえ「子供手当て」が壮大な国家戦略的社会背策だとしても、緊急性や重大性からして、直近の政策課題としては優先度が低いのではないか。
もっと緊急性を要する問題があるのではないか。


視点によってはこの意見は正しいが、民主党そのものを評価しようという場合においては、必ずしもそうはいえない。
なぜなら、そもそも国家戦略(政策)というのは一つの政策のみを見て評価できるものではないからである。
竹中平蔵氏がよくメディアで発言しているように、通常、国家規模で取組むべき問題については、複数の政策の集合体、パッケージとして示される
いや、示されるべきである。
経済財政政策や国家戦略ともなればなおさらである。
(1つや2つの政策で物事が解決するような考えは旧帝国海軍の「大鑑巨砲主義」的発想である。)

国家戦略の考え方としては、下記の記事で池田信夫氏も主張しているように、長・短期の政策課題と戦略を提示するのが王道である。

「需要か供給か」という不毛な論争(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51330123.html#comments


成長戦略とは長期的な潜在成長率を高めることしかない。これは需要と供給の一致するGDPの自然水準を高めることで、需要側でも供給側でもない。

つまり問題は「需要か供給か」ではなく短期か長期かなのである。短期的な需要不足を埋める政策は、一時的な応急措置としては必要だが、それは景気対策であって成長戦略ではない。政府が需要不足をすべて埋めることはできないし、かりにできるとしても、その上限である潜在成長率は、最近の日銀の調査では0.5%まで低下している。


上記の意味で、仮に民主党が「子供手当て」について、


これは民主党の国家戦略の長期的戦略です。
「子供手当て」は短期的な政策ではなく、短期的な問題については他にパッケージの一つとして政策を用意しています。


と言ってしまえば、それで反論を無効化できる。

現実は、民主党の政策集は統合政策として非常に不十分なもので、長・短期の政策をパッケージとして示せていないので「子供手当て」を批判されても仕方がないのであるが、民主党は「子供手当て」を社会政策(長期戦略)としてしまえば、いくらでも反論に対する反論が可能なのである

(ちょっと強引だが結論にいく)

逆に、民主党が「子供手当て」に所得制限をかけて「社会政策」ではない位置づけにしてしまうと、民主党は子供手当てに対する反論について反論不可能になってしまうのである。
社会政策ではない「子供手当て」などというものは、つまり短期的な政策としての「子供手当て」は対費用効果の低い愚策であって実行すべきではないのだ。



短期的な政策としての子供手当ての意味はないことはない。
各家庭に対する公的資金の注入の意味があって、社会主義政策を実現できるのである。

子供手当てに所得制限をかけてはいけない

2009-12-17 15:51:34 | 政治

これは言葉尻を捉える話ではなく、「民主党政策に対する考え方」についてのお話です。
あくまでも本エントリは、ここで取上げる記事についての批判ではなく、このような形で世論が形成されることへの危惧感よりのものです。


子育て支援に所得制限は当然!(前田拓生)
http://agora-web.jp/archives/849693.html


「子育て支援」を支給すること自体には賛成ではありませんが、「支給する」のであれば、所得制限をするのは当然だと思います。


「当然」という言葉を使うからには、それ相応の判断基準があるはずだ。
「なぜ当たり前なのか」という説明なしに「当然」という言葉を使うことはできない。
ということで理由について見ていこう。


子育て支援のためにおカネを支給した場合、この世帯は子供におカネがかかるので、そこに現金を支給すれば、その多くが消費に回ることになり、政策効果が高いということから、この政策が出てきたのだと思います。確かに子供がいない世帯や子供が成長しきった世帯よりも「子供のために」という支出が増えるのは理解できますが、一方で、この世帯は子供の将来を考える世帯でもあり、余分なおカネがあれば、できるだけ貯蓄に回そうとする世帯でもあります。

ということは、ある程度所得に余裕がある世帯であればあるほど、学資保険などに支給された資金を回すと考えるべきであり、この学資保険も貯蓄なので、当該保険を扱っている生命保険会社等が企業への貸出に回さない限り、政策効果は減退することになります。したがって、余裕があるであろう高所得世帯へ支給することは、経済政策という観点では意味があまりないといえます。また、福祉目的であれば、なおさら、所得の再分配機能が基本ですから、高所得世帯への支給はナンセンスといえるのではないでしょうか。

以上から、政府として「子育て支援」に所得制限をするのは、至極、当然なことであり、むしろ、政府の方から党へ「マニフェストとは異なるが、所得制限をかけさせてほしい」と申し出るのが普通のような気がします。


民主党の政策に詳しい方は、即座にこの主張が事実誤認に基づくものだということに気づくだろう。

まず、根本的に認識が不足しているのは、民主党の「子供手当て」政策は、「経済政策」でも「福祉政策」でもない
何度も民主党政策担当者がメディアで説明しているように、これは「社会政策」である
イギリスや北欧でなされている積極的社会政策の一環で、経済や福祉への効果は社会政策の結果として求めるのであって、原因として求めるのではない
社会政策としての子供手当ては十分に国家戦略的である


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「子供手当て」は「社会で子供を育てる」という考えに基づく政策である。
それは、子供に投資すれば将来的に社会に利益をもたらすと考えられるからで、社会のために、社会が子供の生活に介入するのだ。
家族を助けるために「子供手当て」を出すわけでも、経済を復興させるために出すわけでもない。
幾分かの社会主義的色合いを帯びる政策で、一般に「社会民主主義」と呼ばれる思想に基づく国家にて採用されている。
ゆえに、「所得制限」などという発想そのものが馴染まない。
所得を制限する理由がないのだから。
むしろ「社会政策」にも関わらず「所得制限」をかけるのは、社会による「子供差別」である。
社会が手間をかける子供とそうでない子供がいるのだから。
(この差別が社会的に問題を引き起こすかどうかは民意次第で別問題だ)
また、この政策は「子供の所有権」が、家族に属するのか社会に属するのか、それとも「子供の所有権」などそもそも存在しないという議論を生成する。
子供の責任を親や家族に求める日本社会において、子供に対する責任を国家が持つという概念は理解し難いのかもしれない。
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確かに、社会政策としての「子供手当て」に後付的に経済政策と福祉政策の意味合いを持たせてしまっている民主党の説明能力の不足が混乱を招いている事実は否定できない。
民主党の政策立案能力も説明能力が低いのは事実だ。
政策間の整合性も一貫性も、その前に各政策の合理性も欠けている。

しかし、「社会政策」として主張しているものを「経済」や「福祉」の軸で否定するのは「論理のすり替え」である。
この「論理のすり替え」はディベート技法としては常套手段(有効で強力)であるが、ここで彼がディベートとして民主党を批判する必然性がない。
これは単に「社会政策」としての視点が抜け落ちている主張である

「所得制限」に関して民主党の「子供手当て」を批判するのだとすれば、こうなるだろう。


これまで「子供手当て」は「社会政策」なので「所得制限」かける必要がないと説明してきたのにも関わらず、ここにいたって財源や国民感情の理由で「所得制限」をかけるということは、どういうことだ!
(党から要望したというだけで政府としては決めていないが)
国は子供を差別する気か?!
今更になって「経済政策」や「福祉政策」に目的を変えましたってことなら、こんなコストのかかる効率の悪い政策止めちまえ!


所得制限をかける時点で社会政策としての子供手当ては終わるのだ。


※注意
本エントリでは「子供手当て政策」の是非について評価はしておりません。
「子供手当て」に対する批判についての考え方を述べているだけです。
個人的に、民主党の「子供手当て」は旧帝国海軍の「大鑑巨砲主義」に似たような発想のような印象を持っています。
(要は、問題解決に至る想定が単純すぎる)
さらにいえば、戦略目的が曖昧なため、戦略実現のために迷走することが目に見えています。
戦略目的の策定と同時に統合作戦の重要性に気づくことがまず初めでしょう。

やはり小沢は日本政界において数少ない民主主義者だ。

2009-12-16 01:07:27 | 政治
今回の一件について保守陣営は怒るだろうけれど、やはり小沢氏の民主主義観は当Blogの主張とずれていない
(小沢の主張が自分と同じと言っているのではない)
彼の目的は「特定の政策の実現」ではなく「日本の民主化」なのだから、そもそもその他政治家や一部識者、記者などと同じ土俵に立っていない。
国家観からして違うのだから、議論が噛み合うわけがない

「憲法を読み直しなさい」天皇会見で小沢氏反論(YOMIURI ONLINE)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20091214-OYT1T00888.htm?from=main4


【記者】
習副主席が来日したが、天皇陛下との会見が30日(1か月)ルールにのっとらない形で行われることになった。



【小沢】
30日ルールって誰が作ったの。知らないんだろ、君は。



【記者】
2005年に。



【小沢】
法律で決まっているわけでもなんでもないでしょ、そんなもの。
それはそれとして、君は日本国憲法を読んでいるか。
天皇の行為は何て書いてある。
それはどういう風に書いてある、憲法に。
国事行為は、内閣の助言と承認で行われるんだよ。
天皇陛下の行為は、国民が選んだ内閣の助言と承認で行われるんだよ、すべて
それが日本国憲法の理念であり、本旨なんだ
だから、何とかという宮内庁の役人がどうだこうだ言ったそうだけれども、全く日本国憲法、民主主義というものを理解していない人間の発言としか思えない
ちょっと私には信じられない。
しかも内閣の一部局じゃないですか、政府の。
一部局の一役人が内閣の方針、内閣の決定したことについて会見して、方針をどうだこうだと言うのは、日本国憲法の精神、理念を理解していない
民主主義を理解していないと同時に、もしどうしても反対なら、辞表を提出した後に言うべきだ
当たり前でしょう
役人だもん
そうでしょう。
だからマスコミがそういうところを全然理解せずに、役人の言う通りの発言を報道ばっかりしていてはいけません。
ちゃんとよく憲法を読んで。
そして、天皇陛下のお体がすぐれないと、体調がすぐれないというのならば、それよりも優位性の低い行事を、お休みになればいいことじゃないですか。
そうでしょ、わかった?

力はまず己を制するために、次に人を制するために使え。

2009-12-16 00:55:35 | 政治
「吉田ドクトリン」の呪縛 (池田信夫)
http://agora-web.jp/archives/843371.html#more


吉田ドクトリンについては、これまでもっぱら軍事費を節約する「軽武装」路線として論じられてきましたが、最近になって当時の公文書からいろいろなことがわかってきました。中でも驚くのは、マッカーサーが吉田に対して服部卓四郎を参謀総長として日本軍を本格的に再建するよう求めていたことです。ノモンハン事件やガダルカナルで日本軍を壊滅させた史上最悪の愚将が「新日本軍」のトップになっていたら、今ごろ日本はどうなっていたかわからない。吉田が激怒したのは当然です。

つまり吉田ドクトリンは、日本が軍と完全に手を切るための「冷却期間」を置く政策でもあったわけです。今では想像できないでしょうが、戦後しばらくは軍関係者の力は強く、服部は「旧軍復活案」なるものを書き、吉田を暗殺して鳩山を首相にするクーデタの計画まで立てました。吉田自身は日本が本当に独立したら自前の軍備が必要だと考えていましたが、服部のような陸軍の亡霊が生きているうちは許さない、という彼の判断は正しかったといえるでしょう。


これは鋭い着眼点だ。
偶然、先日NHKドラマの「坂の上の雲」を見てたら「戦争」と「組織」というものについて考えさせられ、日本の安全保障について思索を走らせていたところだったので、思うところをメモ的に述べたい。

池田氏の主張は、吉田茂の安全保障観は「戦争」を前提としなければ理解できないというものだ。
(現代人は戦争を知らない。知ろうともしていない。日本人が避けてきたことだから。)
今から70年ほど前、大日本帝国軍は日本という国家を「戦争」によって窮地に陥れた
戦争が不可避であったかには様々な観点よりの議論が多々あるため、ここでは評価をしない。
私は戦争が良かったのか悪かったのか、また不可避であったのかどうか、意見を表明しない。
ここでの論旨は、政府、軍の政策および戦略がいかにに貧弱で、無責任で、国民に対して傲慢不遜であったか、その一点に絞られる

戦後になされた先の戦争に関する一般的な認知度はこうである。
(おそらく、現代人のほとんどの人がそう答えるだろう。)


「アメリカの生産力・軍事力の質・量ともに日本のそれと比べて圧倒的で優位であるから、日本は勝てるはずもない戦争を行った。負けて当たり前であった。」


確かに、日本はアメリカに戦争で勝利することは、戦局がどう転んでも難しかったかもしれない。
がしかしだ。
「負ける」としても、よりよい「負け方」があった可能性を排除することはできない
少なくても、歴史が示す「日本の負け方」は、大日本帝国軍が国軍としての役割を果たすためではなく、労力のほとんどを自己正当化のためだけに消費して軍人の自尊心を守ろうとした結果、あまりに多くの犠牲を要したという意味で最低であった
そもそも、大日本帝国軍に属する将校が、国家に対する軍の意味をどの程度認識していたかについても甚だ怪しい。
彼らは国家の発展・防衛のためではなく、ただひたすら勝つことに固執して戦った
それも戦略らしきものを全く持たずに。合理ではなく精神論に固執した。
大日本帝国憲法の不備もさることながら、軍に軍の役割を自己認識させることができなかったという点で戦前の日本は野蛮国家であった。

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日本国民が一億玉砕を望んでいたのであれば、戦争の玉砕的終結を導く軍人は英雄かもしれない。
実際、当時の世論はそれを望んでいる「空気」に満ちみちていた。
しかし、結局、事後的にそれは人々が空気に合わせていただけという「病気」であることがわかった。
この「空気」こそが、時として日本的組織を蝕む「病原菌」なのである。
「空気」の問題は非常に根深く奥深い。
「空気」は暗黙知などとも関係するため、これを排除することは日本がハイコンテキスト社会であることを止めるということを意味し、多くの人には受け入れがたく、また受け入れるべきでもないと私は考える。
我々日本人はこの病原菌と共生する道を模索していくべきだ。
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特に帝国陸軍はひどく前時代的な文化を持っていて、近代戦に対応することがついぞ最後までできなかった。
その中でも日本陸軍に致命的なほど大損害を与えて後世に名を残すのは服部卓四郎や辻政信といった戦略参謀だ
(陸軍は軍司令官よりも参謀の方が強かった)
彼らは戦後も生き残り、性懲りもせず戦前の思想を引き摺り、吉田茂暗殺やクーデター計画を企てたりした。
このような服部卓四郎や辻政信という傲慢利己的な軍人の影響力を削ぐことは、戦後日本にとって非常に重要なことであった
(なんと辻正信にいたっては戦後、衆議院議員と参議院議員まで勤めている。最後はなんともフシギな最後を遂げられたが・・)

池田氏が言うように、吉田茂の時代には、日本が自前で軍隊を持つことが如何に危険であったかについて考慮されなければならない
自衛軍を持つか持たないかについて考えるとき、当時の日本の状況として、軍を制御するだけの近代的制御システムが整っていたのか、また情報操作に耐えうるだけの民度があったか、そこが重要項目だ。

「自分達の国は自分達で守る」

これは当たり前の発想だ。
だが、

「自分達の国を守ろうとして、自分達の国を滅ぼすことがある。」

ということもまた事実であり、それは過去において現実だった。
そういうところに日米安全保障条約の必然性はあった。

戦後、我々は「戦争」を直視することを避けてきたため、我々には「軍」の意味、性質、仕組みについての考慮が抜けている。
我々は「国を守る」ということの危険性についてもっと考えなければならない

そこを通って初めて日本独自の安全保障の話へと入っていけるのだ。

民主主義についての補足

2009-12-15 01:25:01 | 政治
民主主義と資本主義についてはいつか語りたいと思っているが、ここ数回のエントリの補足として次の記事あたりは参考になると思う。
(民主主義は最低かもしれないが、他のどれよりもマシである)


資本主義という不平等で有害なシステム - ブローデル『歴史入門』(池田信夫)
http://agora-web.jp/archives/825869.html


マルクスは、市民社会(市場経済)が必然的に資本家による搾取を生み出すと考えたが、両者の関係はそれほど自明ではない。古来からあるローカルな市場における交換は、現代社会のような大規模な工場による生産を生み出さなかった。それに必要な資本蓄積ができなかったからだ。工場が初めて生まれたのは、18世紀のイギリスである。産業革命の本質は技術的な発明ではなく、植民地から搾取した資本を株式会社によって蓄積する制度的なイノベーションだった。

このように資本主義は、その生い立ちからグローバルなシステムだった。等価交換の均衡状態になったとき資本主義は終わるので、それはつねに変化しながら国境を超えて広がり、中心部が周辺部を搾取し続けなければならない。資本主義は不平等で有害なシステムだが、今のところわれわれはこれよりましなシステムを見出していない。その弊害を国家の介入によって是正しようとするケインズ以来の「修正資本主義」も、市場経済に社会主義を接ぎ木して市場の機能をゆがめてしまった。

著者は資本主義が市場経済と共存できる唯一の経済システムだという経済学者の主張は誤っていると指摘し、別の経済システムが市場経済の上に成立する可能性はあるという。しかしマルクスがそのような搾取なき市民社会として構想したコミュニズムは、現実には逆ユートピアになってしまった。著者も、資本主義に代わるシステムを提案しているわけではない。残念ながら向こう100年ぐらいは、人類はこの出来の悪い経済システムとつきあってゆくしかないのだろう。


言いたいことを全て文章にするのは難しい。
とにかく民主主義や資本主義は決して理想的なシステムではない。
だけど、それ以上によいシステムがあるわけではない。
少なくても私は知らないし、聞いたこともない。
結果、我々は民主主義かつ資本主義と付き合っていくしかない。
じゃ、どうやって付き合っていくべきか。
その前に、これまでどうやって付き合ってきたのかを振り返って、
そして今政治はどちらに向かっているのか、
その後、今後どうしていこうか考えたい。
みたいな話を私はしたいのだ。

政治を直視する勇気が必要(政治とはトレードオフを前提とした調停システムに過ぎない)

2009-12-14 23:50:06 | 政治
ここ2回のエントリで民主主義についての意見を述べたが、頂いたコメントに返信を書いている内に、次に進む前に「政治」についてもう少し補足しておく必要性があると感じたので、ここでちょっと一呼吸置きたいと思う。

民主主義は最低かもしれないが、他のどれよりもマシである
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/31bed38fcbb14bc66063673dc77e0c53

我々が手にしたのは「政権交代」ではなく「民主主義」である
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/dfe970736075ccb96e27ee4328d9528c


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我々が何かに支配されるということは、
我々がその何かを必要とすることである。

必要とするということは、全ての欲求のはじまりである。

しかし、「生きる」ということは「必要とする」ということである。

我々が生きる限り、何かを必要とせずにはいられない。

つまり、我々は生きていく上で何かに支配されざるを得ない。

その性質をよく知り、うまく利用する人は、
人をよく支配するために、人によく求めさせる。

時として、己の不足を大いに主張して、
己のやるべきことを求めさせるだろう。

我々がそれに応えるとき、我々は支配される。

我々が真の民主化を望むなら、
我々は政治に何かを期待することをやめなくてはならない。
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そもそも、「政治」というシステムがなぜ存在するのかについて考える。

祭政一致の時代(例:古代日本)、コミュニティの重要な決定は、神意を伺い誤りの無きよう行われた。
人々を治めるには、先ず神々を祭り、それから政策を決定した。
神に仕えることを「祭り」と言い、天皇に仕え奉ることを「政事」と言った。

つまり、古代より「祭り事(政)」とは「政策決定」のことであった。
古代と現代の違いは、政策決定の判断根拠を「神」に求めるのか、それとも法律や科学に求めるのか、それだけであり、根本は変わらない。

では、なぜ「政」を行う必要があったのか
それは、判断に困ることがあったからである

なぜ困るのか
それは、利害が一致せぬことがあるからである

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皆が同じことを喜び、同じことに悲しみ、同じことに怒れるなら、政を行う必要はない
しかし、人間が一人ひとり異なり、そして自由がある以上、自分と誰かの喜ぶことに違いが生じ、そこに争いが起きる
法律などというものが存在せぬ古代には、争いの調停は神(を祭る神官)や長老によって行われた。
(ちなみに天皇は意味上では神官である。神ではない。)
教育水準が低くノウハウが口伝により伝承されるようなコミュニティでは、知見は限られた個人の属性であり、その特定の個人の裁量によって物事を判断することが最も合理的であった。
また、古代ではその場その場を生き抜くことが何よりも重要であったため、長期的な成長戦略などよりも、その時々に起きる環境変化に対応することが求められたので、生活の知恵や既成のノウハウが何よりも重要な知見であった。
(そんな人類の歴史を鑑みれば、我々に長期的戦略的思考法が先天的に身についていないのは当然)
大自然の脅威に生活を振り回される人類にとって、自然を司る神の重要度が、今よりも遥かに大きかったことは想像に難しくない。
(今では台風ですら一過性のものに過ぎなくなった。が昔は生活が破壊させられた。)
その神の言葉は、何よりも優先されるべきものとして、政という政策決定の決定的な根拠として示された。
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利害が一致せぬことがあるのは、人類としての必然的現実である
そして、その問題の「調停」機能が「政」である

では、神官や長老、政府などの「政」を行う「機関」が必要であった理由は何か
それは、個々人で調停を行うにはコストが高すぎるからである

これは想像するのが簡単だ。
コミュニティの構成人数が2,3人であったなら、調停機関は要らない。
直接個々人で話し合えば(喧嘩になるかもしれないが)事足りるからだ。
しかし、人数が10人、20人、、100人と増えていけばどうなるだろうか。
100人が関係する問題を100人で話し合うのは非常に骨が折れる作業である。
いや、もちろん可能ではあるし、そういう村は今でもあるだろう。
しかし、100人の意見を合わせることは簡単ではないし、難しい問題になれば議論が発散する可能性が高い。
皆が暇であればまだしも、それぞれの仕事に従事せねばならない場合、また教育水準が低い場合には、議論の熟成というものは永遠行われぬであろう。
参加者が1万人ともなると、もはや全員参加による議論は成立せぬものとなる。

このような状況を解決するのに手っ取り早いのが代表者を決め、その人に意思決定を委ねることだ
ここに、「政」という「調停」は、「意思決定者」という「調停機関」のものになるのである
ただし、その際、意思決定の根拠に皆が納得する必要が出てくるので、意思決定者にはそれなりの権威が必要であった。
昔であれば「神」や「軍事力」、今であれば「民意」であろう。

人類が拡大し、人口が増えると調停コストは益々増加し、そして取り扱うべき問題も同様に増加した。
こうなると、「調停機関」には相応の調停能力が求められるようになる。
調停に対する要求量が、数少ない意思決定者の処理能力を超えるのだ。
ここに意思決定者を補佐する「官僚組織」が出来る。
(官僚組織は意思決定者ではないので「権威」をまとう必要がないのもこれが理由)
その資金は調停を必要とする人達(国であれば国民)によって提供された。

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税金というのは一方的に取られるようなイメージがあるが実は違う
もともと自分達のために出資しているのである
でなければ「調停機関」に税をむしり取られてまで、彼らの言うことを聞く必要がない。
支配者と被支配者には、被出資者と出資者という関係が成り立つ。
これは想像しにくいかもしれないが、下記の事例がこの主張の正しさを裏付けている。
出資者たる被支配者が、被出資者たる支配者に愛想を尽かした時、支配者はすげ替えられる
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このようにして「政」を行う「機関」はできた

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軍事的対抗手段としての国家の成り立ちを主張する人がいるかもしれないが、それも利害の調停です。
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つまり、「政治」とは、もともと「利害の調停システム」のことなのである

その意味で、全ての政治的活動から利害関係を無くすことは不可能なのである
政治が利害調停システムとして、社会・市場に対して介入を行うシステムである限り、それは「政治」そのものが利害を伴なうものなのだから
極端にその役割を表現すれば「誰かが損をして誰かが得をするのが政治」である。
(三方一両損という考え方もある)

ゆえに、政治家の評価とは、その損失と利益とのバランスを社会と個人の両側から見てどのように取れるか、にかかっているのだ。
政治は時として、誰かを怒らせ、誰かを喜ばすものだ。
そうやって政治に振り回されるのが嫌だというのなら、我々は「政治に任せてはいけない」のである
我々がやらなければならないことは、政治に政治君主を求め歩くことではなく、利害の調停を誰かに委ねてはいけないのである。
皆がそれに気づいたとき、真なる意味での民主主義が理解されるときだと考える。


さて、ここ数回のエントリについてまとめよう。


現代における調停コストを考えれば「調停システム」としての「政治」は認めざるを得ない。
(無政府主義や夜警国家的な政府は望んでいる人はいるけれど。)
そして、「政治」が「調停システム」であるという性質上、政策によって誰かが得するとき、誰かが損をすることを意味する。
しかし、損得という感覚は相対的概念だから、損得を感じさせない政策は有り得る。
それがマヤカシなのか知恵なのかの評価はここではしないが、出資者としての国民の立場からすれば、政治にはより賢くあって欲しいと思うのが自然。
調停システムがよく機能するためには、参照される情報に不足があってはいけないし、また、一部のパワープレーヤーが調停システムに不平等に大きな影響を持つことを避けるためにも、より多くの声が上がることが重要である。
調停システムには公平で合理的であることが求められるので国家を代表する内閣(政府)が位置づけられ、より多くの声を拾い上げる機関として国会を位置づけ、その調整は裁判所(司法)によって行うのが、これまで人類が積み上げた知恵である。


最後に、我々が政治というものについてどう考えるべきか述べる。
(まとめを読むと自然と導かれるはずだ!)

どれだけの損失を許容するのか。
どれだけの利益を期待するのか。
そしてそのために、どういった調停を行うべきなのか。

つまるところ、当Blogのいつもの主張通り「トレードオフ」である。
このたった3行の問いが、日本の民主主義を変えるだろう。


備考:
古来より日本では「天下を治め人々を治めるには先ず神々を祭り、それから政事を行うべき」とされる。
日本の伝統は「祭政一致」と「神事優先」と言われる。
確かに、日本の政治をみると、政策決定の根拠は情緒論である。

本質の時代

2009-12-12 16:45:11 | 政治
音声Onにしてお楽しみください。

鳩山由紀夫vs.鳩山由紀夫Ⅱ クローンの攻撃
http://www.youtube.com/watch?v=5SYAqroC2S0&feature=youtube_gdata

政治というのは最大の利権だけに、人間の創造性のあらゆるものが利用される。
コントのネタとしても最適だろう。

にしてもセンスのある人は多いな。
100万人に1人でも、IT技術が確率分布を無効化するから、数は問題でなくなる。
あらゆるもののデジタル化とIT技術の進化に伴う参入障壁の低下こそ、権威主義的な日本の経済構造を揺るがすわけだ。
中身のない既得権益と化した権威は時代とともに必ず崩壊していく。
政治も例外にあらず。

「本質の時代」の到来か。

我々が手にしたのは「政権交代」ではなく「民主主義」である

2009-12-12 16:29:05 | 政治

小沢一郎に対する個人的な見方を披露する前にもう1つ2つほど前置きをおきたい。
前回は「民主主義」について述べたが、今回は「民主党」について私見を述べる。


まず、リンク先のブログを読んで頂きたい。
一部引用しながら感想を述べ、最後に持論を述べたい。

自民党麻生政権のゾンビと化した民主党鳩山政権(極東ブログ)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/12/post-2252.html


鳩山氏の志は今年の総選挙時も変化がなく、「国債というものをどんどん発行して、最後に国民の皆さんに負担を求める。こんなバカな政治をやめたいんです。みなさん」(参照)と熱弁していた。しかしもうお馴染みの鳩山ブーメランのとおり、その「バカな政治」とやらを彼自身が推進することになった。悪口ではない。鳩山首相は素直に反省している。


私は、鳩山政権の方針転換は"既定路線"だと考えているので、自民党系の人々や一部知識人の方々が怒っているのはノリツッコミにも思える。
初めからダメなのわかっていて、結果ダメだったからツッコミいれてるのと同じような姿に見える。
古典的なコントと同じではないか。
ここは極東ブログの主張に賛同する。


しかも、政権交代にあたり経済対策が無策であったことも、ようやくきちんと反省された。この素直な低姿勢が、いくら脱税をしても国民から愛想を尽かされない秘訣もあるのだろう。


これは違う。
初めから民主党への期待は低かった。
(しかし根拠のない楽観的期待は高かったが、これは宝くじの当選を夢見るのと同じ)
当Blogでは政権交代の当初から主張しているのだが、私は民主党の支持率が高いのは自民党政治への嫌悪感だと捉えている。
国民は民主党が不甲斐無いのは百も承知だが、もしここで民主党政権が瓦解してしまったら自民党に戻らざるを得ないが、それは選択したくないのである。
一部メディアも主張するように、民主党の高支持率は、積極的支持ではなく消極的支持によるものだ。


先日のアフガン小切手外交でも民主党は米国に言われたままの金額をエイと50億ドルに決めてしまった。密室でエイやと何兆何億というカネの使途を決まってしまうのは、さすがのリーダーシップと評価する向きもあるだろう。が、事業仕分けであれだけ連日多数で大騒ぎをして、埋蔵金を除けば0.6兆円しか出て来ず、しかもこれから削りすぎを修正することになる金額の10倍近い額が、エイと密室で決まる様は感動的でもある。


これも既定路線で、国民はよく理解している。
そもそも、事業仕分けを全面的に支持しているのはほんの一部の人達だけで、多くの人は全体設計の無さに対して不満を持っている
それでも事業仕分けが支持されるのは、少なくても談合予算に一部風穴を開けることに民主党が成功したからだ。
それが意図したものか、意図せざるものだったかは別にして、数あるうちの一つの改革が実施されたから、その一つを評価しているだけである。
民主党が全体最適の観点から予算というものを把握できていないのは誰もが知っている。


当然その意味は、97兆円まで積み上げたマニフェストのバラの夢を16兆円分刈り込むということだし、民主党の掲げたマニフェストで予算のかかるものは消えてしまうということだ。この点ではなんとなく民主党内で合意が取れつつあるようだ。


民主党のマニフェストが完全実施されるなどということを、国民の誰が予測した、いや望んだのであろうか。
民主党のマニフェストが程度の低い各政策の寄せ集めでしかないことは、誰もが知っていることだ。
にも関わらず国民が民主党を選んだのは「政権交代」を望んだからであり、民主党そのものを政権与党として高く評価したからではない
総選挙後、惨敗した自民党議員が発した「民主党に負けたのではなく、政権交代というフレーズに負けた。」というのは正しい解釈だ。
国民は民主党を選んだのではなく「政権交代」を選んだのだ。
それでも私は政権交代当初より「民主党がマニフェスト堅持の旗を上げ続けることには大きな意味がある」と主張するものであった。
それは、マニフェストを守らなくてもよいということが周知されてしまったら、政権与党としてはあまりにも防御力が低い民主党が数多の利権集団に飲み込まれてしまうと考えたからだ。
ゆえに民主党は防御陣形が整うまでマニフェストの旗を降ろすわけにはいかないのだ。
防御陣形を整える役目はひたすら小沢一郎が担っている
彼が近代日本政界における稀代の戦略家だということの証でもある。


もちろん外国人参政権や夫婦別姓などの改革にはそれほどの予算はかからないから、そうしたことに今後民主党は注力していくことでマニフェスト達成ということになるのかもしれない。が、実質的には民主党のマニフェストは終了した。これで普天間飛行場の沖縄県外移設が達成できなければ、政権交代の意味もなかったということに終わるだろう。

民主党鳩山政権は自民党麻生政権のゾンビと化したのである。


これは表現上の誇張なので、いちいち取上げるのもfinalvent氏に失礼だが、政権交代の意味はあった。
先ほどから述べているように、民主党がマニフェストで公約した内容を完全実施できることなど国民の誰も考えていなかったし、誰も望んでいなかった
民主党による政権交代の意味は、民主党による政策にあるのではなく、既存の政治制度に終止符を打つことである。
いや、終止符を打とうと民意が動いたことである。

これまでの日本の政治は民主主義の形式をとっていたものの、その効果をほとんど出せずにいた
(民主主義の効果を引き出すことについては前回のエントリを参照)
政治に関わるのはひたすら一部のパワープレーヤーのみであり、そして政治は一部のパワープレーヤの意図するように動いた。
それが可能であったのは、日本経済が成長していたため富は自然と拡大し、国民が広く政治に参加する必要性を感じていなかったからだ。
だが、冷戦の終結やIT革命などによる経済のグローバル化が、この右肩上がりの日本経済を無力化し、大打撃を与えてしまった。
日本経済は成長できなくなるどころか、激しいグローバル競争にさらされ、現状維持すらままならぬようになった。
世界は1990年代より、海上戦から航空戦の時代へと移り変わっていったのだ。
だが、日本は過去の成功体験により合理的な現状認識ができないまま、艦隊戦力の増強に熱心になるばかりであり、根本的な解決の道をとらず、逐次的な処方箋ばかり施して経済構造を継接ぎされた温泉旅館のように複雑化していった
この結果、日本は資源を無駄にするばかりか、誰にも崩せないような補完性の強い巨大なシステムとなってしまった。

経済が成長しているうちは、拡大するパイから配分することが可能なので配分量は増加する。
しかし、経済の成長が止まると配分は既にあるパイから行わなければならなくなる。
ただでさえパイの拡大が止まると配分量が減るのに、少子高齢化などの要因によって配分量を増やす必要性に迫られる状況に至った
つまり、持てる者から持たざる者への富の異動がこれまで以上に起きることを意味する
これは、持てる者には受け入れがたい要求である。
なぜなら、パイが拡大しない以上、市場は既にあるパイの奪い合いとなる。
持てる者は、いつ自分が持たざる者になるのか、その潜在的リスクに怯える状況に置かれてしまう。
このような状況下でパイを維持するためには相当の努力を要するが、国家によって富を収奪されてしまうということは、この努力を無に帰すごとき処遇なのである。
これでは誰が努力をするようになるのだろうか。
結局、今の日本ではパイの奪い合いが起きぬように規制を強化し、持てる者をそのまま持てる者に固定する声が大きくなり、政治がこれに迎合した。
このような談合体制がもたらす弊害は格差の固定化である。
近代における唯一の例外は小泉政権であったが、この政権を継承した安倍政権がわずか1年で終わると、日本の政治は逆戻りした。
談合体制、一部のパワープレーヤ重視の政治に戻った。

この後、「持てる者からとらずして持たざる者へ与える」と主張する集団が現れた。
民主党」である。
その論理は単純であった。
「霞ヶ関という最大の持てる者に最大の無駄がある。その無駄を省けば持たざる者へ与えることが可能だ。」というものだった。
この論理が正しくあるための条件は「霞ヶ関に無駄があること」であったが、「無駄」という曖昧な価値基準を確からしめる裏づけはなかった
民主党の主張は「無駄」という条件が崩れると、主張の全てが崩れるという非常に危険な論理であり、しかも論理崩壊に備えたバックアップ・プランらしいものすら持っていないようだった。
実際その危険性は再三にわたって指摘されたが、国民はそれを承知で民主党を選んだ。

国民は全てを承知で、明日の日本のために「政権交代」というリスクを取ったのだ
これまでリスク回避ばかりしてきた国民が、リスクテイクしたのだ。
これを日本政治史における革命と呼ばずに何と呼ぶ。


与党・民主党に自浄作用が働いていない(中川秀直)
http://ameblo.jp/nakagawahidenao/entry-10407878615.html


今日の日経新聞社説は「政権交代のコストとしても程度を超えている。沖縄の米軍普天間基地の移設をめぐる鳩山由紀夫首相の迷走である」ではじまる。社説は指摘する。

[中略]
問題は、民主党内で自由な言論が抑えられているように思われることだ。与党・民主党に自浄作用が働いていない。政権長期化・次期選挙勝利の呪縛にとらわれている中で、日本国の対外的信頼が失われ、国家的危機が顕在化している。

次の選挙に勝つために国家的危機を放置するのでは、何のための国会議員か。


野党議員としては当然の見方であるが、中川氏ほどの人物ならもう少し大局的な見方ができてもよいのではないか。
(中川氏がその程度だとやっぱりもう自民党もだめかもしれない。)
確かに、日経新聞が指摘するように「政権交代のコストとしても程度を超えている。」という部分に反論する気はない。
しかし、「小沢一郎が政権長期化・次期選挙勝利に固執している」と考えるようでは、いつまで経っても小沢一郎には勝てまい
中川さん、それは手段であって目的ではないのだよ。
小沢は民主党が素晴らしいなんてこれっぽっちも思っていないよ。
ただただ、彼は日本に本当の民主主義を実現しようとしている、唯一無二の政治家なのだ

つづく。。

民主主義は最低かもしれないが、他のどれよりもマシである

2009-12-11 00:24:42 | 政治
本エントリにおいて述べられている民主主義に関する説明は、全て筆者個人の考えであり、その妥当性については一切責任を負わない。
題名に"他のどれよりも"と書いてあるが民主主義以外のものは何ら明示的に述べていないことに後から気づく。しかしこれは内容が足りないのではなく題名が後付けだからなのである。


前代未聞のボーナス課税 (ウォールストリート日記)
http://wallstny.exblog.jp/11749444/


イギリスのDarling財務大臣は、英国内で経営される銀行が来年4月までに2万5千ポンド(約360万円)以上のボーナス支払いを行う場合には、「銀行が」その50%の税金を納めることを定めて、即日導入したそうです。従業員は通常の40%の所得税を課税され、その税率も4月から50%に上がることが予定されているそうです。

Bloombergの記事の中で会計事務所大手のKPMGが算定したところによると、銀行が従業員に100万ポンド(約1.4億円)のボーナスを支払った場合、英財務省は、銀行から50万ポンド、従業員から40万ポンド、社会保険13ポンドと、合計でボーナス支払額以上を受け取ることが出来るようになるそうです。


銀行が従業員に高いボーナス払うと、イギリス政府は銀行からその50%の税金を取ると。
そうすると、従業員から所得税も取るのでイギリス政府は合計でボーナス支払額を税金として取ることになると。

国も国民も弱いのは、金融機関が高額ボーナス出すことには反対するが、金融機関を潰すことにはGoサインを出せないことだ。
それは、金融が他の産業においてボトルネックであるからで、言わば国も国民も金融機関に弱みを握られているといえる。
要は「あいつら高い給料もらいやがって」と思う反面「でもあいつらいないと自分達の仕事が成り立たない」というジレンマがあるのだ。
そもそも「あいつらが高い給料をもらう」ことが可能なのは、彼らがボトルネックを握っているからなので「あいつらに高い給料払いたくない」と思うなら、彼らの仕事を必要としないようにしなければならない
例えば、OPECが石油価格について強い影響力を持てるのは、彼らが石油生産を握っているからなので、中東の石油王に嫉妬するなら、我々は石油に依存しない経済構造を構築する必要がある。

このような政策は、イギリス全体の経済を考えるとイギリスのためにはならないと思うが、国民感情を背景にした政治家の心理を考えるとよく理解できる。
経済学者や財界の人達は、こういう政治家のあり方を批判する人も多いだろう。
「どうして政治は衆愚政治に陥るのか」と。
そこで、今回は民主主義というものについて考えてみたい。
(これまで当Blogで述べてきたところと重複する部分が多いがご容赦いただきたい)


民主主義という制度において、民衆の投票によって選ばれる側の政治家の心理が、民衆の反応に対して冷徹でいられるはずがない。
真なる意味で何が正しいかを知るのが神のみであるならば、我々人間が考える正しさは常に間違える可能性をはらんでいるわけで、だから我々はその間違いに備えて代替手段というオプションを持つべきで、これを政治制度に組込むことが不可欠である。
でなければ、ナチスや旧帝国陸・海軍のような独走を許してしまい、取り返しのつかない結果を招くことになる。
そして、我々が辿り着いた制度が「民主主義」である。
(未来において何主義が待っているのかは不明だ)

しかし、「デモクラシーのコスト」でも述べたように、民主主義は代替手段というオプションを持つ代わりに、一貫性と合理性を欠く

人間にとって己の言動を否定するのは容易ではない
一度決めた「正しさ」を、その後に改めるのは簡単ではないのだ。
むしろ「君子豹変」する勇気を、我々は卑怯として受け取ることの方が多い。
それは、我々人間が他との関係性の中で「正しさ」という共有経験を持って自分自身のアイデンティティを確立しているからである
自分自身の「正しさ」を否定することが容易ではないのは、「正しさの否定」が「アイデンティティの喪失」、つまり「自分自身の否定」を意味するからだ。

結局、我々人間は、自分自身の「正しさ」を自分自身で制御することができない
だから、我々はよく利益集団や権威者の無謬性や反省のなさに怒るが、組織や人間に対して自浄作用を期待してはいけない
それは、もともと難しいことなのだ。
しかし、人類はここ1万年ほどの時間の中で、気づくのには時間がかかったが、それを学んだ。

「正しさ」が人に付いて回るものなのだとしたら、人を変えることのできる仕組みが必要であることを。
そして、それは君主制や貴族性、世襲性、一部の利権コミュニティのみから選出される選挙制度では効果が不十分であることを学んだ。
利害関係者のみでは「正しさ」を変えることはできない。
あらゆる価値観が入り混じってこそ、あらゆる視点での「正しさ」が見出される
それゆえ、民主主義制度は、奴隷制も人種、性別、文化も少しずつだが乗越えてきているのだ。
あらゆるプレーヤーがそろってこそ効果を発揮しうる制度が民主主義だからだ。

人類が民主主義制度の名の下に、あらゆる人に1票を与えてきたのは、それが「神の下の平等」という自然権に基づくものだからではなく、それが民主主義制度の目的に適うからなのである

その意味で、民主主義制度の下では、皆が声を上げて己の利益を主張することが重要なのだ
我々が恐怖や諦めにより、声を上げることを止めたら、その時、民主主義はその効果を発揮できず終わる
我々は一部の「正しさ」の独走を許す事になるのだ。

民主主義の欠点は、個々の声を尊重することで、全体最適視点での合理的判断が難しいところである。
そこで考え出されたのが「三権分立」制度である。
立法、行政、司法を3つに分けることで、バランスをとろうとするものだ。
個々の意見を反映する国会(立法)、全体最適を指向する政府(行政)、両者を調停する裁判所(司法)である

この考えは議院内閣制ではなく、大統領制の方に近い
よく「全体設計は政治で」と言われることが多いが、地域の代表者である国会議員に全体最適を考えろというのは無茶な要求である
(もちろん、全体最適派もいるが、仕組み上なっていないのに期待するのは如何なものかと思う。)

全体最適を考えるのは国家の代表である大統領(内閣)が成すべきことである
「政府と議会が対立すると何もできないから政府与党一体がよい」というのは現実的な妥協案として認めるが、私には日本人が何故そこまで議院内閣制にこだわるのか理解できない。

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唯一、説得的な説明は"イギリス系の保守"を標榜するグループのもので「連続性の確保」というものである。
(大陸系の保守とは違う)
人間の知性には限界があることを前提として、非連続的な変化をよしとしない思想だ。
人類がその歴史の中で積み重ねてきたノウハウや暗黙知に込められた意味を重要視し、革命や改革のような非連続的な変化の背景にあるであろう安直な願望を否定する。
物事が、革命や改革などの何らかの手法によって一挙解決するというようなうまい話は、必ず信仰のような思考停止を含むものであるはずで、危険であるというものだ。
簡単に表現しすぎて怒られるかもしれないが、「進化は常に漸進的であるという前提で温故知新の精神で物事に取り組むべし」というような考え方だ。
このような考え方に立つと、劇的な政権交代や改革などはまやかしであるから、民意が右に左に振れるような事態は好ましくなく、柔軟性よりも堅実性をとる保守の姿は理解できなくもない。
しかし、「現在」とは常に「進化の過程」なのだから、革命でも改革でも政権交代でも、これもまた漸進的な進化の一部なのであって、結局のところ、民意の成熟度によってしか、つまりノウハウや暗黙知のさらなる積み重ねでしか保守たりえないわけである。
また「温故知新」といっても程度は相対的にならざるを得ないわけで、この言語では表現できない絶妙なバランス(暗黙知)を如何に民衆が習得するかは、いろんなことを経験するしかないのである。
それが歴史の繰返しだとしても、何度も繰り返して学ぶしかないのである。
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地域の代表者が政党という超地域組織においてグルーピングされ党議拘束がかかるなんということの方が不自然だ。
政策集団としての政党を正当化したいなら、地域ではなくコミュニティ型選挙にするか、全国で一選挙区にするべきだ。
また、政治家は党として責任を負うのではなく、政治家本人として責任を負うべきであると考える。
そういう意味で、政治家の国会(委員会含む)における投票行動は記録しオープンにされ、後で追跡できることが重要だ。
政府と国会との程よい緊張関係があってこそ政策もよくレビューされるはずであるし、そうすれば「脱官僚」などというくだらないテーゼに構う必要はない。


・・長くて疲れた。
途中だが、ここまで述べれば十分だと思う。
今回の内容を踏まえて、次回は小沢一郎の真意を語ろうと思います。(今度こそ!)
(もちろん勝手な私見でしかないけれど)
なぜかというと、民主主義というものをよく理解しないと、小沢の真意が汲み取れないのです。


サンプロ去ってサンジャポ残る

2009-12-09 22:11:42 | TV・書籍
テレ朝来春大改編!(スポニチアネックス)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091209-00000045-spn-ent

ジャーナリストの田原総一朗氏(75)も「サンデープロジェクト」(日曜前10・00)を降りる

まじか!?
この番組については賛否両論あるが、私は好きだった。
実際に政治を動かす力を持っている数少ないTV番組だからだ。
田原氏も既に75歳だからいつかは降りると思っていたが、その時がきてしまったか。
視聴率も伸び悩んでいたのだろうか。

後任については人選中とのことだが、後任なんているわけないだろう。
どのみちサンプロも終わるということか。

残念だ。

まぁしかし、今後にも期待したい。

民主党には猛獣(亀井大臣)使いが必要だ

2009-12-09 07:12:00 | 政治
当Blogの想定通り菅直人氏が亀井静香氏とやりあっている。
菅氏くらいしか闘える大臣がいないというのは情けないことだが・・

ふと思った。

亀井静香大臣の的外れな暴走を批判する意見が多いが、彼の話を聞いていると、彼の信念だけは認めたくなる。
彼が一生懸命だからだ。
方法論を横に置くと、彼は彼なりの政治的背景を背負っていて、中小企業や地方をなんとかしようとする心意気だけは認められていいと思う。

いや、正確にいうと「認めたくなる」というより「もったいない」という表現が私の印象により近い。
彼は社会主義者かもしれないし、小泉・竹中両氏を心底憎んでいるようだが、それは結局、彼が方法論を知らないからで、彼が狂っているからではない。
彼は彼なりの正義に向かって残り少ない人生をかけて突き進んでいる。

私は、こういうのを見ると「もったいない」と思う。

「正義」に向かっているということは、イコール「なんとでも操作できる」ということを意味している。
なぜなら、「正義」というのは相対的な価値基準で実態がなく、時代や環境とともに変わっていくものだからだ。
そんなアヤフヤな価値基準を妄信するのは人間として最も危険な行為であるが、それと同時に最も有用である。
「正義」をちょちょんと変えてあげればいいのだ。

逆に最も組しがたいのは、正義を信じないタイプの人間だ。
こういうタイプとは、正しさを共有するのに骨が折れる。
時としてこういう人間を「冷徹な」というのだろう。
その代わり、最も合理的な戦略をとれるのはそういう人間だ。

民主党に亀井大臣を使える若手政治家がいないということが、民主党の弱さだと思う。
亀井氏に合理的で説得的なレクチャーができれば、状況がうまく動かせるはずだ。
こういう武闘派や大物権威者をうまく使うというのは、どの分野でも行われている。
嫌らしいと言われるかもしれないが、これは個人の処世術ではなく、自分達のためのチームプレーだ。
個人プレーで行うと、亀井氏が失脚すると共倒れのリスクがあるが、あくまでも党としてやれば戻り先もあり安泰だ。

民主党の次世代エースの大塚耕平氏(金融副大臣)がそれを見込んで当てられているのかわからないが、若手政治家の教育としても間違いなく使える。

小沢一郎が、新人議員を選挙と研修付けにすることについて「新人でもベテランでも同じ給料もらっているのだから」と言って批判する人達が多いが、こういう権威主義というか妬みで人を批判するのはやめた方がいい。
そっちの方がよりよい結果をもたらす可能性についての考慮が抜け落ちてしまっている。

そういうことなど考えると、亀井静香につけて修行させた方が得るものがあるのかもしれない。
小沢一郎が田中角栄から学んだように。

余計な心配はいらない。
弟子は師匠を超えられないかといえば、そんなことはないだろう。
小沢一郎と田中角栄とはまるで違う政治家であるように。

トレードオフについて考える [初級編]

2009-12-05 01:03:01 | 哲学・思想
今回のエントリはトレードオフに対する理解を深める初級編です。
いや、単に時間がないなかでエントリ数だけ稼ごうとするものです・・。

私は日常的に次の言葉をよく使う。どれも同じ意味だ。


「この宇宙ではトレードオフから逃れることができない。」
「この宇宙では相対的であるということから逃れることができない。」
「この宇宙において絶対性とは有/無意識的に問わず幻想に過ぎない」


しかし、そんな話をすると、こんな反応が返ってくることがある。


「必ずしも、トレードオフではないことがあるのでは。」
「例えば、"宝くじにあたること"とか。」
「働かずして棚から牡丹餅じゃないか。」


私はこう答える。


「あなたが、宝くじで3億円当たったとしよう。」
「そうすると、あなたは"3億円当たらなかった人生"で得たであろうことを失ってしまうことになる。」
「例えば、あなたは苦労して家を建てる経験を失う。」
「お金を細かく工面することで成り立っていた生活を失えば、あなたはこれまでと異なる生き方をすることになる。」
「慣れない生き方は、時としてあなたに慣れない経験をもたらす。」
「泡銭を手に入れた人間の末路を示した物語は世の中に多い。」


こういう話を一発で理解できる人は、そもそも「トレードオフ」を理解できる人だ。
たいてい次のような反応を示す。


「そんなの屁理屈だ。」
「"たられば"を使えばなんとでも言える。」
「私は3億円当たっても変わらない自信がある。」


トレードオフを理解できない人は、自分にとっての利益が何かが見えていない。


「私は仮定の話をしたのではなく、事実を述べただけだ。」
「もしあなたが貧乏なら、金持ちの経験をすることはできないし」
「もしあなたが金持ちなら、貧乏の経験をすることはできない。」
「何かによってあなたが変わるかどうか、もちろんそれはあなたの問題である。」
「そのこと自体、私がどうこういうことではない。」
「しかし、あなたが何かを得たということは、それが得られなかった場合に経験したであろうことを失ったのと同意なのだ。」


反射神経がいい人はこう反論するだろう。


「"経験を失った"というが、得たい未来を得て、得たくない未来を失ったといえるのではないか。」


いつものパターンでこう答える。


「それが"得たい未来"なのか"得たくない未来"なのか、なぜあなたにはわかるのだ。」
「未来が実際にどうであるかは事後的にしかわからないはずだ。」
「あなたは過去においては得たくなかったけど、未来において、得てよかったと思うかもしれない。」
「その場合、あなたは得をするのか、損をするのか。」


結局、次のようなコメントをする。


「でも、3億当たったら生活楽になるし、欲しいもの買えるし、バラ色の人生が待っていそうじゃないか。」


議論が堂々巡りするので、少し結論染みたことをいう。


「だからそれは、経済的な余裕は手に入れるが、経済的余裕がないことによって得る経験を失う。」
「つまり、3億円を手に入れるということは、基本的にあなたが変わることを意味している。」
「あなたが本気で変わりたくないと思っているなら、3億円を手に入れても、3億円を手に入れていないかのように振舞うことだ。」
「その場合、あなたには3億円を手に入れる意味があるのだろうか。」
「逆に、3億円が欲しいなら、あなたはあなたを変えることを覚悟しなければならない。」


つづく。。

ブログ近況報告(2009/12/01)

2009-12-02 01:38:28 | ブログ情報(News Release)
不定期でお届けしているブログ近況報告です。

最近睡眠不足で今日は仕事中に意識を失いかけた。
(単に気づいたら寝てたというだけだが・・いつものことか)
ということでブログ更新できてません!
申し訳ございません!

気になるニュースとしては、やはり日銀ですかね。
政治家や経済評論家という職業の方は、どうしてそううまい話に乗りたがるのでしょうか。
デフレや不景気を技術的に解決しようというところに、科学者にありがちな科学信仰に似たものを感じざるを得ません。
(いろんな意味で名を上げた高橋洋一氏なんかは「日銀原理主義」などといって日銀批判してますけれど、彼らだって馬鹿じゃないんだから彼らの言い分を理解しようとする姿勢が足りませんね。)
マスコミもグルになって日銀に政治的圧力をかけて、流れに乗って安っぽい正義掲げちゃって情けないと思う。

繰り返しになっちゃうけど、この宇宙ではトレードオフから逃れることはできない。
だから「こうすれば全て解決」なんて上手い話は有り得ない。
もちろん、専門家は「実力発揮を阻害するボトルネックを取り除こう」と言っているので、「こうすれば全て解決」と言っているのは素人だけなのだが、総体として議論が矮小化されてしまっている。
でも日本経済のボトルネックがそんなところにあるとは思えないんだけどな。
なんだろ。やっぱり日本人は技術に凝っちゃうんだろうな。
「手段の目的化」
これを避けるための方策でもエントリしなきゃだな。
いつになってしまうのか・・。

今週のエントリ目標は「みんなわかっていない。私が小沢一郎の真意を語ってみる」です。

それではまた・・。