
たぶん、1年のうちに10回くらい書く「AKB48」と「理念」についての話。
今回は山本七平より。
イザヤ・ベンダサンbotまとめ/
「踏絵の日本」と「焚香のアメリカ」/
~”無意識の前提(日本教)”を意識しないが故に「言葉の踏絵」の世界から抜け出せない日本人~
http://togetter.com/li/382051
(太字およびフォントサイズ変更による強調は当Blogの判断によるものです。)
※イザヤ・ベンダサン著『日本教について』より抜粋引用
「踏絵」というものを御存知ですか。
これは三百年ほど前、時の政府がキリスト教を禁止したとき、ある者が、キリスト教徒であるか否かを弁別する為に用いた方法です。
すなわち聖母子像を土の上に置き、容疑者に踏ませるのです。
踏めばその者はキリスト教徒でないと見なされて赦され、踏むことを拒否すれば、その人はキリスト教徒と見なされて拷問され、処刑されました。
ところで、もし仮に、私か貴方のようなユダヤ教徒がその場に居合わせたら、どういう事になったでしょう。
御想像ください。
容貌からいっても、服装からいっても、言葉・態度・物腰からいっても、私たちは当然、容疑者です。
勿論私たちは、懸命に、キリスト教徒でない事を証言するでしょうが、おそらく誰もそれを信用してはくれず、踏絵を踏めと命じられるでしょう。
どうします?
言うまでもありません。我々は踏みます。
我々ユダヤ教徒が偶像礼拝を拒否して殺されるなら兎も角、偶像を土足にかける事を拒否して殺されたなら世にこれ程無意味な事はありますまい。
これは我々にとって議論の余地のない事です。
だが次の瞬間、一体どういう事が起るかおわかりですか?
日本人はこういう場合、一方的に我々を日本教徒の中に組み入れてしまうのです。
おそらく奉行からは、異国人の鑑として、金一封と賞状が下されるかもしれません。
同時に、もしそこに踏絵を踏む事を拒否して処刑を待っている日本人キリスト教徒がいたら、その人びとは私達を、裏切者か背教者を見るような、蔑みの目で眺めるでしょう。
その際、私達が踏絵を踏んだのは、日本人が踏絵を踏んだのとは全く違う事なのだ、と幾ら抗弁しても、誰も耳を傾けてくれないでしょう。
『日本人とユダヤ人』を出版した後、私は、踏絵を踏んで御奉行にほめられたような、妙な気を再三味わいました。
「踏絵」と口をきく事はできません。
踏絵を差し出すという行為には言葉が入る余地がありません。
理由は一切問われませんし釈明は全く許されません。
踏んだか踏まなかったかだけです。
そしてそれが時には褒賞となり時には処罰となります。
そして理由は一切問われませんし、釈明は全く許されません。
以上のように申しますと、日本人も質問するではないか、釈明もするではないか、と反諭されるかも知れませんが、日本人の質問とは、自分にわからない事を、相手にきいているのではないのです。
「言葉の踏絵」を差し出しているのです。
これは国会の討論であれ、新聞記者のインタビューであれ同じであって、質問者は、さまざまの「言葉の踏絵」を次から次へと差し出して、相手が踏むか踏まないかをテストしているのです。
そして踏めば、なぜ踏んだかを問うことなく、相手を規定してしまいます。
従って日本人と会見するときは、はっきりこのことを覚悟しなければいけません。
ではここで、日本人がなぜそうなるかを検討してみたいと思います。
ローマ政府がキリスト教徒迫害のとき用いた方法は焚香(たきこう)でした。
これは、踏絵とは正反対の発想です。
すなわちその人がどんな宗教を信じているかは問わない、ただ皇帝の像の前で香を焚けば良いわけです。
申すまでもなくローマは「所かわれば品かわる」を「所かわれば宗教かわる」と言った国です、でまたそれを当然としていましたから、踏絵は不可能です。
これは、ある点では、現在のアメリカに似ております。すなわち、キリスト教徒であれ、ユダヤ教徒であれ、仏教徒であれ、星条旗への忠誠を宣誓すればよいのであって、それをすれば、その人が何教徒であろうと問いません。
これは一種の「言葉の焚香」と解することができます。
こうみて来ますと、「言葉の踏絵」が「言葉の焚香」とどのように違うかが、もう、おわかりかと思います。
この踏絵という方式は、一宗教団体が異端者を排除するために用いる方法であって、そこには、正統と異端しかいないということが前提です。
従ってこの前提にあてはまらないものが現われた場合(前記のようにユダヤ教徒に踏絵を差し出した場合)日本人は、前提にあてはまらぬ者が現われたとは考えないで、その者を、どちらかに類別せざるをえなくなってしまうのです。
日本人は日本教徒ですから、日本教徒としての前提でことを判断するわけてすが、日本人は、この前提を意識しておりません。
「無前提の前提」とか「あらゆる前提を排して虚心対象に向う」とか言うことを、日本人はよく目にします。これらの言葉と禅とはもちろん関連があります。
が、その問題はしばらく措き、一応これを「無意識の前提」としておきます。
笠信太郎という人が日本人を「やってしまってから考える」民族だと規定しております。
彼も典型的な日本人ですから、なぜそうなるかを考えずに、おそらく「書いてしまってから考えた」のだと思いますが、私はこれを、前提を意識しないからだと考えています。
従って、やってしまって、その結果を見てはじめて、自分の前提の当否が検討できるわけです。
しかし日本人が意識しようとしまいと、踏絵を差し出すからには、差し出す基礎となる教義があるはずです。
私が日本教と呼ぶのは、この教義を支えている宗教です。
伝統的に「アイドル」はまさに「踏絵」を差し出さねばならない存在であった。
これはアイドルだけに留まらず、日本全体においてもそうであった。
いわゆる「履歴書」至上主義に近いものがあった。
今でも一部では「正統派」が正しいものとされ、AKB48などアイドルの亜流であり傍流であると批判されることもシバシバである。
だが、AKB48こそ未来の、いや「現在の正統派」である。
それを説明しよう。
大組織になったAKB48の強さの源泉は、なんといっても他のアイドルと比べ物にならないほど群を抜く「多様性」の高さである。
(それを支える生産力の高さが多様性を高く保つことを可能にしているのだが)
総勢300名にもなる多種多様なメンバーと、海外を含め複数の主要都市に拠点を持ち、多様なステークホルダー、積極的にコラボレーションを推進していく意志、これらが相まって活動範囲の広範な「なんでもやるエンターテイメントグループ」となり、そして分散されているプレーヤ(メンバーだけでなくスタッフおよびファンを含む)を接続するググタスやブログ、まとめサイトなどのコミュニケーション・インフラによって、次から次へと生み出される結果が「AKB48物語」へ還流して、自己強化されていく。
AKB48は高い多様性を維持できるために、外部に向けて常にオープンでありながらも、それ自体で一つの完結した世界を構築できる。
外部から要素を内部に取り込んで、様々な付加価値をつけて再生産するのだ。
非常に抽象的かつ極端な表現となってしまうが、AKB48はその内部に内燃機関を持ち、自己増殖可能な組織なのである。
つまるところ、学習し、成長する組織である。
(を目指すべきである、という話。)
今は、もはや「履歴書」などほとんど無意味と化す時代である。
世界(日本)のあらゆるものの構造が変わりつつある時代に、AKB48は正統派に成り代わったのである。
これは現在進行形の変化だ。
それゆえ、AKB48はメンバーに「踏絵」を差し出させるのではなく、
AKB48に「マジ」に忠誠を誓うことができるなら、誰でも受け入れる寛容さが必要である。
伝統的なアイドルが「踏絵」を求めるのであれば、AKB48は「焚香」を求めるのだ。
多様性を高めるために、生産力を高く維持する方法は、運営に一生懸命考えてもらおうことにして、
メンバー含めてみんなは、とにかく多様性をどう使い倒すかを考えよう。