※表題は大島本人の言葉ではなく、当Blogの意訳解釈です。

大島優子はセンターになれないという風潮(akb(メ・ん・)?)
http://akbakb0048.doorblog.jp/archives/23087717.html
・・・古い。
古い「センター論」だ。
いつまで我々は第1章のセンター論を語るのか。
その点、大島優子はさすがである。
先を見ている。
AKB48大島優子 「センターというのは動くスポットライト」(芸能ニュース)
http://newslounge.net/archives/60710
メンバーにとってはとてもヘビーな「センター」という概念だが、大島は
「私にとってセンターというのは、それぞれのポジションがあって、そこに向けられたスポットライトがたまたまそのメンバーを指したというか。センター自体もすごく動いているように思えますね。空中に存在するというか、立ったポジションに(スポットライトが)当てられた状況が、センターなのかなと思います。」
と独自のイメージを語った。
これまでのAKB48にとっての「センター」というのは「立ち位置ゼロ」であり、要であり、中心点であったわけだ。
前田敦子の卒業が注目されたのは「スーパースター」だからではなく「センター」だから
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/4a9b8457e8fb7616e78c129acf0924df
だがしかし、この「センター観」を脱却する哲学が今提示されているわけだ。
重要なのは次の部分だ。
センター自体もすごく動いているように思えますね。空中に存在するというか、
深い。
これは日本の哲学の伝統「主客一体」論である。(禅の境地)
さきほども述べたが、これまでの「センター」は序列の基点、グループの中心点であった。
AKB48は「センターとメンバー」の相対位置関係(=序列関係)が重視される、
ある意味での絶対主義(=冷酷なまでのガチ)を身上とするグループであった。
これは、夢に向かって皆が一丸となって突き進むことと、
つまりは、AKB48それ自身の歴史が成長物語(AKB48第1章)であったことと相性がよい。
むしろ相乗効果があった。
しかし、「絶対的エース(センター)前田敦子」が卒業し、AKB48がある程度に成長し、成長率が相対的に鈍化した今、
これまでのやり方では、新しい物語(AKB48第2章)は作れないことがわかった。
「第2章」といくら叫んでも、第1章と同じ道筋を辿れないわけなのだから、同じやり方で新しい物語が作れるわけがない。
思想的転換の必要性にを迫られているのだ。
そこで、これからは「メンバーとメンバー」の相対位置関係を重視する、
ある種の相対主義を身上とするグループに生まれ変わるのではなかろうか。
これからの「センター」は「立ち位置ゼロ」を意味するのではなく、「物語の生成点」を意味することになるのだ。
そして、その「物語の生成点」は、固定されておらず、命のゆらぎのように動的にゆれ動き、その形を絶えず変化させる。
意図的で明示的なものではなく、不確実だが動的で生成的なものなのだ。
まさに「センター自体もすごく動いているように思えますね。空中に存在するというか」という言葉がふさわしい。
それこそが、「AKB48第2章」ということではないか。
という一つの視点ね。

大島優子はセンターになれないという風潮(akb(メ・ん・)?)
http://akbakb0048.doorblog.jp/archives/23087717.html
・・・古い。
古い「センター論」だ。
いつまで我々は第1章のセンター論を語るのか。
その点、大島優子はさすがである。
先を見ている。
AKB48大島優子 「センターというのは動くスポットライト」(芸能ニュース)
http://newslounge.net/archives/60710
メンバーにとってはとてもヘビーな「センター」という概念だが、大島は
「私にとってセンターというのは、それぞれのポジションがあって、そこに向けられたスポットライトがたまたまそのメンバーを指したというか。センター自体もすごく動いているように思えますね。空中に存在するというか、立ったポジションに(スポットライトが)当てられた状況が、センターなのかなと思います。」
と独自のイメージを語った。
これまでのAKB48にとっての「センター」というのは「立ち位置ゼロ」であり、要であり、中心点であったわけだ。
前田敦子の卒業が注目されたのは「スーパースター」だからではなく「センター」だから
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/4a9b8457e8fb7616e78c129acf0924df
だがしかし、この「センター観」を脱却する哲学が今提示されているわけだ。
重要なのは次の部分だ。
センター自体もすごく動いているように思えますね。空中に存在するというか、
深い。
これは日本の哲学の伝統「主客一体」論である。(禅の境地)
さきほども述べたが、これまでの「センター」は序列の基点、グループの中心点であった。
AKB48は「センターとメンバー」の相対位置関係(=序列関係)が重視される、
ある意味での絶対主義(=冷酷なまでのガチ)を身上とするグループであった。
これは、夢に向かって皆が一丸となって突き進むことと、
つまりは、AKB48それ自身の歴史が成長物語(AKB48第1章)であったことと相性がよい。
むしろ相乗効果があった。
しかし、「絶対的エース(センター)前田敦子」が卒業し、AKB48がある程度に成長し、成長率が相対的に鈍化した今、
これまでのやり方では、新しい物語(AKB48第2章)は作れないことがわかった。
「第2章」といくら叫んでも、第1章と同じ道筋を辿れないわけなのだから、同じやり方で新しい物語が作れるわけがない。
思想的転換の必要性にを迫られているのだ。
そこで、これからは「メンバーとメンバー」の相対位置関係を重視する、
ある種の相対主義を身上とするグループに生まれ変わるのではなかろうか。
これからの「センター」は「立ち位置ゼロ」を意味するのではなく、「物語の生成点」を意味することになるのだ。
そして、その「物語の生成点」は、固定されておらず、命のゆらぎのように動的にゆれ動き、その形を絶えず変化させる。
意図的で明示的なものではなく、不確実だが動的で生成的なものなのだ。
まさに「センター自体もすごく動いているように思えますね。空中に存在するというか」という言葉がふさわしい。
それこそが、「AKB48第2章」ということではないか。
という一つの視点ね。