粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

天才の孤独

2013-03-03 00:19:53 | 音楽

自分がよく聴くモーツアルト(1756~1791)の曲で特別思い入れのある曲がある。セレナード10番(K.361)だ。通称グランパルティータ(大組曲)といわれている。セレナードは元々夜恋人たちに奏でる音楽であるが、18世紀の後半モーツアルトが活躍した時代、結婚式などの宴会で場を盛り上げるためにつくられた。

とはいっても、今日でもそうだがこうした宴に出席する面々は直ぐにお酒と食事が入り雑談も騒がしく、あまり演奏など耳にはいらない。いわば聞き流す音楽でもある。しかし、モーツアルトはそんな雑踏でもかれの天才的な芸術性は遺憾なく発揮されている。

この曲はアカデミー賞を受賞した映画「アマデウス」でもモーツアルトを描く上で特に印象的に使われている。モーツアルトの当時のライバル、サリエリが初めて彼の音楽を生で聴いて天才的な芸術性に衝撃を受ける。特にこの曲の第三楽章のアダージョ(ゆるやかな速さ)は絶品であり、主に映画ではこの部分が演奏されている。

全て管楽器で演奏され、弦楽器がはいっていないが、それが何ともいえない幻想的な世界を醸し出している。この世とも思えない天上の世界。そこには世俗の悲しみのなければ快楽もない。悠久の安らぎがある。しかし、その安らぎになかにはどこかある種さびしさが漂う。

おそらく、これは彼が現実世界への未練を残しながら、天上への憧れたためでなかったか。現実の世界では、決してモーツアルトは幸福に満ちた生活を送ったわけではない。彼の才能が世間で開花させるには、彼は時代を先に行きすぎた。

しかし、それにも関わらず、35年の生涯は彼の創作活動は濃密そのものだ。神は、決して天才に休みを与えてくれなかった。そんな彼の行き急ぐ生涯を知り得る者がいなかった。彼はそういう意味で生涯孤独だった。ただ、彼はいつも人を愛おしく思った。愛に飢えていたが、現実世界では叶わない。彼の音楽にいつもさびしさがつきまとうにはそのせいかもしれない。

だから、その寂しさを音楽から感じた時に、聞く者の心を強くとらえて離さない。200年以上経った今も彼は聴く者に前に現れて尋ねる。僕のこと好き?