自分の3月26日のブログ「サザエさんとカルト」でつい思い出してしまう落語の定番がある。「松山鏡」という滑稽話で桂文楽師匠(8代目)が得意とした演目だ。あらすじは、落語の舞台を歩く第174話「松山鏡」を引用させていただく。ただし、冒頭のさわりは省略。
越後新田松山村には鏡が無かった。ここに住む正直庄助は特に親孝行で、両親が亡くなって18年間墓参りを欠かさなかった。このことがお上に届き、褒美が出ることになた。金も畑も何もいらないが、どうしてもと言うならお上のご威光で「とっつぁまに夢でも良いから会わせてくんろ」。これは無理というものであったが、今更断れない。庄助は親に似ていることを確認して鏡を渡した。箱の中を覗くと父親が居て、涙を流して話しかけた。
「他の人に見せるでないぞ」と言うことで、鏡を賜った。
他人に見つからないようにと、裏の納屋の古葛籠(つづら)にしまい込んで、「行って来ます」、「ただ今戻りやした」と毎日やっていた。
それを見ていた女房・おみつが、何かあるのではないかと葛籠を開けて、鏡を見てビックリ。そこには女が居た。鏡の女とやり合っている所に、庄助が帰ってきた。お決まりの夫婦喧嘩になって取っ組み合いになってしまった。
たまたまそこを通りかかった尼寺の比丘尼(びくに)さん。二人の話を聞くと片や親父だと言い、片や女をかくまっているという。女房の話を聞いて、その葛籠の中の女に言って聞かせるからと、蓋を取ると、
「庄さんよ、おみつよ、あんまり二人が派手に喧嘩するもんで、中の女が気まり悪いって坊主になった」。
鏡のない国で起こった悲喜こもごも。なぜ越後の松山村なのか、いくら何でも鏡ぐらいあるとは思うが、ここはあまり詮索はよそう。父親思いの息子は、鏡の自分を若い頃の父親と思い込む。焼きもち焼きの女房は、鏡に映った女が夫の浮気相手だと決め込む。尼さんには、鏡を見て浮気女が改心して坊主になったと映り女房をなだめる。
これは、他人や物事を見る時に人は「主観」というフィルターを通して見るということではないか。相手の姿は自分の主観の投影だ。それもその主観の度が強すぎると、そのフィルターは鏡のように反射する。つまり自分の思い込みが過ぎると、相手の姿は妄想した自分自身の姿になってしまう。
先のブログでいえば、木下氏は「サザエさん特番」を見る目も強い主観が働いているのではないか。それも度が過ぎて結局「カルト帝国日本」という像になってしまう。まさに自分の主観の投影だ。いろいろ相手のこと言っているけどそれは自分のことではないか、これこそあの松山鏡の世界?
人間誰しも他人や物事を見るのに自分の主観が入る。かくいう自分も偉そうなことはいえない。その点は大いに自戒自省しなければならない。問題はフィルターを通す時もいかに「客観」という相反する要素を取りこむかだ。それもひとつの事実だけでは客観にならない。様々な事実を的確につなぎ合わせてひとつの客観にやっとなりうる。面倒な作業だが、そんな努力こそ必要だと思う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます