一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

猫は後片づけをしない(寂しさの底から)

2009年04月19日 | Weblog
 寂しいときはなにか紛れるものを探します。テレビをつけて面白くないから消して、でも寂しくて手持ち無沙汰だからまたつけてとテレビをつけたり消したりやっています。

 猫をみてると、寂しいからなにか寂しさを紛れるものを探そうとはしません。

 猫は何もやることがないときはジーッとしてます。それは猫が耳できこえたり目でみえたりするとは別の微かななにかをとらえていると思えてなりません。

 それは耳できこえるものでもなく、目でみえるものでもなく、手にさわれるものでもないけれども、微かななにかが実在するのです。気のせいではありません。その微かななにかをとらえているときが、猫の基本姿勢のように見えます。その基本姿勢はむさぼりもなく、なにかでざわざわしてしているわけではなく、すべてを捨てさってそのときをそのまま受けとっているようにみえます。それはなにか威厳まで感じます。

 その微かななにかとは、それがをとらえているときが一番安心できるなにかです。耳できこえたり目でみえたりしたものではそれほどの安心感は得られません。

 その猫の基本姿勢をみていたら、私は美しいと思ってしまいます。私は猫の威厳のある美しさを信じて、寂しいときは何かで紛らわそうとしないで沈黙を優先させることにトライしてみます。

 寂しさを何かで紛らわせると、その微かななにかはみえなくなってしまう。その微かななにかがみえなくなってしまうから、沈黙していても手持ち無沙汰になってまた何か寂しさを紛らわすものを探すという悪循環をくりかえすことになります。

 猫のように後片づけをしない生活をするためには、耳で聞こえたり目でみえたりするものより先の本当に安心できる微かななにかをとらえていくことのように思えます。