一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

般若心経(以無所得故。)

2008年11月08日 | Weblog
 中論に次ぎのように書かれています。

 「この世の中はこの世の中自身のためにあるのであって、この世の中以外の単数または複数の目的のためにあるのではない。」(注)

 この世の中はなにか目的があって存在しているわけではない。ただそこに存在しているだけなのだ。

 これと同じように私もただここに存在しているだけなのだ。なのに私はなにか目的をもってなくては今ここに安住できなくなってしまっていました。

 今面白くもない食事の支度をするのも、これが終わったら好きなことをするためと常ににんじんを鼻のまえにぶらさげた馬みたいでした。そしてその好きなことをしたときにはそこに安住するのかといったら、またそうでもないのです。

 鼻のまえにぶらさげたにんじん基準ではなく、ただここに今存在しているだけで安住できる基準はなにかとずっとさぐり続けています。

 それは、最近気がつき始めたのは言葉にできないようなかすかな明るさなのです。月のひかりのように透明で静かな明るさなのです。

 坐禅をしているときには、その明るさを感じます。また坐禅をしている人をみたときもその明るさを感じます。その明るさは気高くやさしく潔さを感じさせます。

 それは宇宙全体にみなぎる明るさだからではないでしょうか。

 こうだからとか、こうすべきとか、こうなるためにとか、ではなく、ただそこには透明な明るさを見いだせるかどうかです。

 「以無所得故。」目的が無い故に「空」になれるというのは、目的にひきずられることではなく、一瞬一瞬この明るさをとらえていくことのように思います。

注:ナーガールジュナ著西嶋和夫訳「中論 改訂版」金沢文庫 3頁