一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

般若心経(依般若波羅蜜多故。心無罣礙。)

2008年11月16日 | Weblog
 「依般若波羅蜜多故。心無罜礙。」の意味は(諸々の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。)となっています。(注1)

 ‘般若’の註をみると、次のようです。

 (般若は人間が真実の生命に眼覚めたときにあらわれる根源的な智慧のこと。普通にいう判断能力としての分別知と区別するために無分別知ともいう。本書では般若を「智慧」、分別知を「知識」と書き分けてある。)(注2)

 私は猫をみていると、「智慧」とは何か教えられます。猫が手や体をなめているのを見てても、なめながらお日様や風やわたしたちの動きを感じつつなめているのがわかります。
私はといえば、パソコンのオークションに夢中になって高い、安いとお日様どころではなくなっています。

 猫をみていると、どんなときでも二重構造の世界に生きていると思わされます。猫にはかならずバックに全体があります。全体の情報を体全体で感じとっています。それと同時に体をなめているときは、なめている場所をきちんと見ています。その二重構造の世界に関したことが「正法眼蔵 海印三昧の巻」に次ぎのように書かれています。

 「海上行(こう)の功徳、その徹底行あり、これを深深海底行(こう)なりと海上行するなり。」
 (海面の上を進んで行くような外見を呈しながら、その内実では深く海底を進んで行くような〈二元的〉性格があり、これはきわめて深い海底を進んで行くこととして実践しながら〈同時に〉海面の上を進むという顕在的な性格をも具えているのである。)(注3)

 深い海底を進んで行くということは、全体の情報を感じとっていくことだと思います。そしてその全体の情報をある視点から分類し、今何をすべきかを優先順位をつけて優先順番一番のことを目で追っていることが、海上の上を進んでいることになるような気がします。

 ある視点とは、猫を観察していると、縁、関係です。あらゆるものとの関係において自分がなにをするか決めています。猫をみていると、自分単独からでる行動というのはなくて、かならず何かが動くことで自分が動いています。そしてあらゆるもののなかで一番自他ともにうまくおさまるべき場所をみつけます。
 
 私は、この二重構造のなかで縁、関係において優先順位一番になったものだけに、人間が真実の生命に眼覚めたときにあらわれる根源的な智慧・無分別知が働くと思います。

 だから分別を働かせないと決められないときというのは、この二重構造のどこかに智慧が働かない間違いがあるときのような気がします。

 「依般若波羅蜜多故。心無罜礙。」というのは、私たちが今的確なことをしているときには、根元的な智慧、無分別知が自動的に働くのでこころを覆うものがないという意味ではないでしょうか。

注1:中村元・紀野一義訳註「般若心経 金剛般若心経」岩波文庫 13頁
注2:   同上 17頁
注3:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第六巻 六版」金沢文庫 3~4頁