一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

「更年期」

2007年09月02日 | Weblog
 私の友達で「更年期」で心身ともに不安定になっている人が何人かいます。子供が就職や結婚で家をでてしまったりとか環境の変化もあるでしょうが、これから先の老いを見るのに避けられない時期にきたせいもあると思います。
 「更年期」で心身に変調をきたす前までは、自分自身の考えや欲望を主人公とし、ただ興味のもてるもの、楽しいことの先っぽを追いつつ空いた時間を退屈せぬように生きているのが普通だと思います。それまでは、どうにかそれで不安を感じつつも生活が回ってたのでしょう。でも「更年期」になってその生き方では不安が解消されなくなったんではないでしょうか。自分の実力もだいたい分かってしまって理想ももてないし、欲望の権化の色気と食い気も、もう美しさでは勝負できないし食い気はそこそこでよくなってしまってます。感受性も鈍くなってエネルギーも少なくなってきているから、何かに興味をもっても、昔ほど退屈しのぎになるまではいかないし、子供や若い人達からはじゃまにならないようにしなくてはいけないしで、なかなか自分自身の考え通りにいかなくなります。
 自分自身の考えや欲望を主人公に生きれば、自分の欲望にかなったものだけを取って、かなわないものは取らないよう切り捨てるので、闇の部分は見ていることにはなりません。それは闇の部分を見ないで現実の反面しか見ない不自然な生き方です。その生き方で生きる限り、不安や寂しさは消えないと思います。不安や寂しさを見ないために、ただの呆け老人になるか、若い人とはりあう滑稽な老人になるか、うざい説教老人になるかでしょう。
 「正法眼蔵」的生き方は、単に自分の欲望や興味だけで生きる生き方とは本質的に違った生き方です。人間の思いを超えた現実をしっかり見て、法に裏打ちされた生き方です。今まで見ないですんできた闇の部分の老いをしっかり見据えて生きるのが自然な生き方ではないでしょうか。でも、闇の部分をみることは思いで受けいれようとしても無理です。生きたい生存本能をもちながら、必ず死なねばならぬ必然性をもつ絶対矛盾は思いでは絶対受けいれられません。坐禅を行じていくしか方法がありません。
 これからは、光と闇が一つになった深さをあじわい、その深さをもっともっと深めていく生き方を見せるのが次世代に残す生き方だと思います。

参照:内山興正「いのち楽しむー内山興正老師遺稿集」大宝輪閣