カメレオンの独り言

当分は漫ろ言の漫ろ歩き、頭に浮かんだ事柄を挿絵と写真と下手な文で綴ります。色々と間違い多いですがご容赦を。

カメレオンの独り言-1142 『千日デパート火災・2』

2014年05月23日 | 日記







 5月23日








ここで、今、書かなきゃならんことでもないんだけど、千日デパートって、あの火災の後、根こそぎ取り壊してんだね。知らんかったなあ。

改装しただけと思ってたよ。プランタンって呼ばれてた時は、もう、新しいビルに生まれ変わってたんだね?

火事のあと、ずうっと放置されていたのは、、実際、横を通って何度も見ていたんだけど、其れからの展開が、全く解らんかった。






『昭和の大阪』って、昔の写真集を見ていたら、そんな当時の写真が載っている。そいで話してるんだけど、まあ、いいか、このままいくか。






1980年(昭和55年)前後に取り壊され更地になって、1984年頃には、エスカールビルっていう新しい建物に生まれ変わってるんだね。

ビッグカメラになる2001年(平成13年)まで、「プランタンなんば」だったんだねえ。 

長くご無沙汰してたから、この辺りの状況が、全然、解らない。じゃあ、怪しげな話しってのは、建替えたビルでの出来事になるんだね?






此のプランタン屋内に限らず、周辺でも怖い話が噂されているね。彷徨える霊魂のなせるものなのかね? 話し半分に聞いても相当数に上るよ。











『昭和40年代の千日前、千日デパート』








1972年(昭和47年)5月13日、大阪市南区(現在の中央区)千日前の千日デパートで起きた火災は、

死者118名・重軽傷者78名、日本のビル火災史上最悪の大惨事となった。煙にまかれて、はっきり目撃できんかったけど、現場に行って知ってる。

道路にまともに落ちた人、虹の街地下出入口(工事中)の屋根の上に落ちた人、アーケードを突き破って地面に叩きつけられた人、多くの人が飛び降りて死んだね。

















最上階のプレイタウンの一部で間仕切りの改装工事が行なわれていたらしい。其れを知っていた店員さんが、逃げ場を失った人々を誘導して

「ベニヤの養生をめくると廊下に出られる」って、必死で剥がしたら、もう、其処には、コンクリートの壁が出来あがって塞がれていたんだね。落胆極みだね。

実際に見たけど、窓から噴き出す猛煙は凄かったからね、あんなのが、逃げ場なしの空間に噴き上がって押し寄せて来たら終わりだよ。






追い詰められて、のたうって、開かぬドアや壁を掻き毟って90人ほどの人々が死んだ。阿鼻叫喚の地獄だね。

3階のニチイの布団売り場だったかな? 工事関係者の煙草の不始末から地獄が顔を出した。火種が燃えなければ、日常のままに夜は更けてたろうね。

酒に任せて馬鹿騒ぎの時間を愉しみ終えて、それぞれが、いつものように三々五々と家路について、変わらぬ朝を迎えていたろうにね。






隣りが火事になって、オレもアタフタ大変な目に遭ったことがあるけど、そん時に思ったよ。大変なのは、其の現場と僅かな周辺のみに限られた範囲なんだね。

其処の横丁を曲がれば知らぬことなんだね。大きな平常の中の、ほんの一部の非常にしか過ぎないんだよ。

影響は、情報が拡大させるけど、今日のお話程度で忘れられていく。大きな川の中の藻屑だね。川は、構うことなく流れ往くから世を冷たく感じるんだね。

















だから、残るのかも知れないね。忘れて振り向かぬ人々に悔しさの丈を訴える。

明日の連続を突然断ち切られたものたちが、藻屑の側から必死に訴えているのかも知れないね。生と死の垣根がどのようなものか知りようもない。

此の世に残して逝くには、情愛、忍びないこともあるだろうね。生活には、あれもこれも気がかりで為らぬことが多すぎる。






素直に垣根を跨ぐことなど出来ない思いが残るんだろうね。残って当たり前だろうと思うよ。

一枚の短冊がある。手に持ち、中ほどをハサミで切り落とす。はらりはらりと落ちていく。言葉にならぬ短冊が手に残り、言葉を繋げたい片方が落ちていく。

言葉を繋げたい、思いを繋げたい、愛するものに伝えたい。人の在り様は、藻屑に過ぎなくても、人の思いは藻屑ごときじゃないからね。










『昭和40年代の夜間営業中の千日デパート』







独りは寂しいと人は云う。独りほど気楽なものはない。おのれ一人を処して生きればいい。短冊の片方を残して逝くを泣かずに済む。

「完全な藻屑か?」 そうだよ。 「手にした片方の短冊を握り締めて、落ちた言葉を創り出す人を残せるよ」 う~ん。

「藻屑が、藻屑ごときじゃない物語を紡げるぞ」 う~ん。 「繋いでいくんだよ、それが、生きとし生けるものの努めだよ」 う~ん。





「よく喋るおっさんが、う~ん、う~んばかりで、何故、抵抗しない?」 一理あるからね。 思いは、種で、涙が、其れを育てるのかねえ。












『1972年(昭和47年)9月11日 撮影とある』







上の写真は、同年5月13日の火災から4ヵ月後に撮られてるね。子供の頃は、写真左手前の広告が貼られた塀(囲いの中は三っ寺墓地)沿いの歩道を

歩いて手前角ビル(ユメノクニ)を曲がって学校に通ってたよ。千日前の交差点だね。

このユメノクニや千日デパートのプレイ・タウンにお勤めのホステスさん等が、タクシー拾って帰るのがここだね。





帰るに帰れないのかねえ? 生前は、慣れ親しんだところなのに迷い迷って彷徨うようしかないのかねえ? 

生きてる奴に問いかけても彼の世のことは解らないよ。





























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