明日(8/16)の分です。
古いリュックにタオルと小型の水筒放り込んで、カメラ(eos50D)にレンズ(EF24-70mm f2.8L USM)を填めて行ってきたよ。
このオレが、一旦、動き出したら止まらないところを、そろそろお見せしようか。「知るかっ」
出れば、話のネタなどごまんと湧いて来る、はず。「自信ないのか?」 有るよな無いよな。
然程、遠方に位置してる訳じゃないのに、電車、乗り継ぎで時間がかかる。車だったら、すぐそこって感じなんだけどね。
「じゃあ、軽でも買えよ」 もう、30年以上ハンドル握ってないからねえ。
年寄りのドライバーが人さんの群れてる中へ突入して殺人鬼になってる、この歳なって警察と縁を繋ぐのも考えもんだわ。
しかし、お盆でも、街ん中は人が多いね。みんな、帰省や旅行に行っちゃったんじゃないんだね。「そらあ、おるわな」
阪急沿線の柴島、淡路、懐かしいね。滅多に負けないパチンコで、電車賃も使い果たしボロ負けして歩いて帰った道が工事中だね。
あっ、オレのこと、好きって思ってくれた娘さんのお店が、まだ、変わらず営業されてるよ。良かったね。「そらあ、いつの話やねん?」
上新庄駅で下車、ホームの通路を南へ。30数年前まで、毎日、通った駅だね。駅舎から外へ出ると、あっついねえ~。
この辺の道は熟知してるつもりが、なんか様子がおかしいよ。オレは、どっち向いて歩いてるのかなあ?
方角解らんようなった。ままよ、歩け歩け。碁盤状に配した道は迷いようがないけど斜め道は、勘を狂わすね。
おおっ、オレンジ色の建物が見える。記憶に鮮明な豊里団地だね。団地の前が、淀川の堤防なの。
のんびりした風情は、昔と変わってないね。
たしか、この辺りの土手の何処かで、ゴンが眠っている。堺筋の道頓堀の川岸に隠れていた捨て犬だった。
川沿いの家の干し場の下に入り込んでるのを、必死の思いで掴まえて持ち帰った。十数年後、老衰で死んだ。
オレは仕事で抜け出せないから兄貴と妹が、埋めてきたるって、この豊里団地前の土手に葬ったらしい。
いつも、散歩に行くところだから、喜んでいるよって云ってたね。遠い昔の話だね。
駅から遠回りしてしまったよ。炎天下の道をスタコラ歩いて淀川の豊里で土手に上がった。ああ~久しぶりだね。
『上流の向こうに見えるのが豊里大橋』
長いことご無沙汰していた。スカアッとする景色が広がってるよ。母なる淀川だね。
左手に豊里大橋が太陽光線を跳ね返して淀川を跨いでる。赤川鉄橋は右手の下流側、新しい橋が出来てるね。
その菅原城北大橋の向こうに薄っすらと見えてるよ。2キロ弱かな、懐かしいね。
オレは昔から歩くのは強いの。何十キロでも歩いてやる。土手を西へ歩く、左手には青々した川面が緑の中をゆったり流れてる。
いいねえ~。オレの大好きな川だよ。包み込んでくれるような器を感じるんだね。
土手の上、日差しを遮るものは何もないけど暑いなんて目じゃないね、ペットボトルの水を呑みながら歩く。
両岸の緑がキラキラ輝いて綺麗だね。出てきて良かったよ。若い頃、釣りに狂ってた自分が居るよ。
その頃のオレくらいの奴等が、自転車で竿持って走ってる。真っ黒けじゃないか、あっはははは、一緒だよ。
菅原城北大橋の下では、橋が作る大きな日陰に近所の年寄りさんらが集まって憩いの場所になってるよ。
『菅原城北大橋の下 オレが釣りに明け暮れてた頃は、まだ、この橋は無かったよ』
他人さんの写真を勝手にお借りして貼るのは、流石に気が引けるけど 「おまえ、それは泥棒だぞ」 解ってるわいな。
こうして、自分で撮ってきた写真を貼るときは気楽だね。
オレのは、気兼ねなく、どんどん使ってね。「使いたいようなのがない」なんて云うな。愛想でも使え。
おお、見えてきたね。昔懐かしい、赤川鉄橋、オレの鯉釣りの思い出が詰まってるよ。
いつも、顔を会わして一緒に釣りを愉しんだ守口のお爺さんは、残念ながら、もう亡くなられただろうね。
なんだらかんだら笑って話した方々は、元気にされておるかねえ?
向こう岸のワンドなんかで釣りたい時は、この橋を渡った。何処で釣っていても、この橋は視界の中に在った。
『東淀川区側から城北(オレは守口方面って勝手に云ってる)側へ』
もう、此れが最後だろうから渡っておこう。床に鉄板が敷かれているね。オレが利用していた頃は木材が並べられてたね。
木製の欄干が、雨露に晒されて朽ちている。一歩一歩に床が軋んで揺れを感じる。大きな川を渡っているって感じるんだね。
有り難いって感じるんだよ。上流の豊里大橋も、よく利用したけどコンクリートで舗装されて道の連続の趣なんだね。
『赤川鉄橋』
なんか、この淀川周辺全部が、自分の庭のように感じていたよ。向こう岸に繋がる、この橋はその要だったね。
この橋を渡ってると、昔、「レマゲン鉄橋」って映画にでてくる橋とダブルんだね。
ライン川を跨ぐ橋なんだけど、第2次世界大戦で敗色濃いドイツが、追撃する連合軍をライン川でくい止めるため、
橋をことごとく破壊する作戦を実行するんだね。
フランス戦線から祖国に撤退するドイツ軍を見殺しにできない将校(ロバート、ボーン)が、破壊を極力引き伸ばすんだけど
愈々、連合軍がまじかに迫り来たため万事休して破壊する。でも、爆薬が貧相で橋は崩れ落ちないんだね。
連合軍とドイツ軍の橋争奪の戦いを描いてるんだけど、その橋が、たしか鉄路と木材の床の歩道の橋だったように思うの。
エピローグで、主題曲をバックに、俯瞰で橋を捉えたシーンが、流れるんだけど、橋ってのは、人と密接な繋がりのある存在なんだね。
『下流側、向こうに大坂梅田のビル群が見えている。今日は、霞んでるね』
オレは、金槌で水が怖いからかも知れないけど、この色の川面が凄く神秘的に感じるの。怖いんだけど好きなんだね。
こんな色合いの川面に魚の白い影でも走ろうものなら興奮の坩堝(るつぼ)にはまるの。震えるの。
「なんやねん、そんなもんで震えるな」 アホのおまえには解らん。感性の問題だよ。
「なんやあ、いがんどおるやないか」 隙間から川面を見てびびったかなあ? 「人が失敬したくなるような写真を撮れよ」 無理云うな。
向こう岸(守口側)の、この運河みたいなワンド(リリーパッドになってる)は、この橋の下を潜って下流側へ続いてるんだけど
たしか、これが今は無い大池に繋がっていたんじゃないかなあと、頼りない記憶が云ってるよ。「自信ないこと云うな」
こちら側は、塗料のはげが目立つね。 「まだ、いがんでるわ」 こだわるな。
線路は、城東のほうへ行ってんだろうね? 「マップで調べて書けよ」 赤川鉄橋外れたら関係ない。「不親切だろ」
何を云ってるっ、ちゃんと、工事の周知看板を撮ってきたよ。此れで一目瞭然だろうが。「赤川仮橋ってなってるね」 知らん。
「しかし、おまえ、平均感覚が狂ってるんじゃないか? 真っ直ぐ撮れよ」 土手の道路がいがんでたんだよ。
「身体がいがんでも手で平均とるもんやで。おまえ、いがんだまま撮るのん?」 そういうことかねえ?
なんか、こっち側は、やけに傷んでるって感じだね。では、東淀川区のほうへ戻ろうか。
橋から見渡す河原の緑が優しいね。釣りをして暮らせるものなら、もう、全て捨てて、毎日をこの河原で過ごしたいよ。
『東淀川区の電信塔が見える。あの前にいずみやがある。その手前が住まいだった。自転車で頃合の距離だったね』
「毎日のように来てるよ」 歯の無い口でにこやかに、あん時のお爺さんが嬉しそうに云ってたね。
自転車に、竿立てや荷物入れなど、いろいろ装備して自慢してたね。「娘が弁当作ってくれるんよ」 お爺さんは幸せもんだね。
「毎日、あの橋渡って此方に来るの、あんたも居るし」 あっははは、愉しかったねえ。小さな身体を揺らして笑ってたね。
商売失敗して、釣りどころじゃなくなって、お爺さんとは会えなくなった。「いつも、橋の上からあんたが見えるんよ」
お爺さん、オレも、歳をとったよ。でもね、あん時の愉しさは、オレの記憶にそのままだよ、お爺さんも元気なままで、いつも笑ってるよ。
今度来た頃には、赤川鉄橋は無くなってるんだろうね。ケツの重たいオレが、わざわざ見納めに来た。
おまえは、オレにとって、それほどまでに懐かしい思い出の橋なんだよ。
さらば、赤川鉄橋。
淀川橋梁(よどがわきょうりょう)は、大阪市東淀川区東淡路1丁目と都島区大東町3丁目を結んで淀川に架かる、
西日本旅客鉄道(JR西日本)城東貨物線の鉄道橋である。
通称は赤川鉄橋、地元では「じゅうはちもんてっきょう」とも呼ぶ。また、正式名称は、城東貨物線淀川橋梁という。
2018年(平成30年)予定の大阪東線(北梅田 - 放出間)の開業により本橋を含む城東貨物線は複線電化され、
地域住民から長らく愛されてきた一つの橋に鉄道橋と人道橋の二面を併せ持つ珍しい風景もなくなる予定であると、ウィキペディアにある。
赤川鉄橋自体は残るんだね。人道橋が撤去されて鉄道橋に一本化されるのか。
そうか、思い出の橋自体は残るんだね。そうか。
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